気をつかうこと | 須藤峻のブログ

須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

気をつかうことは、時に、「奪うこと」です。

僕らは、気をつかう。
相手が傷つかないように、心地よくいられるように、気分を害さないように・・・
つまり、相手の価値観が「許容する範囲」で、物事を進めたり、話を展開したりするわけです。

結果、相手は、「自分の想定した通りの出来事」を体験します。
自分の価値観からはみ出さない、心地の良い出来事、時間、コミュニケーション。
そして、一切の変化をせずに、帰途につく。

ここに、僕らは「相手の、学ぶ機会」を奪うことになります。

学びとは、「外に出ること」です。
自分という枠組み・・・価値観、感性、常識・・・それらを一度破壊して、もう一度、組上げること。
「1+1+1+1+1+1」を、「1×5」へと組み替えること、
「足し算」という自分の知っている方法論を、一度捨てないと、「掛け算」という発想はできない。
学びとは、平面的な広がりではなく、垂直方向への、パラダイムシフトです。

学びとは、「想像力の限界」を、打ち破ることです。
今の自分では、理解できないモノを前に、理解できる自分へとシフトすることです。
学びとは、自分の限界を超越する機会です。

だから、「学ぶ機会をあげること」は、
人間が人間に対して、贈ることができる、最上のギフトです。

「学ぶ機会の贈与」は、相手の「想像を超えること」によって、行われます。
つまり、相手の、期待を裏切ること。
それは、どんな場合に置いても、ギフトになります。
例え、「失望」を与えたとしても、それは、巨大なギフトです。

人は失望から、多くを、ホントに多くを学ぶことができます。
それは、本質的な自分に向き合うための、最良のチャンスのひとつです。
だから、相手を傷つけ、失望させることは、相手に最上のギフトを贈与しているに他ならない。
(しかし、相手に傷つけられ、失望させられた経験は、
自分がギフトをもらったのだ・・・ということも受け入れる必要があります。)


相手と自分は、他人同士です。
どんなに分かりあっている二人でも、心の中も頭の中も、絶対に共有できません。
だから、互いが、相手の想像力の外部にいることになります。

だから、人間の出会い、関係性、つながり、は全て、
「相手の存在を通じて、自分の想像力の限界を超えていくこと」
「自分の存在を通じて、相手の想像力の限界を超えさせていくこと」
を、根本的な機能として、備えています。

そして、それが、最も機能するカタチこそが、
「相手の期待に応えずに、一切の気をつかわずに、徹底的に自分を貫く時」なわけです。
自分を貫く時、相手の最も遠い場所に立つことができる。

その瞬間こそが、相手が「限界」を、超えるチャンスであり、
自分が「最上のギフト」を与えうる瞬間なのです。

すると、相手の期待にかなえば、かなうほど
気をつかえば、つかうほど、僕らの存在意義は、薄れていくことになる。
相手が学ぶ機会を、奪っていくことになる。

だから、自分がありたい様にある。自分の心のままに、生きる。
それが、最も、相手のことを「思いやる」生き方だということです。
「思いやり」とは、ありのままの純粋な自分の姿を、相手に惜しみなく捧げることなんですね。

* * * * * * * * * * * * 

この文章を書いたのは、2年ほど前のこと。
先日、「清々しいほど、ためらいなく、意見を言ってくれる人」に出会って、
僕も、そうありたいと思いました。

気をつかうのは、自分のためです。
いつもとは、言いませんが、その多くが、自分が嫌われたり、否定されたくないからです。
だから、自分を貫くのは、勇気がいる。

でも、その勇気は、必ず、かけがえのない関係性を作ってくれる。
「正直に、自分を与えてくれた人たち」が、今の僕をつくってくれたように、
僕も「裸の自分であること」で、誰かの「気づき」になっていきたいと思います♪