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須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

はてなブログを始めました。

アメブロでは「現実2.0」といったような、新しいコンセプトや心理の話、哲学の話をしてきました。新しいブログでは、「心のこと」というより「須藤峻」という人間のことを深めていきたいと思っています。

みなさん、ぜひ、フォローお願いいたします。

 

http://sudoshun.hatenablog.com/entry/2017/10/03/165809

どれだけ、自分を見つめて、自分を許し、世界を愛し、
自在に生きることができるようになってもね、必ず僕らは死ぬ。
きっと事故るし、理不尽な仕打ちを受ける。誤解され、裏切られ、大切な人を失う。
うまくいかないことが、やってくる。


だから、「良いこと」や「望んだこと」に
囲まれている状況を目指しているのなら、僕らは、永久にゴールできない。


ってことは、心理を学んだり、自分を見つめるってことの目的・・・大きく言えば生きるということの目的は、
「人生を良いことで、満たすこと」や、「うまくいくこと」じゃないんだよね。
 

じゃあ、なぜ僕らは学ぶ?
なぜ、僕らは自分を見つめ、自分を許し、自分を愛そうとしている?
 

僕は「幸せに生きる」ためにそれをしているな。
僕がやってきたことは、そこに尽きる気がする。
 

人生には、いろんなことが起こる。
そりゃ、うまくいってる時は、幸せさ。
だけど必ずやってくる、大切な人を失い、信じていた人に裏切られ、突然の天災に巻き込まれ、家族と分かり合えない時。そんな日々を、「不幸せ」とするのなら、
人生、必ず、不幸せになる運命を辿ってるようなものだ。
 

であるなら、答えは見えてくる。
いかなる日々をも、幸せに生きること。
もちろん、嘆き、悲しみ、恨み、妬んだっていい。
それこそ、人生の本質かもしれないもんね。
 

けれど、ずーっとその中に居たい人は、稀有。
きっと僕らは愛を、許しを、求めて歩き出す。
 

それが心の旅の目的地かな。
 

ギフトを受け取ること。
人生がくれるギフトを、受け取ること。
別れも、誤解も、不寛容も、その全てをギフトとして受け取ること。
 

それが、生に、主体的に関わることだと、僕は思う。
そして、主体的に関わる限り、心の中、その深い場所に、
いつも幸せが息づいている。

許せない

よくね、全てを許すこと!
自分を許すこそ!
そうすれば、全ては変わるって言うじゃんね。

俺も良く書いていたし、ちょい前の投稿も
それを結びの言葉にしていたもんね。

けど、ごめん。
それ嘘だわ!嘘ついてた!

許せないわ!!

俺、許したことなんてないんだもん。
誰のことも、許したことなんてないもんな。

だってさ、「許しようがない」んだよ。
そこに、「許されなくてはいけない人」がいないから。
「許されなくてはならないモノ」なんて、
そもそも、ないからさ。

一昨日書いた、パートナーの
「カバンの中のじゃら錢とパンツと謎のクリーム混在現象」に出会うのを、日々楽しみにしている状況に、
「許し」なんて入り込んでないわけ。

だからさ「許す」とか「許さない」とか「許そう」とかって、何の話だっけ?

許したくても、許しようになくない?

つまり、「許そう」としている時点で、
ズレてるってことだよね。

許さない= 嫌いな食べ物を、拒否する。
許す = 嫌だけど、食べることにする。

両方、嫌じゃん。そんなん両方、辛いもん。
人間、辛いことは、やらないよ。

好きになっちゃう!

これが正解。その食べ物、好きになっちゃったんだから、
「許す」と「許さない」は、無意味でしょ?

え?そんなんできない?

それは”嘘”だね。
だって、好きと嫌いは、同じモノだから。
嫌いなモノを、僕らは、本当は心底愛しているわけ。

だから、100%それを好きになれる。
時間の問題。
そう、それを認めちゃうだけ!
好きになるのを、許せばいい・・・

許せるじゃん! 笑

「許可」ってことなんだよね、許すって。
「OK、認めちゃお!」って感じ。
ゴッメーン、本当は、それやりたかったの〜ん!
けど、恥ずかしくって認められなかったの〜ん!
って感じ。

「許すこと」を、「嫌いなモノを受け入れる」的なイメージで使っていると、反対方向に進んじゃうのよね。

「嫌いなモノを、嫌いなまま、受け入れる」
ってのは、無理。不可能。不必要。
「嫌い」を固定している限り、辛い。

誰かを「許そう」としたのなら、
まず自分が見つけた「その人の罪」を見つけることだ。

「裁判長、あいつは、何の罪でしょう?」
「怠惰!」

そしたら、「もっとのんびりしたいのか〜自分!」ってわかるじゃん。そしたら、罪人の「のんびり人間」を許せないor許す・・・の地平は消えて、「のんびり人間万歳」になる。

好きになる。

ほら、好きな人を、許しようにない。
僕らは、許すなんて高慢なこと、できやしないよ。

「あなたのこと、好き」、それだけ。
残るのは、それだけ。

 

→ さらに詳しくは! 現実2.0の世界観 を読んでくださ〜い!!

facebookに書いた記事を、まとめつつ、最終章を書くよ。

僕らは、自由に生きたいと願う動物だ。
それを自覚していなくとも、不自由な場所にいるときに、
痛切に、自由であることへの希求を感じざるを得ない。

そんな僕も、いつの日も、考えてきた。
どうやったら、自由に生きられるだろう?
いろんなことを、やった。
20代。さっさと会社をやめて、自分で仕事を始めた。
フリーのコンサルタント。好きなように仕事をさせてもらった。
自分が提案して、自分が会議のスケジュール作って、進め方からデザインまで、
好きなように、やらせてもらった。

それでも、僕は、もっと自由になりたかった。

そこで、哲学や心理学を直に仕事にすることにして、
カウンセラー、セラピスト・・・と呼ばれるような仕事を始めた。
その世界は、もっと自由だった。

それでも、僕は、まだまだ自由になりたかった。

だから、自分自身に心理カウンセリングをしつつ、
自分を縛るルール、良し悪しの基準も、未完了の感情も手放してきた。
けれども、どこまでいっても、惜しい感じ・・・
そう、自由な一日もあれば、そうでない瞬間もある・・・。

そこで、満足する手もあったかもしれない。
「そんなものさ!」ってね。
みんなで暮らしているのだから、「完全な自由」なんてものは、手に入らない。
考えてみれば、当たり前のことじゃない?
そんなことにこだわらずに、生きた方が、ずっと”自由”じゃない?

100%の自由を求めるという、幻想に囚われていることこそ、
落とし穴なのかもしれない・・・・

けれど、僕は、なんだかそれに納得できなくて
そこから、やっぱり毎日考えた。
考えては、実践し、考えては、実践し・・・・・

そして、やっぱり人間は「完全な自由」を生きられることがわかった。
だから、僕は、完全な自由を生きている。
そして、この瞬間、あなたは、「完全な自由」を生きているんだ。

僕が書きたいのは、そのことだ。

* * * *

<その1:自由についての誤解>

自由になりたければ、自由って何??
というのを徹底的に考え抜くことじゃん?と僕は思った。
そもそも、自由とは何かを定義せずに、
それを実現しようとするところで、つまずいてたりする。

自由ってなんだ?

この試みはね、個人的な見解を見つけることがゴールじゃない。
「僕にとって、自由とは、こんな感じ!」
ってのはスタート地点だけど、その先が大切だ。

実は、自由というのは、人によって異なるものじゃない。
自由とは、普遍的であり、同時に、厳密な概念だ。
つまり、自由とは一種類なんだ。
だから、自由になるための方法もたった一つだ。
だから、そこが理解できたなら、大きく舵を切れる。

だから、まず、問う。 自由って、何?
厳密に、丁寧に、深く深く、考える。
例えばこんな風に。

僕は、自由だろうか? 、、、、自由ではない。

なぜ?

自由にできないことがあるから。
例えば、空を飛ぶことができない。
もし空を飛べたなら僕は自由だろうか?

いや、僕はきっと、自在に海の中を泳ぎたくなる。
もし、それができたなら僕は自由だろうか?

いや、僕はきっと、時間の旅をしたくなる。
もし時間の旅が出来たなら、僕は自由だろうか?

いや、僕はきっと、別の何かを求めるだろう。
そして、それが、出来ないことに、不自由を感じるだろう。

そう、この世界は、思い通りにならない。
絶対に、どこかで僕らは不可能に出会う。

つまり、思い通りに生きることが自由なのであれば、
僕らは、永久に自由にはなれないということだ。
何かが、できない ということを、問題としているのなら
僕らは、永久に 問題を生きるしかないということだ。

ここが重要なポイント。
僕は、自由を目指して、自分を縛りつけるもの、
自分の意思を妨げるものを、なくしていこうとした。
そして、自分の思いを実現することを、欲した。

けれど、それでは絶対に、どこかで、不自由を強いられるということなんだ。
だから、自由に生きる ということは、
「何かをできるようになる」とか「何かを実現できる」とか、
「何かが思い通りになる」とか、また、「それを妨げるものを排除する」とか、
そういうことによっては、実現され得ないってことなんだ。

・自由とは、何かが自由に実現できることでも、
 それが邪魔されないことでもない。

さて、では、自由とはなんだろう?
自由に生きるとは、どんなことなんだろう。



<その2:自由ってなんだろう?>

自由を「何かを実現できること」、
「何かを思い通りにできること」、「何かを叶えること」に置くと、
必ず、どこかで行き詰まることを書いた。

それはつまり、どれだけ「自由」を与えられても、
欲望を持つ僕らは、必ず「それ以外」を欲っし、
その時に、「不自由」を感じるということだ。

では「それ以外」を欲しなかったらどうだろう。

例えば、籠の鳥は、不自由かな?
もし「飛びたい」のなら、不自由だけれど、
「そこに居たい」のなら、自由だよね。

そうそう、僕は、甲殻類のアレルギーがあるので、
エビとかカニは食べられない。僕は、不自由かな?

子供の頃は、アレルギーがなかったので、エビもカニも食べていた。
けどね、もう、エビとカニの味が大の苦手。
だから、食べられなくなってから一度も困ってない。

そう、「何かができない」という「客観的な状況」は、
その人の「自由」と、無関係だってこと。
つまり、「その人が、どんな状況にいるのか」というのと、
「その人が、自由かどうか」というのは、無関係だということだ。

つまりね、「籠の中で、自由に生きること」も
「籠の外を、不自由に生きること」も、全く可能だってことなんだ。

例えば、籠というのを「ルール」と読み替えてみよう。
すると、自由とルール・・・というトピックの本質が見えてくる。

自由に生きるって話をすると、
「だけど、ルールは守らなくちゃ!」って話が出てくる。
けれども、この2つのことは、実は、全く矛盾していないってことなんだ。

僕らは、厳密なルールの中で、極めて自在に創造される世界を知っている。
音階に厳密に従う”音楽”。落語などの伝統芸能。
5・7・5の厳密なルールに従う俳句や短歌の世界。
型を極めていく武道の世界。

そもそも「日本語」のルールを厳密に使用するからこそ、
自由自在に、書くことができるんだ。

このことが教えてくれるのはね、二つの世界があるってこと。
・ルールがある だから 不自由
・ルールがある だから 自由

そろそろ、自由の正体が見えてきたよね。
自由と不自由。
それを決めるのは、目の前の条件に対しての姿勢だってこと。

こんなに書いてきて、結論は、「あなたの姿勢次第!」っていう
結構普通の話なわけ。

だけどね、このことを、本当にちゃんと考えていくのなら、
僕らは、自由に生きることができる。
本当に、無限の自由を手にすることができる。
だから、もう少し、お付き合いくださいませ。

<その3:自由を生きるために>

さて、書いてきた通り、
僕らは、世界を望むように、思う通りに変えることなどできない。
どんなに望んでも、雨は止まない。
どれほど願っても、あの人は、生き返らない。
アラブの王子に生まれたかったのに!とか、
もう少しスタイルが良く生まれていたら!とか言っても、変わらない。

そう考えてみれば、僕らの人生は、「不自由」の連続だ。

明日は楽しみなデート!るんるん! からの、豪雨!!!!!
重要な打ち合わせの日に、目覚まし時計が故障!!!!
詐欺にあって、貴重なお金がなくなってしまう!!

僕らは、それらを、コントロールすることはできないし
時に、周到に用意しても、避けることのできない出来事がやってくる。
自分がやりたいことを、妨げる出来事が必ずやってくる。

それを、「願望が実現しないという不自由さ」と捉えるのであれば、
僕らは、目の前の現実に、行く手を阻まれ、邪魔され、
足を引っ張られ、実現を禁止されていることになる。
降って湧いた不幸。その不運に苛まれる被害者としての自分が生まれる。

もう一つの道がある。

それは、「願望が実現しない」ことによって、
自分の「願望」から自由になるという道だ。

こうあるべき、こうあって欲しい、こうありたい。
それらは、どう頑張っても、自分の背丈以上の願望でありはしない。
だから、それが叶うことというのは、そんなに大したことじゃない。

そんな願望を超えさせてくれたのは、
自分が想像できなかった出会い、想定を超えた出来事、
予想外の体験 じゃなかった?

雨が降ったからデートが台無し!
と思ったら、素敵なカフェを見つけたりさ、
日常が壊れた時に、その瞬間、瞬間を、
本当に大切に生きることの尊さを見つけたり。

僕らは、自分の思い通りにならないものによって、
自分の知っている世界 から 知らない世界 にシフトする。

自分が、思い通りに、できない人によって
自分の小さな世界 から 大きな世界へ 羽ばたく。

大事だから、もう一回、書いちゃうよ。

自分が、思い通りにできない、自分の思い通りにならない、
ムカつく、許せない、ありえない、このやろー 喧嘩売ってんの?
ふざけてんの?バカなのアホなの?信じらんない!人として最低!
お前なんか、あんた なんか、死んで○っsとr;sぇ×!五っdぢおwovん!!!

という人に、羽ばたかせてもらうんだ。
その人だけが、あなたを、自由にしてくれる。

なぜかというとね、
苦しすぎて、そこにはいられないから。
飛び出しちゃう以外に方法がないから、僕らは飛び出す。

どこに?自分の魂が、本当に、望む場所に。
願望を超えた、自分の魂のルートに。
これは、スピリチュアルな意味ではない。
ヒヨコがニワトリに育つように、種が芽吹き、花を咲かせるように、自然なこと。
僕らは、自分の潜在性に導かれて生きていくということだ。

僕らを、縛り付けるものが、自分を解放してくれる。
与えられてしまったもの、自分の意思とは関係なく
手渡されてしまったもの、運命。

運命が、僕らを自由にする。
思い通りにできないモノ、望まなかったモノが、僕らを自由にするんだ。

だから、僕らは、自分がわからないもの、
自分にとっては、未熟に見え、偽りに見え、ダメに見えるものに出会った時に、
分析したり解釈したり批判したりしてる暇はない。

あの人には、心理ブロックがあるよね・・・なんて発言が、一番、もったいない。
それは、自分を殻の中、檻の中、安全な場所において
「自分は変わらない。その人が変わるべきだ。」と言う発言だから。
ここに得るものはない。

そうではない。
その人を「心理ブロックがある」とジャッジした自分の不自由さに想いを馳せる時、
初めて、自由への扉が開く。

全てのものを、全てのことを、
自らを解放するための、契機として生きる時、この世界は、楽園だ。
どこにいても、誰といても、限りない自由に満ちている。
不自由さへ、自由に満ちているのだから。
 

このブログは、心理学や哲学、宗教や思想、様々な形で伝えられてきた、
人類が持つ「2種類の体験の捉え方」=「2種類の現実」を、
「現実1.0」と「現実2.0」というコンセプトで
わかりやすく描いて見ることを目的としています。

第1回から読まなくても、わかりますので、読み進めてください。

面白かったら、第1回から読んで見てください。

 

* * * *

 

第1回:現実1.0と現実2.0の概要
http://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12282346034.html


第2回:現実2.0で眺める人間関係

http://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12284373355.html

 

第3回:現実1.0と現実2.0、それぞれから見える世界の比較

 http://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12285782617.html

 

と書いてきまして、今日は第4回。

今日は、第3回のラストで予告した通り、

「なぜ、自分がこんな体験をしているのか」という問いについて

考えながら、人の成長について考察をしていきます。

 

* * * *

 

僕は、なぜ、この体験をしているのだろう。
僕は、なぜ、こんな体験をしなくてはならないのだろう。


誰もが、こんな問いを持ったことがあるのではないでしょうか。

なんで、自分がこんな目に・・・とほほ・・・
あるある、ありますね〜

この問いの答えと、「現実2.0」の世界観は密接に繋がっているんです。

昨日と今日、そして、明日。

僕らは、変化をしています。生とは変化するもの。
僕らは、生まれた時から、今日の日まで、そしてこれからも、
変化の中に生きているわけです。
それは、一瞬一瞬、脱皮していくようなもの。
これまでの自分から、これからの自分へ。

この変容のプロセスを、僕は、卵の比喩で説明することがあります。

まず、卵をイメージしてください。
そして、自分がその内側、卵の中にいます。
硬い殻の中にいれば、安全で、安心。
卵の殻は、外の世界、危険な外敵から身を守ってくれる安全な外壁です。

卵の内側には、これまでの自分の全てがあります。
これまでの自分にとっての正しいもの、これまでの自分が良いと思ってきたもの。
これまでの自分が、信じてきたもの。自分の重ねてきたもの
つまり、「自分」という世界がそこにある。

では、卵の外側に何があるのでしょう。
それは、自分にとって間違っているもの、これまでの自分が悪いと思ってきたもの。
これまでの自分が、信じてこなかったもの。
今の自分にとっては「嫌」で「危険」で「怖いもの」・・・

本当にそうかは、知りませんけれど、あなたは、そう教わりました。
お家で、学校で、社会から先生から友達から、そして自分の経験を通じて。
だから、居心地の良い、卵の中で生きていきたいわけです。

けれど、問題が起こります。
僕らは日々、成長していますので、
居心地の良かった卵の中もいつか必ず窮屈になってしまう。
なので、必ず、殻を破って外に出なくてはならないタイミングがやってきます。

けれど、そこから出るには、大変な勇気がいるのです。
安全な外壁の外側の世界には、怖いもので出来ているわけですから。

外に出るのは、怖い。だから、出たくない。
けれど、ここにいるのは、とっても窮屈だ!

この「出たい!」と「出たくない!」の軋轢が、
悩みや問題や困難というものの、本質です。

窮屈だけど怖いものに触れずに居られる場所を選択することもできます。
それは、「自分の信じる正義を生きる」ということです。
「自分らしく生きる」と言ってもいい。

それをしようとしてみると、たくさんの苦しみが待っています。
自分を律し、叱咤し、たくさんの困難の中を頑張っていく道です。
必ず、そうなります。

なぜ?

それは、実は、本当は、あなたは「私」を出ていきたいからです。
「私」と「私の正しさ」を、出ていきたいからです。
「私」という卵が窮屈で、もうそこから出ていきたい!!
備わった翼は、大空で待っている血湧き肉躍る冒険を覚えています。
僕らの深い意識は、卵を割って次なる世界へ羽ばたいていくことを、
痛切に欲望している。

そう、いくら「私」が安住を求めても、あなたの「魂」は解放を求める。
困難とは、この二つのアンビバレントな欲求のことです。
成長を止めることはできません。
ということは、安住を求める限り、これまでの「自分らしさ」にこだわる限り、
永久に、内なる闘争が続くということです。

そこから自由になるには、屈することです!
自分らしさ・・・へのこだわりを捨て、外の世界を受け入れること。
これが、成長というプロセス、変化というプロセスです。

僕らは、成長させられる。卒業させられる。
卵の外に、放り出されるんです。
人生に。そして魂に。

「私の都合」・・・なんて、お構いなしにね!!

さて、ここまでは、結構普通の話ですよね。
「自分の殻を破る」という慣用表現があるように、
この「孵化」という比喩は古今東西、
人間の成長の比喩として使われてきたわけですから。

なので、ここからが、重要な話です。

この卵を割って、外に出るという「孵化」のプロセスは、
具体的に、どんな風に体験されるのか?
どんな体験が、孵化のプロセスなのか?
というのを書いていきます。

卵というのは、自分の信念で出来ています。
自分の信じる正義、善きこと、こうあるべき・・・
という信念で編まれた強固な外壁です。

それが、割れるというのは、
「自分のこれまで信じてきたこと」が「自分の中の真実」、
「自分の信念」に文字通り”ヒビが入る”、そして”壊れる”ということなんです。
自分がバラバラに割れてしまうような体験。

その信念が強いほどに、それは大きな衝撃になります。
本当にバラバラになっているのは、自分ではなく、
自分の信念と、自分が信念を使って創り出した、自分の内なる世界
(卵の内側の世界)なんですけれどね。

もちろん、感動や感激、強烈な歓喜、そういう体験が
自分の既成概念、卵の殻を割ってくれることも、たくさんあります。
例えば、その機能を担う”卵の外側”こそ、アートと呼ばれるモノなわけです。

それに、自ら進んで、何かわからないけれど、
目の前にやってきたモノに乗ってみる!というのも、
見知らぬ世界に連れられて、気がついたら、殻の外!なんてこともある。

けれど、強固な信念、かた〜い殻が壊れる瞬間というのは、
多くの場合、もっと衝撃的な体験です。
裏切られる、騙される、攻撃される、信頼がもろくも崩れ去り、
信じてきたモノが否定され、自分がわからなくなり・・・・
といった体験を経由することが多くあります。

そして、多くの場合、それは「人間関係」において起こります。
どんな人間関係が、孵化のプロセスを担っているんでしょう。
どんな人間関係が、孵化のタイミングにいることのシグナルなのでしょう。

それは、「敵との出会い」です。
見知らぬもの、自分の気に触るもの、
自分をいらだたせるもの、理解できないもの。

あなたが、許せない、その人。
あなたが、怒っている、その人。
絶対に、違う!と感じた、その人。
あなたを傷つけた、その人。

粗暴で、不謹慎で、わがままで、非常識で、
残酷で、冷淡で、未熟で、低俗で、愚鈍だと、
あなたが自分の卵の中の価値観、尺度、モノサシを使って断じた、その人。

あなたの敵。あなたに、困難を与える存在。
あなたの目の上のたんこぶ。あなたの頭痛の種。非常識な、あの人。

笑 

いますか?
きっといるー みんな いるー 僕も いるー 

それが、自分の卵の外側に、いる人です。
その人こそ、「自分の正義」を使って卵の外側に排除した人。
そして、その人こそ、自分を「孵化」させてくれるエンジェルだということです。
その人以外に、あなたを孵化させてくれる人は、いません。

つまり、敵との出会いとは、困難との出会いとは、
許せない人との出会いとは、
卵を割って外に出るための愛の儀式に他ならないということです。
その人が、あなたの救世主です。

さて、その救世主ですが、その人こそ、卵の外に出たあなたの姿でもあります。
あなたの本来持っている、可能性を見せてくれている人です。
もちろん、今の地点から見ると、その人は「ダメな人」に見えます。
ダメな人・・・なんて可愛いモノではなく、「最悪」でしょうね・・・

だから、その人が本当のあなた の姿だよ!と伝えると、
多くの人は、絶対に違うと拒否します。

いやいや、絶対に自分は違います。そんな人間ではない!!
そうなるくらいなら、死んだ方がまし!
と本当に死んでしまう人もいます。

孵化は時に、命がけです。本当に。

けれど本当は、知っている。あなたの魂は、知っている。
その人のようになりたい自分を。窮屈なこだわりを手放してしまいたい自分を。
そんな風に自由に生きることを、自由に表現することを、切望している自分を。
 

だからね、僕はいつも言う。

その人のモノマネをしてご覧。その許せない行為・・・を自分でやってご覧。

その人に憧れている自分を、認めてご覧。

本当は、それ、自分がやりたいんだって気がついてみよー

そこに自由への道がひらけてきます。

 

そして、卵から出てしまえば、世界は一変しています。
あなたは、気が付きます。
この世界に、粗暴さも、不謹慎さも、わがままも、非常識も、
残酷さも、冷淡さも、未熟さも、低俗さも、愚鈍さも、一切存在してなかったこと。
そんな人が、この世界には、一人もいなかったということを。

許さない自分が、断ずる自分が、裁定する自分が、いただけ。
卵の中から見ていた風景が、空想物語に過ぎなかったことを。
世界は、本当に、愛に満ちていることを。

なーんだ、それでよかったのか。

何を、頑なになっていたのかな、何を、焦っていたのかな、

何を肩肘張っていたのかな、あ〜不思議!

そんな感じ。

さて、救世主が、わざわざ呼びにきてくれました。
”トントン”、「おーい、そろそろ、殻の外に出るタイミングだよー!」

その呼び声は、誰のもの?

もちろん、自分ですよね。
自分の魂から、自分への呼び声。
それが、色々な人の姿を通して、出来事を通して、聞こえてきているだけです。
様々な機会を通じて、そのメッセージを伝えてきているだけです。

あなたは、私。私は、あなた。世界は、私。私は、世界。
現実2.0の世界です。

故に、体験とは、常に、自分が自分に贈るギフトです。
出会いとは、自分が自分を拓くための契機です。
すべての体験が、より広い世界へ自分を導くために創られています。

全ては完璧です。完璧な形で、完璧なタイミングで、それは起こる。
それは奇跡ではなく、単純に、自分がそれを創り出しているからです。
自分が作っているのだから、そりゃ、完璧です。

なぜ、その体験をしたのだろう。
なぜ、そんな体験をしなくてはならなかったのだろう。

問いの答えは一つです。
あなたは、あなたを解放するために、その体験を作り出した。
あなたは、あなたを生きるために、その体験を作り出した。

卵から出ると、世界は美しく、広大で、自在です・・・しばらくは・・・
そう、あなたの成長速度は、あなたが思うよりずっと早いんです。
だから、しばらくすると、気がつくでしょう。

あれ、私は、少し大きな卵の中にいるに過ぎない!
そう、卵の外側にあったのは、また少し大きな卵。

同じです。また、その卵の外側からの呼び声に呼ばれて、
僕らは、自分を解き放っていく。もっと自由に、もっと自在に。

その卵を出ると、きっとまた少し大きな卵の中。
その先は??? ・・・どうなっているんでしょうね!

それは、きっとあなたが見つけます。
その先に何があったのか、いつか教えてくださいね。

それでは、今日のところは、こんなところで!

このブログは、心理学や哲学、宗教や思想、様々な形で伝えられてきた、
人類が持つ「2種類の体験の捉え方」=「2種類の現実」を、
「現実1.0」と「現実2.0」というコンセプトで
わかりやすく描いて見ることを目的としています。

***

現実1.0と現実2.0という考え方の概要は、
http://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12282346034.html

で書きました。

第2回は、具体的に「人間関係」にて、この視点を取り入れてみたわけです。

http://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12284373355.html


今日は改めて、この現実1.0と現実2.0を比較しながら、
その輪郭をさらに、鮮明にしていきたいと思います。


現実1.0と現実2.0のパラダイムの最も異なる点は、
体験を「現実(リアル)」と捉えるか「認識(アンリアル)」と捉えるか
の違いと言って良いと思います。

「現実1.0」は、現実を「現実(リアル)」として捉えます。
「現実2.0」は、現実を「自分の意識が作り出した認識体験(アンリアル)」だと捉えます。

別の言い方をすれば
現実1.0は、「現実の中に、自分がいる」・・・と捉えます。
現実2.0は、「自分の意識の中に、現実がある」・・・と捉えます。

科学的見地から言うと、すべての現実体験は、
五感を通じてインプットされた情報を脳内で再構成したものであり、
すなわち、全ては「脳の中」にあるので、現実2.0の世界観の方が正しい。
しかし、実感のレベルでは、僕らは、「外の世界」を見ているわけなので、
現実1.0の世界にいるわけです。

現実1.0で眺めるのなら、
・横暴に振る舞う、悪い人に出会う
という体験が存在します。

現実2.0で眺めると
・自分が「横暴」だと意味づけし、自分が「悪」だとラベルを貼ったので
 「横暴な悪い人との出会いと言う体験」を作り出した
ということになります。

さらに言えば、無数にある体験の中で、その体験を意識にのぼらせるということは、
それを自分が、”あえて”、”頑張って”、”努力によって”、創造して、
自分の意識上にのぼらせたということになります。

現実1.0で眺めると、
・許せないあいつ
が存在します。

現実2.0にすると
・許さない自分
が存在します。

現実1.0で眺めると
・問題
が存在します。

現実2.0にすると
・それを問題だと見なす自分
が存在します。

現実1.0では
・問題を解決する
ということが求められ、またそれを求めます。

現実2.0では
・問題だと見なす自分をやめると、問題などなかったんだ!と気がつく
という体験が生まれてきます。

例えば
・わがままで、ズボラで、なってないアイツ(息子・娘・部下・嫁・・・・)
 によって、被害を被っている自分
という問題。

現実1.0では、
・その人を変えようとする
・気にしないことにする、離れる・・・
・わがままな人もいる。それを認めよう!と許す。
等々のアプローチになります。

現実1.0のアプローチのポイントは、
その人が「わがまま・ズボラ・ダメ人間」という「前提」を「変えないこと」です。
3つ目のアプローチは、現実2.0に似ていますけど違います。
「ダメだけど、認めよう」は、「ダメ」という部分を自明のモノとしている。
それは、現実1.0。現実を「リアル」として捉えている世界観にいます。

現実2.0では、
・わがまま、ズボラ、なってない
と判断した自分、それを悪だと定義した自分に出会っていきます。
アプローチは、全く逆です。
それを許せない自分、「わがまま」を許せない自分、
「わがまま を 許されてこなかった自分」、「わがまま な自分を、許せない自分」に
気がついていきます。

そして、それに気がついて、「わがまま」なんて存在しない現象な訳ね・・・
と気がつきます。この世界に、「わがまま」という現象はありません。
だから、「わがままな人」も存在しません。

「ダメだけど認めよう」ではなく、そもそも「ダメなんて、ないんだね」です。
「わがままだけど、許そう」ではなく、そもそも「わがままなんて、ないんだね」です。

「わがままな人」も「残酷な人」も「愚かな人」もこの世界には存在しません。
そう見なす人だけが存在します。そう見なしたい人だけが存在します。

よく、スピリチュアルな世界で、「全ての存在は、光です」という旨の発言を聞きますが、
翻訳すれば、
「全ての要素は中立なものでしかない。
けれど、それを悪だのダメだの見なす時、
それは本当に、悪やダメなモノとの出会いという「体験」として体感される。
けれど、そういうジャッジをしなければ、そもそも、そんなものないよ。」
ということです。

でも、リアルなものだってあるじゃないか!
例えば、身体の痛みや病や、物理的に攻撃をされる体験は、どうなの?
と思う方もいると思います。

現実1.0で眺めると
・病という「不要」で「不運」な体験があり、
・病にかかった、かわいそうな、不幸な、健気な人
が存在します。

現実2.0にすると
・痛み や 肉体的な苦しさ
があります。
・それを生きている人
が存在します。

現実2.0というのは、空想的な視座ではありません。
むしろ、現実的、ものすごく現実的な視座です。
というのは、ファンタジー=意味(良い・悪い、幸せ・不幸せ・・・)を
そぎ落としていくからです。

そのもの、その出来事そのもの。その瞬間、その瞬間にあるもの。
そこに意識が置かれているのが、現実2.0の意識です。

誰かに、殴られる体験があったとします。
現実1.0においては
・殴られた被害者としての私
が存在します。
もちろん、「被害者を名乗る」という意味ではなく、
”された側”という意味です。

現実2.0においては
・肉体的な痛み

・そこで感じた恐怖の感情
があります。

そこには、正義も悪も、一切入る余地がありません。
誰がそれを与えたのか、というのも、意味がありません。
自分の心の体験、自分の感情の体験、自分の肉体の体験。
それだけが、リアル。

今日は、この2つのリアリティ、
1.0と2.0のリアリティの輪郭を描くのがテーマなので
詳しくは、次回以降に書きますけれど、

苦しさとは、現実1.0にいることに、由来します。
現実1.0にいるとき、僕らは、問題を抱え、苦しみます。
何時もではありません。問題を抱え、苦しんでいるときには、
必ず、現実1.0の意識にいるという意味です。

だから、
「殴った相手が悪い。ひどい。ありえない。」
「裏切ったあいつは、やっぱり、人としておかしい」
と、自分の正義をなぞる限り、その人は、なかなか苦しさから出られない。
もちろん、出ることが良いわけではありません。
その中からしか、学べないことがあり、その体験こそ全て。

けれど、そもそも、なぜ、その体験をしたのか?
という点に意識を持っていくと、
現実2.0的な視座へと舵を切る必要性が見えてきます。
「あなたは、なぜ、その体験をしたのか。」
これに答えていくことを、次回のテーマにしましょう。

今日は、このあたりで!

前回の投稿(http://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12282346034.html

)で提出した現実2.0という視点を、
具体的なケースの中で見ていこうと思います。

 

***

 

先日、こんな相談を受けました。
相談者はお母さん。娘2人、子育て中。
最近、こんなことがあったそう。
おてんばな次女が些細なことから、友達のAちゃんと大げんか。
担任の先生が止めに入り、仲裁してくれたので、無事にその場は収まった。
翌日、Aちゃんのママからお電話。
「お宅の娘さん、乱暴すぎませんか?これから、注意してくれないと困ります!!!」
結構な剣幕だったそうです。
お母さん、申し訳ありませんと謝って、その場はやりすごしたものの、
モヤモヤ・・・
「子供の喧嘩に親が出てくるってどうなの?うちの娘だけが悪いわけじゃないのに」
触らぬ神に祟りなしか・・・と思ったものの、その人とは顔が合わせづらいし、
モヤモヤが募り、お母さん同士の付き合いにも顔を出すのをやめてしまったし、
おてんば娘に振り回されることにも疲れてしまった。
どうしたらいいでしょう??

うんうん、ありそうなケースです。
みなさん、自分だったらどう感じるか、どんな風に対応するのか、
考えつつ、読んでみてくださいね!

さて、僕は、もう少しお話を聞いてみることにしました。
「お姉ちゃんの時は、どうでしたか?そんなことありませんでしたか?」
すると、こんな答えが返ってきます。

お姉ちゃんは、真面目で、誰かと喧嘩して・・・っていうのは、なかったんです。
でも、少しいじめにあってしまって・・・担任の先生にも頼んだのですけど、
大変だったんです。

僕は、さらに聞きます。
いじめっ子のお母さんたちとは、話合ったりしなかったんですか?
・・・言いたいこと、たくさんありました。
でも、子供のことに親が入っていくのも良くないし、
もっと悪いことになってしまったらと思うと、できなかったです。

はい、ここで、僕のヒアリングはおしまいです。
この時点で、「何が起きているのか」そして「どうすれば良いのか」がわかりました。
材料が出揃ったので、分析と解消のプロセスに入って行きます。

今回は、「現実2.0」というコンセプトを解説するのが目的なので、
まずは、「現実1.0」と「現実2.0」で、この出来事を2通りに解釈してみましょう。

【現実1.0に立って眺めてみる】
まず、「現実1.0」に立ってみましょう。
現実1.0とは、世界と私、あなたと私 を、分割して捉える視点です。
ですので、世界はこう見えるはずです。

自分をいつも悩ませる”おてんば娘”。
もちろん、娘の”おてんば”が悪いことはわかっているけれど、
娘にだって言い分はある。
なのに、一方的に悪いのはコチラと決めつけ、
当事者間では解決したのに、電話までかけてくるAちゃんのお母さん。
なんで、私ばっかり苦労するの?

そう、「現実1.0」に立つと、
「悩まされ、苦労させられ、攻撃される自分」と
「悩ませ、攻撃してくる相手」という2つの存在が見えてきます。
いたって常識的な見解です。

現実1.0に立ったアドバイスは、例えばこんな感じになります。
・相手は変わらないのだから、気にするのやめたほうがいい
・そういう相手もいると、受け入れるしかない
・リフレッシュして心機一転
・相手も誤解しているのかもしれないので、ちゃんと話し合おう

・・・もちろん、これらのアドバイスが功を奏するかもしれません。
けれど、それが本質的な解決に向かう可能性は、低いです。
「現実2.0」に立つと見えてくる全く別の風景を理解すると、
その意味がわかるはずです。

【現実2.0に立って眺めてみる】
さて、現実2.0に立って、眺めてみましょう。
現実2.0とは、世界と私、あなたと私を「一つ」として見ていきます。
何が起こっていたのか。現実2.0の視点から解説します。

お姉ちゃんがいじめられていた時に、お母さんは言いたいことがたくさんありました。
だけど、全てを飲み込み、我慢して、自分を押し殺してきたんです。
なのに、Aちゃんのお母さんは、何の我慢もせずに、言いたいことを言ってる。
それって、ずるい!
そう、本当の気持ちは、ここです。自分はやりたくてもやってないことを、
平然とやってる人に対して、ずるい!と思っていたんです。
そして、もちろん、おてんばの次女に対しても、同じ想いがあったわけです。
だから、許せない。許したくない。

そう、もうお気づきですね。
お母さんが、”押し殺した”本当の自分、大人な自分の影に隠してきた、
「おてんば、わがまま、言いたいことをバーンと言っちゃう自分」が、
Aちゃんのお母さん、おてんばな次女に、投影され
顕在化しているという構図です。
そう、彼らこそ、自分の中の、隠してきた自分の鏡だったということです。

現実2.0では、相手=自分です。
特に感情を逆なでするような、自分を揺らがせるような出会いは、
「隠してきた自分」との出会いに他なりません。

隠してきた自分とは、隠しておきたかった自分です。
そういうことは、してはいけない。
そう思って、ずっとずっと生きてきた。そう、ずーっと昔、子供の頃から。
だから、この時点で、もうそれを手放していい。
もう、自分の本当を、誰に遠慮するでもなく、自分のために、生きていい。
そして、それをするタイミングだということです。

「問題」は、実は、問題ではありません。
問題は、問題だとして扱っている限り、決して解けません。
なぜなら、「問題」とは、”目くらまし”だから。

このケースで言えば、おてんば娘 や うるさい友達のお母さん と
うまくやらなければならない・・・という問題は、フェイクです。
解決する必要など、微塵もない。
それは、「自分の中のおてんば娘」から目を背けるために作られた偽装問題。

人間関係の問題は、すべて、フェイクです。
何一つ解決できません。何一つ解決する必要もありません。
もともと、それは、本当の自分を見ないために作り出した、”嘘”だからね。

さて、自分の中のおてんば娘を許してしまったなら、
「おてんば娘」も「うるさいAちゃんのお母さん」も、何も問題がありません。
万が一、喧嘩売られたら、買えばいいだけです。
何か言われたら言い返すし、言いたいことは言えばいいだけです。

さて、面白いことに、自分がおてんば娘になってしまうと、
娘さんも、Aちゃんのお母さんも、何だか「大人しい人」に
なってしまうでしょう。
なぜなら、彼らが、わざわざ「おてんば」を見せてくれる必要がなくなるから。
そして、自分は、「おてんば」に見られるかもしれないけれど、
そんな自分を本当に許し、愛している時、世界もあなたを許し、愛するでしょう。
世界と私は、一つだから。

さて、今回はこんなところにしておきます。
今日は、初回ということで、かなりベーシックな内容でしたけど、
文化論、テキスト論、アートと創造性、イノベーションなんてテーマも
扱っていけると思います。

ではまた次回。
 

僕らは、「現実1.0」から「現実2.0」の転換点にいる。
現実1.0、現実2.0 というのは、僕が勝手につけた名称だ。

「現実1.0」とは何かというと、「現実と自分を分割して捉える認識」のこと。
私がいて、あなたがいる。
あなたが遅刻したので、私は怒る。みんながバカにするから、私は悔しい。
無遠慮な同僚に、ストレスを感じる。全て、現実1.0的な認識となる。
つまり、僕らが慣れ親しんだ世界観ってことだ。

「現実2.0」とは、「自分の体験している現実を「自分の投影」として認識すること」だ。
「あなた=私。世界=私」。
実践できているかどうかは別として、
古代インドのサーキシャ哲学からプラトン、エリクソンからバシャールまで、
心理学や哲学、スピチュアルな世界の中では、よくよく知られる世界観だよね。

もちろん僕も、その認識に立ってセラピーをしたり、こうやって言葉を書いてきたし、
現実生活を実験的に営んでいるわけ。

つまるところ、この「現実2.0」というアイデアには、新しさは一切ない。
あえてここで「現実2.0」という言葉を使おうと思った理由は、キャッチーだからだ。
キャッチーというのは、理解しやすいってこと。
理解しやすいってのは、とても大切なことだ。

実は、僕らが体験するほとんどすべての問題は、
現実1.0から現実2.0へと意識をシフトすることで、解消されてしまう。
様々な「知恵」が、ひたすら、現実2.0の話をし続けているのは、
現実認識をアップグレードしてしまえば、ほとんどすべての問題が解消されるからだ。

そして、心理技法と呼ばれるものも、1.0から2.0へのシフトを後押しするための
テクニックのことだし、瞑想やヨガもそれを実現するためのものだ。

けれど、この現実2.0の認識は、一見なかなか「非常識」な話なので、
いまいち、明確に描かれてこなかった気がする。
いや、それは描かれてきたけれど、キャッチーじゃなかった気がするのだ。

例えば「梵我一如」というのは、あんまり可愛くないし、小難しさがどうしても出てきてしまう。
「鏡の法則」というのも、「理由はわからないけど、そういうものなの!」感が残り、
認識論の持つ科学的、論理的な側面が、いまいち上手く伝わっていない気がする。

なので、1.0と2.0という枠組みを使って、そのあたりをわかりやすくしようと思ったわけ。
(・・・わかりやすくなるかは、不明だけど)

そもそも「現実1.0」から「現実2.0」へのシフトは、難しいものではない。
とてもシンプルで、ありきたりで、日常的なものだ。
僕らは、常日頃、その二つの現実を行き来している。

何かが解決したり解消したりするとき、無意識に僕らは現実2.0にいる。
ストレスを感じていたり、難しい問題に頭を悩ませている時、僕らは無意識に現実1.0にいる。

だから、問題に直面したとき、また、解決を求められているとき、
「現実1.0の発想にいるな」とか「現実2.0で考えてみよう」というふうに、
自分の意識を自覚できると、とっても有意義なわけだ。

今後、現実1.0で見える世界、現実2.0で見える世界を対比させながら
現実2.0の世界、統合の世界観について描いていくつもりだ。

みんなが、現実1.0とか現実2.0とか使ってくれるようになったら
嬉しいなー と夢見ながら、書いていきますので、皆さん、どうぞよろしくお願いします!


<現実1.0と現実2.0の覚書>

現実1.0。これは、通常の僕らの生きている現実のこと。
僕らは普段、こちらの意識状態にいる。
「私」と「あなた」、「私」と「世界」は別のもので、分離している。
する側と、される側、与える側と受け取る側、傷つける側と傷つく側、
被害者と加害者。それぞれが存在している。
だから、僕らは、「〜されたり」「〜したり」する。
誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりする。

現実2.0というのは、私と世界を「統合」する世界観のことだ。
このレベルに、いつもいる人はいない。そこにいつもいる人は「悟った人」と呼ばれている。

そもそも人間の認識機構は、基本的に、現実1.0用に作られている。
だけど、2.0の意識状態を一時的に使うことで、僕らは色々な問題を解決したり、
変容を起こしたり、深い癒しの体験をしたりする。

現実2.0では、私とあなたは存在しない。
世界は、自分が信念を使って内的な世界を投影しているものに過ぎない。
あなたとは、私の投影体であり、世界とは内なる世界の投影像に過ぎない。

私=あなた。与える=受け取る。被害者も加害者もいなくて、当事者のみが存在する。
誰かに傷つけられるのではなく、誰かの声を通じて自分の中にある自己否定を体験する。
世界を愛するのであれば、同時に自分を愛している。
常に、私が私に出会い続けているのが、現実2.0の世界観になる。

私=世界。このシンプルな公式に当てはめると、全ては、解ける。
次回以降、具体的に”解いて”いきます。

 

自分が縮んでいく、素敵な気配。

 

久しぶりに、少し文章をば、書いて見ませうね。

 

色々振り返って、やっぱり結婚は大きな転機だったなーと思うわけ。

我が家は、お互い気が強いので、よく、バチバチやる。バッチバチ!!

季節行事みたいになってる、大げんかは、もう大変。

もちろん、そのぶん、普段は、相当に中良しなんだけども!

 

僕は、人間関係フェチみたいなもんだから、

完全にわかりあい、完全に分かち合い、完全に愛し合いたいと、思ってんだよね。

「こんなもんだよなー」とか「まあいっか」としないので、

そこが、なかなか、大変なんだと思う。

 

けれど、それも全て、僕にとっては、愛ってやつを学ぶプロセスそのもので、

自分の価値観や常識やあり方が解体され、再構成されていく中で、

僕は、僕へと戻って行ったのだ。

 

さて、そんなプロセスに夢中になっていたら、(それが理由かわからんけど)

収入面では、結構グダグダになった3年でもあった。

 

思えば、起きたい時間に起き、気が向いたら何かする。気楽で、面白い生活。

正直、素敵だったな。

 

収入がなければ、ないなりに暮らせばいいし、

空を眺めれば、そこに、幸せはあった。

毎日を生きること、その瞬間を生きることに幸せは満ちていて、

浅瀬に波は立とうとも、深海にはいつだって、暖かな幸せがあることを、

はっきりと理解した日々でもあった。

 

けど、そんなことも言ってられんなー どうしよかなー とか

なるほど、ただな〜んもしないでいると、お金ってやつは入って来ないものなのかー とか思ってたら

一緒に、立ち上げようとしているビジネスの資金調達の話から、大炎上。

日付をまたいで、深夜3時まで大げんか。

しかも、来客中!

しかも、来客は、インド人とベトナム人。

2名、ドン引き。

 

でも、でも、でも、でも、そんなの関係ねー!

とばかりに、大声で罵り合う我ら。

 

その中で、刺さった一言。

「あなたが偉そうに言ってることで、あなたが全然うまく行ってないじゃん!」

 

もちろん、ぶっちぎれだよね♪

けどね、その時に、僕の心を風が吹き抜けてた。

表面的には、応戦中なんだけど、その一つ深い層で、思わず、笑っちゃってる自分がいるの。

その通り!ホントその通り!ワッハッハー 須藤峻、残念!!!

 

その瞬間、新たな自由を感じたんだよね。

 

知らず知らずのうちに、僕は、僕の提唱する理論、やり方、生き方、哲学・・・

そこに何かのプライドや、正義や、素晴らしさ・・・そういうものをなすりつけて、

「自分」や「自分の能力」に執着していたんだなってわかった。

 

言われちゃったら、仕方ない!認めるしかないよね。

自分の才能だとか、知性だとか、自尊心、良く見せたい!と言う思い・・・

「自分が、僕が、俺が」って言う部分が、解けていく。

 

自分がほどけていく。

 

その瞬間、ハートセンターが活性化した感覚を覚えている。

ハートセンター(ハートチャクラ)は、免疫系と連関している。

免疫系ってのは「異物」を感知する機能。

つまり、自分と他人の区別、主客(自分と世界)の分離にまつわるテーマよね。

(ちなみに、人が愛しあう時、キスをしたりセックスをする時ってのは

免疫系が一時ストップして、相手を、”異物”ではなく”自分”として受け入れる。

つまり、他者と自分の分離機能が停止するらしい。

だから、ハートセンターは、愛=統合を司ってるわけだ)

 

だから、自分、自意識、自我、そこへのこだわりが解けていくと、

世界と一つになって、守るべき自分も、見せるべき姿も、消えちゃうんだよね。

 

思考が、消えていく。ジャッジが消えていく。

何が良いだの、悪いだの、傷つけただの、傷ついただの、

なんだか、深刻に考えすぎてた気がするね。

 

人生なんて、全て、笑いごと。

 

分かり合えないってこと、誤解が関係性を壊してしまうこと、

気持ちがすれ違ってしまうこと。うまくいかないこと。

こんなにも、楽しいことはないんだな。

 

不可能性、できないこと、思い通りにならないこと。

それが、人生で、一番面白い部分。

 

それをやりたくて、やりたくて、仕方なくて、

生まれて来たのを思い出したわ。(そんな気がするだけだけど)

 

夫婦で、1つの事業をやるってなると、

まあ揉めることも、一つや二つ・・・(百か千か?)あろうもん。

けれども、それが一番面白いとこじゃね。

 

さてさて、来月、ついにインドです。

ラジャスターン地方のジャイプール付近で

いよいよ、テキスタイルビジネスの現場へ飛びますよん!!

 

 

 

これは良いセレクトになりました。

自分を生きることは、時に、勇気がいります。

今日、改めて読んで、過去の自分に励まされました。

得に、後ろの4つはイイ!

 

 

気をつかうこと

2013年04月21日(日) 

テーマ:幸福論 

 

メモ:自分を貫くこと。

それが、本当の意味で相手に自分を与えること。

気遣い上手の自分に向けたメッセージ。

気を遣って疲れてしまうあなたに。

***

気をつかうことは、時に、「奪うこと」です。

 僕らは、気をつかう。

結果、相手は、「自分の想定した通りの出来事」を体験します。

自分の価値観からはみ出さない、心地の良い出来事、時間、

コミュニケーション。そして、一切の変化をせずに、帰途につく。

 

ここに、僕らは「相手の、学ぶ機会」を奪うことになります。

 

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自分のリアリティを大切にすること

2013年10月28日(月) 

テーマ:幸福論 

 

メモ:誰かに「わかってもらいたい」と感じたり、

「自分は理解してもらっていない」と感じたら。

僕も読み返して、改めて得心しました。

***

分かって欲しい、ちゃんと理解して欲しい・・・

そんな、強い思いに、打たれることがある。

そんな時、ふと「自分が、自分を、ちゃんと分かってあげてない」

ということに気がつくのです。 

 

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あの頃に戻れたら

2014年07月23日(水) 

テーマ:幸福論 

 

メモ:大人になるほどに、自分の人生は、

なんとなく予想がついてくる。

だいたい、こんな感じでしょ?

いいえ、違います!

***

高校時代、大学時代・・・今の知識を持って、あの頃に戻れたら・・・ 

誰もが、一度や二度は、そんな想像をしたことがあると思います。 

僕も、そんなコトを考えることがあります。

今思えば、あの頃、僕らは、もっともっと自由にできたし、

可能性はもっともっと存在していたんです。 

 

・・・でもね、きっと10年後、今を振り返ったら、 

僕らは、同じことを言うのだと思います。 

 

 

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0.1mmの勇気

2015年02月20日(金) 

テーマ:生活 

 

メモ:小さな妥協、自分でも気づかないくらいの

小さな譲歩が、実は、僕らを自分から引き離してしまう。

必要なのは、0.1mmの勇気。自分のハートを貫く、

0.1mの勇気をくれるメッセージ。

この文章は、今日の僕をも勇気付けてくれる。

 

 ***

自分を裏切るのは、自分だけだ。

自分を裏切らなければ、誰も、あなたを裏切ることはできない。

自分を捨てなければ、誰も、あなたを捨てることはできないのだから。

 

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あなたを生きる時、あなたは無敵。

2016年05月25日(水) 

テーマ:幸福論

 

メモ:100%自分を生きること。それは無敵の境地だ。

だけど、そのためには手放さなくてはならないものがある。

だから、勇気がいる。失う覚悟がいるんだ。

とても長い文章だ。だけど、ぜひ読んで欲しい。

あなたがあなたを生きるために。

 

***

「100%、自分を生きる!!」と決めたとき、
あなたは無敵になる。

 その瞬間に、どんな人も、あなたを傷つけることも、


 振り回すこともできなくなる。