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須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

苦しさは
何かが思い通りにならない
ということから生まれる。

 

なぜ、こうしてくれない?
なぜ、やってくれない?
どうして、そんなことするの?
なんで、わからない??

 

思い通りに世界を動かすという、
永久に叶わない夢に、僕らは魅せられている。
それを試みる限り、
僕らは夢潰え、挫折し、涙の夜を迎える。

 

それは、それで、素敵なことだ。
それがなくては、青春の切ない思い出の多くは体験できなかったろうから。
そこには、人生の素晴らしさの多くがある。

けれど、人生がそれだけではないのも確か。

 

思い通りを超えていこう。

 

思い = マインド。

思い通りにしたい!
というのは、あなたの気持ちではない。
あなたのマインドが、
プログラムに従って動いているだけ。
埋め込まれた常識が、あなたを駆動する。

 

あなたは、まず、プログラムがつくる幻想を見る。

マインドが望む「あるべき」世界だ。

次に現実を見る。

そして、そのギャップに、反応する。
この反応が、ストレスとして、自覚される。

 

こうあるべき がない世界をイメージしよう。

ただ それは そのようにある。
それだけのことだ。

 

風は梢を揺らし
蜘蛛は巣を張り、水滴が結び、
地球は自転し、待ち人は現れない。

 

それだけのことだ。

それが、あなたの世界だ。
 

あなたが、精確に描いた、
あなたの通りの世界だ。

あなたの思い通りではないけれど、
あなたの通りの世界。

それを受け入れる時、
そこに自在なる生がある。
 

思い通りを捨てるとき、
そこに、初めて、自由がある。

 

正すべき現実は消え、
治すべき人も消える。
照らすべき影も、癒やすべき傷もない。

 

あなたはその時気づく。
 

全ては初めから、この世界に生を受けたその日から、与えられていたこと。
 

この世界は、完璧な調和の中にあったこと。

幻想を捨て、現実を生きよう。
Live on the earth.
全てはそこにある。

白い紙とペンを用意します。
白い紙の上から下に線を引きます。
左と右ができるよね。

そこに、確かに 左と右はある。

けれど、分ける者がいなければ、
それはただ、ひとつだった。
線を引く前には、
ただ 一なるもの だった。

二つに、わける。
これがマインドの機能だ。
主体と客体、わたしとあなた、良いと悪い・・・

線を引くことで生み出された二つのモノ。
それは、必ず、セットで存在する。
故に、どちらか一方を手にすることは、できない。

それは、構造上不可能なこと。
(右のない左を、上のない下を、敗北のない勝利を、
想像すらできないように)

故に、一方を求めるなら、もう一方もやってくる。

愛を求める限り、正義を求める限り、光を求める限り、
それとは逆のものが同じだけやってくる。

闇を作ることができるのは光だけ。
偽りを作ることができるのは真実だけ。
悪を作ることができるのは善だけ。

だからこそ、
闇・醜・悪を、光・美・善で解決することは、
決してできない。

光は闇を濃くし、正義は悪を先鋭化する。
それ以外に、ない。

このマッチポンプを超えていく方法は、たった一つ。
線を、消すこと。ただ、それだけ。

救う人 | 救われる人
加害者 | 被害者
強者  | 弱者
善人  | 悪人
正常  | 異常

”|” が 消える時、セカイは変わる。
” I ”(アイ)がない世界、そこには愛しかない。

悲しい日は、やってくる。
大切なものを失い、誰かとわかりあえず、、
どうしてかな?
そんな宛先のない問いをつぶやいて、
気づけば相手を責めている自分に嫌気がさす。

そんな時こそハートに還ろう。

ハートに言葉はない。
意味も理由も正義もない。
嘘も本当も、条理も不条理もない。

ただ、そこに響いている悲しみに身を任せる。
感情に委ね、悲しみそのものになる。

これは、完全に、
自分の内側で起こることだ。

その時、苦しさはない。

感情体験は命そのものの体験、
震える命に触れることは、愛に触れること。
深い悲しみは、僕らを愛に連れて行く。
悲しみの底に落ちたとき、
生きることへの、狂おしいほどの歓びが、
胸に満ちてくることに気づくだろう。

感情体験の苦しさは、
感情を留めていることに由来する。

子供のように大きな声で泣くのなら、
泣くことは苦しみでありはしない。

歯を食いしばり泣くのを堪えれば、
苦しさで、君の胸は張り裂けそうになる。

張り裂かないでね!
大きな声で、泣いたらいいよ。
悲しみを全身で感じたらいい。

君は落ちていく。
悲しみの中に。
悲しみの向こう、どこか懐かしい、
柔らかな場所に。

幸せになる方法
1.自分にとって大切なもの、
これだけは譲れないものを見つける。

2.それを、諦める。

幸せとは、条件を満たすことではなく、
条件を捨てることの先にある。

諦めて諦めて、、、そんな人生楽しくない?

違うんだなー。
今、叶っていることを知る。
今、満たされていることを知る。

だから、諦めるほどに豊かになる。
諦めるほどに、満たされていく。

最も恐れていること。
それは、大切なものを失うこと。
譲れないものを譲らなくてはならないこと。

でしょ?

失うことは、ない。
それは、不在という形であなたを満たす。
不在という体験であなたを満たす。
それは、存在と同じだけの愛を持ってあなたに降り注ぐものだ。

あなたの決めた、好き の外側にある、
未知なる体験は、あなたを拡大する。
あなたの想像力が及ばぬほどに、
世界は広大で、愛の定義は深い。

大切なものを失ったのなら
その不在に目一杯満たされよう。
その巨大なる愛に抱かれて、
受け取れないほどの恩寵に震えよう。

多くの人はまず、
どうやって?と問う。
どうやったらここから出られる?
どうやったら解決できる?
どうしたらよいの?

解決できないと、次は
なぜ?と問う。
なぜ出られない?
なぜこんなことになった?
答えはどこ?

それでも、解決できない時、
人はようやく、何?と問う。
苦しさって何?
問題って何?
解決って何?

何?

という問いを持つとき、
初めて人は、目の前の現実をじっくり見る。
ここではない場所を求めるが故に、
目を逸し続けてきた、今ココ。
現状。自分の立ち位置。

「本当はそうであるはずのない」
という枕詞つきで見ていた現実。
期待越しに見ていた世界。

それらを捨てて、
今、起きていることを、
「起きているのだ」
とただ認める時、
それは、中立な、良くも悪くもない、
シンプルな「経験」というものになる。

経験を、経験する。

そこに悩みは、存在しない。
構造上、悩みが存在できない。

揺れ動く感情はあるだろうし、
渦巻く思考はあるだろう。
けれど、自分に与えられた経験を、
受け入れる時、
経験はいつだって祝福に満ちている。

愛を選択できる時、僕らは自由だ。

 

限りなく自由だ。

 

恐れの中で、癒えぬ過去の傷のせいで、
 

僕らは、時に、愛を抑圧する。

 

助けてしまえば、許してしまえば、笑ってしまえば、

 

楽なのに、自由なのに、僕らは時に、それを妨げる。
 

不思議なほどに、僕らは、愛を留める。

 

それが苦しい。それが、つらい。

 

僕らは愛の不在に苦しむのではなく、
 

自らの中に湧き出る愛を留めることで、苦しむんだ。

 

愛を選択するのなら、そこに不自由はない。
 

そこに被害者は存在できない。

 

愛は僕らを自由にする。
 

愛だけが、僕らを、解放する。

面白かったので、消えないように、こちらにも。

 

<妹尾留衣さんからの質問> 

 

今度、対談をする予定の須藤峻くんに質問です!

最近、スピリチュアル女子がこぞって、

写真の中に光の玉を写そうという意図を垣間みてしまって…

なんとなく気になったんだよね(笑)

なんていうか、外側だなぁって。

 

例えば、私なんかは、UFOを見たり、

神秘的な体験をしたりするのですが、

そういう時は、神聖な気持ちで携帯を持とうっていう感覚にはならなくて、

写真を撮ったりはしない。

むしろ、その神々しい感覚を言葉にできずに、そっと心にしまってしまう…。

 

心から楽しいときもそう。

そんなときこそ、携帯はしまってしまうんだよね。

でも、最近は、楽しい時をどう楽しく見せるかというインスタのために、

旅行する女子もいるくらい、意識が外側に向きやすくなっているようにも想う。

 

今度新しく出版する本は「無限の愛」という本で、

まさにタントラの神髄を、

タントラ修行もほとんどしていない私が書いてしまっていて。

「外側」のない私がそんな本書いてしまったわけなんですよ。

 

見た目も中身も、常日頃、普通の主婦の私が

どうやったら皆さんにこれが真実だと分かってもらえるのかな?

と、不安になります。笑

 

もっと白いひげとか生えて仙人みたいになる!とか
いいね!の数を増やすとか
きらびやかな生活風の写真を載せる!とか
華麗な経歴を載せる!とか

ねえ。笑

龍の形をした雲を撮り続けている人々に、

スピリチュアルの本質的なことってどう伝えたらいいのかな?

それとも。

超現実的なサラリーマンに伝わる??

それも難しそうだよ。笑

やっぱり龍の形をした雲や神々しい写真を

いつも探しては載せていく必要があるかな??笑

 

なんて、そんなことも含めて、出版記念の講演会は是非一緒に対談しよう!

 

妹尾留衣

 

<回答>

 

拝啓 妹尾留衣 様
 

まず、スピリチュアルって何?って話から。
僕は、スピリチュアルっていうのは、
「世界は自分が作っているよね」というシンプルな考え方だと思ってる。

「塗り絵」をイメージするとわかりやすい。
塗り絵の本をめくると、白紙ではなくて、
最低限の「輪郭の線」は描かれてるよね。
この輪郭は、「集合意識レベルでの共通了解」と言っていい。ユングの元型のコンセプト的なね。
(ここは詳しく書くとさらに長くなるから、また話そう)
僕らは、この輪郭線をベースに、まったく自由に彩色していいわけだ。
パステルカラーで塗ってもいいし、黒で塗りつぶしてもいい。
自分が塗った通りに、僕らは、現実を体験する。
故に、絵=自分。言い換えれば、世界=自分、あなた=わたし 。

だから、その絵を見て、黒い!とか、明るい!とかって話は、
あくまで、色を塗った「自分」を知るためのプロセスとして意味があって、
絵そのものの論評には、あんまり価値はないわけだよね、楽しいけど。

さて、ようやく、本論に!

これは、なかなか壮大な問いだよ!
・超常現象(光の玉、龍の雲、オーラ、過去世、天使)
というものに、僕はほとんど興味がないのだけれど、
それらに惹かれる人たちがいるのは、知っている。

それは、スピリチュアルなシンボルや超常現象というのが、
「自分の教えられてきた、常識的な世界観」を壊すモノとして機能しているということだと思う。
つまり、超常現象=超常識現象、つまり、常識を超えた現象ね。

常識的な世界観=自分が暮らしてきた卵の中。なんだか味気なく、楽しくない、、、そんな卵の外側に、どうやら、何かがあるらしい!

>白いひげとか生えた仙人
とか、
>きらびやかな生活
とか
>華麗な経歴
とか
>タントラの修行

というような記号は、確かに、卵の外側感があるから、受け入れやすいよね。
普通じゃない感あるもんね。
逆に、「普通の主婦」ってなると、卵の外側感、超えてる感がないから、
いまいち、萌えないわけよね。

けれど、卵の外側に行きたいという夢は頓挫する。卵の外側は「ない」からさ。
いや、卵の外側はあるけれど、それは、想定しているようなモノじゃないってことかな。
(映画 マトリクス はその辺、完璧に描いているよね)

唯一、卵から自由になる方法というのは、
卵の中で自由になるしかないと、覚悟を決めること。
今、その瞬間、自分に与えられている環境で、自由になると決めること。
つまり、「自分がすべてを塗っているのだから、塗り方変えよう」
というすごくシンプルなことに、気が付くこと。

ここではないどこへ行っても、握りしめてる絵の具が同じなら
いつも、同じ風景が広がる。
それに気が付いて、異なる世界を描き出すのは、
今、その瞬間にできることであって、どこに行く必要もない。
ここではないどこか、ではなく、ここでやってね!ってこと。

けれど、その事実に気が付くのは、
ここではないどこかへの旅を、した後なのだと思う。
それを思う存分することなく、完全に諦めがつくまで探すことなく、
自宅の裏庭に埋まっている宝物の話は、たいして面白くないもんね。

さて、長くなったけれど、
「龍の形をした雲を撮り続けている人々」も「光の玉女子」も、
それがとっても楽しいのだから、ぜひやって頂きたい。
飽きたら、次は天使を探してほしい。
それも飽きたら、イルミナティの話をしてほしい。
次は世界は日本から始まった話をして欲しい。自分の宇宙の系譜を探すのも、忘れずに。
(バカにしてません、念の為)

そのあたりで、もぞもぞしてくる気がするけどな。

そして、そろそろ、みんな一周して、
あれ?こんなんだっけ?って顔を見合わせてる気もするよね。

そして、人を想うとか、愛するとか、自分を統合するとか、
あなたとわたしがいるのなら、そこにはじまり、そこに終わる
シンプルな地平、けれど、信じられないくらいの奇跡に満ちた場所に、

やってくるんじゃないか。

まだ旅に出ていないのなら、旅を勧め、
旅に出ているのなら、故郷のことを伝える。
それが、先遣隊に出来ることかもしれないな、なんて思いましたー!

 

引っ越しの準備中。

1年ぶり、いや2年ぶりに、「自分の家」で暮らすことになる。

湯河原の実家に戻ったのが、2年前。

祖母が他界して空いていた母屋に住むことになったのだけれど
珍入者の二人は、なかなかに問題を引き起こし、けっこうゴタゴタ。

さらに、実家住まいの最中に、我が家は完全に資金ショート。

心をひたすら見つめていた結果、心はきれいさっぱりしたけれど、

同時にお金もきれいさっぱりなくなる。

 

我が家、仕入先行のビジネスを始めてたので
仕入の支払い分とか、カードの返済とか、後から後からやってくる。

仕入とか何十万単位だけど、資金ゼロになってから何発もやってくるからピンチ。
ともかくカードで払ってすべてリボ払いに!

色々言う人いるけれど、リボは神。リボ払い考えた人に、感謝の毎日。

 

ってことで、須藤峻35歳、思い立つ。働こう。

 

ともかく重い腰を上げ、就職活動を始めてみる。

コンサルは売り手市場で仕事がありそうだけれど、それも微妙だな・・と思い、
いつも気にかけてくれていたY氏に相談すると、

うちの会社で働いてみる?という有難過ぎるお誘い頂き、
じゃあお願いします!ということで30分で就職決定。
 

さて、その話と並行して始まっていたのが、葛飾区お花茶屋のお屋敷PJ。
京成本線お花茶屋駅徒歩10分のお屋敷を活かして何かやってみよう!
というなかなか大がかりなプロジェクトで、
5人のメンバーと会社を立ち上げて、まずは大掃除。
このメンバー&プロジェクトがまた素晴らしいんだけれど、それはまた別の機会に。

さて、私、このお屋敷に管理人として住むことになったので
六畳一間を間借りしての生活開始。
うちの相方は、湯河原生活継続ということで単身赴任生活スタート。

 

平日は会社員、週末は大掃除、そこに心理の仕事もちょこちょこ
さらに、もう一つカフェを立ち上げるプロジェクトにも絡んでて
あれ、寝る暇ないねーという日々のスタート。

忙しくなってしまい、あまり手伝えない中、
管理人としてお屋敷間借り生活は、ありがたかったけれど、
冬は、死ぬほど寒かったー。しかも、去年の冬の寒さはひどかった。

日本家屋は外と中、同じ気温で、ダウン着て寝る生活。

そんな中、忙しすぎて、湯河原に一切帰らないことから
パートナーとの関係が悪化し、離婚危機。
(今思えば、旦那の実家に置き去りは結構大変よね・・・)


とまあ、そんなことをしながら、半年が過ぎた頃、
そろそろお屋敷も本格始動ということで、出ていくことに。
 

どうしよ、お家がないし、引っ越し資金もないなーという話をしていたら、

お花茶屋メンバーのお一人が、うちのアパートに居たら?
と申し出てくれる。神の助け!

というわけで、パートナー連れて、明大前のアパートで生活開始。
アパートの募集をしばし止めてくれて、その間に次なる住処を探すことに。

・・という状況なので、次はどこに行こうかな~と社長に相談すると
奥様のご実家が立て替え前で、しばらく空いているから住んでいいよ!
ということで、急に田園都市線暮らしが決定。
現地に連れて行ってもらうと、高級住宅街の庭付き一戸建て。
家具家電すべて揃っていて、その日から普通に暮らせるって
わたくし、前世でだいぶ徳を積んだらしい・・・
(ではなくて、本当にありがとうございます。)
 

スーツケースにすべてを詰め込んで移動する、旅暮らし。
いずれは、世界を旅するように暮らそうか!

とパートナー(仲直りしました)と盛り上がってもいるけれど。
仕入商品が湯河原だったり、お花茶屋だったり、江田だったり・・・・と

持物が各所にある状態はなかなか不便なので、

すべての持物を集めようということで家探しを開始。
探し始めたら、数日後にはさっさと決まる。
URなので、仲介手数料、礼金なし!来月から、埼玉住民に♪

 

振り返れば、町田のシェアハウスにも居たので
この1年で 

①湯河原→②葛飾のお屋敷→③町田のシェアハウス→④明大前のワンルーム

→⑤江田の一戸建て →⑥埼玉のUR(←NEW)  というジプシー生活。

 

ようやく、落ち着くかしらねー

色んなことがあり、色んな出会いがあり、
何もかもが変わった1年。

 

足向けて寝られない人が、どんどん増えて

できないことがあることも、たくさんわかったし、自分の能力もよくわかった。

これからは、自分のできることを丁寧にやっていくことしかないなと思う。

 

幸運なこと(ばかりだけれどさ)に、
今の仕事は、名経営者の隣で、経営を教えてもらっているような日々。

さらに、完全裁量労働制、出社しなくてもOK、副業OKという

先進的な制度が整備されている。
さらにさらに、古くて汚かったオフィスは、
友人の、インテイリア・スタイリスト 杉山慶輔 にお願いしてフルリニューアル。
カフェのような、素晴らしい空間に様変わり。

 

さて、パートナーは商品をセールで売ったお金を握りしめて、

三度単身インドへ旅立った。
ミラクルメーカーの彼女のことだ、きっと何かを見つけて帰ってくるだろう。

(インドの工房とブランドを立ち上げるそうだ、帰国したら詳しく聞いてみよう)

 

失うものがなくなった日、軽やかな風が吹いた。

こだわりやプライドを手放した日、自由がやってきた。

人生が与えてくれる、すべてのものはギフト。

風の向くまま、気の向くまま、飛んでいこう。

想像すらできない場所へと。

悩める愛しき友へ 

 

今日は、悩みについて話そう。

 

人間は、よく悩む動物だ。

未来について、過去について。

自分のことを、あの人のことを。

 

でも、悩みって何だろう?

 

実はね、悩みというのは、「煙」みたいなものなんだ。

モクモクと立ち上る白煙。

その中に入ると、僕らは焦り、浮足立ち、方向感覚を失ってしまう。

 

けれど、想像してほしい。

 

煙の中で、煙を懸命に追い払ったり、払いのけたり、

蓋をしてみたり、見ないようにしたり格闘している人を。

 

そんな人を前にして、君はもちろん言うだろう。

「煙」じゃなくて「火」が問題だよ!

 

YES.その通り。それが答え。

「煙」と戦うのをやめるってこと。

 

実はね、「悩み」とは、

マインドが作り出した幻想に過ぎない。

 

だから、

どれだけ煙と向き合っても、答えはないし、

どれだけ煙を追い払っても、永久に煙の中。

 

「悩み」を解決しようとする試みが

いかに、困難な・・・はっきり言えば無意味な試みか想像できると思う。

 

煙に対して、積極的にアプローチするほどに

文字通り「煙に巻かれてしまう」わけ。

悩みがある所には、必ず、「火元」がある。

「火のない所に煙は立たぬ」ってこと。

 

この火元はね、「恐れ」です。「恐れ」という炎が燃え、

その炎に「信念」という薪がくべられている。

 

「信念」というのは、自分の中にある

「これは良いこと・悪いこと」という「ルール」。

 

「良いこと、悪いことのルール」を持っていると、

それを破ることへの恐怖が必ず生まれる。

 

「劣った人間」、「悪い人間」、「ダメな人間」になってしまう、

そう思われてしまう。

そしたら、自分はみんなの愛を失ってしまう!

そんな恐れが炎になって燃え、もくもくと悩みを生み出すんだ。

 

「優れた人間」や「正しい人間」なら、どうするだろうか?

どうしたら「優れた人間」や「正しい人間」であれるだろうか?

 

つまり、「正解はどれ?」ってことだね。

この答えのない問いが、悩みの正体。

 

例えば、

君は、将来について悩んでいるとしよう。

 

この悩みは「煙」だ。

実態がない。

もし、君が懸命に煙と格闘し、

結果「将来についての明確なビジョン」を見つけたとしよう。

「将来の保証」でもいい。

 

君の悩みはなくなる?

 

ひと時はね。一時的に、「蓋」のおかげで、君の視界は良好になるだろう。

けれど、しばらくすると君は、別のことで悩み出す。

炎は消えていないからね。別の穴から煙がやってくるわけだ。

 

君はきっと、別の悩みを生きている自分に出会うだろう。

健康や、容姿や、人間関係や、自分の能力についての。

 

ひとつの悩みを「解決」すると、

「悩み」は別の形で再生産される。

これは、永久に終わらないゲームなんだ。

 

賢明なる君は、もうお気づきだろう。

煙ではなく、炎を消すしかないということに。

 

そのために、くべられている薪を取り去ること。

ここからスタートするしかない。

 

おっと、焦っていきなり炎に手を突っ込み、

でかい丸太を取り出そうとしないこと!

やけどするからね。

 

まずは、小さな小枝、炎の周辺にある

小さな小枝の類から、処理してほしい。

小さなルール、自分に課してきた「べき」を捨てていく。

そして、少しずつ炎を小さくしていくんだ。

 

それはとても地道な作業。けれど、必ず結果が出る。

自分のルールを一つ見つけ、手放していく。

それを日々続けていくのなら、

いつの間にか、澄んだ世界が眺めている自分に気が付く。

 

そうなったらしめたものだ。

 

そこから、大物に取りかかるわけ。

自分の深い信念、常識、モラル、道徳心、

あらゆる「尺度」を手放していく。

これは、時間がかかるよ。

 

それまで、自分が信じてきた良いこと、目指してきた在り方を

捨てていくことになる。

それは、自分が、嫌ってきた存在に「なっていく」プロセスなんだ。

 

そうやって僕らは、無条件性を学んでいく。

ジャッジしない。

ありのままを、ありのままで受け入れる。

 

進むほどに、君の視界はクリアになり、

それまで自分の見ている風景が、

どれだけ煙っていたのかに気が付くだろう。

 

もちろん、そんな風になっても、恐れが燃え、煙が立ち込める日はある。

けれど、煙との格闘ではなく、

その悩みを創り出している「恐れ」と「信念」を見つけることに

フォーカスすればいい。

 

すると、煙を楽しむことができるようになる。

たまには、煙も面白い。

色々な形に変化する煙を眺めるのも一興だ。

けれど、そこに飲まれてパニックになる必要はないということ。

 

これが、悩みから自由になる方法、

すなわち、マインドから自由になる方法論だ。

 

この世界には2つの生き方しかない。

悩むのか、悩まないのかだ。

それを

・悩みを現実だと思って生きるのか、

それとも、

・悩みを幻想だと知って生きるのか

と言い換えてもいい。

 

多くの人が幻想を生きている。

すなわち、自分が作り出した幻想を現実だと思って生きている。

自分が自分のために作り出した物語世界に

一喜一憂して生きるのは、楽しい。

傷つき、傷つけられて生きるのは、楽しい。

良いこともあり、悪いこともある陰陽の世界を生きるのは、

確かに愉しいんだ。

 

けれど、その先には、もっとシンプルな世界がある。

悪いこと、ひどいことがない世界。

陰陽という幻想、わたしとあなたという幻想を超えた世界。

悩みのない世界。

 

そこへ行こうか。

 

どうやって?

実は、そんな世界へのチケットは、君のポケットに入っている。

それは、悩める人にこそ、手渡されるギフトなんだ。

 

チケットを見つけた?

 

そしたら冒険の始まり。

自由への旅が始まる。

 

君を導いてくれる出会いがあり、別れがあり、

信じられないような体験が待っているだろう。

 

傷つく日もあるだろうし、

もう何もかもをやめてしまいたい日も来る、

それまで信じてきたものが、崩れていくように思うだろう。

 

けれど、それが「冒険」なんだ。

自分の世界の外側へと足を踏み出すんだ。

自分の正義を、自分の信念を、自らが壊していく旅なんだ。

そりゃ、無傷ではいられないさ。

 

さて、どうする?

 

もう答えは決まっているね。

だって、君はチケットをそんなにも固く握りしめ、

バスが来るのを待っているんだから。

 

教えてあげる。

 

バスは、もう、来ているよ。

 

君が乗り込むのを、今は遅しと待っている。

Open Your Door, 扉を開けよう。

それは、それだけは、君にしかできない仕事なのだから。

「自分の気持ちを大切にする」って、

時々、僕らを想定と違う場所に連れて行ってしまう。

今日は、そんなことを、書いてみました。

 

* * * * * * * * * * * *

 

自分の気持ちを大切にするってなんでしょう?

 

僕は、自分の感情に気づいていることだと思います。

自分が傷ついていたんだな。

寂しさを感じていたんだな。

無視してきたり、見ないようにしてきた感情に

光を当てていく。

 

それを言葉にしてもいいし、しなくてもいい。

相手に伝えてもいいし、伝えなくてもいい。

 

僕が大切だと思っているのは、”自分が”大事にするということ、

大切にする主体を「自分」にしておくということです。

 

いろいろな人を見てきて、

多くの人が躓くポイントがあるように思います。

 

それは、「気持ちを大切にする」という中に、

「気持ちをわかってもらおう」という欲求が入ってくることです。

それは、自分の気持ちを、「”相手に”大切にしてもらおう」という試みです。

このチャレンジは、残念ながら、非常に成功率が低い。

 

チャレンジ失敗。

それが、

「わかってほしかったのに!」

という状況です。

 

説明不要、皆さんきっとご経験ありですよね。

そして、僕もさんざんやりました!

(・・・とか過去形で書くと、

すぐに実演する羽目になるんですけど 笑)

 

「わかってもらう」というのは、相手があることですよね。

なので、必ず「わかってもらえない」という事態が発生します。

 

すると、

「気持ちを伝えたのに、拒絶された!ひどい!」

「受け入れてくれなかった!」

「私を傷つけたのに、謝ってくれなかった!」

 

という状況が訪れるわけです。

そして、その傷ついたという感情に素直に表現すれば、

再度の「わかってくれない」が待っている。

 

この無間地獄にはまってしまうと、

けっこうしんどいわけです。

 

 

『傷つくならば、それは「愛」ではない』

 

という名著があるんですけれど、

この状態が起きる原因を、こんな風に表現しています。

 

何かを差し出して、傷つくのなら、

あなたが差し出した”それ”は、愛ではない。

 

愛ではないなら、何?

 

請求書ですよね!

私は、これだけサービスしました。

なので、支払ってください!!!!

え!?支払ってくれないの?ひどい!

 

頼まれてもいないのに、何かをやって、

請求書を送りつけて、支払いがない!と怒っている。

あんなに尽くしたのに、裏切られた!と嘆いている。

 

もちろん、「支払い」あ目当てでサービスしてるんです。

「受容」とか「評価」とか「愛」が欲しくて、サービスするんです。

相手は、それを無意識に見抜くので、身をよじってかわします。

No Thankyou,今はそのサービス欲しくないんだ・・・ってね。

押し売りされるほど、いらないって!となる。

だから、「求めるほどに、遠ざかる」わけ。

 

これは、傍から見ると、なかなか、笑える状況です。

けど本人は五里霧中。

振り返ると、僕も、そんなことばーっかり。

 

さて、最初の掛け違えに、戻りましょう。

「気持ちを大切にする」というのを、

「気持ちを大切にしてもらう」へと読み替えたことが

そもそもの原因です。

 

自分の気持ちを大切にするというのは、

それを、誰かに肩代わりしてもらうことではありません。

誰かに大切にしてもらうことでもありません。

誰かに「受け入れる」を代行してもらうことでもない。

 

他者による救済を求めている限り、無間地獄は続きます。

・・・無間地獄も、めっちゃ面白いんだけどね、

 

出口は、外にはない。

内です。自分の内側。

 

自分が受け入れるしかない、自分がわかってあげるしかない、

自分が自分を徹底的に受け入れるしかない、と知る。

つまり、あきらめるということです。

 

誰かのせいにするのも、誰かに代行をお願いするのも、

できないのだな・・・っとあきらめる。

 

烈火のごとくの怒りも、ほの暗い嫉妬も、ただれた憎しみも、

全部、自分の内側にある、自分の気持ち。

それを、わかってもらうことはできないし、

それを受け入れてもらうことも、できない。

 

自分がそれをやるしかない。

自分以外に、その仕事はできません。

けれど、それを進めていくのは、みんな一緒に。

自己受容の旅を進めていくためには、

絶対に、わかってくれない他者が必要なんですよね。

 

だから、わかってくれない人、期待外れの人こそが、

その人だけが、自分を自分へと連れていってくれるんです。

 

きっと僕らは、すべてを経験したくて生まれてくるのだけれど、

そのすべてには、もっと先まで含まれているよ。

 

ただ、愛であること。

そんな場所まで僕らの道は続いている。

 

それが、山登りではなく、山下りだというお話は

「心のことを学ぶほど・・・・」に書いた通り!

読んでない人は、読んでみてね!

 

それではまた