以下は、五井先生の「光明の生活者」からの抜粋ですが、とても魂に響きますので、ご紹介します。
私の願いは、自分が本当の人間、真人になることなんです。
それでは真人とは、どういう人のことか、というと、一目あって『なつかしいなー、なんて懐かしい人なんだろう。また会いたいなー』と相手の人が思ってくれれば、その時、「あー、自分は本当の人間になれたんだなー」と思うでしょう。
もしそう思われなければ、自分の中にまだ不純なもの、捉われ、自己防衛の想いが潜んでいるという証拠だと思います。まだまだそこまでいかないなー、と反省ばかりです。
まだまだ祈りがたりないなー、と思う日々です。
悟りとは人が証明してくれるもので、自分で言葉にするものではないのでしょう。
『懐かしい人』になれたら、その人は悟っているのですね。
なつかしくなる
この間も熱海からきた人が一遍私に会った、それでとっても感じがよかったんですね。その婦りに他の宗教ヘ行ったら、まだ用が残っているので明日来なさいっていわれた。でもどうしても明日行く気にならないっていうんですね。ところが私は、はいさよならで、明日来なさいも何もいわないのに、明日来なさいっていわれたはうへは行かないで、もう私に会いたくて会いたくてしょうがなくて熱海から飛んできました。
それで優しくてゝしょうがない、ああ有難いって涙流して喜んでました。なぜおいでなさいともいわないんだけれど続けて遠い所からきて懐しがるかというと、その人の魂のお母さんがここにいる。その上の神様の魂の大親様もここにきている。だから懐しいに決まってるんです。初めて会っても私の顔みて懐しくなって涙を流す人が随分ある。
なぜ涙を流すかというと、私の中に自分の魂のもとをみつける、魂のもとがみえるんです。おばあさんでも、おじいさんでも、中年の人でも、会うとまた二度来てみたくなりまた三度きてみたくなる。なぜいらっしゃいともなんともいわないのに会いたくなるかというと、その人の魂のお父さん、或いはお母さんがこの中にいて、ぴーんと感じる、愛が身に沁みて感じる。 ああこんにちわ、こんにちわ、よく来ましたねえ、これだけで愛が身に沁みてゆくんです。それはなぜかというと光が向うに伝わってゆくだけで、なんのたねも仕掛けもない。なにがあるかっていったら自分の心が愛一元になっている、ああみんながよくなりますように、っていう心がわざわざ思うんじゃなくて、過去世から練習してゝ練習しつくしたんだね、だから愛いっぱいに溢れている。それが向うに伝わる。そうすると懐しくなる。余程業が深く詰っていると、なんだか私の所にきて自分の本心が見破られそうな気して、逃げてゆく人もあります。けれどもそれはたまたえまで大概は壊しくなる。
心を明るくすることは善である
それは私ばかりじゃなくて誰でも懐しくなるようになれるんです。どうしたらいいかというと心を空っぼにすることです。空っぼにすることはなかなかできないからいつも神さま有難うございます、守護霊さま有難うございます、守護神さま有難うございます、世界人類が平和でありますように、という想いが心の中にありますと、その人に会うとなんだか懐しくなります。
それはなぜかというと、世界人類の平和を願う想いというのは、自分の業の心が想っているんじゃなくて、自分の本心が想っている。そこが光に満ちているから光にみんな会いたいんです。例えば暗い街を歩いていて、或いは野原を歩いていて向うに光がみえた、あああそこへ早く行こうって光が懐しくなって行くんです。虫でもそうです。蛾なんかでも暗い所へ行きゃしない、明るい所をねらうでしょう。
人間だってみんな暗い所を欲しない、明るい所、明るいほう光のほうへ慕って寄って行く。光を慕わないのは泥棒とか恋人同士、恋人達は塀の陰、街灯のない所ばっかり探って歩いて行く。そうじゃないと手が握れない。公明正大ならいつでも明るいほうヘ行きます。だから人に敬まわれたかったり、人が慕って寄ってくる生活がしたいと思うならば、まず心を明るくしなきゃならない。心を明るくするということは善なんです。
光になる
光は即ち神なりき、神は即ち光なりです。言は即ち神なりきっていいますね。何が言がというと光のひびきを言という。光のひびきが言葉なんだから明るい心をだしていれば、それは明るい言葉を出していると同じなんです。いくら言葉で、おきれいですねえ、っていったって、うわついたほめ方じゃ嬉しくない。黙っていてもニコニコと優しい人のほうが気持がいいです。言葉でいくらちゃかちゃかお世辞いって誤魔化しても、そんなのは愛の言葉じゃない。常に相手の幸福を想っている、明るい想いで人に対していれば自ずから光が向うに伝わって、向うはなんだか嬉しくなる、会ってみたくなる、そういうもんなんですよ。だから光にならなきゃだめだ。文句はいらないんですよ。光になるほうがいい。”