期待して裏切られる。
そして、傷つく。
これが、人間の苦しみのほとんど全てなんじゃないかな。
争いの原因にあるのは「期待」。
~してくれるはずが、してくれない
~しれくれるべきなのに、やってくれない
もめ事、夫婦関係、家族関係、訴訟、批判、失意・・・
「~べき」は、永久に満たされないんだよね。
だって、そもそも不自然なんだ。
自然に起こることに、「~べき」なんて言う必要がない。
だから「~べき」を持っている限り、どこかでそれは裏切られる。
「期待して裏切られて傷つく」という世界を歩き続ける。
回れ右。別の方向に向かってみよう。
期待しない、裏切られない、傷つかない。
そこにあるのは、とてもシンプルなあり方だ。
ただ、その人が、その人のままあることを、認める。
風に揺れる木々を見るように
暮れる夕日を眺めるように
そこに、どれだけ探しても、裏切りはない。
どうしたって、傷つ「け」ない。
そんな世界がある。
僕は、時々、不思議に思ってた。
みんな、なんで、そこに行かないの?
みんなすぐに気がつくよね?
だって、こんなにもシンプルな仕組みだから。
すごく、簡単。
僕は、みんな知らないのかな?
って思ったから解説して回ってみた。
けれど、みんなやらないんだ。
なんでやらないの?
ふふふ
問いを換えよう。
どうして、「僕ら」は、やらないんだろう?
そう、僕だって気がつくと、期待のゲームの中にいる。
そう「みんな、期待を手放すべきなのに!」ってね。
最近わかったこと。
僕らは、期待して裏切られて、傷つきたいんだよな。
どうしても、したい。
未熟だということではなく、
知らないからということでもない。
僕らは、生々しい生の瞬間を生ききりたいんだね。
その切実で、赤裸々な、感情の往来に、命があふれて来る。
こんなモノが僕の中にあったのか。
山から下りた僕に待っていたのは、鮮やかな世界だったな。
自分の中に、驚くほどの、いろんなモノを発見し、
時に、戸惑い、いらだち、途方にくれながら、
最近僕は、それを、とても気に入っている。
2015年のメルマガより。
3年前、こんなことを、書いていました。
きっと3年後も同じことを、書いていると思います。
* * * *
僕は今、湯河原の地で暮らしています。
9月末にこちらにやってきて、早いもので一ヶ月。
毎日、庭に出て、木々を切り、雑草を抜き、花を植えていました。
ここ5年ほど僕は”目に見えない世界”を追いかけてきました。
言葉、アイデア、関係性、意識、心、精神、変容・・・
もちろん、現場は日々の生活の場、生きるという現象そのものですけれど、
対象は、目に見える現象の背後にある、見えないもの(哲学的に表現すれば”構造”ですね)だったわけですね。
その探求は、とても興味深く、またたくさんのことを教えてくれました。
そして、僕の旅はまた別の世界へと向かっているようです。
木を切り、枝を落とし、丁寧に形を整える。
絡んだ蔦を外し、土を運び、花を植える。
それらは、とても具体的な世界での出来事です。
その後ろにあるものではなく、”そのもの”が対象です。
それが、今、とても心地よいのです。
時に、僕は母屋の二階の南向きの出窓に腰掛けて、
ただ、秋の風の中で、逆光の木々が黄緑色に輝いているのを、眺めています。
鳥たちが雲ひとつない空を滑っていきます。
紺碧の相模湾に、真っ白い船が小さく浮かんでいます。
ここに座っていると、ただ、この世界の完全さが、完璧さが、わかるのです。
世界が、完璧であること、そのことを、少し書いてみましょう。
この世界というのは、「存在」ではありません。「現象」です。
世界というのは、我々ひとりひとりが自分の意識の中に描いた、
「心象スケッチ」です。
60億人の人がいるのなら、世界は60億個存在します。
それぞれの世界は、パラレルワールドとなっていて、
自分以外には体験できません。
世界とは、脳(意識)の中に作られた自分専用のロールプレイングゲームです。
僕の世界は、僕のもの。あなたの世界は、あなたのもの。
自分が信じていることが、自分の体験する世界です。
そして、すべての現象は、すべての体験は、自分が作り出したものです。
僕たちは、自分自身の世界の、創造主です。
あらゆる体験が、自分自身の手によって作られ、自分自身によって体験されます。
この世界にある、すべてのものが、自分の内なるものです。
自分の内側にあるもの以外に、僕らは、経験できません。
映画を作るのに、自分の撮影スタジオにあるもの以外は、使えないのです。
自分が、思い描く、この世のもっとも醜いもの、悪どいもの、貧しいもの、
思わず目を背けたくなり、罵りたくなり、絶対に許せないと思っているもの、
それは、すべて自分の中にあります。それが、あなたです。
そして、自分が思い描く、この世のもっとも美しく、気高く、善良で、豊かで、
憧れ、感激させられ、心満たされるもの、それも、すべて自分の中にあります。
それも、あなたです。
それは、どこまでいってもなくなりません、
それらは、捨てるべきものでも、手放すべきものでも、
獲得すべきものでもありません。
生まれた時から、死ぬまで、僕らの中にあるものです。
この広い宇宙のすべてが、自分の鏡です。
これだけの広がりを、僕らは、内側に持っている。
この美しい秋の夕暮れも、砂漠に輝く星々も、空高く舞うハゲワシも、
航空機事故も、戦争も、煙たい隣人も、そこに見つけるすべてが、
自分の欠片です。
世界に闇を見るのなら、それは自分自身の中に
「見たくない部分」があるということです。
そして、自分がその内なる闇を照らした時に、
世界はひとつ光に包まれることになる。
僕らは、それぞれが、体験をしにやってきています。
それぞれが、必要な体験を、作り出し、学んでいます。
自分の現実は、そういう意味で、完璧なのです。
100%、自分にとって最適な現実を、それぞれが生きています。
僕は、たくさんの人の人生を聴かせてもらう場所にいました。
その人が体験している現実は、その人にとって100%最適なものでした。
なぜ?という場所にいる人は、一人もいませんでした。
誰もが、その人に最適な、本当に完璧な場所を生きていました。
ある人は、すべての人が自分を憎んでいると言いました。
ある人は、自分は一切価値がない人間だと言いました。
ある人は、自分は懸命にやっているのに、心無い人に傷つけられると言いました。
それぞれ、その人にとっての唯一の、本当の、体験できる現実です。
その人にとって、今、必要な体験であり、必要な現実なのです。
その人は、そのような現実を「自分で作り出し、自分で体験する」という
選択を通じ、何かを学ぼうとしています。
それは勇気ある選択です。
そして、その現実を作り出したからには、
必ずそこから学ぶことができるということです。
そして、それを学んでしまった時、別の現実へとシフトすることになります。
例えば、自分が憎まれていない現実、価値がある現実、傷つけられない現実を、
文字通り、作り出すことになります。
もともとの現実が間違っていたわけでも、
誤解に基づいていたわけでもありません。
2つの異なる現実があり、隣の現実へとシフトをしただけです。
それぞれが生きている現実は、完璧なものです。
自分がどう思っていようと、完璧です。
だから、ただ存分に生ききればよいのです。
ただ味わえばいいのです。その瞬間を、ただ味わう。それだけで、いい。
それに気がついた時、ただ、そこにあるものを、
ただ「ある」と受け取ることになります。
自分の中の光も闇も、同じだけ愛した時に、
世界の調和と美しさを味わうことになります。
こんな風に書くと、僕はもう、そこにいるように聞こえてしまいますが
そうではありません・・・・いや、そう書くのも正しくはないのです。
なぜなら、そのような意識の自分も、存在しているから。
そのような意識の自分と、現実に抵抗している自分が、同時にいます。
僕の中のたくさんの人格がそれぞれに教えあい、ささえあい、ざわめいています。「私」という意識とは、実は、そんな別々の「私」を見守る
仮想的な機能に過ぎません。
この話はまた次回にしましょう。
それでは
先日、「モチベーションが上がらない!」という相談を受けたので
その時に思ったことをメモ。
モチベーション下がるのって、「自己犠牲的」になっている時だよね。
「自分が、やりたくないことを、させられている」という感覚。
・なんでこんなことを「させられている」のだろう?
この感覚を持ちながら、ワクワク何かに取り組むってなかなか難しい。
(少なくとも、僕はやだな)
裏を返せば「やりたいこと」をやっているのなら、そこに「犠牲」はないよね。
いかに忙しかろうと、無理をしていようと、ワクワクを生きているわけ。
ここまでは結構当たり前の話で、ここからが今日書きたいって思ったこと。
実は、「やりたいこと」と「やりたくないこと」って、
ちゃんと見極める必要があると思うんだ。
良い悪いじゃないくて、好き嫌いで生きよう!「やりたいこと」で生きていこう!
って話をよく聞くけれど、ここに落とし穴がある気がするわけ。
実は、「やりたくないこと」は、多くの場合で「怖いこと」に由来する。
それをやることで、起こってしまう何か。
それが、怖い。
だから、それを「やりたくない」って言い換える。
「自分の本当とずれている」「魂が嫌がっている」「ワクワクしない」
”素敵な言葉”で飾ったりする。
けれど、本当は、その先に起こり得る「何か」が怖いだけだったりする。
この潜在的な「恐れ」を見ないまま
「自分がやりたくないことを、やらない」・「やりたいことをやる」を続けると
ある地点にたどり着く。
それは
・やりたいことがない
と
・やっても、やらなくてもいいから、やらない
だ。
つまるところ、停滞。
「保身・防御・変化への恐れ」は停滞を生む。
モチベーションというテーマに戻して話をするのなら、
瞬間的な発火はあるけれど、
継続的に何かをやっていくような取り組みは、
必ず、どこかで頓挫してしまう。
これを、僕は、数年やったね!
けれど、人生ってやつは、そんな人を見捨てたりしない。
どれだけ「やりたくない」と突っぱねても、ノックをやめようとしないんだ。
そしてどうしたってドアを開けざるを得ない状況を作り出す。
だからね、
・なぜかうまくいかない
・やりたいことを、やっているのに、停滞している
そんな時は、ノックに耳をすませてみよう。
そのドアの向こうにあるモノを、眺めてみよう。
どうして、その呼び声を、聴かないことにしてる?
どうして、それを拒んでいる?
何が、起こるのが、怖い?
さて、いざそのドアを開けて進み出すと、必ず感情は叫ぶだろう!
「こんなこと、やりたくない!」
けれど、その深部で魂は叫んでいる。
「恐れるな!そこに答えがある!」
必ず、恐れたことは、起こる。
自由を失うのが恐ければ、きっと縛られるよん!めっちゃ縛られる!
あんなとこやこんなとこが、グイグイ縛られちゃうよん!
だけど、縛らせているのが、実は自分だって気がつく。
・いい顔しなくちゃ!優秀であらなきゃ!ルールに従わなくちゃ!
それを破ったら?
それを破ったら、何が起こる?何が起きるのが一番怖いの?
そんな時、何かを解決する必要はない。
だって「恐れ」があるだけだから、何かを変えるって話じゃないんだ。
むしろ、その恐れを徹底的に愛することだと思う。
私は、これを恐れている人間である!と高らかに宣言すること!
恐怖万歳。
僕は、怖いことが、たくさんある。
自由を失うのが何より怖い。
断ったり期待を裏切ったりするのが怖い。
怒られるのが怖い。
人前で何か話すのが怖い。
居場所がないのが怖い。
大切な人が、いなくなるのが怖い。
何かを「やらされる」立場になるのが怖い。
だから、僕は生きる。
葛藤の中にだけ、矛盾の中にだけ、扉がある。
それだけが、僕らを、自分という小さな物語から解き放ってくれる。
存分に恐れよう。
そして、その恐れの分だけ、世界に拓かれていこう。
Hello World.
世界は、いつだって、可能性に満ちている。
僕らの意識は、今、大きなシフトのただ中にあります。
僕はそのシフトを「現実1.0から現実2.0へ」と呼んでいます。
https://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12285782617.html
(↑現実1.0と2.0の説明。こちらもぜひ読んでください!)
二元性から非二元性(ノンデュアリティ)とも言えるし、
アセンションと呼ぶ人もいるでしょう。
ただ「愛」という言葉で表現している人もいると思います。
呼び方はそれぞれですけれど、
このコンセプトの肝は、「統合」です。
何を統合するのかというと、2つに別れてしまった世界を・・・です。
・良い⇄悪い
・正しい⇄間違っている
・被害者⇄加害者
・未熟⇄成熟
・光⇄闇
・あなた⇄私
とかとかとか・・・・
僕らは、それらを長きにわたって分割してきました。
それを統合するのがこの時代なので、
今、まさにこの瞬間、多くの人が「統合の体験」をやっています。
どんな体験として味合うかというと「自分の正しさを手放す」という体験です。
それは「自分の正しさに固執していると、
苦しくて生きていけないので手放さざるを得ない」
という体験だったりします。
苦しい!辛い!傷ついた!許せない!
・・・そこには、必ず「正義」が関わっています。
そこで、「自分の”正しさ”を手放すんだよ〜」と言うと、
多くの人が、「自分は”正しさ”なんて持っていない」と言います。
自分は正義や悪を分けていないし、ジャッジもしていないと言います。
そう、まず自分が「正義」を持っていることに気づくのが
まずなかなかに難しいんです。
なので、今日は、「正しいこと」というテーマで
それを見つけ、手放していくプロセスについてまとめてみました。
結構保存版と思います。
* * * * * * * *
|正しいこと
「正しいこと」って言うのは、自分の中にある
・人として、して良いこと
・人として、してはいけないこと
です。
自分の中のルールブックです。
例えば、こんなことを書いています。
・約束を破ってはいけない
・わがままを言ってはいけない
・分別をわきまえなくてはいけない
色々、色々。
多くの人が共通して持っているルールは、「常識」と呼ばれます。
そして、そこから逸脱すると「あいつは、非常識だ!」ということになるわけです。
しかし、重要なのは、これはただの決め事、「ルール」だということ。
だから、言うまでもなく、時代や文化、属するグループによって
「ルール」なんて、全く異なるわけです。
幸運なことに、僕らは、それが”常識”の時代に生まれました。
|ルールの機能
ルールがあれば、人はそのルールに照らし合わせて
目の前の人を、良いだの悪いだのジャッジすることになります。
必ず、そうなります。
それは、「ルール違反者との戦い」です。
衛兵のように、いつも違反者をチェック。
誰かが、ルール違反をしていないか目を光らせています。
そして、ルール違反を発見!
「人して最低限の礼節をわきまえていない、なんて無礼なやつだ!」
「親に向かって、その態度はなんだ!」
「約束を破るなんて、信じられない!」
そして、同時に
「自分は、誰かに無礼ない態度をとってしまいやしなかったか?」
とビクビクしたり、
目上の人に、言いたいことが言えなかったり・・・
そう、ルールは必ず、相手と自分、世界と自分、その双方に対して機能します。
自分に、何かを「強いる」のなら、
誰かにも何かを「強いる」ことになります。
自分に厳しい人は、他人にも厳しい。
この話をすると時々、面白い反応が返ってきます。
「あの人は自分を許せないから、誰かを責めてるのね!」
・・・・No No No・・・・
「あの人は、誰かを責めている人だ」
というジャッジをしている「自分」を置いてきぼりにしないでね!
この話に、「他の誰か」は、一切出てきません。
もう僕らに、他の誰かの話をしている時間はありません。
常に常に常に、主語を自分にするんです。
|感情というシグナル
さて、僕らは全員ルールを持ち、それに従って生きています。
けれど面白いことに、ほとんどの人が自分の持っているルールに無自覚です。
自分が「正義」を握りしめていることに気づいていません。
ゆえに、「正しさを捨てる」と書いても、
その本当の意味が、理解されにくいのだろうと思うのです。
実は、ルールは、見えません。
自分にとってそのルールがあまりに自然だから
自分が従っていることには、気づけない。
だから、何もないところでルールを見つけて手放す・・・
というのは、不可能なのです。
そこで、ルールを持っていることを教えてくれる「シグナル」を使うのです。
そのシグナルが「感情」です。
自分がルールを持っている、正義を持っているかどうかは
感情が教えてくれます。
どんな感情かというと、
「怒り」・「悲しみ」・「苛立ち」・「不安」・・・
いわゆる、「不快」な感情です。
不快な感情は、アラーム。
ルール違反!!というアラームです。
例えば、
「迷惑をかける人」を見て、「怒り」を感じたとしましょう。
それは、
・人に迷惑をかけてはいけない
というルールを持っていることを教えてくれます。
ルールに違反した人を見て、ルール違反のアラームが鳴る。
それが「怒り」という感情として体感されたわけです。
このプロセスは、自動反応です。
自分の意図や意識とは無関係に起こるので、
コントロールできません。制御不可能。
メールの自動振り分けみたいな感じです。
一度作ってしまったら、勝手にバンバン、仕分け。
1ルールの存在
2ダメなこと、ルール違反を勝手にラベリング、
3感情反応が生まれ、怒ったり悲しんだり
反応の3ステップです。
|傷つくこと
さて、ルール違反に対し、なぜ僕らの心はアラームを鳴らすのでしょう?
それは「危険」だからです。
「自分が信じる正しい世界像が崩れてしまう危険」を感じた時、
心はアラームを鳴らします。
ルールブックに描かれた、正しい世界。
それが、傷つく。
信じる世界像に、ひびが入る。
これが、「傷つく」という体験の1つの本質です。
実は、多くの場合、傷ついているのは自分ではなく、
ルールブックの正義です。ルールに傷がつく。
けれど僕らは、それを「自分が傷ついた」と錯覚します。
(事実、体感としては自分の心が「傷つく」ということになります)
だから、「自分の世界」を守ろうと必死になります。
自分の世界の正義、正しさを証明しようとします。
自分の信じるルールブックを守るための戦いが起こります。
「聖典」をめぐる戦いです。
(多くの戦争が本当に「聖典」をめぐるものでしたよね)
この戦いを進めるほど、苦しみは、増していきます。
自分の信じる正義を証明しようとするほどに、
僕らは、自分を失っていくからです。
何を? 自分を。
正義=ルールというものの本質を見れば、
そのことが見えてきます。
|ルールの本質
・火の中に手を突っ込んではいけない
というルールはありません。
ルールを作らなくても、誰もやらないからです。
そう、ルールは「自然にやらないこと」は規定しません。
逆に「空気を吸いましょう」というルールもありません。
「自然にやること」なので。
つまり、ルールとは、「自然にしていたら起こること」を禁止し、
「自然にしていたら起こらないこと」を推薦する仕組みだということです。
ルール=不自然。
ここ大事。
つまり、ルールに従うというのは、その根本的な部分で、
「自分の自然をコントロールする」という試みだということです。
だから、
「自分の信じていること」は、
自分の「自然」から自分を引き離していく力を持っている
ということです。
面白いですね。
・自分の正しさを信じるほど、自分から離れていく。
ここでゴールが見えてきますね。
つまり、自分の自然に戻っていくためには、
ルールを捨てるしかないってことです。
自分が信じている正しいことを、捨てるしかない。
自分の常識を、捨てるしかない。
だから、もう皆さん”耳タコ”の、「手放し」なわけです。
|手放しの本質
ここも、丁寧に見ていく必要があります。
なぜなら、多くの人が、「手放し」とか「許し」という言葉を通じて、
無理難題を自分に押し付けているからです。
もちろん、僕もそうでした。
それは、
「許せないものを、許す」
「握っているものを、捨てる」という、苦行です。
これは、文字通り不可能です。
許せないものを、許すなんて、できません。
それこそ、ものすごい不自然な試みだからね。
そうじゃない。
ルールそのものを、捨てると、
許せなかったものが、「消える」ってことです。
「わがままはダメだ!」というルールを持っていると
わがままな人が、許せません。
許そうと努力しても無理。
そうではなく、「わがままはダメ、絶対」という
ルールそのものを捨てるんです。
ここは、さらに深く見ていく必要があります。
|尺度を捨てる
ルールを捨てる・・・というプロセスを理解するためには、
「尺度」という視点を持つことです。
尺度ってのは、モノサシです。
「長さ」というモノサシでは、長短を測ります。
「重さ」というモノサシでは、軽重を測ります。
ルールというのは、同じ仕組みでできています。
例えば、
・謙虚であることが、良いことだ
というルールがあったとします
すると
「謙虚ー高慢」というモノサシがあるってことです。
それをあてがって、謙虚度(=わがまま度) 0〜100と判断する。
そう、このモノサシを握りしめたまま、
「謙虚が良い・高慢は悪い」というルールは、
絶対に捨てられないんです。
「わがままはダメ」というルールを手放すというプロセスは、
「わがままー謙虚」という「モノサシを捨てる」ってことです。
「わがまま」と「高慢」という度合いで、
世界を眺めることそのものを、捨てるってことです。
その基準で、何かをジャッジすることをやめる、
世界をそのモノサシで測ることを、やめるってことです。
|言葉が世界を作る
議論が核心に入ってきました。
実は、そもそも「わがまま」というのは、存在しません。
「謙虚」というのも、存在しません。
当たり前です。
それは、人間の思考が作り出したファンタジーだからです。
そういう言葉があるから、そう見える、それだけです。
謙虚な空を見たことがありますか?
高慢なモミの木を知っていますか?
わがままな朝焼けを体験したことがありますか?
ありません。
(それらは文学的な表現としては、ありだけれど、
その面白さは、”あえて”人間の認識で”遊んでいる”ということです)
まず、言葉ありき。
これは、人間の認識が、存在に先んじるという、
1つの真理を描いています。
「わがまま」という言葉を持っていなければ
この世界に、「わがまま」な人を見つけることはできません。
だから、「わがまま」という言葉を捨てると、
自分の人生から、「わがまま」が消えます。
わがままな人も、わがままなことも、消えます。
同時に、「謙虚さ」も消えます。
控えめな人も、控えめな態度も、消えます。
それを、「謙虚さ」としてラベリングすることが、できなくなります。
手放すというのは、ラベリングをやめるということです。
「わがまま」というラベルをはがす。
すると、それについての「メール振り分けシステム」から除外される。
だからもはや、何も引っかからない。
いないんだから、許しようにない。
もう一度。
そもそも、「わがままな人」も「控えめな人」もいません。
悪い人も、ひどい人も、非常識な人もいません。
ラベルをはがしたのなら、
目の前にいるのは、ただ、その人。
美しく、懸命に生を生きる、一人の人間。
目の前の人に何を見るのか。
いかなる形容をするのか。
それが、自分の持っているラベル、
自分が握りしめているルールを教えてくれます。
世界をいかなる言葉で彩るのか。
どのモノサシで測るのか。
それが、自分の生きる世界を決めます。
さて、「尺度」と「言葉」の本質を理解することで
手放しというプロセスが見えてきました。
「手放し」というのは、能動的な試みではなく、
「起こす」ものではなく「起こる」もの。
そう理解しておく方が、良さそうです。
尺度に気づき、言葉が創り出す幻想に気がついた時、
それは「起こる」。自動的に、手放される。
けれど、それはほとんど意識すらされないものでしょう。
|分離から統合へ
さてさて、そろそろ、まとめに入ります。
僕らは、不自然から自然へと向かっています。
体の傷が治るように、子供が育つように、
僕らは、不自然な状態から、より自然な状態へと向かいます。
それが、「生きる」ということだからです。
この世界を眺めれば
全ての命がそこへ向かっていくことが、よくわかる。
「自然(ネイチャー)」を眺めれば、
「自然(ナチュラル)」であることの確かな存在論が見えてきます。
「不自然」というのは、「そのもの」から離れてしまうことです。
「言葉」を使って、世界を、脳の中に置き換える。
ルール(モノサシ)を使って、「良いー悪い」の序列の中に
世界を並べて、怒ったり喜んだりする。
ファンタジー世界のルールに従うのなら、
僕らは、永久に自分の中にある命の流れ、
自然な統合の流れと、自ら戦い続けることになります。
それが「苦しさ」の正体です。
ありとあらゆる苦しさは、不自然さと呼び換えていい。
自分と自身の戦い。
言葉を使う限り、思考と共にある限り、
僕らは、そこから完全に自由になることは
できないのかもしれません。
けれど、自分の目の前にやってきた出会い、訪れた体験、
出来事に対して、
僕らは自分の中の戦いに気がつき、
よりナチュラルなあり方へと変容していくチャンスとして
向き合っていくことはできます。
それは、万人に、まったく同じだけ、与えられている機会です。
そこには、完全なる平等と公平がある。
その中で、僕らは、統合へと向かいます。
良いと悪いに別れた二元性の世界から、
ただ「ある」という一元性の世界へと。
言葉によって組み上げられた強固なファンタジーから、
柔らかでパラレルな現実、可変的な宇宙へと。
|統合のプロセス
望もうが、望むまいが、旅は進んでいきます。
生きている限り、統合へと命が向かうから。
だから、そこに従うしかない。
だったら抵抗せずに、観念してその流れに従ってしまえ!
っという訳です。
抵抗するのならそれは神の与えた試練。
従うのならそれは神の与える恩寵。
そんな訳で、体験を「ギフト」として味わうための道標として
「4つのステップ」をまとめておきましょう。
1:「許せないもの」と出会う
始まりは、いつだって、許せないものとの出会いです。
ありえない。信じられない。嫌だ。嫌いだ。
モヤモヤ、イライラ、ドキドキ・・・統合プロセスの幕開けです。
始まってしまったら、仕方ない。終わらせるまでやるしかない。
2:感情を味わう
感情反応があったなら、なかったことにはできません。
感情を大切にするというのは、ちゃんと扱うってこと。
感情はメッセンジャーなので、ちゃんと聴いてあげる。
それは、まず気づくこと。そして、感じ切ること。
ネガティブな感情こそ、最高に味わい抜くこと。
3:ルールを見つける
何が許せないのか、何が嫌なのか。
相手という鏡を通して、それをちゃんと見る。
・相手=自分。
・許せない相手=許せない自分。
・許せない行為=自分に許せていない行為(=本当はやりたいこと)
これが、羅針盤。
この辺りを、真摯に見ていくと、必ず見えてきます。
自分が何か、正義を握りしめていること。
許せないでいること。許さないから、苦しいこと。
それを、自分がずっと我慢してきたこと・・・
4:許し・手放し・愛
もう、自分のナチュラル、自分の自然に従うしかないんです。
自分の信じる自分、自分の目指してきた人間像を、捨てる。
自分に禁止をしてきたことを、自分に許す。
自分が今まで、嫌ってきた、絶対にやってはいけないと決めてきたことを
自分に許す。
それは、清水の舞台からのダイブです。
なぜなら、自分が許さなくてはいけないのは
・自分が、一番許せない相手
・嫌だと思っていること
・自分や自分の大切な人を傷つけた人
が、自分だったのだと、心底知ることだからです。
けれど、許してしまえば、あら不思議。
なぜ、あの人のことを、あんなに嫌っていたのだろう?
なぜ、そんなに問題だと思っていたのだろう?
・問題は、問題だと思う人の中にだけ、存在する
この真理を痛感することになります。
ただそこにあるのは、愛。
愛しかないんです。ジャッジをやめた先には、愛だけがある。
全ての出会いは、ここに至るために、作り出されています。
全ての人間関係は、僕らそこへと誘うための装置です。
No exception。例外はない。
私は、あなた。あなたは、私。
そこに闇を見るのなら、それは自分の影。
そこに光を見るのなら、それは自分の光。
ここで言葉にできたのは、
ある1つの世界観に立った見解であり、一面的な風景ではありますが
何か、道しるべのような役割を果たせたのなら
こんなに嬉しいことはありません。
* * * * * * * * *
ノンデュアリティを体験する
潜在意識で描く不思議な絵画教室は1/21日13:00〜
小田急線 鶴巻温泉駅 徒歩5分 せかいの音カフェ ふくろうの森 にて!
https://www.facebook.com/events/1962494257335289/
あなたの世界は、どれくらい柔らかい?
色や温度はどうだろう?簡単に形を変えられる?
子供の頃、きっとあなたの世界は柔らかかった。
背中に生えた翼で空を叩けば、無限の世界を渡って行けた。
想像力。
それこそが、僕らの生のプラットホームだ。
僕らの生は、自分の想像力の上に組み立てられている。
ごっこ遊びをしていた頃のことを覚えてる?
そして、それをやめた日のことを。
大人になるってことは、ごっこ遊びから卒業すること。
羽は生えていないし、勇者でもお姫様でもないのだと認めること。
そんな訳で、僕らは現実を歩き出した。
仕事をし、お金を稼ぎ、家族を作り、また仕事をする。
現実的。この魔法の言葉。
けれど、本当は知っているでしょ?
「仕事」「お金」「家族」。
全部「ごっこ遊び」だってこと。
子供の頃の方がずっとそれを心得ていたんだ。
あの頃の僕らは、少なくとも、
勇者の冒険も、お城のお姫様も、
「自分が作り出したもの」だと知っていた。
どうして、僕らは、そのことを忘れてしまったのだろう。
僕らはいつのまにか、自分で作り出した物語に絡みとられて
それを「変えることのできない現実」へと組み上げてしまった!
そう「体験」を「客観的な事実」だと信じることによってね。
「自分の主観的な体験=作り出した物語」を、
「客観的な現実」だと思う強さに比例して、
僕らは、その現実に縛られる。
確かに、それも必要なことなのかも知れない。
「不変の物語」を通じてしかたどり着けない場所は、確かにあるから。
けれど、その向こうに、また別の世界が広がっているのも確かなこと。
物語から、物語へのday tripに飽きたら、
そんな世界をイメージしてみよう。
現実2.0。そう、物語の向こうの世界。
それは、柔らかな世界だ。
文字通り、自分が「現実」だと呼んできたものが、
自分が絶対だと信じてきたものが、緩んでいく世界。
自分が、その出来事に意味を与えて
それを受け取っていることを、体感して生きる世界。
誰もが必要に応じて物語を作り出していることが
まざまざと見えてくる。
その人にとって、今、敵が必要なんだな。
どうしても、傷つくという体験が必要なんだな。
それは未熟なのでも、足りないのでもない。
もちろん、そんな風景も自分が作り出した物語。
全ての人々が、懸命に自分の物語を生きていて、
そこで本当に、必要な体験をしていることが見えてくると、
その懸命さに、胸が熱くなる。
重なり合う生の、完璧な調和に、感動する。
手を伸ばして現実に触れる。
柔らかな現実を、あなたはどんな色に塗るだろう?
そこには、自由がある。完璧な自由。
想像力、無限の可能性を生きよう。
2018年も、よろしくお願いいたします。
現実2.0の水先案内 須藤峻
悲しみや、苦しみから自由になるために何が必要かというと、
瞬間的な「癒し」とか「気づき」とかではなく、
「生き方」とか「世界観」というレベルでの変容なんだ。
・世界観をアップデートしてもらうこと。
だから、それが僕のやろうとしていたことだった。
例えば、身に降りかかった不運や不都合な出来事を
誰かのせいにし、その人を変えようとしているなら
それは、いつまでも苦しい。
逆に、例えばそれを受け入れていくこと、引き受けていくこと
自分を超えていく契機としていくこと
そんな世界観にいるのなら、そこには自由がある。
不都合な出来事や、アクシデントがなくなるわけではなく、
同じ出来事や感情を、受け入れることによる自由がある。
そんなことを、体験してきたし、提案してきた。
最近、その提案の意味について、よく考える。
より自由に、ストレスフリーに、ハッピーに生きることが、全てではない。
「人のせいにして、憎むこと」より「自分の投影として愛すること」が
優れているわけもないし、良いわけでもない。
それぞれの体験には、そういう形で体験する以外に、
たどり着けない何かを隠している。
そのどちらも、同じだけ貴重なものだ。
・誰の人生にも同じだけの価値がある
このフレーズにYESと答えるのなら、
人を恨むことと、愛することの価値は等しい。
苦労すること、痛むこと、悲しむこと、分かり合えないこと。
貧乏だったり、孤独だったり、不運だったり。
それは、喜びや愛や豊かさの体験と同じだけの貴重さを持っている。
すると、この世界に解くべき問題が、どこにも見当たらない。
解決すべきものは、どこにもない。
誰と話しをしても、
「今、その人が経験していること」は
その人にとって完璧な体験だった。
その人が、この人生で、体験し、学んでみたいと思っていることを
学ぶために完璧な状況が、そこにはあった。
懸命に生きるということそのもの、生そのものが
そこに1つの完璧さを持っていて、
僕らを、完璧な仕方で導いている。
だから最近僕は、少々途方に暮れてもいる。
人を憎むという素晴らしい体験をしている人に、
わざわざ、そこから降りてもらう必要性は?
僕の知っていることを、伝えることで、
その体験を別の体験にさせてしまうことの、意味は?
昔、こんな日記を書いた
何年か前に、僕はとても傷つく経験をして、
どうにか自分なりにその経験を消化しようと、懸命だった。
そんなさなか、いきつけのカフェで、旧い友達に偶然出会った。
僕の話を聞いた彼女は「悲しいね、大丈夫?」って泣いてくれて、
やさしいハグをくれた。
ふわっとやさしく包むようなハグだった。
あの、たった一度のハグに
自分がどれだけ救われたのか
今になってわかる。
ただ、「悲しいね」、「つらいね」って、
相手を受け止めること。
それが、どれだけ人を癒すだろう。
それだけで、僕らはきっと、進んでいけるんだ。
人が誰かのために、できること。
それは、ただ「君はそう感じているんだね」
と、受け止めることだけなのかもしれない。
Human being. 人間。
小さなことが許せなくて、
分かり合えないことが、悲しくて
素直になれなくて
攻めた自分が恥ずかしくて
そういうものが、なくなってしまったら・・・
それは、いつか、なくなってしまうのだから・・・
それがある人生を、味わうこと以上に素敵なことはない。
受け入れてしまったら、
拒むことによって生まれるたくさんの瞬間はもう消えてしまう。
それは、きっと思うより早く訪れる。
だから、今のうちに、それを抱きしめておこう。
<著作>
スピリチュアル、精神世界、心理、宗教、学ぶほどに苦しくなっていませんか?
学ぶほどに、なんだかズレてきていませんか? 見えなくなっていきませんか?
現役心理カウンセラー、心理セラピストである著者が今、一番伝えたいこと。
自身の体験を踏まえて、心の探求者たちが陥ってしまう罠、
そしてそこからどうやって抜け出すのかについての航路を示す、渾身の一作。
『心のことを学ぶほど苦しくなってしまったあなたに伝えたいこと』
著者:須藤峻
https://www.amazon.co.jp/dp/B076D362Q1
こちらで、第1章を無償でお読みいただけます。
https://note.mu/sudoshun/n/n754c38c0ef84
僕らが傷つく時、
傷ついたのは、自分の「世界」なんだ。
自分の世界。
自分が信じている世界。
自分の周りにドームがある。
そのドームの中に広がる、自分の世界。
知っている世界、信じられる世界。
トゥルーマン・ショーという映画があったけれど、あんな感じ。
そんな調和した世界に、バキッとヒビが入る経験がある。
騙されたり、嘘をつかれたり、
信じられないような出来事に遭遇したり。
僕らが傷つくのは
その瞬間に、自分の世界観、人間観、死生観、そういうものが、危機にさらされたり、壊れてしまうからだ。
この人は信じられるな、
っと思ったのに、裏切られた!浮気された!拒絶された!自分の信じている「人間の定義」が崩れる。
じゃあ、
「人なんて、騙すし、利己的だし、そんなもんでしょ?」
って思っている人は傷つかないかというと、実は逆なんだな。
傷ついてしまったから、そう思うことにしたってこと。
だから、世界を斜めに見ている人ほど、
とてもとても繊細だ。
傷つきたい人なんていないのに
どうして僕らは、傷つく体験をするのだろう。どうして、傷ついてしまうのだろう。
ここで、ひび割れた世界の向こうのことを
思い出してみよう。
ひび割れた自分の世界。
その向こうに何がある?その外側には何がある?
実は、もっと広い世界が広がっているんだ。ヒビの隙間から覗くと、向こうには、まだまだ世界が広がっている。
自分の世界というのは、
自分の世界観によって作られている。
それは「人って、こういうものだ」とか
「愛って、こういう態度だ」なんてことの積み重ね。それが、世界を作る。
例えば、男は男らしく!という世界に生きていたAさん。
結婚し、息子が生まれ、すくすく育ち、ある日、同性愛者だと告白される。
きっとショックを受けるよね。Aさんの世界に、激震が走る。
そう、傷つくってことだ。
Aさんにとって必要なことはなんだろう。
きっとAさんは、必死で、ヒビを直そうとする。自分の信じる世界が、正しいのだと言い聞かせるはずだ。息子さんを非難したり、怒ったり色々するだろう。
それをしている間中苦しい。
唯一の解決策は、壁を壊すってことだよね。自分の信じてきた正しさ、世界観を、手放すってこと。
そう、自分を閉じ込める壁の外に出る以外に、解決のしようがないんだ。
すると、男は男らしく・・・という世界に激震を入れてくれた息子さんは
救世主ってことが見えてくる。
自分を小さな世界から解放してくれるのは、
いつだって、裏切ってくれる人 なんだ。
自分を傷つけた人は、自分の世界の外側を教えてくれる人。
傷ついたなら、まずは非難し、糾弾し、自分の正当性を大いに主張したらいいよね。
僕も、いつだってそうだ。
けれど、どこかで、わかってる。
僕は、ひび割れた世界を後にするのだと。
それは時に簡単ではないけれど、必ず、僕らは歩みだす。
外の世界に向かって。
純粋さや、弱さを鍛える必要なんてない。
傷つくことができる柔らかな感受性が、
僕らを導いてゆく。
繊細で、純粋なあなたは、
事あるごとに、傷ついて泣いているけれど
きっと、その涙のぶんだけ、美しい世界に出会うだろう。
そしてその美しい世界のことを、僕らに話してくれるだろう。
* * *
「心のことを学ぶほど苦しくなってしまったあなたに伝えたいこと」
Kindleにて出版しました♪
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この間、親友と話をしたこと。
心理セミナーやワークショップについて。
主催する側としても、思うこと。
感情系のワークってさ、その多くが「瞬間風速」高いんだよね。
だからワークを受けたり、セミナーに行ったりすると、
大きな変化があったり、驚くほどの劇的な展開があったりする。
僕もそんな経験がある。
そして、こんなに変わった!すごい!ってなる。
けれど、僕の経験上、瞬間風速だから、
しばらくすると、また同じ場所に戻るのよね。
そっか自分愛されてた!世界は美しい!過去を許せた!
ってなるんだけどさ、1ヶ月後、3ヶ月後、半年後、
多くの場合、元いた場所にいるわけ。
マッサージに似ているのよね。
マッサージ受けて、楽になる。
けれど、しばらくすると、戻るね。
マッサージの効果って長く続かないからさ。
またしばらくすると凝るね。
それで、またマッサージにいく。
しばらくすると効かなくなるので、今度は鍼治療にいく。
僕は、それで良いと思ってる。
マッサージや鍼治療、素晴らしい。
いろんな心理ワークも、セミナーも素晴らしい。
素晴らしいと思う理由は、
その瞬間に、冷静になって色々活動する”猶予”と”余裕”を持てるからなんだよね。
資金繰りに困っている会社が、一時的に融資受けるってのと同じね。
根本的なビジネスモデルの組み換えが必要なのだけど、
資金繰りを一旦どうにかしないと、そこまで手が回らない。
だから、融資を受けて余裕ができたら、その間に本質的な部分の問題に向き合っていく。
心理のワークショップとか、セミナーとかで、
その場で変化を起こす系のモノは、そういう意味で、有用性が高いし、
それをできる人たちも、すごいと思う。(僕は出来ないので)
一時的にニュートラルの状態になって、
自分を省みる余裕ができて、パワーチャージできる。
けれど、あくまで、「マッサージ」ってとこは、
理解しておく方がいいのかなと思う。
もちろん、それで人生が一変して、そのまま別人にってケースもあるけれど、
それは稀なんだよね。
セミナーの先生は、必ず、「人生が変わります」って言うと思うのよね。
そんで、俺もそう書いちゃうことがあるよ。
そして、それは教える側本人にとっては、リアルなことでもある。
けど、その技術やテクニックを学んだ人がみんな、
同じように、永続的な変化をできるかは、はっきり言って、微妙なところだよ。
だから受ける側がそこを求めてしまうと、
ずっと「本当の知恵」を、探し続けることになる。
もちろん、そんなものはないわけ。
知恵は、あくまで、自分の中、自分の「生活の中」にしかないからね。
融資を受けたら、本業を再構築するってことなんだ。
あくまで「本番環境」は人生そのものだから。
マッサージしてニュートラルに戻れたら、そこで、何をする?
目の前のその人との関係性の中で見えてきた「自分」とどう向き合っていく?
ってのを、ゴリゴリ、やってくしかないのよね。
そして、少しずつ変化をしてく。
ゆっくりとした変化は、永続的なものだよ。
気がついたら、自分はこんなところまで来ていた・・・そんな感覚があるなら、
本当の変化が起きている。
トレーニングはとっても大切だし、練習は裏切らなってもの確かだけど、
やっぱりあくまで、本番が勝負。
本番ってのは、この目に見える、手に触れられる、今生きている現実。
セミナーに行き、旅に出て、垣間見た風景は、
必ず行ける場所、必ず、届く場所だけれど、
そこにたどり着くためには、今日の一日、目の前の等身大の現実を丁寧に生きるしかない。
全てはそこにある。
「心のことを学ぶほど苦しくなってしまったあなたに伝えたいこと」
Kindleにて出版しました♪
心理ワーカーさん、心のことを学ぶ人、興味がある人に向けて、
僕が今、一番伝えたいことを書いています。
→ https://www.amazon.co.jp/dp/B076D362Q1
「note」 にも掲載。
こちら、第1章まで無償でお読みいただけますので、ぜひどうぞ!
https://note.mu/sudoshun/n/n754c38c0ef84
内容
スピリチュアル、精神世界、心理、宗教、学ぶほどに苦しくなっていませんか?
学ぶほどに、なんだかズレてきていませんか? 見えなくなっていきませんか?
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内容
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学ぶほどに、なんだかズレてきていませんか? 見えなくなっていきませんか?
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自身の体験を踏まえて、心の探求者たちが陥ってしまう罠、
そしてそこからどうやって抜け出すのかについての航路を示す、渾身の一作。
【前書き】
皆さんこんにちは、心理カウンセラーの須藤峻と申します。
数ある書物の中でこの本を手にとって頂き、本当にありがとうございます。
本書「心のことを学ぶほど苦しくなってしまったあなたに伝えたいこと」は、
タイトルの通り、「心のことを学んでいる皆さん」、「心のことに興味を持っている皆さん」に
僕が自身の体験から学んだことをお伝えするために書きました。
それは個人的な体験ではありますが、多くの人たちが同じような場所で
つまづき、戸惑い、暗中模索をしていることがわかったからです。
皆さんに一つ質問があります。
皆さんは今幸せですか?
自己啓発、自己成長、スピリチュアルや心の世界を学び始めて、幸せになりましたか?
きっと、多くの人が「YES」と答えると思いますし、僕もそう質問されれば、
学んでよかった!と間違いなく答えます。
たくさんのことがわかるようになり、自分や周囲の人を大切にできるようになり、
ずっと自由に生きている自分がいます。
けれども、旅を進めるうちに、心のどこかで僕はこんな思いを持っていました。
「なんだか自然じゃなくなってしまっていないかな?」
「自分の思っていたのと違う場所に来てしまっていないかな?」
「本当に、この道で良いのかな?」
人は自分の選択の正しさを信じたい生き物です。
僕も、自分の中に生まれたそんな思いを、見ない振りをしてきたように思います。
僕は心理カウンセラーとして活動してきましたので、自分の信じる道が間違っていたとなると、
クライアントさんに何を話せば良いのかもわからなくなってしまう恐れもあったのでしょう。
だから、全ては良い方向に向かっているのだと、信じようとしていたのです。
しかし僕が見ないふりをしてきた違和感は、結局、大きなチャレンジとして
僕の前に姿を現すことになりました。どうしてもそこに向き合わないと進めない場所に立った時、
ようやく私は目を背けるのを辞め、問いかけたのです。
こんなに、自分に向き合い、たくさんの学びを続けてきたのに、どうして私は苦しいのだろう?
ここからが、僕の本当の旅の始まりでした。
この本のコンセプトはこの疑問を見つめ、解き明かしていくことになります。
第1章では、なぜ学ぶことが苦しみに向かってしまうのかを分析します。
第2章では私の心の旅を追体験して頂き、
第3章で新しい心の旅のコンセプトを提示いたします。
第4章で、実行の方法論をご紹介しています。
今、僕のお伝えできることのエッセンスを詰め込みました。
その一雫でも、皆さんの助けになればこんなに幸いなことはありません。
