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須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

愛ってなんだろう。

その答えのない問いを巡って、言葉を紡いできた。

とても私的な愛をめぐる5本のエッセー。


 

信頼

2013年08月11日(日) 

テーマ:幸福論 

 

メモ:信じていたものが壊れる時、

きっと探求が始まるんだね。

愛とは何か、懸命に探した日々の記録。

知りたくなかった相手の顔を知った時、

あなたは、どうする?

***

僕は、無意識に、信頼とは「相手の全てを知ること」だと思っていました。

相手の全ての側面を、全ての気持ちを、全ての過去を理解すること。 

それが、信頼につながるのだと。 

 

でも、それは、信頼ではなく、所有でしかない。 

所有することによる、安心でしかない。 

最近、ようやく、それに気がつきました。 

 

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愛について

2014年03月22日(土) 

テーマ:幸福論 

メモ:愛ってなんだろう。人を愛するってなんだろう。

そのテーマは、一番言葉にしにくいなって思う。

それでも、言葉を探しながら愛の本質を探している。

***

あなたが居ないと生きられない。

あなたの、全てを知りたい。

あなたのコトを考えて、眠れない。

あなたを、救いたい。

 

それらは、「愛」ではない。

いや、「愛」の一部かもしれなけれど、

愛の本質ではないのだろうと思う。

 

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愛について(その2)

2015年07月15日(水) 

テーマ:幸福論 

 

メモ: 親子、夫婦、恋人、友人・・

愛があるのに、どうして人は傷つけ合うのか。

そもそも、それは愛なのか。

愛が叫ばれる時代の中で、本当の愛を模索する小論考。

***

愛の「上」には、他のモノが乗っている。

嫉妬、支配、エネルギーを奪いたい欲望、怒り、恐れ・・・

が、乗っているのだ。

問題は、その全てをひっくるめて「愛」と呼ぼうとすることにある。

 

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やさしいハグ

2015年08月08日(土) 

テーマ:生活 

 

メモ:まだ、1年ちょっと前のことだね。

この文章を読むと、まだ小さな痛みを感じる。

懸命に生きてきた自分、何かを見つけようと

伝えようと懸命に生きてきた自分がそこにいる。

***

何年か前に、僕はとても傷つく経験をして、 

どうにか自分なりにその経験を消化しようと、懸命だった。 

そんなさなか、いきつけのカフェで、旧い友達に偶然出会った。 

 

僕の話を聞いた彼女は「悲しいね、大丈夫?」って泣いてくれて、 

やさしいハグをくれた。 

 

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パートナーシップ

2016年07月13日(水) 

テーマ:幸福論

メモ:これも本当に私的な文章。

結婚生活に悩んで、毎日本気で考えていた。

パートナーって何?結婚って何?愛って何?
愛を学ぶ旅に出た僕の旅日記、その途上での一稿。

***

 僕らは、素敵な靴を見つける。

 それを眺めてる時、僕らは幸せだ。だから、それが欲しくなる。

 念願叶って、それを手にいれると、

 しばらくは、満足感に満たされるだろう。

 けれどしばらくすると、僕らは不安になる。

 誰かに、盗まれやしないか、壊れはしないか。

 そして、小さな傷や模様が気に入らなくなる。

 気がつけば、幸せは消えてしまった。

 パートナーシップと愛の本質についての小考察。

 

大切な人を、どうやって愛したら良いんだろう。

どうやって、支援的な関係を築けばいいんだろう。

どうして、いつも誰かに振り回されてしまうんだろう。

そんなことを、テーマに書いた7本。

同じテーマだから、同じ話・・・もけっこうあるんだけれど、

同じ話を別の言葉で語ると、理解が深まったりもするよね。

秋の夜長にぴったりかもね!

 

<2013年から古い順に並んでいます>
 

思い通りにならない人
 ~愛と支配を巡って~

2013年05月07日(火) 

テーマ:カウンセリング 

 

メモ:よっぽど、思い通りにならない人がいたんだなあ 笑

ありのままの自分を認めて、ありのままの相手を愛するために

どうしたらよいだろう。人間関係に疲れた時に、

一度視点を変えると、見えてくるものがあるかもしれません。

・・・・自分に言い聞かせている頃だからか、ちょっと啓蒙的なのが

いただけないけど、それもご愛嬌。

***

「思い通りにならない人」が現れて

イライラするし、心配になるし、ストレスで疲れてしまって、もう嫌・・・

そんな経験、ありますよね。

なぜそんな経験をするのでしょうか。

 

それは、「自分が、自分の心を、コントロールしようとしている」

からです。

 

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応援すること

2013年05月21日(火) 

テーマ:カウンセリング

 

メモ:コントロールするのではない形で、

どうやったら大切な人を支えられるだろう。

僕が周りの人たちとの関係性の中で悩みながら見つけたこと。

当たり前だけど、できなかったりするね。

***

人を応援すること、人をサポートすること

それは、「相手が、相手の決めた幸せを、相手が決めた方法で手にすること」を

支持することです。

 

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善意の支配を受けたなら

2013年05月26日(日) 

テーマ:幸福論 

 

メモ:ひとつ上の投稿の続き。

今度は、自分が「善意のお節介」の受け手に回ってしまったら、

どんな風に立ち振る舞うことができるだろう。

その経験をどんな風に使うことができるだろう。

そんなことを、一生懸命書いています。

 

***

前回、「応援すること」というテーマについて書きました。

応援とは、「求められた時に、選択肢を示すこと」

そして、「どんな選択をしても、あなたを肯定する」というメッセージを贈ること

僕は、そんな風に考えています。

 

では、求めてもいないのに、相手から「◯◯すべきだ」「◯◯しなさい」

という指示を受けた時、つまり「善意の支配」を受けた時、

僕らは、どう振る舞えば良いのでしょう。

 

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苦しみとは

2013年06月18日(火) 

テーマ:幸福論 

 

メモ:苦しみって、これだけだよ。

 

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支配者の瞳の奥には

2013年06月18日(火) 

テーマ:カウンセリング 

 

メモ:誰かを攻撃している自分がいたら

自分を攻撃してくる誰かがいたら、

このことを思い出してください。

***

人は、悲しくて、寂しくて、怖くて、

でも、そんな自分を認められない時

誰かをコントロールし、支配し、攻撃しようとします。

 

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善意の暴力から、愛と支援へ

2015年06月26日(金) 

テーマ:幸福論 

 

メモ:このテーマを繰り返し書いていて、

この投稿が、総まとめのような位置付け。

僕らは、善意の元に、互いを傷つけあってしまう。

それを乗り越えるために、何ができるだろう。

僕が、懸命に言い聞かせているのは、僕自身に向けて。

***

自分が、誰かに対して 

・変えてあげなくちゃ!理解させなくちゃ!教えてあげなくちゃ! 

と感じたする。 

 

そして、相手に色々な働きかけを行う。 

叱咤し激励し、説得し、用意し、世話をやく・・・ 

 

今日は、これが「暴力」だって話。 

ぐぬぬ・・・って話 

 

 

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振り回す人 ~湯婆婆と坊~

2016年05月11日(水) 

テーマ:幸福論

 

メモ:これも反響がけっこうあった投稿。

千と千尋の湯婆婆と坊の関係を使って、

僕らが陥ってしまう人間関係の罠、

そして、その根本にあるひとつの「思い」。

少々長いけれど、ぜひ読んでもらいたい一稿。

***

あの人といると、本当に振り回されて大変だー って人いるよね。

 気分屋で、わがままで、意に反するとすぐに感情的になるし

 言ってることとやってることは大違い。

 そんで、こちらの苦労や我慢なんて気にもせず、

 散々フォローしてあげてるのに、感謝の一言もない!!

 

 そんな人といると、


 疲れるし、こっちのペースを失うし、もー大変。

 そんな人、どうすりゃいい?


 

 

この3年間で、色々と文章を書いてきました。

その中で、人間関係にフォーカスした6本をピックアップ。

 

 

複式簿記と人間関係

2013年04月04日(木) 

テーマ:生活 

 

メモ:確定申告やりながら考えた人間関係の話です。
「自分がされたことは、自分がしたこと」人は立場を変えて
体験を与え合うんだな・・そんな気づきがありました。

 

***

 

僕は、簿記が苦手だ。

会社から習得指示を受けたけど、結局、よくわからないまま。

でも、「借方・貸方」というアイデアには心惹かれる何かがあった。

何かなーと思いつつ、放っておいたけど、

先日、人間関係の話だ・・・ということに気がついた。

 

 

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関係性を変えるコト

2013年06月18日(火) 

テーマ:幸福論 

 

メモ:関係性の原理をベースに人間関係を考えています。
少し哲学的内容なんだけど、じっくり読んでもらえると、
人間関係だけでなく、自分が世界とどうつながるのか?
についてのヒントがあるかもしれません。

 

***


木の棒があるとします。

木の棒は、剣士の手に持たれた時には、木刀になります。

老人の手の中では杖に、そば屋にとっては延べ棒です。

もともと木刀だったわけでも、杖だったわけでも、
延べ棒だったわけでもありません。

 

人間も同じです。

 

 

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家族のテーマ

2013年07月21日(日) 

テーマ:生活 

 

メモ:家族との関係って誰にとってもちょっと複雑。
どこかで許せてなかったり、後悔があったり・・・
そんな家族関係を紐解きます。


***

 

家族というのは、一緒に居て安心する、

遠慮せずに話ができる気の置けない関係・・・

誰にとっても、特別な存在ですよね。 

でも、多くの場合、それだけではありません。 

 

家族は、愛おしくて、恋しくて、暖かい。 

同時に、うっとうしくて、苦しくて、許せない。 

家族とは、とてもとても複雑な存在です。 

 

家族が、複雑で、相反する感情の母体となる理由は 

家族には、自分の人生が「潜在」しているからです。 

 

 

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人生を彩る人間関係

2013年08月11日(日) 

テーマ:生活 

 

メモ:出会いがあって別れがある。

そんなことに切なさを感じたら、読んでみてください。

僕が、大切な人とお別れした時に書いた文章です。

懐かしい。そして、そんな時に出てくる文章は悪くない。


***

 

〜「理想の、ただただ愉しい、何の問題もない日々」が宝物なのではなく、

時に裏切ったり、傷つけ合ったり、心変わりしながらも、

それでも互いを思い、互いの時間を重ねていたこと、

それこそが、宝物なのでしょう。〜

 

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「刑事ドラマの取り調べ」から知る人間関係の秘密。

2014年07月19日(土) 

テーマ:幸福論 

 

メモ:セッションの中で、ご紹介することもある投稿です。
「すどうしゅんの人間関係論」が、一番わかりやすく書いてあるので
おすすめです。今読んでも、面白い!おすすめ!(←しつこい)

 

***

 

刑事ドラマを見ていると 

恐い刑事と、優しい刑事がタッグを組んで、取り調べをする 

・・・というシーンをよく見ます。 

 

あの役割分担ですが、戦略的に採用しているというよりも、 

自然にそうなる・・・ということだと思います。

 

 

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経験を、与え合うこと。

2015年05月11日(月) 

テーマ:幸福論 

 

メモ:「経験の贈与関係」として見た人間関係論。

「被害者・加害者」、「やってあげる側・される側」

という関係性を超えて生きる時、世界が全く違って見えるんだ。

***

最近の気づき。



 人と人の関係というのは、ただ、

 「経験を与え合う」モノだということ。 


 自分が必要な体験があり、相手が必要な体験がある。

 ゆえに、出会い、互いに機会を贈与し合う。 

 

ちょっと行き詰まっちゃたなーって時は、

今、自分が信じてることを、

ぽいっと捨ててしまうってことだよね。

 

社会常識みたいなものから、

スピリチュアルな信念も、ぜんぶね。

 

引き寄せ、ツインレイ、投影、チャクラ、過去生、人類のシフトに、

手放し、断捨離、占星術に、インナーチャイルドに、宇宙の”真理”。

 

自分の世界で”良い”とされてた生き方、

正しいなっと思ってきた教え、信じてきた価値観、

 

ぽいっとね。

 

そしたら軽くなるよ。

そしたら、ようやくスタート地点。

 

それらは、ぜんぶ”ファンタジー”だからね。

ファンタジーは、ある地点までは、連れて来てくれるけど、

手放す日が、来る。

 

そして、ぽいっと捨てると気付くんだ。

 

あれ?

人生に、自分の今日のあり方に、なんの変化もないし、

影響もないじゃんね?

 

いかなる信念も、それが、どれほどに真理に触れていようとね、

これまでの人生が、それを”正しい”と言おうともね

ぽいっとする日が来るんだな。

 

そんで、ただシンプルに、生きてみることだ。

丁寧に今日の1日と、隣にいる人たち、

自分の世界と、自分の時間を生きることだ。

 

すると、何もかもに 理由がなくなる。

理由をつけられなくなる。

説明も解釈も言い訳もできなくなる。

 

現象に意味などない。

旧いも新しいもない。

未熟も成熟も、遅れている人も進んでいる人も、

救う人も救われる人もない。

運命もなければ、導きもない。

 

ただ、毎日がそこにあって

それを等身大の自分が生きているだけ。

 

痛ければ痛がり、悲しければただ泣く。

嬉しければ笑う。

ワクワクしたり、ドキドキしたり。

それをいろんな言葉で”飾り付け”しなくていい。

 

あなたが泣くのは、浄化でもなんでもなく、ただ泣きたいからだ。

あなたが笑うのは、バイブレーションの上昇でもなんでもなく

ただ、可笑しいからだ、生きることが。

 

与えたものを受け取るかもしれないし、そうでないかもしれない

抑圧された感情があるかもしれないし、そうでないかもしれない

あなたは生まれる環境を選んだかもしれないし、そうでもないかもしれない

死んだら生まれ変わるかもしれないし、そうでないかもしれない

宇宙人は真理を語るかもしれないし、そうでないかもしれない

 

それは、どちらでも良いこと。

 

感謝を生きてもよいし、憎しみを生きてもいい。

何もかもが投影だと信じてもよいし、原因を誰かに求めてもいい。

瞑想をしようが、しまいが、どちらでもいい。

自分を愛そうが、どうしようが、それも自由だ。

 

それは、自分が生きることにおいて、どちらでも良いことだ。

あなたが、あなたを生きるために、必要であるのは

それらがどちらであっても、あなたの生を、あなたが生きることだ。

 

そうだな、何かを信じるかわりに、科学的であってみてもいい。

科学的であるとは、仮説を生きると言うことだ。

すべて(この現実の認識すら)が、仮説だと、

便宜的に作られた物語だと知っていて、なおかつ、それを使うってことだ。

 

それは、ひとつの謙虚さを生きるということ。

それは自分を開いておくということ。

オープンエンドであるということ。

 

そうしたら、またいつか、ここに戻ってくる。

その時、今、自分が見ている世界と、

まるっと違う世界で

同じ言葉を使ってる自分がいるよ。

 

最後にちゃぶ台返して悪いけど、

別に、そのままでもいいんだ。

 

今が楽しくて、ワクワクする間は、

余計なこと考えずに進んだらいいよね。

新しい出会い、新しい世界観、新しいアイデア、新しい意味、

そこに新鮮な驚きと、明日への希望があるのなら、

今日のあなたを輝かせるのなら、ただ、それを、学ぶことを楽しんで。

 

そして、なんか、立ち止まっちゃったら、

今、見ている世界を後にする時なのかもしれないね。

 

あなたの人生は、いつだってあなたのためにある。

あなたの旅が、温かなものでありますように。
 

心の旅の水先案内:すどうしゅん

久しぶりに、文章を書いている。

書き出す前から、まとまらない長い文章になるだろうと予測している。

けど、それも、悪くない。

 

最近、いくつかの印象的な出会いがあって、

自分のことを省みる機会を得た。

 

自分が選んできた道を振り返ってみる。

すると、同時に、選ばなかった道のことも考える。

 

僕は、野心家でもなかったし、大きなビジョンもなかった。

特別に秀でた知性も、特殊な能力もなく、情熱も勇気もなく、

年相応の精神性と日本人平均的な惰性をもって、

与えられた場所で、与えられた役割を生きてきた。

 

面白いもので、この与えられた場所で、与えられた役割を生きると

人生は、進んでいく。必要な方向へと。

 

選択って、自発的なものではなく、

偶然にも、川の流れと同じ方向性を志したときに、

それを自分が選択したのだと、錯覚するだけ。

そんな気もするから不思議だ。

 

そんな風に生きていたら、

誰の人生も、どんな人生も、平等に価値があって、

素敵なものなのだと、言えるようになったなー。

それは、僕の重ねてきた日々のひとつの成果だ。

もともと、そう思っている人もたくさんいるだろうから、

僕の旅のお土産ってやつは、ほんとにちっぽけだ。

だいたい、僕が手にした成果ってのは、こんなやつだ。

 

それで、あの頃より、自分が自由で幸せで豊かかというと、そんなこともない。

あの頃も、同じように、自由で幸せで豊かだったからね。

 

だから、僕が旅から持ち帰ったものを見て、

多くの人は、こいつは何をしてたんだ!と思うだろう。

僕も、そう思って、笑ってしまう。

 

人生に、目的も成果もないものね。

ただ、楽しく遊んでればよいのよね。

可笑しいなあ。

 

思えば、人より2年ほど遠回りしながら大学を卒業して、

コンサルティングの会社に入った。

なかなか良い評価をもらったけど、1年半でさようなら〜

 

フリーで、コンサルタントと名乗り、仕事をしながら、

本当にやりたいことってなんだろうと考えた。

そうだなー、心の世界を探求したいな!そう思った。

 

僕の関心は、売上でもないし、ビジネスモデルでもないし、デザインでもなく、

まして、何かしらの事業をやってみたいなんて気もなかった。

会社を大きくするってことにも、社会に新たな価値を生み出すことにも、

一切興味がなかった。

 

もちろん、なんだかすごい人間になりたいとか

それで、周りをアッと言わせてみたいとか

お金持ちになってみたいとか

そういう抽象的な欲望はあったけど。

それよりも、ずっと強烈な希求があった。

 

知りたい。人が生きること、人が関わり合うこと、

幸せだったり不幸せだったりすること、自由に生きるということ。

そして、僕という人間の意識がいかに現実を生成し、

その変容が何をもたらすのか。

それらを知りたいと思った。

自分の意識を、精神性を高めていくとき見える世界を見たいと思った。

 

あー思わなければよかった!!

人生は、それらを学ぶ機会を、これでもかと、くれたよ。

僕は、それに邁進した。

この5年は、それだけをやったし、それしかできなかった。

 

シンプルに言えば、ひたすら悶々としていたって話だ。

軽やかに、美しく悶々としていた。

その間に出会った人たちや経験できたことは、最高に美しくて、

僕は自由に、自在に、悶々としていた。

 

たくさんの旅をしたり、面白い人たちと出会ったり

新しい仕事をはじめたり、いろいろな場所に住んだり、

素晴らしいパートナーと出会い、結婚したりした。

 

ほんといろいろあったけれど、美しい日々だったなー 

こんな日々は二度とできないや。

知らないから進めたんだよね、その先に何があるのか。

 

さて、そんな日々を過ごして、一周して戻ってきたような気もしていて

こっからどーしよーかなーなんて思ってる。

僕も33歳になって、最近出会うのは、同年代や年下の活躍してる人たちだ。

先日も、キラッキラッの大学生が、世界の最先端を生きていた。

わお!ブラボー と思った。

クラウドファンディングで資金を集めて秘密基地を作る若者がいた。

偶然出会った人が、シリコンバレーの経営者だった。

ブログを読んで、すげ〜!!!!と感動した。その視座に、その生き方に。

 

僕が内なる探求をしてる間に、世界はけっこう大きく動いていて

そこで、行動を通じて世界を切り開き、切磋琢磨してた人たちは

なかなか大きな成果を出しているじゃないの!

と、ドキドキしたりした。

 

なんていうか、僕は、心理の世界の探求にせよ、

人生そのものにせよ、情熱を持って目的意識を持って進んでたわけじゃなく、

始まってしまったゲームを降りられずに進んできた感もあるので、

覚悟決めて、意思をもってその道を歩いた人ってすごいや!

と素直に感心している日々なんだ。

 

同じ心理探求をしていた人たちであっても

みんな、ちゃんと「専門家」なんだよね。

技術や能力がすごいって意味ではなく、本気だってこと。

その本気自体がその人自体の魅力になってる。

そして、自然と、やるべきことをやってる。

だからちゃんと事業として、生き方として成立している。

 

僕は、技術的な意味で専門家になるつもりはない。

けど、ためらいなく進んでいこうって思う。

おー当たり前のこと言ってる 笑

 

ここから、どんな風に進めていくのか、それが一番面白いところだよね。

その進め方にこそ、ユニークネスが宿る。

セオリー通りってのが、何よりつまらない。

 

好きなことを、好きなだけしてこう。何一つ、譲らずに。

”これまで”も、”これから”も、さっさと放り投げて、

今、その瞬間に、一番面白いことをしてこう。

 

本当に、なんの結論もなく、なんの学びもない、

ただ長い日記が出来上がってしまいました!

 

それを、ここまで読んでくれたってことは、

あなた、僕のこと、だいぶ好きだと思います。

気づいていなくとも、潜在意識が僕を求めています。間違いない。

僕のファンクラブに入りませんか?

(↑さっそく、20代の子をパクってる)

 

まったく大穴系ですけど、将来化ける可能性もありますので、

今、恩を売っておくと、いいと思います。

絵とか買っておくと、将来、高値で売れると思います。

 

以上!

自分のホームページを見ていたら、セラピーのご案内として、

こんな文章を書いてました。

なかなかいいじゃん!!

 

***

 

今、たくさんの人が、新しい生き方を探し始めています。
もっと自分らしく、もっと自由に、生きたい。
自分の可能性を見つけたい。自分が生きる意味を知りたい。

その衝動は、心の奥深い場所からやってきて、なんども、なんども、ノックします。
それは、時に「ここにいてはいけない」という感覚や、
違和感、焦りや、不安として現れてきます。
心身の不調や、人間関係の問題、家族関係、心身の不調、原因不明のイライラ、
うつやパニックや病、または別離や事故、突然のアクシデントとして経験する人もいるでしょう。

それは、「自分が、新しい生き方へと歩みを進める時期が来た」
ということを知らせるシグナルに他なりません。

その声を聞き取ったなら、旅に出る準備をしてください。
新たな生き方を探す旅。新たな自分に出会う旅。
自分の源流へと還っていく、自分の心への旅が始まります。

自分の中にある、「これまでの生き方」
・・・思い込みや、未完了の体験、恐れ、心の傷、執着や否定的な思い・・・
それらを見つめ、手放していく。自分の中にある叡智と繋がっていく。

その旅は、意識の深い場所へと向かっていきます。

一歩進むごとに、自分が軽くなっていきます。自由になっていきます。
忘れていた夢、情熱が蘇り、今まで自分が、ただ眠っていたのだと気づきます。
自分の中からエネルギーが湧き上がってきます。

子供の頃のことを、思い出してみてください。
悲しいことも、悔しいこともあったけど、ワクワクすることがたくさんあった。
毎日が新しくて、今日はどんなことをして遊ぼうか胸を高鳴らせていた。

僕らがこの旅を通じて向かうのは、そんな場所。
それは、必ず誰もがたどり着ける場所です。
なぜなら、かつて僕らは、そこに居たのですから!

さて、そんな旅に欠かせないのが、水先案内人。
様々な心理テクニックやヒーリングメソッドを通じて、
魂の癒しの旅、そして意識の変容の旅をサポートします。

答えはいつだって、自分の中にある。
必要なのは、踏み出す少しの勇気。
新たな意識へのシフトを開始しましょう。

旅の水先案内人 すどうしゅん

このブログを読んでくれている、受験生・・・は0人だろうけれど、

その親御さんはいるかもね!そしたら、参考になると思うよ。

常々書きたいと思ってたから、書いてみよー

 

先日、高校生と話をしていて、「現代文」の話になったのよ。

現代文、苦手〜・・・特に、小説の主人公の気持ちなんてわからん〜 って話。

 

そうそう!「この時の主人公の気持ちを選択せよ」って問題とか

「作者の言いたいことを書け」とか、現代文で問われるじゃん。

そんで、そんなこと、本人しかわからんよ!ってこと、感じた人いません??

どう感じるかってのは、個人の自由であって、

それに点数つけるとか、正誤を決めるってのは、いかがなものか!

と鼻息荒くしちゃった人、いませんか??

 

実はね、それってトンチンカンな話だったりするんだよね〜

 

なぜ、そういうトンチンカン(ごめんね)な問いが出てきちゃうのかっていうとね、

多くの人が、「現代文は、何を勉強しているのか」ってところを、考えてないからだよ。

 

大学受験までの現代文・・・特に、小説問題が求めていることって、

簡単に言えばね、「運転免許の試験」と同じだよ。

「この標識は、何を意味してます?」・・・はいはい、駐禁ね!

 

これです。

これ以外、見たことないね。学校の先生が適当に作った問題とかは知らんけど。

(もちろん、先生の側が、現代文の意味を分かってないことも多いからね)

 

言葉ってのは、何かを伝えるための道具だよね。

だから「駐車禁止」という文字が並んでたら、

駐車はしてはいけないんだな・・・って、みんなが納得しなくてはならない。

だから「この表現(記号)」=「この意味」ってとこは、全国民共通で、理解しとこう!

ってのが、重要になるわけ。

 

現代文における小説問題は、この共通理解をちゃんと知ってる?

ってことを、テストしてるわけだ。

(・・・良問というのは、そういうもの。もちろん、世の中、悪問はある)

 

例えば、

 

はなのいろは うつりにけりな いたずらに

わがみよにふる ながめせしまに

 

という短歌を読んで、作者の心境を答えなさいと問われたとしよう。

ここで、もし、あなたが、「いたずらってのが、ピンときたから、愉快な気持ち!」と感じたら、

あなたは、感性がおかしい・・・のではなく、「知らない」ってことなんだ。

ただ、「標識」を読めなかったってこと。

 

標識・・・どこにある? それも、知ってる必要がある。

例えば、”はな”だ。

 

僕も、明確に知ってるわけではないけれど、

日本の文学、日本の文化圏、日本の言葉において、

「はな」と言えば、”さくら”。かつ、古文では、ほぼ「さくら」だと言っていい。
違っても”うめ”とかの季節もので、

それは、”花開く歓喜と、散りゆく切なさ”が同居している様が、込められることが多い。

ってのは、知識として持っているし、日本で育つと、こういう感覚を体得することが多いと思う。

 

だから、「花の色」が「色あせていく」という情景だけで、

寂しさや切なさを、読み解くことができる。

そういう選択肢を選べばいい。

 

もちろん、人によって、花=ひまわり=元気!な人もいるけれど

・・・ここ重要よ・・・この短歌の”はな”をひまわり で読んだとしたら、間違いなわけ。

それは「駐停車禁止」を「駐車禁止」と間違えたようなもの。

 

単純かつ明確に、議論の余地なく、「標識の理解を間違えた」ってことです。

それは、感性の問題じゃないよね。知識の話。

俺にとっては、これは駐車禁止であって、停車はオッケーって話をしても、無意味。

どんなに「解釈は個人の自由だ!」と言っても、切符切られるわけ。

そこは、自由じゃないから。

 

はな=ひまわり として、読んでも良いけれど、

それが、「自分なりの解釈」であることを、知っておけばいい。その感性は自分のもの、

それを大切にしていけばいい。

だけど、テストで問われているのは、「多くの国民の共有した知見」なんだ。

 

小説で問われているのは、表現や言葉についての、日本語に共通した言い回しや、

何を意味している記号なのかについての理解度・・・なので、テストできるし、点数化できる。

そして、それ以外の感性は、点数化できないから、問われてないって話。

 

この現代文の勉強は、勉強するしかないのよ。

単純な知識だから。感性で「運転免許の筆記試験」は解けない。

 

勉強どうやる?

「こういう気持ち」を「こういう言葉や表現や言い回し」で描くんだー

っていう、事例をストックしてくしかないよね。

小説でも、短歌でも、あ、J-popの歌詞とかもわかりやすいよね。

 

現代文って、一番大事なとこだと思うんだなー。

つまりね、あなたが自分の言葉で、誰かに何かを伝えたい時に、

どんな言葉を選択したら、あなたの中のイメージが相手に伝わるのか

それを、学んでるってことなんだから。

 

以上、昔から、友達を捕まえては、してきた話でした〜

ちゃんちゃん!

 

 

こちらにも、告知!


絵のワークショップをやります。
僕が10年以上こつこつやってきた独自の技法「トランス・ペインティング」(と格好よく名付けてみました)。この技法は、絵画制作の技法であると同時に、ヒーリングやアートセラピーの技法、気づきの技法としても大変面白い効果があります。

 

何かを描写したり、イメージを形にしていくのではなく、心を空っぽにして、自分の深い意識とチャンネルを合わせていきます。すると、腕がひとりでに描きだす。
「自分」を超えた何かが描いていくのに立ち会い、その生成の瞬間に立ち会うこと。その中で、自分の中に様々な感覚や感情が出てきて、自己との対話が始まるかもしれません。ワクワクです!

 

当日は、トランスパーソナリティ(自己を超越すること)、創造と生成、などについての講座や、準備として瞑想やボディワーク、エネルギーワークもやりますよ〜!実は、ここだけでも、大いに楽しんでいただける内容ですっ♪
「自分」を超えたモノを体感し、チャネリングによる絵画制作のノウハウを学ぶ1day ワークショップ。

 

絵を描くのが好きな人、絵を描くことに興味がある人、ただワクワクしてみたい人、ぜひ、遊びましょう!

 

日程: 10月22日 10:00〜16:00
人数:10〜15名程度を予定していま〜す!
参加費:15000縁
場所は、都内のどこか!人数によって場所を決めまーす!


詳細はコチラ
<a href="https://www.facebook.com/events/219802721768170/">FB内イベントページ</a>

 

参考作品はコチラ
<a

href="http://sudoshun.com/artwork/">HPの作品ページ</a>

 

 

*** FBに掲載した文章も載せておきます***

 

【僕は、絵が下手だから、絵が描けるんだ】
絵だけは、ダメだな〜って思ってた。
思ったとこに、線が描けないんだよなー、ぜんぜん。
絵に触れる機会だけはたくさんあったから、そのアドバンテージのおかげで、子供の頃から「絵が描ける人」的な評価をされることもあったけど、自分では、本当はうまくないってことを、よくわかってた。

それも思い込み・・・てわけではない。
イラスト的なものを描かせたら、一発でわかるんだよね〜まぢで、ダメ。

だから、絵以外のクリエイティブをいろいろ試したよ。
小説を書いたり、音楽を作ってみたり、詩をかいてみたり。
んー・・・ぐぬぬ・・・って感じ。

そんなある日、偶然に手に入ったスケッチブックに、なんのことはなく、線を引き始めた。いつもどおり、思ったところに引けない。けど、その時は、ふいに、こんな感覚がやってきた。
「書かれた線の方が正しくて、自分のイメージの方がずれてんじゃん?」
これが、ブレイクスルーだった。

「出て来た線」の側、に”一任”してみると、見たこともないし、イメージしたこともない”絵”ができあがった。
僕は、その絵をすごく愛おしく思った。

わかったこと。それは、
「イメージとずれてしまうからこそ、
自分のイメージ(自分の想像力)の外側に行ける」ってこと。
あれ?それって、すべてに言えることじゃん?
僕は、その瞬間に、深く得心した。
起こったことに、真実がある。そこに、すべてがある。
「そうではない!」「こんなはずじゃない!」「本当はこうあるべきなのに!」っていう自分の思いの方に、ずれがあるんだよね。描いてしまう”手”が、描かれてしまった”線”の側が、真実を語ってるように、人生に起こる出来事に、今、自分の眼の前の状況に、真実はあるんだ。

何かが、うまくできないのなら、それは、祝福なんだ。
その時、僕らは、自分で決めた「正しさ」を越えていくことができる。自分の想像力の外側に、たどり着くことができる。

トランス・ペインティング(仮)は、そんなことを、
”体感的”に学べるテクニックだと思う。
絵は苦手・・・そんな人こそ、可能性がひらくかもしれません。

 

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I saw the angel in the marble and carved until I set him free - Michelangelo(私は、大理石の中に天使を見いだし、彼を自由にするまで彫り続けた by ミケランジェロ)

僕はこの話が好きで、時々思い出す。このエピソードは、何かを生み出すということの本質に触れていると思うんだ。これから生み出されるモノ(まだ存在しないモノ)が、生み出し手(わたし)を創り出す。まだ存在しないモノからの呼び声に呼応したとき、僕らは自らの中の未知への旅を始めるんだ。

 

ミケランジェロが自由にしたのは、天使?
そう、きっと自分の中の天使。僕らは、創造=「向こう側からの呼びかけに応えること」をつうじて、自らを大理石の中から解き放つんだよ。白い一枚の画用紙に誘われて、自分を解き放ってみよう!


参考作品はコチラ
http://sudoshun.com/artwork/


 

ここ何年かメンタルサポートを担当させてもらっている企業の従業員の皆さんへ、「お知らせ」を書いたんですけど、これがなかなか、まとまっとりますんで、こちらにも転載〜

 

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心理コンサルティングのご案内

 

セラピストの須藤峻です。これまで、カウンセリングという枠組みでセッションをやってきましたが、今後「心理コンサルティング」というコンセプトを軸にした内容もご案内します。

「心理コンサルティングって何?」、そして「なぜ効果が出るの?」というのを、今日は書いてみようと思います。その好例として、若き日(・・と言ってもまだ若いですけど)の僕のことをとりあげてみたいと思いますちょっと長いですけれど、ぜひ読んでみてください!

 

大学を卒業し、会社勤めをしていた僕は、日に日に、もっと自由に生きられないものか、もっと自分らしい場所で働けないものかと感じるようになり、善は急げとばかりに会社を辞めました。はじめは良かったです。いつどこで誰と何をしても良いんですから、「自由を手にいれた!」と思いました。けれども、次第に、そうではないことがわかってきました。

 

いつも何かに追われていて、なんだか小間使いのよう。自分で集めたはずのPJチームのメンバーには振り回され、イライラしっぱなし。思ったような”自由自在の境地”には程遠いのです。僕は考えました。どこに原因があるのだろう?いろいろ改善を試みる中で気がつきました。自分が作る人間関係がいつも”主従関係”になってしまっているので、すべては後手後手、頼まれ仕事で手一杯になっているのだと。そこで僕は、人間関係をより対等で生産的なものにしよう、自分を変えようと頑張りました!

 

けれど、結果は、望んだものにはなりません。一時的に改善しても、気がつけば元どおり。なぜ?

今なら、その理由がわかります。そもそも、「変えよう!」と思って変えられるくらいなら、もともとできているんですよね。そう「行動」を変えたければ、「意識」という本質から変えなくてはダメなんです。それも、意識の深部にアプローチしない限り、変化は起きない。行動は蛇口から出る水のようなもの。水質を変えたければ、貯水槽、いや水源から変えることが重要なんです。そうすれば「行動を変えよう」なんて思わずとも、自然に変化が生まれてくる。

 

さて、僕の水源には、何があったのでしょう。僕は、心の中でいつも「優秀な人間に見られたい」と、思ってました。そうじゃなきゃダメだ、そういう人間にこそ価値があるんだと。本当は自信がなかったんです。何に?自分の生き方に。それを見透かされないように、日々走ってた。自分がそう思っていることにすら気がついていませんでした。優秀に見られたいという欲求の背後にあるのは、「そのままの自分では、ダメだ」という感覚です。だから、「あるべき自分」を一生懸命やっていたわけです。

 

機転が利き、物分りがよく、共感でき、人の意見をちゃんと汲み、感情的にならず、いつも機嫌がよく、向上心を持ち、ユーモアがあって・・・無意識のうちに、そういう人間を目指そうと思っていたし、それが正しいと思っていました。そうやって「人格的な向上」を図ることが、人間関係をより良くし、周りにも有益な人間になることだと思っていた。さて、そうやっていると、何が起こるでしょう?

 

機転が利かず、物分りが悪く、共感力に乏しく、向上心がなく・・・自分の周りが、そんな人ばかりになってしまったんです。これ、当然なんです。「そういうのは、ダメだ!」と思っているんだから、誰かのそういう要素がすご~く目に付く。そして、それは口に出さなくとも相手に伝わるんですよね。だからやっぱり人間関係が悪くなる。自分がより自由に、ハッピーに生きること、暖かで生産的な人間関係を目指すはずが、気づけば、嫌いな人をせっせと作っている。なんじゃこりゃ!

 

そこで、気がついたわけです。僕はどこかで大きく道を踏み違えたなと。そしてわかったことは、進む道は真後ろにあった。自由と幸せ、そして生産的な人間関係を作り、結果として自分の周りの人、チームのメンバーを自由にし、幸せにし、その人の良さを引き出したいのなら、逆の道をゆけばいいんです。より良いを目指すのとは正反対、山登りではなく山下りの道です。それは、等身大の自分、自分の感情、自分の感覚、自分の正直な赤裸々なすべてを認めていくという道。ここ、ものすごく重要なのですけれど、「それをしない限り、自分の周りには常に問題が起こり続け、自分を悩ませる状況や人が存在し続ける」ということなんです。もちろん、自分がそれを率先して作り出してしまうからです。

 

とてもシンプルな道筋が見えてきますね。「あるべき自分」を、手放していく。すると、日常も仕事も人間関係もシンプルで自然なものになっていきます。問題をわざわざ作り出すことがなくなっていきます。らく~になっていきます。そして、これまで登山に使ってきたエネルギーを別のことに振り分けることになるので、生産性が高まります。圧倒的に。チームワークも最適化されますし、より自分が自分らしく、より自由に、よりハッピーに、よりパワフルに生きられるようになります 。面白いもので、頑張るのをやめた時、人は一番パワフルになるんです。

 

さて、原理はシンプル、ですけど、なかなか実行に至らなかったりします。理由は、誰もが「自分は自然に生きている」「自分は生きたいように生きている」と思っているからです。僕もそうでした。自分が自分を縛っていることに、気がつかなかった。そして人間関係、家庭や職場でストレスを感じていても「人生、こんなものだ」とか「仕事なんだから」とか「みんなも同じ」とか「楽しいことがあれば、苦しいこともあるのが人生」なんて思っているかもしれません。YES、それも一つの道です。けれど、ひょっとして別の道もあるのかな?と思ったら、ぜひ一度お会いしましょう。

 

僕がお伝えしているのは、すっ転んだり、道を間違えたり、大怪我したり、遭難しかけたりと、本当にいろいろやりながら僕がたどり着いた方法論です。いうなれば「山下りのテクニック」。ダウンヒルには、登るのとはまったく違うノウハウがあって、それはやっぱり特殊スキルになります。

 

チームのコミュニケーションを最適化したい、仕事のストレスや対人関係の問題を解決したい、パフォーマンスを向上させたい、より自由に自分らしく生きたい、誰かの支援をしたい、心理の世界を学んでみたい、なんか面白そう!・・・そんなことを感じたら、ぜひお申し込みください。
 

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面白そう!と思った方は、ぜひ、メッセージくださいね〜
僕のホームページから、どうぞ〜
http://sudoshun.com/


 

大学の頃、短歌の授業をとっていて、短歌なぞ書いていた。

というより、皆さんの短歌を感心しながら聴いていたってのが本当。

そこで、印象に残っているのが、
「短歌の方が、自由詩よりも、自由だ」ということ。

・5/7/5/7/7

と決まっているからこそ、自由なんだ。そう先生は言った。

直感的に「その通り!」と思った。そのことを、書いてみる。

 

人間の想像力って、ある種の「限定」をつけられた時に、

最高に発揮されるってのは、確かなことだと思う。

ひとつ例を出したい。

 

ライム(韻)ってのがある。

ラップとかで韻を踏むやつね。

たとえば、ミルクとシルク。

(やべー センスがない! 笑)

 

言葉って、”響き”と”意味”の二重構造になってる。

響きのことをシニフィアン、意味のことをシニフィエなんて呼んだりする。

そんで普段、僕らは言葉を「意味(シニフィエ)が近いモノ」で
ひとまとまりにしてる。

たとえばミルクだったら、コーヒーとひとつのまとまりになってたりさ。

 

ミルクとシルクは、「意味のまとまり」の規則で動くいつもの頭じゃ、

くっつかないんだけれど、「響きのまとまり」というモードにした時に、

はじめてひとつになる。そして、新しいイメージを創り出す。

通常の想像力では、決してたどり着けないイメージ。

 

そうそう、不思議の国のアリスの翻訳を比較する・・・
というメルヘンな授業もとってたんだけど

アリスってのは、この”シニフィアンのつながりによって生まれてしまう
不思議なイメージ”の連鎖で構成されている。

有名なのは、

・ネズミ:“Mine is a long and sad tale”(僕のは長くて悲しい話(tale)なんだ)

・アリス:”it is a long tail,certainly”(確かに、長い尻尾(tail)ね)

とかね。

意識的な感覚ではたどり着かない不思議な世界・・・

そう、「不思議の国」ってのは、つまるところ、「無意識の国」なわけ。

アリスの魅力のひとつが、ここにあると思うよね。

 

さて、話を戻そう。

僕らの通常の想像力、いつもの自分、顕在意識、マインド・・・が、

たどり着けない場所に、たどり着くこと。

それが、「自由」なんじゃないかな。

 

自由とは、自分(エゴ、限定された意識)から自分を解放すること。

自由とは、「私」の不在に現れるもの。

 

さて、何を書きたかったかというとさ、

自由と「制限」っていうのは、対義語じゃないってこと。

ルールや決まりごとが、いつも自由を阻害するってことじゃないわけよね。

 

「韻を踏む」っていうひとつのルールや、語数の決まりが、

僕らの想像力、常識や発想を超える契機として機能してる。

そのルールを採用することによって、自由が生まれてくる。

不思議なんだけど、それは自由についてのひとつの性質を捉えていると思うんだ。

 

もし、自由が、「ルール」や「決まりごと」や「制限」を完全になくすこと

であるのなら、僕らは、それをどこかで諦めざるを得ないことになる。

空を飛べない とか 水の中で生きられない とか

眠らなくてはいけない とか いつか死ぬ とか

この生に与えられている条件は、決してなくならなくて、

それだから「不自由」って言おうと思えば、永久にその対象に事欠かないからね。

 

だから、自由とは、そういうモノの先にある状態のことではないはずだ。

 

自由とは、「縛られていない状況」のことじゃない。

自分の「すべてが思い通りになる」ってことでもない。

むしろ「思い通り」っていうのが、もっとも不自由な状態とも言えるよね。

だって、自分の想像力の範疇=自分のエゴの内側にとどまることだからさ。

 

だから、「思い通りにならないモノ」に直面している状態こそ、
最高に、自由ってこと。

 

アリスは、不思議の国で「自由」を得ている。

不可思議な事件に巻き込まれ、不可思議なルール、自分のさっぱりわからない、

さっぱり思い通りにならない世界を生きる中で、

アリスは、彼女の常識・・・西洋の上流階級の常識的な価値観・・・
の外に、連れ出される。

そこに自由がある。

 

自分にとって、不可思議で、理解不能で、非常識で、
不合理な出来事の只中にいるとき、僕らは、自由だってことなんだ。

 

その状態だけが僕らを、自分の常識、思い込み、信念から解放してくれる。

それを「変えなければ(=思い通りにしなければ)いけない」と、

判断している「エゴ」からの解放を促してくれる。

 

もちろん、エゴが悪いわけでも、変えようとすることが悪いわけでもないよね。

だけどさ、それだけでは、結果「変わらない」と思うんだよね。

自分が変わっていないから。

 

問題だと見なす自分を、なくすこと。

これが、「問題」への基本アプローチだ。

 

・解決ではなく、解消。

 

なぜなら、それを「変えなくてはいけないもの」だと見なして奮闘すると、

”敵”は、もっと強くなるしかない。

”問題”は、さらに複雑化し、難問化することになる。

(変えなくてはいけないモノ・状況=敵(制限・抑圧するモノ))

 

すべてのモノ・コトは、同じだけの正しさを持ってるからさ、

自分の理路を強く鍛えれば、同じだけ相手の理路を鍛えてしまうんだよね。

 

資本主義と共産主義、右翼と左翼、リベラルと保守・・・

”理論”のレベルでは、互いが、互いを鍛えあっている。

どちらかが正しいという結論が、絶対に出ないということだけは、
みんなわかってる。けれど、戦いをやめられない。

 

だ・か・ら、”無敵主義”しかないんだよな、ヤーマン!!

それを”敵”だとみなし、”制限”だとみなし、変えようとするのではなく、

敵だと見なす自分を超えていくこと。それを制限だと見なす自分を超えていくこと。

しがらみから自由になろうとすると、自分を絡め取ろうとする力はより強くなる。

離れようとすれば、執着されることになる。

それは、当然の成り行きってことなんだよね。

 

「『敵』に攻撃されている自分=何か・誰かによって、制限されたり、
抑圧されている自分」っていう発想をやめること。なかなか難しいけれどね。

・〜のせいで、〜ができない

を卒業しよう。きっと、それをやりきるなら、やりきったなら・・・

いや、やりきったからこそ、卒業できる。

 

すべては、敵ではなく、味方・・いや違う、

敵と味方という区別など、そもそも存在し得ないってこと。

 

自分を、必要な場所へと導いてくれるための契機。

すべては、自分がより包括的・統合的な自分になっていくためのチャンス。

そんな風に生きるとき、僕らは、いつだって自由だ。

 

* * *

〜長いあとがき 〜

 

自由というトピックについて、ひとつの視点を言葉にしてみた。

「自由、自由、と口にする人は、あんまり自由そうじゃない」

誰かにそう言われて、そうかもなー と思った。

本当に自由な人は、きっと、それを考えることすらないのだろうから。

 

僕は、いつだって自由を追ってきた。

僕は、自由に生きている?

「自由に向かってる」ってのが、答えかな。

 

総じて、僕は不自由を感じることが、とっても多かったんだろう。

だからこそ、「自由」になりたい!と切に願って生きてきたからさ

自由ってなんのことか、どうやってたどり着くのか、ようやく見えてきた気がするよ。

 

自由とか、幸福とか、豊かさってのは、ゼロサム。

自由なのか、不自由なのか。その二択。幸せと不幸せの二択。

人生、良いこともあれば、悪いこともある・・・なんてことは、ない。

 

良いと悪いを作り出している意識と、良し悪しを超えた意識の二択ってこと。

良いも悪いも一切ないってことに気がついたら、人生には良いことも悪いことも
なくなる。

 

同じ。

 

自由と不自由を作り出している意識のレベルにいる限り、

僕らは、不自由を生きるってことだ。

どれだけ、自分を不自由にするものを身の回りからなくしても、自由にはなれない。

自由は、そのレベルにはないから。

自由とは、「自由」と「不自由」が存在しないレベルに行く以外に実現できない。

これは、構造的なことなんだ。

 

本当は、観念を手放す必要も、未完了の感情を解放する必要もないんだよ。

だけど、そのことに気がつくためには、それらの作業が必要だったりする。

 

僕らは、本当は、完全に自由だ。

だけど、そのことに気がつくために、不自由という体験をしているんだろう。

それを不自由さと感じる体験と呼んだ方が正確かな。

 

そこからしばらく不自由を手放していくっていう作業をするんだろう。

そして、どこかで、自由と不自由を超えた場所に、意識をシフトする。

 

「自由に向かっている」という僕の認識は、このあたりにある。

まだまだ、自由と不自由を分けて感受している自分がいる。

だけど、もう少しかなー もう少し!

と言いつつ、全然だったりして!! 

 

僕の自由への旅は、まだまだ続いていきそうです!

読んでくれてありがとう。