facebookに書いた記事を、まとめつつ、最終章を書くよ。
僕らは、自由に生きたいと願う動物だ。
それを自覚していなくとも、不自由な場所にいるときに、
痛切に、自由であることへの希求を感じざるを得ない。
そんな僕も、いつの日も、考えてきた。
どうやったら、自由に生きられるだろう?
いろんなことを、やった。
20代。さっさと会社をやめて、自分で仕事を始めた。
フリーのコンサルタント。好きなように仕事をさせてもらった。
自分が提案して、自分が会議のスケジュール作って、進め方からデザインまで、
好きなように、やらせてもらった。
それでも、僕は、もっと自由になりたかった。
そこで、哲学や心理学を直に仕事にすることにして、
カウンセラー、セラピスト・・・と呼ばれるような仕事を始めた。
その世界は、もっと自由だった。
それでも、僕は、まだまだ自由になりたかった。
だから、自分自身に心理カウンセリングをしつつ、
自分を縛るルール、良し悪しの基準も、未完了の感情も手放してきた。
けれども、どこまでいっても、惜しい感じ・・・
そう、自由な一日もあれば、そうでない瞬間もある・・・。
そこで、満足する手もあったかもしれない。
「そんなものさ!」ってね。
みんなで暮らしているのだから、「完全な自由」なんてものは、手に入らない。
考えてみれば、当たり前のことじゃない?
そんなことにこだわらずに、生きた方が、ずっと”自由”じゃない?
100%の自由を求めるという、幻想に囚われていることこそ、
落とし穴なのかもしれない・・・・
けれど、僕は、なんだかそれに納得できなくて
そこから、やっぱり毎日考えた。
考えては、実践し、考えては、実践し・・・・・
そして、やっぱり人間は「完全な自由」を生きられることがわかった。
だから、僕は、完全な自由を生きている。
そして、この瞬間、あなたは、「完全な自由」を生きているんだ。
僕が書きたいのは、そのことだ。
* * * *
<その1:自由についての誤解>
自由になりたければ、自由って何??
というのを徹底的に考え抜くことじゃん?と僕は思った。
そもそも、自由とは何かを定義せずに、
それを実現しようとするところで、つまずいてたりする。
自由ってなんだ?
この試みはね、個人的な見解を見つけることがゴールじゃない。
「僕にとって、自由とは、こんな感じ!」
ってのはスタート地点だけど、その先が大切だ。
実は、自由というのは、人によって異なるものじゃない。
自由とは、普遍的であり、同時に、厳密な概念だ。
つまり、自由とは一種類なんだ。
だから、自由になるための方法もたった一つだ。
だから、そこが理解できたなら、大きく舵を切れる。
だから、まず、問う。 自由って、何?
厳密に、丁寧に、深く深く、考える。
例えばこんな風に。
僕は、自由だろうか? 、、、、自由ではない。
なぜ?
自由にできないことがあるから。
例えば、空を飛ぶことができない。
もし空を飛べたなら僕は自由だろうか?
いや、僕はきっと、自在に海の中を泳ぎたくなる。
もし、それができたなら僕は自由だろうか?
いや、僕はきっと、時間の旅をしたくなる。
もし時間の旅が出来たなら、僕は自由だろうか?
いや、僕はきっと、別の何かを求めるだろう。
そして、それが、出来ないことに、不自由を感じるだろう。
そう、この世界は、思い通りにならない。
絶対に、どこかで僕らは不可能に出会う。
つまり、思い通りに生きることが自由なのであれば、
僕らは、永久に自由にはなれないということだ。
何かが、できない ということを、問題としているのなら
僕らは、永久に 問題を生きるしかないということだ。
ここが重要なポイント。
僕は、自由を目指して、自分を縛りつけるもの、
自分の意思を妨げるものを、なくしていこうとした。
そして、自分の思いを実現することを、欲した。
けれど、それでは絶対に、どこかで、不自由を強いられるということなんだ。
だから、自由に生きる ということは、
「何かをできるようになる」とか「何かを実現できる」とか、
「何かが思い通りになる」とか、また、「それを妨げるものを排除する」とか、
そういうことによっては、実現され得ないってことなんだ。
・自由とは、何かが自由に実現できることでも、
それが邪魔されないことでもない。
さて、では、自由とはなんだろう?
自由に生きるとは、どんなことなんだろう。
<その2:自由ってなんだろう?>
自由を「何かを実現できること」、
「何かを思い通りにできること」、「何かを叶えること」に置くと、
必ず、どこかで行き詰まることを書いた。
それはつまり、どれだけ「自由」を与えられても、
欲望を持つ僕らは、必ず「それ以外」を欲っし、
その時に、「不自由」を感じるということだ。
では「それ以外」を欲しなかったらどうだろう。
例えば、籠の鳥は、不自由かな?
もし「飛びたい」のなら、不自由だけれど、
「そこに居たい」のなら、自由だよね。
そうそう、僕は、甲殻類のアレルギーがあるので、
エビとかカニは食べられない。僕は、不自由かな?
子供の頃は、アレルギーがなかったので、エビもカニも食べていた。
けどね、もう、エビとカニの味が大の苦手。
だから、食べられなくなってから一度も困ってない。
そう、「何かができない」という「客観的な状況」は、
その人の「自由」と、無関係だってこと。
つまり、「その人が、どんな状況にいるのか」というのと、
「その人が、自由かどうか」というのは、無関係だということだ。
つまりね、「籠の中で、自由に生きること」も
「籠の外を、不自由に生きること」も、全く可能だってことなんだ。
例えば、籠というのを「ルール」と読み替えてみよう。
すると、自由とルール・・・というトピックの本質が見えてくる。
自由に生きるって話をすると、
「だけど、ルールは守らなくちゃ!」って話が出てくる。
けれども、この2つのことは、実は、全く矛盾していないってことなんだ。
僕らは、厳密なルールの中で、極めて自在に創造される世界を知っている。
音階に厳密に従う”音楽”。落語などの伝統芸能。
5・7・5の厳密なルールに従う俳句や短歌の世界。
型を極めていく武道の世界。
そもそも「日本語」のルールを厳密に使用するからこそ、
自由自在に、書くことができるんだ。
このことが教えてくれるのはね、二つの世界があるってこと。
・ルールがある だから 不自由
・ルールがある だから 自由
そろそろ、自由の正体が見えてきたよね。
自由と不自由。
それを決めるのは、目の前の条件に対しての姿勢だってこと。
こんなに書いてきて、結論は、「あなたの姿勢次第!」っていう
結構普通の話なわけ。
だけどね、このことを、本当にちゃんと考えていくのなら、
僕らは、自由に生きることができる。
本当に、無限の自由を手にすることができる。
だから、もう少し、お付き合いくださいませ。
<その3:自由を生きるために>
さて、書いてきた通り、
僕らは、世界を望むように、思う通りに変えることなどできない。
どんなに望んでも、雨は止まない。
どれほど願っても、あの人は、生き返らない。
アラブの王子に生まれたかったのに!とか、
もう少しスタイルが良く生まれていたら!とか言っても、変わらない。
そう考えてみれば、僕らの人生は、「不自由」の連続だ。
明日は楽しみなデート!るんるん! からの、豪雨!!!!!
重要な打ち合わせの日に、目覚まし時計が故障!!!!
詐欺にあって、貴重なお金がなくなってしまう!!
僕らは、それらを、コントロールすることはできないし
時に、周到に用意しても、避けることのできない出来事がやってくる。
自分がやりたいことを、妨げる出来事が必ずやってくる。
それを、「願望が実現しないという不自由さ」と捉えるのであれば、
僕らは、目の前の現実に、行く手を阻まれ、邪魔され、
足を引っ張られ、実現を禁止されていることになる。
降って湧いた不幸。その不運に苛まれる被害者としての自分が生まれる。
もう一つの道がある。
それは、「願望が実現しない」ことによって、
自分の「願望」から自由になるという道だ。
こうあるべき、こうあって欲しい、こうありたい。
それらは、どう頑張っても、自分の背丈以上の願望でありはしない。
だから、それが叶うことというのは、そんなに大したことじゃない。
そんな願望を超えさせてくれたのは、
自分が想像できなかった出会い、想定を超えた出来事、
予想外の体験 じゃなかった?
雨が降ったからデートが台無し!
と思ったら、素敵なカフェを見つけたりさ、
日常が壊れた時に、その瞬間、瞬間を、
本当に大切に生きることの尊さを見つけたり。
僕らは、自分の思い通りにならないものによって、
自分の知っている世界 から 知らない世界 にシフトする。
自分が、思い通りに、できない人によって
自分の小さな世界 から 大きな世界へ 羽ばたく。
大事だから、もう一回、書いちゃうよ。
自分が、思い通りにできない、自分の思い通りにならない、
ムカつく、許せない、ありえない、このやろー 喧嘩売ってんの?
ふざけてんの?バカなのアホなの?信じらんない!人として最低!
お前なんか、あんた なんか、死んで○っsとr;sぇ×!五っdぢおwovん!!!
という人に、羽ばたかせてもらうんだ。
その人だけが、あなたを、自由にしてくれる。
なぜかというとね、
苦しすぎて、そこにはいられないから。
飛び出しちゃう以外に方法がないから、僕らは飛び出す。
どこに?自分の魂が、本当に、望む場所に。
願望を超えた、自分の魂のルートに。
これは、スピリチュアルな意味ではない。
ヒヨコがニワトリに育つように、種が芽吹き、花を咲かせるように、自然なこと。
僕らは、自分の潜在性に導かれて生きていくということだ。
僕らを、縛り付けるものが、自分を解放してくれる。
与えられてしまったもの、自分の意思とは関係なく
手渡されてしまったもの、運命。
運命が、僕らを自由にする。
思い通りにできないモノ、望まなかったモノが、僕らを自由にするんだ。
だから、僕らは、自分がわからないもの、
自分にとっては、未熟に見え、偽りに見え、ダメに見えるものに出会った時に、
分析したり解釈したり批判したりしてる暇はない。
あの人には、心理ブロックがあるよね・・・なんて発言が、一番、もったいない。
それは、自分を殻の中、檻の中、安全な場所において
「自分は変わらない。その人が変わるべきだ。」と言う発言だから。
ここに得るものはない。
そうではない。
その人を「心理ブロックがある」とジャッジした自分の不自由さに想いを馳せる時、
初めて、自由への扉が開く。
全てのものを、全てのことを、
自らを解放するための、契機として生きる時、この世界は、楽園だ。
どこにいても、誰といても、限りない自由に満ちている。
不自由さへ、自由に満ちているのだから。