自由に生きる 〜自由とルールについての小考察〜 | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

大学の頃、短歌の授業をとっていて、短歌なぞ書いていた。

というより、皆さんの短歌を感心しながら聴いていたってのが本当。

そこで、印象に残っているのが、
「短歌の方が、自由詩よりも、自由だ」ということ。

・5/7/5/7/7

と決まっているからこそ、自由なんだ。そう先生は言った。

直感的に「その通り!」と思った。そのことを、書いてみる。

 

人間の想像力って、ある種の「限定」をつけられた時に、

最高に発揮されるってのは、確かなことだと思う。

ひとつ例を出したい。

 

ライム(韻)ってのがある。

ラップとかで韻を踏むやつね。

たとえば、ミルクとシルク。

(やべー センスがない! 笑)

 

言葉って、”響き”と”意味”の二重構造になってる。

響きのことをシニフィアン、意味のことをシニフィエなんて呼んだりする。

そんで普段、僕らは言葉を「意味(シニフィエ)が近いモノ」で
ひとまとまりにしてる。

たとえばミルクだったら、コーヒーとひとつのまとまりになってたりさ。

 

ミルクとシルクは、「意味のまとまり」の規則で動くいつもの頭じゃ、

くっつかないんだけれど、「響きのまとまり」というモードにした時に、

はじめてひとつになる。そして、新しいイメージを創り出す。

通常の想像力では、決してたどり着けないイメージ。

 

そうそう、不思議の国のアリスの翻訳を比較する・・・
というメルヘンな授業もとってたんだけど

アリスってのは、この”シニフィアンのつながりによって生まれてしまう
不思議なイメージ”の連鎖で構成されている。

有名なのは、

・ネズミ:“Mine is a long and sad tale”(僕のは長くて悲しい話(tale)なんだ)

・アリス:”it is a long tail,certainly”(確かに、長い尻尾(tail)ね)

とかね。

意識的な感覚ではたどり着かない不思議な世界・・・

そう、「不思議の国」ってのは、つまるところ、「無意識の国」なわけ。

アリスの魅力のひとつが、ここにあると思うよね。

 

さて、話を戻そう。

僕らの通常の想像力、いつもの自分、顕在意識、マインド・・・が、

たどり着けない場所に、たどり着くこと。

それが、「自由」なんじゃないかな。

 

自由とは、自分(エゴ、限定された意識)から自分を解放すること。

自由とは、「私」の不在に現れるもの。

 

さて、何を書きたかったかというとさ、

自由と「制限」っていうのは、対義語じゃないってこと。

ルールや決まりごとが、いつも自由を阻害するってことじゃないわけよね。

 

「韻を踏む」っていうひとつのルールや、語数の決まりが、

僕らの想像力、常識や発想を超える契機として機能してる。

そのルールを採用することによって、自由が生まれてくる。

不思議なんだけど、それは自由についてのひとつの性質を捉えていると思うんだ。

 

もし、自由が、「ルール」や「決まりごと」や「制限」を完全になくすこと

であるのなら、僕らは、それをどこかで諦めざるを得ないことになる。

空を飛べない とか 水の中で生きられない とか

眠らなくてはいけない とか いつか死ぬ とか

この生に与えられている条件は、決してなくならなくて、

それだから「不自由」って言おうと思えば、永久にその対象に事欠かないからね。

 

だから、自由とは、そういうモノの先にある状態のことではないはずだ。

 

自由とは、「縛られていない状況」のことじゃない。

自分の「すべてが思い通りになる」ってことでもない。

むしろ「思い通り」っていうのが、もっとも不自由な状態とも言えるよね。

だって、自分の想像力の範疇=自分のエゴの内側にとどまることだからさ。

 

だから、「思い通りにならないモノ」に直面している状態こそ、
最高に、自由ってこと。

 

アリスは、不思議の国で「自由」を得ている。

不可思議な事件に巻き込まれ、不可思議なルール、自分のさっぱりわからない、

さっぱり思い通りにならない世界を生きる中で、

アリスは、彼女の常識・・・西洋の上流階級の常識的な価値観・・・
の外に、連れ出される。

そこに自由がある。

 

自分にとって、不可思議で、理解不能で、非常識で、
不合理な出来事の只中にいるとき、僕らは、自由だってことなんだ。

 

その状態だけが僕らを、自分の常識、思い込み、信念から解放してくれる。

それを「変えなければ(=思い通りにしなければ)いけない」と、

判断している「エゴ」からの解放を促してくれる。

 

もちろん、エゴが悪いわけでも、変えようとすることが悪いわけでもないよね。

だけどさ、それだけでは、結果「変わらない」と思うんだよね。

自分が変わっていないから。

 

問題だと見なす自分を、なくすこと。

これが、「問題」への基本アプローチだ。

 

・解決ではなく、解消。

 

なぜなら、それを「変えなくてはいけないもの」だと見なして奮闘すると、

”敵”は、もっと強くなるしかない。

”問題”は、さらに複雑化し、難問化することになる。

(変えなくてはいけないモノ・状況=敵(制限・抑圧するモノ))

 

すべてのモノ・コトは、同じだけの正しさを持ってるからさ、

自分の理路を強く鍛えれば、同じだけ相手の理路を鍛えてしまうんだよね。

 

資本主義と共産主義、右翼と左翼、リベラルと保守・・・

”理論”のレベルでは、互いが、互いを鍛えあっている。

どちらかが正しいという結論が、絶対に出ないということだけは、
みんなわかってる。けれど、戦いをやめられない。

 

だ・か・ら、”無敵主義”しかないんだよな、ヤーマン!!

それを”敵”だとみなし、”制限”だとみなし、変えようとするのではなく、

敵だと見なす自分を超えていくこと。それを制限だと見なす自分を超えていくこと。

しがらみから自由になろうとすると、自分を絡め取ろうとする力はより強くなる。

離れようとすれば、執着されることになる。

それは、当然の成り行きってことなんだよね。

 

「『敵』に攻撃されている自分=何か・誰かによって、制限されたり、
抑圧されている自分」っていう発想をやめること。なかなか難しいけれどね。

・〜のせいで、〜ができない

を卒業しよう。きっと、それをやりきるなら、やりきったなら・・・

いや、やりきったからこそ、卒業できる。

 

すべては、敵ではなく、味方・・いや違う、

敵と味方という区別など、そもそも存在し得ないってこと。

 

自分を、必要な場所へと導いてくれるための契機。

すべては、自分がより包括的・統合的な自分になっていくためのチャンス。

そんな風に生きるとき、僕らは、いつだって自由だ。

 

* * *

〜長いあとがき 〜

 

自由というトピックについて、ひとつの視点を言葉にしてみた。

「自由、自由、と口にする人は、あんまり自由そうじゃない」

誰かにそう言われて、そうかもなー と思った。

本当に自由な人は、きっと、それを考えることすらないのだろうから。

 

僕は、いつだって自由を追ってきた。

僕は、自由に生きている?

「自由に向かってる」ってのが、答えかな。

 

総じて、僕は不自由を感じることが、とっても多かったんだろう。

だからこそ、「自由」になりたい!と切に願って生きてきたからさ

自由ってなんのことか、どうやってたどり着くのか、ようやく見えてきた気がするよ。

 

自由とか、幸福とか、豊かさってのは、ゼロサム。

自由なのか、不自由なのか。その二択。幸せと不幸せの二択。

人生、良いこともあれば、悪いこともある・・・なんてことは、ない。

 

良いと悪いを作り出している意識と、良し悪しを超えた意識の二択ってこと。

良いも悪いも一切ないってことに気がついたら、人生には良いことも悪いことも
なくなる。

 

同じ。

 

自由と不自由を作り出している意識のレベルにいる限り、

僕らは、不自由を生きるってことだ。

どれだけ、自分を不自由にするものを身の回りからなくしても、自由にはなれない。

自由は、そのレベルにはないから。

自由とは、「自由」と「不自由」が存在しないレベルに行く以外に実現できない。

これは、構造的なことなんだ。

 

本当は、観念を手放す必要も、未完了の感情を解放する必要もないんだよ。

だけど、そのことに気がつくためには、それらの作業が必要だったりする。

 

僕らは、本当は、完全に自由だ。

だけど、そのことに気がつくために、不自由という体験をしているんだろう。

それを不自由さと感じる体験と呼んだ方が正確かな。

 

そこからしばらく不自由を手放していくっていう作業をするんだろう。

そして、どこかで、自由と不自由を超えた場所に、意識をシフトする。

 

「自由に向かっている」という僕の認識は、このあたりにある。

まだまだ、自由と不自由を分けて感受している自分がいる。

だけど、もう少しかなー もう少し!

と言いつつ、全然だったりして!! 

 

僕の自由への旅は、まだまだ続いていきそうです!

読んでくれてありがとう。