魂からみた恋愛・結婚 #12・・・人間はなぜ愛を求め合うのか | tablaboyの道日記

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祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

人間の歴史を見てみると、常に『愛』が人生の根幹にあると思います。
親子の愛、男女の愛、師弟の愛、友への愛、隣人への愛、祖国への愛、民族への愛、人類への愛、地球への愛、そして、神への愛
「愛がなかったら何の人生ぞ」、という感じです。
ここで永安先生は、人間の使命ということについてお話を広げてくださっています。

人間は何故愛を求め合うのか

 人間は何故、これほどまでに愛を求め合うのでしまう。                  それは、先にもお話しましたように、本来完成された人間像は、男性性と女性性を内に具えた存在であったのですが、この現実の世界に働きかけてゆくために陰陽の働きで男性、女性と分かれてきた、といわれています。故に、男性は自分の半身像である「永遠の女性像・アニマ」を、そして女性は「永遠の男性像・アニムス」を、普遍的無意識のなかに持っていて、それ故に、異性を求め合い、合体することによって、完成された姿に戻ろうとしているからです。さらに、もっと深い意味でいえば、愛とは合い、相うということで、自と他とが一つに合体しようとする、心の状態のことです。それは、人間が生み成されてきた大元である神に、帰ろうとする願いから起ってきているのです。
 人間は本来、神の分霊として、高い神界より霊界、幽界を経て、この肉体界へと、神のみ心である大調和世界顕現のために、使命を持っておろされてきたものです。ところか、大方の人々は自らの使命を忘れ、当然自らの神性も忘れはて、肉体のみを自己と錯覚し、自己限定の結果、自らを力の弱い小さな存在としてきたのです。
 しかし、そうした人々の心のなかにも、神界に在ったときの全くの自由性と、すべてを一つとする愛の記憶があり、それが帰巣本能のように、人々を内から駆り立てて、縦には宗教心となって自己完成を目指し、この世界の探求となって科学や哲学が深められ、横には愛を求め合うという働きが起ってくるのです。
こうして、この世界が進化向上し、霊質化してきたのです。
 すべての生命の源である神は、愛そのものであって、自とか他とかの区別はありません。その神の分霊として大間は、この世界に肉体という器を持って、生かされているのです。ですから大間は、誰もが愛を求め、愛したい、愛されたい、愛さずにはおられない、という衝動にかられるのです。
 ところか、大方の人々は、この大元の神の愛を忘れ、自らを肉体大間と自己限定してしまったため、本来の愛の本質を見失い、愛の表現が自己中心的に歪められてきたのです。

 愛について

 ここで、あらためて愛について考えてみましょう。
 愛とは、生命の一体観によって、神に帰一しようとする願いから起ってくるものですから、愛することによって、自らの生命がより大きく生きると同時に、他の生命をも生かすものでなかったら、真の愛とはいえないのです。
 愛するという行為は、自己をもこの世界をも調和させ、次元上昇させていくための大事な働きなのです。この愛の心が縦の働きとして、親子愛、祖先崇拝、神信仰となり、横への働きとして兄弟愛、隣人愛、民族愛、人類愛となるのです。ですから特定の個人に対する愛も、自己の愛を成長させていき、やがて人類愛にいたるための、大事なプロセスなのです。
 愛するという行為は、人間にとってこの世界を、より美しく調和された世界にしていくための働きであり、使命なのです。
 五井先生の「愛することは」という詩は、愛の本質とその働きについて、格調高く詠っておられます。

「愛することが哀しい時かあっても
友よ愛しつづけてゆかなかればいけない
あなたの愛がたとえ地上に燃える焔であっても
神はあなたの愛が天上界のものであることを知っている
愛は神のみ心そして地上の光明
愛することは深い喜び愛することは深い哀しみ」

 この詩の一節に詠まれていますように、愛するという行為は、愛情といわれるように、常に情がつきまとのです。この地上界における人間の愛は、愛(神)、業想念(執着)の両面に働きかけてゆくため、愛と思っている行為か、情のほうに傾きすぎて執着となります。
 執着は一つところに想いが止まるので、愛することが苦しみとなり、愛されることか重荷となって愛が憎しみに変わって、様々な不幸をつくっていくことになるのです。
 でも、どんなに哀しい時があっても、愛しつづけてゆかなければいけないのです。
 何故なら、愛するということは、個から全体性へと目覚めてゆく大切なプロセスであるからです。愛しつづけることによって、この世界を調和された世界へと次元上昇させていくのが、人間の使命だからです。ですから、「神はあなたの愛かたとえ地上に燃える焔であっても神はあなたの愛か天上界のものであることを知っている」のです。
 地上に燃える焔というのは、地上とは業想念渦巻くこの三次元世界のことで、そこに燃える焔とは、因縁生に支配された愛憎の世界、つまり、道徳に反すような愛のありかたであっても、神からみれば、それは、神に帰ろうとする願いから起っていることですから、愛しつづけるという努力をすることによって、その人の愛がだんだん成長してきて、真実の愛のありかたに目覚めていくからです。
 肉体人間としての愛は、どうしても自己中心的になるのですし、愛と情と混同していてそこに執着となり様々な苦悩や悲劇をつくっていくのですが、そうした体験を繰り返しながら、その人が多くの人々の苦しみ悲しみを理解できるまでに生長した時、すべての人々の苦しみ悲しみ、そしてまた喜びも、自分のこととして感じ得る同悲同喜の想いの人となるのです。
 そして、そこからさらに、人間が肉体を持ってこの世に生きてゆくことの、使命とはいえ、様々な苦悩を乗り越え、乗り越え生きていくことの大きな悲しみかわかるのです。それが大悲と仏教でいわれているところの実感です。
 そうした体験から、だからすべての人々か平和であり、愛し合わなければいけない、という想いか湧き上ってくるのです。それが大慈という実感なのです。
 この大慈大悲の感情を、五井先生は、

「愛することは深い喜び
 愛することは深い哀しみ」
 とうたっておられるのです,

「この世のいのちの流れの中で
 縁美しく花開くは
 人と人との愛の交わり」

 縁というものはまことに不思議なものです。
ふと、巡り会ったことから展開してくる物語り、善くも悪くも一期一会、一生に只一度の出会いであるなら、このチャンスを逃がしたらもう再び来ない。そのチャンスを生かすも殺すもあなた次第なのです。それは愛で受けとるか、恐れで受け入れるか、ということです。
 あなたの人生で起ってくることで、無駄なものは何もないのです。すべては体験を通して、自己を成長させていくためのものと受け入れれば、その縁は美しく花開くのです。

 「国と国とが愛し合えない悲哀の時代にあっても、
 せめて人と人とは愛し合わなければいけない
 人はみな神のいのちの分れ 
 本来一つのもの 
 私とあなたは一つのいのち 
 私たちの愛の心か
 光明となって国に充つる時
 それはやがて世界の平和を導き出してゆくことになるのだ
 友よ
 愛して心哀しい時があっても
 愛しつづけていなければいけない
 その愛はやがて 輝かな喜びとなってあなたにかえってくるに違いない
 神かあなたを愛していて下さるように
 あなたの愛も相手を柔かく包んでいるに違いないのだから」

 愛の本来のありかたが、まことに美しい詞で格調高くうたわれています。

 「友よ 愛して心哀しい時かあっても 愛しつづけていなければいけない」
と、再びうたわれていますか、はじめの「愛しつづけてゆかなければいけない」と、
「愛しつづけていなければいけない」は微妙に違います。
「ゆかなければいけない」は、どんなに哀しいことかあっても愛しつづけてゆく努力をしなさい。それが自己を高め、世界を調和された世界にしてゆく働きだから、という意味であり、「いなければいけない」という詞は、人間としての使命を自覚したうえでの宣言となります。
 愛するということは、なんと偉大なことか、心が傷ついても、苦しくても愛しつづけてゆくということ、一人から二人へ、そして世界人類へと愛をひろげてゆくことこそ、私たちが本来のミッション(使命)として与えられているものなのです。