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tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

祈りとは、肉体頭脳を駆け巡る想念に邪魔されず、本来の生命力が障りなく現われることをいいます。

しかし、その状態に到達するのは至難の業なのです。

そこで祈り言とか、称名とか、題目とか、呪文とか、マントラとか、真言といわれるスイッチを、開祖、教祖といわれる人たちが編み出しました。

それは彼らと神霊の世界との約束事で、エレベーターのような働きをします。

そこで、そのスイッチを入れさえすれば、光り輝いた世界を連れていかれるようになります。

私自身もたびたび経験しておりますので、まだ経験なさっていない方は実験してみてくださいませ。


以下「生命光り輝け」からです


” 祈りということは、自分の生命を宣り出すこと、生命の宣言ということなのです。「私の生命は神と一つである。神の生命なのである」という宣言が祈りなのです。自分の肉体頭脳が祈るのではなく、宇宙神にむかって、直霊分霊が「私はあなたと一つです」と宣言するのが祈りなのです。
私なんか祈ったって、ということは聖霊をけがすことで、一見、謙遜そうに見えるけれど、それは卑下慢心でかえって困ったものなのです。
肉体を動かしている生命と、宇宙に充満している生命との合体が祈りなのです。ですから、人類の平和を欲し、世界の平和を人間は欲するのです。お願いするのではなく、平和であるのだ、と宣言するのです。平和の祈りが宇宙神と一体となり、地球を覆う迷いを光で消すのです。
生命と生命がむすびつき、宇宙神と直霊―分霊とがむすびつくわけです。そして、神の力がそのまま流れ出てくるのです。ですから、本当の祈りは強いんです。”

最近は霊能者の江原さんや、美輪さんの影響で、「スピリチュアル・カウンセリング」がはやっているが、私の知る限りでは、霊能者の言葉は、ほとんどが、霊能者自身の潜在意識が混じっていて、あてにならないなー、と思う。

霊能者という方々は、過去世において、統一行をさかんにやった人で、幽体というわれる波動圏が一般の方より広いので、感じやすいのだが、それは人格、霊性の高さとは関係ないので、なんでも信じていいものではないと思う。

むしろ、その能力を悪用したり、自分の力を誇示するために使っている人の方が多いのではないかと思う。

やはり、そういう力はいただきなおすものであって、その人の天命ならば、必要があればかならず頂けるのだ。

またそういう力を欲すると、それは我欲のなで、いたずらしたい低級霊に感応して一時的に神秘力を発揮したりするのだが、結局破綻してしまう。

魂がぼろぼろになって廃人のようになってしまうこともある。

みなさんテレビ、新聞などでご承知のとおりです。

だから祈りが必要になってくる。

徹底した祈りの行が必要になってくる。

神だけを、愛だけを心に思うべきである。


「神と人間」より


”祈りとは、まず自分の心を それまでの自分をひとまず捨てて、神だけを自分の心に住まわせることである。
 願いごとは、すべて後まわしにすることである。神だけを自己に住まわせれば、その人に必要な願いごとは、すべて叶うのである。
小我の祈りは、その人をますます小さくするだけで、なんの得にもなりはしない。”

自分勝手な人というのは、本当に困ったものです。職場にも家族親戚にも必ずひとりはともいいるますが、そういう人と接していると「こういう人間にはなるまい」という反面教師として役に立っていたり、「悪人は善人の資」という老子の言葉もありますから、必要があって存在しているのでしょう。また、人間の性格というのは、相手を非難したり、責めたりしてもなおるようなものではありません。
自分の想いが変わればすべてが自然に変わってゆくわけですから、相手を批判する想い、責める想いを祈りに変えて、ただひたすら、相手のいいところばかりを観る習慣をつけることで、自ずと相手も変わってゆくと思います。
今回は、そういうお話です。



「自己中タイプ」自分勝手な人

 「お恥かしい話ですが、うちの主人はまったく自分勝手な人で、自分の好きなことには平気でお金を遣うくせに、私たちのやること為すことには、いちいち干渉し難癖つけるんですよ、それにケチで細かいんです。今まで何度、別れようと思ったかわかりません。でも、子供たちにはまだ手が掛りますし、私も今更実家にも戻れないで、今日まで我慢してきたのです・・・。うちの主人の性格は、もう変るということはないのでしょうかね・・・。」

 と、ご相談に来られた四十代半ばと思われる奥さんがいました。
  先に例を上げた「自己中タイプ」のよい例です。ご主人の自分勝手な性格に思い悩んでこられた切ない気持はわかりますが、ご主人の魂から判断しても、とても宗教心に目覚めるような人でもありません。自分の性格を悪いとも思っていない人の性格が変るはずもありません。
 だからそれに期待を持たないほうがよい、ということをお話しました。

 「うーむ、やはり無理ですかね・・・。おっしゃる通りだと思いますが・・・。でも、どうしたらよいのでしょうかね・・・。」

 と、当惑顔をなさっておりましたので、

「ご主人の自分勝手で、おまけにケチ、という性格は、もうあなたは何年も見てきているはずです。年を重ねてきて少しはよくなってきていますか・・・。そんなことはないでしょ。だったら、あなたがご主人の性格を、ご自分に都合のよいように変えようと、期待を持てばそれだけ失望も大きくなるでしょ。ですから、うちの主人はこういう人なんだ、と諦めてしまうことです。諦めるということは仕方がない、と問題を投げ出してしまうことではなく、現状を明らかに見るということです。自分勝手な生き方をして、周囲に迷惑をかけても平気でいられる人は、魂の幼い人なのです。また大人に成り切れていないところがあるのです。ですが、こういう人を結婚相手に選んだのは、あなた自身なのですよ。あなたの因縁生かそうさせたのです。たとしたら、余程深いご縁があったということです。夫婦となり、共に生活していくなかで、因縁生の浄化という使命を果たすと共に、体験のなかから何を学ぶか、ということが同時になされていくのです。
 あなたは、ご主人の自分勝手で思い遣りの無い生き方から、何を学びましたか。あなた自身に学びがなく、たた相手の性格が嫌たからと拒否しているたけでは、あなたに成長はないし、嫌悪することによって、さらに因縁生を深める、ということをしてしまいます。相手を自分の都合のよいように変えようではなく、あなた自身が変っていくことが先です。そこで、ご主人のことはひとまず置いて、こうした状況のなかで、自分の生命を活かすにはどうしたらよいか、を真剣に考えてごらんなさい。あなたが自立できるなら、さっさとご主人に見切りをつけて、新しい人生に希望を見い出してゆくこと。たが経済的なことがあってそれもできないなら、何か仕事を探し、自立できるよう準備をしていく。それも無理なら、たとえご主人が自分勝手であろうと、現在生活ができているのですから、あなたがそのなかで生き甲斐を見い出してゆくことです。例えば、子供たちの成長に喜びを見い出し、そのためにもよき母親となること。何か趣味を持って、その道の人たちとの交流のなかで、見聞を広めていくこと。とにかくご主人に向けていたエネルギーを、善いほうに振り変えて、少しでも自分の生命が生きることをやるのです。ご主人との因縁生を浄化するためには、まず自分自身の因縁生を浄化しなければいけません。たから一つ一つ嫌なことや辛いことがあっても、それをすべて消えてゆく姿として、祈りに変え、ひたすら自分を磨き高めてゆくためのものと受けとって、自分の精進に変えてゆくのです。そうすれば、あなたにもっと生きる自信と強さが具わってきます。あなたがそう決断すれば、道は自ずから開かれてくるものです。そうなった時、あなたは夫や、子供や、周囲の状況に束縛されているように感じていたことが、実は、束縛していたのはあなた自身だったことに気づいてくると思います。こうしたことをよく考えて、あなたの生き方を検討してみてはいかがですか。」

 生き方を変えてゆく選択肢は幾つもあります。そのどれを選ぶかはその人次第です。
 或いは現状を歎いているだけで終ってしまう人もいます。
 自己中心的な人というのは、意識が自分にしか向いていないので、自己保身には長けていますが、愛を他に分ち合う、つまり思い遣りには欠けます。それは魂が幼く、生長していないからです。悩んだり苦しんだり、辛く悲しい体験を積み重ねていくことによって、魂は成長していくのです。人様の苦しみ、悲しみが理解できるのは、自らが体験して、それが思い遣りという愛になっていくからです。ですから体験を生かすことが大事なのです。

 「依存タイプ」なんでもおかあちゃん

 奥さんの「依存タイプ」は、かわいげがあってご主人には赦せるところがありますが、奥さんにとっては頼るべき旦那が、まるきり頼りにならないでは困ったものです。

「お見合いの時に、優しそうな人だと思って結婚したのですが、私の旦那ときたらまったく頼りにならない人で、何でも私にやらせて責任あることは全部逃げてしまうんですよ。親戚付合いにしても、町内会のことにしても、男の人の出るべきところってあるじゃないですか。それも全部『俺は知らん、おかあちゃんやってくれ』と逃げてしまって、やろうとしないのですよ。男の人なんだから、もっとシャキっとしてもらいたいんですが・・・。無理なんでしょうかね・・・。」

 「お仕事は? サラリーマンですか。」

 「はい、会社勤めですが、仕事は真面目にやっているようですが、なんせ、そういう人ですからいつまでも平社員で、安月給取りですから、私もアルバイトをしています。子供もいますからね・・・。こんなはずではなかったんですがねー。」

 結婚する前には、いろいろと夢を描いていたのでしょう。「こんなはずではなかった」という言葉に、夢の破れた悔しさと諦めが吐息に込められていました。
 相談に来たからといって、旦那の性格が変るわけでもないのは、わかっているのでしょうが、誰かに愚痴をこぼせば、いくらか気持も楽になるかもしれません。

 「あなたのご主人は優しい人なのですが、気が弱いのです。自分に自信がないから物事に消極的になるのです。それに、ご主人の魂はあなたの魂と比べると幼いのです。ですからあなたに依存する形になります。あなたにとって彼は、物足りない存在であり、時にはいらいらすることもあるでしょう。あなたが彼に任せておけないのでつい自分でやってしまう。彼はますますそれをよいことに、あなたに依存して、何かあるとあなたの蔭に隠れてしまう。自主性の無い大きな子供です。でも、自分の好き勝手な遊びをするわけでもないし、真面目に働いているだけでも善しとして、感謝をしなければいけませんよ。そういう依存タイプの人のなかには、リストラをいいことに、生活まで奥さんに依存してしまう人がいますからね。それを奥さんが強く非難すると、働けない理由づけのために病気をつくってしまう人もいるのです。『あなたは男のくせになんですか、もう少し確りしてくださいよ』などと責めたりすると、ますます自分の殻のなかに入ってしまうかもしれません。子供と同じで、自主性を持たせるために、良いところを見てはさり気なく誉め、やるべきことはやらせないといけません。恐らく子供の時に過保護な育ち方をしているのだと思いますよ。嫌なものは誰かがやってくれる、で通ってきたのです。そして今あなたが親代りなのです。過保護は親のエゴです。子供がかわいい、かわいいで、子供に苦労させないようにと、子供がやらねばならぬことまで全部親がやってしまい、子供の体験のチャンスを奪い、自主性をなくすように育ててしまったのです。だから過保護に育った人は愛情不足になるのです。
こうした旦那を待ったのも何かのご縁というように、因縁生によるのですから、あなたはご主人を一人前に育てるつもりで、ご主人に対応していったらどうでしよう。」

自分が幼稚園や小学校のときのことを考えると、自分の進むべき道を見つけるために、もっと本物の芸術に触れたかったなー、と思う。記憶を振り返ると、まったくそういう機会が与えられなかったように思う。
 もっと、美しいし自然や、美術館、音楽会、コンサートなんかに子供たちを連れて行って、美しいもの、感動するもの、生き生きするものを吸収する機会を与えるべきだと思う。
そうすれば、高い志をもったいい青年になると思う。

まったく、そういう情操教育が欠けている。

知識を詰め込む教育ほど、無味乾燥なものはない。

そういう付けが、青少年のいじめや犯罪、自殺につながっている、ことを教育者、大人すべてが理解しなければならない。

感情を浄化するもの・・芸術が子供には一番必要なのだ。

その中心にくるのはやはり音楽だと思う。

以下は「生命光り輝け」からです。


祈りとは、神界という創造の根源、あらゆる生命の根源の力が、輝いて働いている状態をいいます。

それが肉体の世界まで降りてくると、言葉にもなります。

光り輝いた言葉・・それが祈りというわけです。

だから、祈りを繰り返せば、光り輝く人になるのは当然なわけです。


"    内なる神性の祈り


 一遍上人は、南無阿弥陀仏と唱えることの他は何もいらない、ひたすら南無阿弥陀仏と唱えよ、と教えました。それは我が唱えるのではなしに、肉体の中に在す阿弥陀様が宇宙に充満している神さま(阿弥陀様)に向って南無阿弥陀仏と唱えるのだと説いています。そのように守護霊、守護神に世界が平和でありますように、人類が平和でありますようにと祈るのです。祈る自分は勿論小我の自分ではなく、内なる神性なのです。自分の内に在る神性が宇宙に充満する神のいのちに感応して、世界は創られてゆくのですから、肉体の私がするのではなく、自分の内の神さまが世界平和、人類平和を祈っているわけです。ですから祈りは強いのです。"

近頃は、とても離婚が多いと思います。
辛抱とか忍耐とかしないで、安易に楽なほうに逃げている感じもあります。
それはたぶんに、女性の経済力の充実が、そうさせている部分が大きいと思います。
それがいいかどうかは別として、お互いがうまくいかない、ということの深い原因を探ってみると、魂のほうが、うまくいかない相手に惹かれて、好きという感情が湧いてきて、一緒になった。でも、うまくゆかなくなる---磨きが発生する---成長する
魂のほうでは、うまくゆかない相手を、わざわざ選んでいる、というのが本当のところのようです。なにもかもぴったりで、しあわせで、ほかほかで、愛しちゃったのよ、では魂が成長できないし、強くならないし、幅がひろがりません。
それで、そういう風に仕組まれているということがあると思います。
今回のお話は、いろいろなタイプの夫婦です。


 性格の不一致は当りまえ

 離婚の原因として、よく性格の不一致が理由として上げられます。が、一卵性双生児ならいざしらず、他人同志が一緒になっているのですから、性格は勿論、趣味も、ものの考えかたも、皆違っていて当然なのです。むしろ、性格が似た者同志たつた場合、お互いに
調子の良い時は馬が合ってよいのですが、何かで一旦、事が拗れると激しく反発し合い、なかなか収まりがつかない、といったように、あまり善い縁とはいえません。性格が違うからこそ補い合えるのです。
 俗に、結婚の相性として丸顔と長顔が善い、と言われていますが、丸顔の人は性格が陽性で明るく、長顔の人は陰性でおとなしい性格(とはかりは言えませんが)だから組合せに善いというのです。
 親の決めた相手に、嫌も応もなく結婚させられた、というのは昔の話です。現代はお見合いにしても、決めるまでにはそれなりのお付き合いの時間もあるのですから、自分で納得しなければ結婚しないはずです。
ましてや何年も恋愛した挙句、結婚したのに、お互いのわがままがぶつかり合って「性格が不一致だから別れます」では、いつたい相手の何を今まで見ていたのでしょう。甘い恋愛感情で、自分の夢を被せて、相手を見ていただけなのでしょうか。
 お互いに相手への思い遣りを欠いて、自分に相手を従わせようと自己主張をすれば、性格の不一致がぶつかり合うことになるのは当然です。だとすると、性格の不一致が離婚の原囚ではなく、お互いを尊重し合わず、譲り合おうとしない、わがままな生活態度が、破
綻の原因ということになります。
 夫婦の問題でご相談に来られる方々のお話を聴いておりますと、実に様々な問題があります。また、問題となっている人のタイプも自ずから分類されてきます。
次に掲げるタイプの名称は、私が勝手につけた名称です。  
                 
 夫婦の種々相

 「自己中タイプ」
 自己中心的にしか物事が考えられず、家族に対しても思い遣りが欠ける人。
 「依存タイプ」
 自分の嫌なこと、面倒くさいこと、責任のあることは、すべて奥さんに任せて逃げてしまう、全然頼りない亭主。
 女性であれば、何もかも夫に頼り切って、夫なしでは日常生活も覚束無い、といった人。
 「子供タイプ」
 何か自分に不都合があると、すぐ駄々をこねたり、拗ねてみたり、わがままで、自我欲望のままに生き、失敗や不都合はすべて人に責任転嫁をし、尻拭いをさせる人。
 「暴君タイプ」
 昔の人には亭主関白の人が多くいたが、その人たちは、家族に対する責任も負っていました。しかし暴君タイプの人は、自分の意に沿わぬ者に対しては、暴言、暴力で屈服させようとする夫、なかには妻の場合もあります。
 「鬼は内、福は外タイプ」
 よその人に対しては親切で、物分りがよい人なのに、何故か家族の者に対しては機嫌が悪く、事毎に辛く当る人。
 「浮気タイプ」
 次から次へと、女性遍歴を重ねる人。男性遍歴をする女性もいます。
 その他に、特に因縁生の浄化のために夫婦となった例として、
 「逆縁タイプ」
 過去世において、敵同志であったたり、最も仲が悪い物同志が結びつく場合があります。
 「貸し借りのある親子タイプ」
 過去世に親が子供に果たさねばならぬ義務があるのに、それを放棄してしまった借りがあって、今世で夫婦の形をとって浄化しようとしている関係。
 数え挙げれば、まだまだいろいろなタイプがあると思いますが、このような問題となるタイプの人たちは、皆、人間的に大人になりきれていない未成熟な部分があり、それが、愛情不足や過保護(親のエゴによる愛のため、愛情不足となる)に育っているため、性格的な歪みがあるのです。そのため相手のことを思い遣る心のゆとりの無い人たちなのです。
 これらのタイプの人たちとは違うのですが、
「合理的なタイプ」
 すべてを合理的に割り切って、一切の無駄を排除した生き方をする人。本人は満足かもしりませんが、その生き方を他にも、特に家族の者に押しっけようとしたら、問題が起きます。
仲の良い善い夫婦となるタイプとして、
 「親子タイプ」
 これは仲の良い親子だった囚縁生かあって今世に夫婦となった縁の人。
 かわいい子供が少々わがままを言っても、親はつい許してしまうように、夫婦のどちらかが親であり子供の因縁であった場合、仲の良い夫婦となります。
  「兄弟(姉妹)タイプ」
夫婦というより、仲の良い兄弟(姉妹)といった感じの夫婦。
 「友人タイプ」
 お互いに好きなことを勝手にしても気にならない。男と女としてお互いに愛情を持ちながら、友人同志のように独立した存在としての夫婦関係。

 以上のように百組百様ですが、一応タイプを分類してみました。幾つかのタイプについて、また例を上げてお話していきたいと思います。
例を上げてお話したほうが、問題に対する対処の仕方や、心構えが具体的になり、わかりやすくなると思うからです。ところが上げた例が○○さんに似ているから、その人のことだろうとか、または、自分のことを言っているのだろう、といろいろと憶測でおっしゃる方がいるといけませんので、念のために申し上げておきます。
 私か例に上げてお話しますことは、ご相談を受けた数多くの例の中から、これはと思う代表的なものをアレンジして、わかり易くお話していますので、特定の個人のプライバシーを暴くようなことはしておりません。もし例が、誰かさんに似ているとか、ご自分の問題に似ているとしたら、対処の仕方や、心の用い方の参考にしていただけたら、人生相談を受けた形になります。そう願っております。
 また、夫婦間の問題でご相談に来られる方のほとんどが女性の方ですので、問題となるのはご主人の人間性ということになります。

 うちの主人の性格が変われば

 そこでよく「うちの土人の性格は直りませんか」と、相談に来られる方がいます。
 ご主人の自分勝手な性格のために、どれだけ苦労させられているか。主人の性格が変ってさえくれたらと願うのも無理はありません。
 そういう方に、私は逆に問い返します。
 「あなたはご自分の性格を直せますか。」
すると、一瞬、考えこんでいましたが、
 「えー、そうですねー。まあー直そうと思えば、なんとか。」
と、歯切れの悪い返事が返ってきます。
 「ご主人は、自分の性格を直そうと思っていますか。」
 「とんでもない。」
 「そうでしょ。だったら直るはずがないでしょ。自分で直そうと思ってもいない人が、他からこうしなさい、と言われたからといって、言うことを聞くはずがないでしょ。素直に言うことを聞くような人だったら、あなたがこのようにご相談に来ることもないですよね。」
 「うーん、そうですよね。お祈りしても無理ですかね。」
 それほど性格を変えるということは難かしいことです。ましてや魂的な幼さや、愛情不足からきている性格的な歪みを持っている人はなおさらです。
 変わるとすれば、何か大きな境遇の変化、例えば大病をするとか、辛い体験をするとかして、心境の変化によるか、宗教心に目覚め、自己完成を目指して精進努力をするかでしよう。奥様がご主人のために「天命の完うを」祈っていれば、ご主人の霊性がそれだけ開かれてきて、心境が変わってくるかもしれません。しかし、性格を変えてゆくのは、あくまでも本人の意志によるのです。
結婚ほど、人間を磨き成長させるものはないのではないか、と思うほど、結婚という機会は、当人たちを成長させていると思います。
結婚の真の意味は、『いかに自分本位でなくなるかを学ぶ』ということにあると思います。
そういうレッスンには、結婚ほどうってつけの場はないと思います。
私は結婚の経験がないのですが、自分の周囲、親戚、両親などを見て、『これは自我のぶつかり合い、人間洗濯劇場だ』、と思うのです。
これからのお話の中で、永安先生は、結婚のあり方、プラスになる結婚、マイナスになる結婚等々・・様々な角度から解説してくださっています


第二章 魂からみた結婚 
        
 結婚
               

 結婚とは何でしょう。今まで他人であった男女が一つ屋根の下に暮らし、家庭を築いてゆくのです。余程深いご縁があってのことと思います。    
 昔は政略結婚とか、家同志の結婚で、結婚当時者の意志を度外視して結婚させる、ということが、当然のように行われていた時代もありました。が、現在は、個人主義の時代で、親の都合で勝手に結婚させられるようなことは、なくなっていると思います。それだけにまた、自己主張も強くなり、自分が納得しなければ結婚もしない、ということで相手を選ぶため、なかなか結婚することも難かしくなってきています。
 結婚の相手を選ぶ場合、先ず写真の交換をします。
相手を知る手段としては必要なことですが、写真を見て、その人の性格や人柄を見抜ける人は、余程に人間関係の体験を積んでいる人です。大方の人々は、相手が自分の好みに合っているが、なんとなくよさそうだ、ぐらいの感じで、会うことを決めたり、断ったりしています。
 結婚のお相手として紹介された人の性格、魂の大きさ、将来性といった、その人の人となりがわからないから、判断材料として家柄、学歴、職業、またはお仲人を通して紹介された人柄によって選ぶのが普通です。
それに、易の五行による相性も、信ずる人には大事な判断の要素になります。   
 若い人達は、そうした仕来りや外形的なものは無視して、好きになったから結婚するのです。つまり恋愛結婚を望む人が多いのですが、それがまた、第一章の恋愛のなかでお話してきましたように、因縁生によるものが多く、結果として、必ずしも善い家庭が持てるともいえないのです。           
 家柄が良いからといっても、肝腎の本人の魂か幼く、自立できていない男性と、もし一緒になったとしたら、なまじ家柄が立派であればあるほど、その家の家風とか仕来りに縛られて、それこそ自己犠牲を強いられる生き方となるでしょう。しかも、夫となる人が頼り無ければ、幸せな結婚とはいえません。
 また、名門校を出たからといって、その人に将来性がなければ、この世の中で成功を納める人にはなれません。家柄、学歴、職業は一応の判断の目安であって、大事なのはあくまでも、本人の人柄、魂の大きさ、将来性ということになります。魂の大きさは、ただ大きければ良いというのではなく、結婚の場合は、特に相手との魂の釣り合いが大事、ということです。

 将来はお見合い写真はオーラ写真で

 そのうちに、お見合いの写真は、オーラ写真の交換、ということになるかもしれません。
 オーラ写真とは、その人の感情想念体から発するエネルギーが、それぞれの色彩となって、その人の身体から発しているのを写したものです。性格、愛憎のありかた、精神性といったものか、それぞれの色となって表われるのですから、美しく装い、行いすまして撮った写真と違い、隠しようがありません。
 それに加えて、現代、遺伝子の研究が進んできましたから、一つの細胞、または{滴の血でも、その人の性格や、病気の有無など、かなりなところまでわかります。ですから、オーラ写真と共にそうした検査表のようなものを、お互いに交換して結婚の相手を決める、ということにもなりかねません。だがそうなると、結婚するための条件が、ますます難かしくなってしまうかもしれません。それも困ったものです。
 ご縁というものは、前生だけのものではないのですから、何生前のものか現われてくるかわからないのです。その人か心境を高めてゆけば、高くなった次元での善いご縁かでてくるのですから、結婚を早くしなければ、と焦ることもないのです。それよりも、自らの意識を高めてゆくことです。ご自分の心境を高めてゆけば、いつか自分の半身像としてのソウルメイトを、直観的に選べるようになるかもしれません。お互いがそれぞれに個性を磨き、最高に生かし合いながら、この世界に貢献できる仕事をし、愛情豊かに子供たちを育て、個性をのばしてゆけるような、理想的な家庭のありかたが実現できる日は、必ず来ると信じています。
 今は、三次元世界から四次元、或いは五次元へと次元上昇してゆくための、波動調整による大浄化の時期にあるため、因縁生の浄化ということが起ってきているのです。
現われた悪い現象にとまどい、囚われないようにすることです。

 この世における理想の夫婦像

 何もかもぴったりしていて、何の不満もなく、夫婦円満で一生を終る。そんな夫婦の在り方は、まことに少ないと思います。
 喧嘩一つせず、平穏無事に、しかも豊かに一生を過ごす。
そういった在り方を、多く人々は望んでいるかもしれませんか、それは、望んでなれるものではなく、その人の善い因縁生の徳分によるのです。
ご自分の因縁生を浄化できている人ならば、そうした恵まれた家庭のなかにあって、なおお互いに自己の人間性を高めるべく努力をし、この世のなかに貢献してゆける仕事や、団体活動を通して行動してゆける人は立派な人だと思います。だが大方の人々は、そうした状態に置かれたら、自己を高めてゆくための努力はおろそかになり、安穏に日々を過ごして、進歩することかなくなってしまいましょう。
現在この次元におけるよい夫婦とは、喧嘩する時には大いにするのです。それは自我を主張しての喧嘩ではなく、お互いに自立しているから、自分の意見を持っていて、意見が違う場合には、激しくぶつけ合い、喧嘩の形に見えても、話し合って納得すれば、相手の意見も尊重し、お互いの成長の糧にできる夫婦です。
 自分の意見が通らないからといって喧嘩をし、いつまでも根に持って口もきがない、という人は自己中心的で、まだ魂の幼い人です。
 善い夫婦はお互いに自由性を認め合い、苦しい時には力を合わせて乗り越えてゆく力になる、そんな夫婦であったら、年を重ねるに従い、素晴しい家庭を築いてゆくことができるでしょう。

 1+1=4

 この三次元の世界で、完全な人など誰もいません。高い次元から使命を自覚しておりてきた人は別です。ましてや、この物質波動の世界において未熟な者同志が一緒になり、共に生活するのです。お互いに自己中心的で自分勝手な行動をしたら、人間性に不足や欠け
ているところがあるのですから、それがぶつかり合い、欠いているところで相手を傷つけ合う、ということになってしまいます。
 お互いに思い遣り、労り合って、相手を受け入れ、相手の生き方に合わせるようにしたら、お互いの不足や欠けているところを補い合えて、それなりに調和された形となるでしょう。 結婚生活というものは1十1=2、これは当りまえで、お互いに助け合って補い合い、一人が二人分の力や働きができれば1十1=4になるのです。
結婚したことによって、その人に人間的な幅も豊がさも備わり、一回りも二回りも大きくなったと言われる人はそういう人です。
 ところがその逆の場合は、お互いに自己中心的で、相手を自己の中に取り込もうとするのです。つまり、相手を自分の意のままに従わせようとするため、お互いに力を奪い合う形になり、1十1=0、或いは1十1=マイナス2、または4といったことになりかねません。結婚したことによって因縁生が引き出され、いろいろな問題が起ってきて、それらにエネルギーを使い果たし、生活が乱れたり、荒れたり、仕事に対する気力もなくしたり、といった人がそういう人です。
 善い夫婦となるにはそれなりの努力が必要です。お互いに不完全な者同志、欠けているところがぶつかり合い、角が取れて丸くなっていくには、それなりの年月を必要とするのです。
 お互いに相手のありかたを認め、思い遣りをもって補い合うことを、生活の基盤にして生きてゆけば、その人の生き方は自分たちぱかりでなく、多くの人々にも影響を与えられる人となるでしょう。

以下は、五井先生の「光明の生活者」からの抜粋ですが、とても魂に響きますので、ご紹介します。

 

 

私の願いは、自分が本当の人間、真人になることなんです。
 それでは真人とは、どういう人のことか、というと、一目あって『なつかしいなー、なんて懐かしい人なんだろう。また会いたいなー』と相手の人が思ってくれれば、その時、「あー、自分は本当の人間になれたんだなー」と思うでしょう。
もしそう思われなければ、自分の中にまだ不純なもの、捉われ、自己防衛の想いが潜んでいるという証拠だと思います。まだまだそこまでいかないなー、と反省ばかりです。

まだまだ祈りがたりないなー、と思う日々です。

悟りとは人が証明してくれるもので、自分で言葉にするものではないのでしょう。

『懐かしい人』になれたら、その人は悟っているのですね。

 

 

   なつかしくなる
 この間も熱海からきた人が一遍私に会った、それでとっても感じがよかったんですね。その婦りに他の宗教ヘ行ったら、まだ用が残っているので明日来なさいっていわれた。でもどうしても明日行く気にならないっていうんですね。ところが私は、はいさよならで、明日来なさいも何もいわないのに、明日来なさいっていわれたはうへは行かないで、もう私に会いたくて会いたくてしょうがなくて熱海から飛んできました。
それで優しくてゝしょうがない、ああ有難いって涙流して喜んでました。なぜおいでなさいともいわないんだけれど続けて遠い所からきて懐しがるかというと、その人の魂のお母さんがここにいる。その上の神様の魂の大親様もここにきている。だから懐しいに決まってるんです。初めて会っても私の顔みて懐しくなって涙を流す人が随分ある。
なぜ涙を流すかというと、私の中に自分の魂のもとをみつける、魂のもとがみえるんです。おばあさんでも、おじいさんでも、中年の人でも、会うとまた二度来てみたくなりまた三度きてみたくなる。なぜいらっしゃいともなんともいわないのに会いたくなるかというと、その人の魂のお父さん、或いはお母さんがこの中にいて、ぴーんと感じる、愛が身に沁みて感じる。 ああこんにちわ、こんにちわ、よく来ましたねえ、これだけで愛が身に沁みてゆくんです。それはなぜかというと光が向うに伝わってゆくだけで、なんのたねも仕掛けもない。なにがあるかっていったら自分の心が愛一元になっている、ああみんながよくなりますように、っていう心がわざわざ思うんじゃなくて、過去世から練習してゝ練習しつくしたんだね、だから愛いっぱいに溢れている。それが向うに伝わる。そうすると懐しくなる。余程業が深く詰っていると、なんだか私の所にきて自分の本心が見破られそうな気して、逃げてゆく人もあります。けれどもそれはたまたえまで大概は壊しくなる。

    心を明るくすることは善である

それは私ばかりじゃなくて誰でも懐しくなるようになれるんです。どうしたらいいかというと心を空っぼにすることです。空っぼにすることはなかなかできないからいつも神さま有難うございます、守護霊さま有難うございます、守護神さま有難うございます、世界人類が平和でありますように、という想いが心の中にありますと、その人に会うとなんだか懐しくなります。
それはなぜかというと、世界人類の平和を願う想いというのは、自分の業の心が想っているんじゃなくて、自分の本心が想っている。そこが光に満ちているから光にみんな会いたいんです。例えば暗い街を歩いていて、或いは野原を歩いていて向うに光がみえた、あああそこへ早く行こうって光が懐しくなって行くんです。虫でもそうです。蛾なんかでも暗い所へ行きゃしない、明るい所をねらうでしょう。
人間だってみんな暗い所を欲しない、明るい所、明るいほう光のほうへ慕って寄って行く。光を慕わないのは泥棒とか恋人同士、恋人達は塀の陰、街灯のない所ばっかり探って歩いて行く。そうじゃないと手が握れない。公明正大ならいつでも明るいほうヘ行きます。だから人に敬まわれたかったり、人が慕って寄ってくる生活がしたいと思うならば、まず心を明るくしなきゃならない。心を明るくするということは善なんです。

 光になる

光は即ち神なりき、神は即ち光なりです。言は即ち神なりきっていいますね。何が言がというと光のひびきを言という。光のひびきが言葉なんだから明るい心をだしていれば、それは明るい言葉を出していると同じなんです。いくら言葉で、おきれいですねえ、っていったって、うわついたほめ方じゃ嬉しくない。黙っていてもニコニコと優しい人のほうが気持がいいです。言葉でいくらちゃかちゃかお世辞いって誤魔化しても、そんなのは愛の言葉じゃない。常に相手の幸福を想っている、明るい想いで人に対していれば自ずから光が向うに伝わって、向うはなんだか嬉しくなる、会ってみたくなる、そういうもんなんですよ。だから光にならなきゃだめだ。文句はいらないんですよ。光になるほうがいい。”

 

人間の歴史を見てみると、常に『愛』が人生の根幹にあると思います。
親子の愛、男女の愛、師弟の愛、友への愛、隣人への愛、祖国への愛、民族への愛、人類への愛、地球への愛、そして、神への愛
「愛がなかったら何の人生ぞ」、という感じです。
ここで永安先生は、人間の使命ということについてお話を広げてくださっています。

人間は何故愛を求め合うのか

 人間は何故、これほどまでに愛を求め合うのでしまう。                  それは、先にもお話しましたように、本来完成された人間像は、男性性と女性性を内に具えた存在であったのですが、この現実の世界に働きかけてゆくために陰陽の働きで男性、女性と分かれてきた、といわれています。故に、男性は自分の半身像である「永遠の女性像・アニマ」を、そして女性は「永遠の男性像・アニムス」を、普遍的無意識のなかに持っていて、それ故に、異性を求め合い、合体することによって、完成された姿に戻ろうとしているからです。さらに、もっと深い意味でいえば、愛とは合い、相うということで、自と他とが一つに合体しようとする、心の状態のことです。それは、人間が生み成されてきた大元である神に、帰ろうとする願いから起ってきているのです。
 人間は本来、神の分霊として、高い神界より霊界、幽界を経て、この肉体界へと、神のみ心である大調和世界顕現のために、使命を持っておろされてきたものです。ところか、大方の人々は自らの使命を忘れ、当然自らの神性も忘れはて、肉体のみを自己と錯覚し、自己限定の結果、自らを力の弱い小さな存在としてきたのです。
 しかし、そうした人々の心のなかにも、神界に在ったときの全くの自由性と、すべてを一つとする愛の記憶があり、それが帰巣本能のように、人々を内から駆り立てて、縦には宗教心となって自己完成を目指し、この世界の探求となって科学や哲学が深められ、横には愛を求め合うという働きが起ってくるのです。
こうして、この世界が進化向上し、霊質化してきたのです。
 すべての生命の源である神は、愛そのものであって、自とか他とかの区別はありません。その神の分霊として大間は、この世界に肉体という器を持って、生かされているのです。ですから大間は、誰もが愛を求め、愛したい、愛されたい、愛さずにはおられない、という衝動にかられるのです。
 ところか、大方の人々は、この大元の神の愛を忘れ、自らを肉体大間と自己限定してしまったため、本来の愛の本質を見失い、愛の表現が自己中心的に歪められてきたのです。

 愛について

 ここで、あらためて愛について考えてみましょう。
 愛とは、生命の一体観によって、神に帰一しようとする願いから起ってくるものですから、愛することによって、自らの生命がより大きく生きると同時に、他の生命をも生かすものでなかったら、真の愛とはいえないのです。
 愛するという行為は、自己をもこの世界をも調和させ、次元上昇させていくための大事な働きなのです。この愛の心が縦の働きとして、親子愛、祖先崇拝、神信仰となり、横への働きとして兄弟愛、隣人愛、民族愛、人類愛となるのです。ですから特定の個人に対する愛も、自己の愛を成長させていき、やがて人類愛にいたるための、大事なプロセスなのです。
 愛するという行為は、人間にとってこの世界を、より美しく調和された世界にしていくための働きであり、使命なのです。
 五井先生の「愛することは」という詩は、愛の本質とその働きについて、格調高く詠っておられます。

「愛することが哀しい時かあっても
友よ愛しつづけてゆかなかればいけない
あなたの愛がたとえ地上に燃える焔であっても
神はあなたの愛が天上界のものであることを知っている
愛は神のみ心そして地上の光明
愛することは深い喜び愛することは深い哀しみ」

 この詩の一節に詠まれていますように、愛するという行為は、愛情といわれるように、常に情がつきまとのです。この地上界における人間の愛は、愛(神)、業想念(執着)の両面に働きかけてゆくため、愛と思っている行為か、情のほうに傾きすぎて執着となります。
 執着は一つところに想いが止まるので、愛することが苦しみとなり、愛されることか重荷となって愛が憎しみに変わって、様々な不幸をつくっていくことになるのです。
 でも、どんなに哀しい時があっても、愛しつづけてゆかなければいけないのです。
 何故なら、愛するということは、個から全体性へと目覚めてゆく大切なプロセスであるからです。愛しつづけることによって、この世界を調和された世界へと次元上昇させていくのが、人間の使命だからです。ですから、「神はあなたの愛かたとえ地上に燃える焔であっても神はあなたの愛か天上界のものであることを知っている」のです。
 地上に燃える焔というのは、地上とは業想念渦巻くこの三次元世界のことで、そこに燃える焔とは、因縁生に支配された愛憎の世界、つまり、道徳に反すような愛のありかたであっても、神からみれば、それは、神に帰ろうとする願いから起っていることですから、愛しつづけるという努力をすることによって、その人の愛がだんだん成長してきて、真実の愛のありかたに目覚めていくからです。
 肉体人間としての愛は、どうしても自己中心的になるのですし、愛と情と混同していてそこに執着となり様々な苦悩や悲劇をつくっていくのですが、そうした体験を繰り返しながら、その人が多くの人々の苦しみ悲しみを理解できるまでに生長した時、すべての人々の苦しみ悲しみ、そしてまた喜びも、自分のこととして感じ得る同悲同喜の想いの人となるのです。
 そして、そこからさらに、人間が肉体を持ってこの世に生きてゆくことの、使命とはいえ、様々な苦悩を乗り越え、乗り越え生きていくことの大きな悲しみかわかるのです。それが大悲と仏教でいわれているところの実感です。
 そうした体験から、だからすべての人々か平和であり、愛し合わなければいけない、という想いか湧き上ってくるのです。それが大慈という実感なのです。
 この大慈大悲の感情を、五井先生は、

「愛することは深い喜び
 愛することは深い哀しみ」
 とうたっておられるのです,

「この世のいのちの流れの中で
 縁美しく花開くは
 人と人との愛の交わり」

 縁というものはまことに不思議なものです。
ふと、巡り会ったことから展開してくる物語り、善くも悪くも一期一会、一生に只一度の出会いであるなら、このチャンスを逃がしたらもう再び来ない。そのチャンスを生かすも殺すもあなた次第なのです。それは愛で受けとるか、恐れで受け入れるか、ということです。
 あなたの人生で起ってくることで、無駄なものは何もないのです。すべては体験を通して、自己を成長させていくためのものと受け入れれば、その縁は美しく花開くのです。

 「国と国とが愛し合えない悲哀の時代にあっても、
 せめて人と人とは愛し合わなければいけない
 人はみな神のいのちの分れ 
 本来一つのもの 
 私とあなたは一つのいのち 
 私たちの愛の心か
 光明となって国に充つる時
 それはやがて世界の平和を導き出してゆくことになるのだ
 友よ
 愛して心哀しい時があっても
 愛しつづけていなければいけない
 その愛はやがて 輝かな喜びとなってあなたにかえってくるに違いない
 神かあなたを愛していて下さるように
 あなたの愛も相手を柔かく包んでいるに違いないのだから」

 愛の本来のありかたが、まことに美しい詞で格調高くうたわれています。

 「友よ 愛して心哀しい時かあっても 愛しつづけていなければいけない」
と、再びうたわれていますか、はじめの「愛しつづけてゆかなければいけない」と、
「愛しつづけていなければいけない」は微妙に違います。
「ゆかなければいけない」は、どんなに哀しいことかあっても愛しつづけてゆく努力をしなさい。それが自己を高め、世界を調和された世界にしてゆく働きだから、という意味であり、「いなければいけない」という詞は、人間としての使命を自覚したうえでの宣言となります。
 愛するということは、なんと偉大なことか、心が傷ついても、苦しくても愛しつづけてゆくということ、一人から二人へ、そして世界人類へと愛をひろげてゆくことこそ、私たちが本来のミッション(使命)として与えられているものなのです。

人間は、誰でも一体感を求めていると思います。本当の自分をわかってほしい、理解されたい、という想い。また、陰と陽というエネルギーに分かれたため、そこに磁力が働き、一体になろうとする大きな力が働きます。そこに、過去における魂の貸し借りという要素が働き、『好き(^^♪』という感情に結びついてゆきます。
しかし、この肉体の世界では、磨きあうことが目的で生まれてくる方がほとんどなので、憧れ→期待→ラブラブ→幻滅(>_<)→けんか→あきらめ→感謝(^^)・・
というようなコースを通って霊界に移行してゆくのが大半ではないかと想います。
今回はそういうお話です。



 未知とのめぐりあい

 私たちは、自分ひとりの人生さえ、何が起ってくるか予測できないのです。そんな未知を内に抱いた者同志が、不思議な縁の糸に手繰り寄せられてめぐり逢い、愛し合うのです。
 ハートと共に、二人のカルマもまた出会ったのです。
二人でスタートした未知の旅の途上で、何が起っててるかわからない恐れを、つねに抱いているのです。ですから、ただロマンチックな陶酔感や、慰めを求め合うだけの結びつきであったら、早晩、破綻がくることは必定でしょう。相手の因縁生もお互いに背負い合わねばならないのです。どのような問題が起ってくるかわかりません。その時、どれだけ相手を受け入れることができるか。そして二人で力を合わせて、様々な苦難を乗り越えてゆき、忍耐や、寛大さ、勇気、優しさ、といったものを培い、自己を完成させていくことができるか、そこに、愛し合うことの意義があるのです。
 また、愛し合う男女にとっては、心をひらいて相手と一つになりたい、という要求は当然のことだと思います。ですが、性急に相手のことを何もかも知ろうとすることは、よいことではありません。
 人間は、ミステリアスなところがあるほうが魅力があるものです。この三次元世界で完全な人など存在しません。神秘のヴェールを剥ぎ取っていったら、ただの人が現われてきます。恋愛とは多分に、神秘のヴェールで相手を包みこんで、見ているところがあります。
ですから恋愛中は素敵な人なのですが、結婚すると裸でつき合うようになり、幻像が破れてこんなはずではなかった、と失望が起ります。そこで相手のものたりないところをつい指摘し合ったりして、心を傷つけ合い、修復がつかないような亀裂を深め、はては離婚というケースも多いのです。
 パートナーとなる人が、自己完成に向けてつねに自己を磨き、高めていこうと努力している人は別です。そういう人は、未知の可能性がひらかれ、ますます魅力ある人となるのです。
 そういうパートナーを選んだ人は、自分もつねに自己の可能性にチャレンジしていかないと、置いてきぼりをくってしまい、相手が理解できなくなり隔たりができてしまいます。
 また、自分のことを完全に理解し、すべてを赦して、優しく包み込んで欲しい、とは誰しも望むところです。が、それは少々虫のよい注文というものです。自分のことさえ真実わからない人間が、他人のことを完全に理解できるはずがありません。
 人間の認識作用というものは、すべて自己投影なのです。その人の見ている世界は、その人の心の深さに比例して見えるのです。それを仏教では佗己といいます。自己というのは、自分とあらわれている己で、佗己とは他とあらわれている己のことをいいます。
 この世界はすべて自己のあらわれ、と観ているのです。ですから完全に理解してもらうことなどできません。それに、人間は一人一人皆、内に孤独を抱えて生きているのです。それは「人はみな独りで生きているのだ」という根源的な痛みです。どんなに熱烈な恋愛の最中にあっても、この心の疼きを癒すことはできません。一時の愛の陶酔に忘れているだけです。この孤独感は、神に帰一しようとする願いからくるものですから、私たちがこれから四次元、五次元へと次元上昇して、全休性に目覚めていかない限り、癒されることはないでしょう。だからこそ、人間は愛を求め合うのです。

 人間の本来性には性別はない

 男と女が愛し合うということは、陰陽の異なる性が合体して、自己完成を口指してゆくものです。もともと、人間の本来性には性別がありません。この三次元世界においても、ある時は男に、またある時信女に生れ変りを繰り返し、また結婚してはお互いの異性を学び合い、自己に取り入れて、自己完成を目指してゆくわけですから、魂としては両性を内に持ってひるものです。
 例えば、観世音菩薩は、私たちの本心である神性を具象化した、両性具有の完成された姿で表わされています。高次元世界において、男女の別はなく、それは優美で気高い人々が住んでいる世界もあるということです。
 本来、両性具有であった人間が、陰陽の働きで男性と女性に別れて生れてきました。人間は自分の半身像を求めて、男性は女性を、女性は男性を、本質的に求め合い合体して本来の姿に戻ろうとする意識を、本能的に持っているのです。
 男性の内なる世界には、自分の半身である「永遠の女性像」があり、女性の内なる世界にも「永遠なる男性像」が秘められている、といわれています。その内なる半身像のことをカール・グスタフ・ユング(一八七〇~一九六一)は、普遍的無意識のなかにある「元型」(人間の行動を決定する心理学的な要因)の一つとしています。そして、男性の内なる女性像をアニマといい、女性の内なる男性像をアニムスと言っています。
 こうして、男性も女性も共に、自分の理想の半身像を求めていますが、この現実の世界ではなかなか得られないのです。そこで、これは、と思う異性のうえに、自分の半身像のイメージを投影します。そしてこの人こそ理想の人と燃えあがります。しかしこれは幻影です。
 甘美な幻想は、はじめ、その人に喜びと生き甲斐を与えてくれますが、幻想が醒めてきた時、そこには理想とはかけ離れた人がいるのです。あの人は変ったと言いますが、相手が変ったわけではなく、もともとそういう人だったのです。醒めた目で見たから真実が見えてきたのです。
 このように自分の半身像を、この現実の世界に追い求めていますが、この世界はまだまだ進化の過程にあるものですから、完全なものは何一つありません。それに人間は、自分のこともまだよくわかっていないのです。自分の半身像といっても、なにか漠然としたものです。そこで、男性であったら母親に似たイメージを、また女性であったら、父親に似たイメージを、無意識のうちに求める相手に、重ね合わせてみたりするのです。

 男性性と女性性の融合

 男と女が合体して完全性を求めるといっても、この現実の世界では因緑生の浄化ということのほうが大事なのです。つまり、因縁生(カルマ)をお互いにぶつけ合ったり、取っ組み合ったりしながら、そこから愛を学び、自己をより高めていこうとしている磨き合い、修行の世界でもあるということです。はじめから、理想的な自己のパートナーを得ることは難しいのです。
それは自分自身がまだまだ未熟だからです。先にもお話しましたように、男女合体ということは、自分のなかに男性性と女性性を一つに融合していくことです。そのために人間は、生れ変りの輪廻転生を繰り返しながら、男となり女となり、またその時どきの生において、恋愛や結婚の体験を通して、自分のなかに男性性と女性性を受け入れていき、人間としての巾をひろげ、生き方を深めて、自己を完成させていこうとしているのです。
 男性性・女性性ということは、男性原理の特質である、左脳的、つまり論理的で行動力があり、発展的ですが、権力志向で攻撃的です。放浪的で闘争的です。
 女性原理は、右脳的、つまり直感的で友好的、生み、守り、育てるといった大地に根差した生き方をし、平和的です。
 こうした両性の特質を、自己のなかに取り入れ、融合させていくことによって、自らの意識を高めていくことができるならば、それぞれの性のありかたもよく理解できるようになり、他の大の生き方も受け入れることができましょう。そうした者同志のカップルであるならば、お互いに理解し合い、補い合い、協力し合うことができ、世界の多くの人々にも貢献できる、まことに素晴らしい夫婦像となります。これこそ、ソウルメイトの結びつきということでしょう。