保存版:「正しさ」を手放すって何のこと? | 須藤峻のブログ

須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

僕らの意識は、今、大きなシフトのただ中にあります。

僕はそのシフトを「現実1.0から現実2.0へ」と呼んでいます。

https://ameblo.jp/sudoshun-blog/entry-12285782617.html

(↑現実1.0と2.0の説明。こちらもぜひ読んでください!)

 

二元性から非二元性(ノンデュアリティ)とも言えるし、

アセンションと呼ぶ人もいるでしょう。

ただ「愛」という言葉で表現している人もいると思います。

 

呼び方はそれぞれですけれど、

このコンセプトの肝は、「統合」です。

何を統合するのかというと、2つに別れてしまった世界を・・・です。

 

・良い⇄悪い

・正しい⇄間違っている

・被害者⇄加害者

・未熟⇄成熟

・光⇄闇

・あなた⇄私

 

 とかとかとか・・・・

 

僕らは、それらを長きにわたって分割してきました。

それを統合するのがこの時代なので、

今、まさにこの瞬間、多くの人が「統合の体験」をやっています。

 

どんな体験として味合うかというと「自分の正しさを手放す」という体験です。

それは「自分の正しさに固執していると、

苦しくて生きていけないので手放さざるを得ない」

という体験だったりします。

 

苦しい!辛い!傷ついた!許せない!

・・・そこには、必ず「正義」が関わっています。

そこで、「自分の”正しさ”を手放すんだよ〜」と言うと、

多くの人が、「自分は”正しさ”なんて持っていない」と言います。
自分は正義や悪を分けていないし、ジャッジもしていないと言います。

 

そう、まず自分が「正義」を持っていることに気づくのが

まずなかなかに難しいんです。

 

なので、今日は、「正しいこと」というテーマで

それを見つけ、手放していくプロセスについてまとめてみました。

結構保存版と思います。

 

* * * * * * * *

 

|正しいこと

 

「正しいこと」って言うのは、自分の中にある
・人として、して良いこと
・人として、してはいけないこと
です。
自分の中のルールブックです。
例えば、こんなことを書いています。

・約束を破ってはいけない
・わがままを言ってはいけない
・分別をわきまえなくてはいけない

色々、色々。

多くの人が共通して持っているルールは、「常識」と呼ばれます。
そして、そこから逸脱すると「あいつは、非常識だ!」ということになるわけです。

しかし、重要なのは、これはただの決め事、「ルール」だということ。
だから、言うまでもなく、時代や文化、属するグループによって
「ルール」なんて、全く異なるわけです。
幸運なことに、僕らは、それが”常識”の時代に生まれました。


|ルールの機能

ルールがあれば、人はそのルールに照らし合わせて
目の前の人を、良いだの悪いだのジャッジすることになります。
必ず、そうなります。
それは、「ルール違反者との戦い」です。
衛兵のように、いつも違反者をチェック。
誰かが、ルール違反をしていないか目を光らせています。

そして、ルール違反を発見!

「人して最低限の礼節をわきまえていない、なんて無礼なやつだ!」
「親に向かって、その態度はなんだ!」
「約束を破るなんて、信じられない!」

そして、同時に
「自分は、誰かに無礼ない態度をとってしまいやしなかったか?」
とビクビクしたり、
目上の人に、言いたいことが言えなかったり・・・

そう、ルールは必ず、相手と自分、世界と自分、その双方に対して機能します。
自分に、何かを「強いる」のなら、
誰かにも何かを「強いる」ことになります。
自分に厳しい人は、他人にも厳しい。

この話をすると時々、面白い反応が返ってきます。
「あの人は自分を許せないから、誰かを責めてるのね!」

・・・・No No No・・・・

「あの人は、誰かを責めている人だ」
というジャッジをしている「自分」を置いてきぼりにしないでね!
この話に、「他の誰か」は、一切出てきません。

もう僕らに、他の誰かの話をしている時間はありません。
常に常に常に、主語を自分にするんです。



|感情というシグナル

さて、僕らは全員ルールを持ち、それに従って生きています。
けれど面白いことに、ほとんどの人が自分の持っているルールに無自覚です。
自分が「正義」を握りしめていることに気づいていません。

ゆえに、「正しさを捨てる」と書いても、
その本当の意味が、理解されにくいのだろうと思うのです。

実は、ルールは、見えません。
自分にとってそのルールがあまりに自然だから
自分が従っていることには、気づけない。

だから、何もないところでルールを見つけて手放す・・・
というのは、不可能なのです。
そこで、ルールを持っていることを教えてくれる「シグナル」を使うのです。

そのシグナルが「感情」です。

自分がルールを持っている、正義を持っているかどうかは
感情が教えてくれます。

どんな感情かというと、
「怒り」・「悲しみ」・「苛立ち」・「不安」・・・
いわゆる、「不快」な感情です。

不快な感情は、アラーム。
ルール違反!!というアラームです。

例えば、
「迷惑をかける人」を見て、「怒り」を感じたとしましょう。
それは、
・人に迷惑をかけてはいけない
というルールを持っていることを教えてくれます。

ルールに違反した人を見て、ルール違反のアラームが鳴る。
それが「怒り」という感情として体感されたわけです。

このプロセスは、自動反応です。
自分の意図や意識とは無関係に起こるので、
コントロールできません。制御不可能。
メールの自動振り分けみたいな感じです。
一度作ってしまったら、勝手にバンバン、仕分け。

1ルールの存在
2ダメなこと、ルール違反を勝手にラベリング、
3感情反応が生まれ、怒ったり悲しんだり

反応の3ステップです。



|傷つくこと

さて、ルール違反に対し、なぜ僕らの心はアラームを鳴らすのでしょう?
それは「危険」だからです。
「自分が信じる正しい世界像が崩れてしまう危険」を感じた時、
心はアラームを鳴らします。

ルールブックに描かれた、正しい世界。
それが、傷つく。
信じる世界像に、ひびが入る。
これが、「傷つく」という体験の1つの本質です。

実は、多くの場合、傷ついているのは自分ではなく、

ルールブックの正義です。ルールに傷がつく。
けれど僕らは、それを「自分が傷ついた」と錯覚します。
(事実、体感としては自分の心が「傷つく」ということになります)

だから、「自分の世界」を守ろうと必死になります。
自分の世界の正義、正しさを証明しようとします。
自分の信じるルールブックを守るための戦いが起こります。

「聖典」をめぐる戦いです。
(多くの戦争が本当に「聖典」をめぐるものでしたよね)

この戦いを進めるほど、苦しみは、増していきます。
自分の信じる正義を証明しようとするほどに、
僕らは、自分を失っていくからです。

何を? 自分を。

正義=ルールというものの本質を見れば、
そのことが見えてきます。


|ルールの本質

・火の中に手を突っ込んではいけない

というルールはありません。
ルールを作らなくても、誰もやらないからです。

そう、ルールは「自然にやらないこと」は規定しません。
逆に「空気を吸いましょう」というルールもありません。
「自然にやること」なので。

つまり、ルールとは、「自然にしていたら起こること」を禁止し、
「自然にしていたら起こらないこと」を推薦する仕組みだということです。

ルール=不自然。
ここ大事。

つまり、ルールに従うというのは、その根本的な部分で、
「自分の自然をコントロールする」という試みだということです。

だから、
「自分の信じていること」は、
自分の「自然」から自分を引き離していく力を持っている
ということです。

面白いですね。

・自分の正しさを信じるほど、自分から離れていく。

ここでゴールが見えてきますね。
つまり、自分の自然に戻っていくためには、

ルールを捨てるしかないってことです。
自分が信じている正しいことを、捨てるしかない。
自分の常識を、捨てるしかない。
だから、もう皆さん”耳タコ”の、「手放し」なわけです。


|手放しの本質

ここも、丁寧に見ていく必要があります。
なぜなら、多くの人が、「手放し」とか「許し」という言葉を通じて、
無理難題を自分に押し付けているからです。
もちろん、僕もそうでした。

それは、
「許せないものを、許す」
「握っているものを、捨てる」という、苦行です。
これは、文字通り不可能です。

許せないものを、許すなんて、できません。
それこそ、ものすごい不自然な試みだからね。

そうじゃない。
ルールそのものを、捨てると、
許せなかったものが、「消える」ってことです。

「わがままはダメだ!」というルールを持っていると
わがままな人が、許せません。
許そうと努力しても無理。

そうではなく、「わがままはダメ、絶対」という
ルールそのものを捨てるんです。

ここは、さらに深く見ていく必要があります。


|尺度を捨てる

ルールを捨てる・・・というプロセスを理解するためには、
「尺度」という視点を持つことです。
尺度ってのは、モノサシです。

「長さ」というモノサシでは、長短を測ります。
「重さ」というモノサシでは、軽重を測ります。

ルールというのは、同じ仕組みでできています。
例えば、
・謙虚であることが、良いことだ
というルールがあったとします

すると
「謙虚ー高慢」というモノサシがあるってことです。
それをあてがって、謙虚度(=わがまま度) 0〜100と判断する。

そう、このモノサシを握りしめたまま、
「謙虚が良い・高慢は悪い」というルールは、
絶対に捨てられないんです。

「わがままはダメ」というルールを手放すというプロセスは、
「わがままー謙虚」という「モノサシを捨てる」ってことです。

「わがまま」と「高慢」という度合いで、
世界を眺めることそのものを、捨てるってことです。

その基準で、何かをジャッジすることをやめる、
世界をそのモノサシで測ることを、やめるってことです。


|言葉が世界を作る

議論が核心に入ってきました。

実は、そもそも「わがまま」というのは、存在しません。
「謙虚」というのも、存在しません。

当たり前です。
それは、人間の思考が作り出したファンタジーだからです。
そういう言葉があるから、そう見える、それだけです。

謙虚な空を見たことがありますか?
高慢なモミの木を知っていますか?
わがままな朝焼けを体験したことがありますか?

ありません。
(それらは文学的な表現としては、ありだけれど、
その面白さは、”あえて”人間の認識で”遊んでいる”ということです)

まず、言葉ありき。

これは、人間の認識が、存在に先んじるという、
1つの真理を描いています。

「わがまま」という言葉を持っていなければ
この世界に、「わがまま」な人を見つけることはできません。

だから、「わがまま」という言葉を捨てると、
自分の人生から、「わがまま」が消えます。
わがままな人も、わがままなことも、消えます。

同時に、「謙虚さ」も消えます。
控えめな人も、控えめな態度も、消えます。
それを、「謙虚さ」としてラベリングすることが、できなくなります。

手放すというのは、ラベリングをやめるということです。
「わがまま」というラベルをはがす。
すると、それについての「メール振り分けシステム」から除外される。
だからもはや、何も引っかからない。

いないんだから、許しようにない。

もう一度。
そもそも、「わがままな人」も「控えめな人」もいません。
悪い人も、ひどい人も、非常識な人もいません。

ラベルをはがしたのなら、
目の前にいるのは、ただ、その人。
美しく、懸命に生を生きる、一人の人間。

目の前の人に何を見るのか。
いかなる形容をするのか。
それが、自分の持っているラベル、
自分が握りしめているルールを教えてくれます。

世界をいかなる言葉で彩るのか。
どのモノサシで測るのか。
それが、自分の生きる世界を決めます。

さて、「尺度」と「言葉」の本質を理解することで
手放しというプロセスが見えてきました。

「手放し」というのは、能動的な試みではなく、
「起こす」ものではなく「起こる」もの。
そう理解しておく方が、良さそうです。

尺度に気づき、言葉が創り出す幻想に気がついた時、
それは「起こる」。自動的に、手放される。
けれど、それはほとんど意識すらされないものでしょう。


|分離から統合へ

さてさて、そろそろ、まとめに入ります。

僕らは、不自然から自然へと向かっています。
体の傷が治るように、子供が育つように、
僕らは、不自然な状態から、より自然な状態へと向かいます。
それが、「生きる」ということだからです。

この世界を眺めれば
全ての命がそこへ向かっていくことが、よくわかる。
「自然(ネイチャー)」を眺めれば、
「自然(ナチュラル)」であることの確かな存在論が見えてきます。

「不自然」というのは、「そのもの」から離れてしまうことです。
「言葉」を使って、世界を、脳の中に置き換える。
ルール(モノサシ)を使って、「良いー悪い」の序列の中に
世界を並べて、怒ったり喜んだりする。

ファンタジー世界のルールに従うのなら、
僕らは、永久に自分の中にある命の流れ、
自然な統合の流れと、自ら戦い続けることになります。

それが「苦しさ」の正体です。
ありとあらゆる苦しさは、不自然さと呼び換えていい。
自分と自身の戦い。

言葉を使う限り、思考と共にある限り、
僕らは、そこから完全に自由になることは
できないのかもしれません。

けれど、自分の目の前にやってきた出会い、訪れた体験、
出来事に対して、
僕らは自分の中の戦いに気がつき、
よりナチュラルなあり方へと変容していくチャンスとして
向き合っていくことはできます。

それは、万人に、まったく同じだけ、与えられている機会です。
そこには、完全なる平等と公平がある。

その中で、僕らは、統合へと向かいます。
良いと悪いに別れた二元性の世界から、
ただ「ある」という一元性の世界へと。

言葉によって組み上げられた強固なファンタジーから、
柔らかでパラレルな現実、可変的な宇宙へと。


|統合のプロセス

望もうが、望むまいが、旅は進んでいきます。
生きている限り、統合へと命が向かうから。
だから、そこに従うしかない。

だったら抵抗せずに、観念してその流れに従ってしまえ!
っという訳です。

抵抗するのならそれは神の与えた試練。
従うのならそれは神の与える恩寵。

そんな訳で、体験を「ギフト」として味わうための道標として
「4つのステップ」をまとめておきましょう。

1:「許せないもの」と出会う
始まりは、いつだって、許せないものとの出会いです。
ありえない。信じられない。嫌だ。嫌いだ。
モヤモヤ、イライラ、ドキドキ・・・統合プロセスの幕開けです。
始まってしまったら、仕方ない。終わらせるまでやるしかない。

2:感情を味わう
感情反応があったなら、なかったことにはできません。
感情を大切にするというのは、ちゃんと扱うってこと。
感情はメッセンジャーなので、ちゃんと聴いてあげる。
それは、まず気づくこと。そして、感じ切ること。
ネガティブな感情こそ、最高に味わい抜くこと。

3:ルールを見つける
何が許せないのか、何が嫌なのか。
相手という鏡を通して、それをちゃんと見る。

・相手=自分。
・許せない相手=許せない自分。
・許せない行為=自分に許せていない行為(=本当はやりたいこと)

これが、羅針盤。
この辺りを、真摯に見ていくと、必ず見えてきます。
自分が何か、正義を握りしめていること。
許せないでいること。許さないから、苦しいこと。
それを、自分がずっと我慢してきたこと・・・

4:許し・手放し・愛

もう、自分のナチュラル、自分の自然に従うしかないんです。
自分の信じる自分、自分の目指してきた人間像を、捨てる。
自分に禁止をしてきたことを、自分に許す。
自分が今まで、嫌ってきた、絶対にやってはいけないと決めてきたことを
自分に許す。

それは、清水の舞台からのダイブです。
なぜなら、自分が許さなくてはいけないのは
・自分が、一番許せない相手
・嫌だと思っていること
・自分や自分の大切な人を傷つけた人
が、自分だったのだと、心底知ることだからです。

けれど、許してしまえば、あら不思議。
なぜ、あの人のことを、あんなに嫌っていたのだろう?
なぜ、そんなに問題だと思っていたのだろう?

・問題は、問題だと思う人の中にだけ、存在する

この真理を痛感することになります。

ただそこにあるのは、愛。
愛しかないんです。ジャッジをやめた先には、愛だけがある。

全ての出会いは、ここに至るために、作り出されています。
全ての人間関係は、僕らそこへと誘うための装置です。
No exception。例外はない。

私は、あなた。あなたは、私。
そこに闇を見るのなら、それは自分の影。
そこに光を見るのなら、それは自分の光。

ここで言葉にできたのは、

ある1つの世界観に立った見解であり、一面的な風景ではありますが

何か、道しるべのような役割を果たせたのなら

こんなに嬉しいことはありません。

 

 

*  * * * * * * * *

 

ノンデュアリティを体験する
潜在意識で描く不思議な絵画教室は1/21日13:00〜

小田急線 鶴巻温泉駅 徒歩5分 せかいの音カフェ ふくろうの森 にて!

 

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