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須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

パートナーシップについて。このテーマは、もっと体験談として、
書こうと思うのだけど、今日は気づきのメモとして・・・

***

 

僕らは、素敵な靴を見つける。

それを眺めてる時、僕らは幸せだ。

だから、それが欲しくなる。

 

念願叶って、それを手にいれると、

しばらくは、満足感に満たされるだろう。

 

けれどしばらくすると、僕らは不安になる。

誰かに、盗まれやしないか、壊れはしないか。

そして、小さな傷や模様が気に入らなくなる。

気がつけば、幸せは消えてしまった。

 

パートナーシップ。

はじまりは、素晴らしい。

共にいるだけで、僕らは幸せだ。

そこに親密さがあり、愛があり、ケアネスがある。

それに惹かれて、僕らは、契約を交わす。

そして、相手を手にいれた途端、不安がやってくる。

相手を誰かに盗られないか。

嫌われないか。

壊れてしまわないか。

 

そして、相手の些細な部分が、気に食わなくなる。

自分に似つかわしくないとか、

自分が、似つかわしくないとか、思い出す。

これをして欲しい。これは、しないで欲しい。

注文リストは、時と共に長くなり、

しかし、次第に、それらが満たされないことに気がつけば

失意と静かな諦めが二人の間に満ちていく。

 

友達でいたあの日なら、笑って許せたこと。

素直に言えたこと。当たり前に助けられたこと。

 

それが、なぜ、できなくなってしまった?

何が起きてしまった?

あんなに素晴らしかったモノは、

なぜ、頑なさと窮屈さへと変わってしまった?

 

そこからが、始まりだ。

 

素晴らしかったあの日を思い、または、新たな出会いの中で

僕らは、きっと気がつくだろう。

手にいれなければ、幸せだったということに。

 

相手を、自分のモノにしておきたいという欲望。

相手を自分の思う通りにしたいという欲望。

それが、互いを縛りあっているということに。

 

相手を所有した時、不寛容が生まれ、支配が生まれる。

期待と失意が生まれる。

 

それに気がついたなら

僕らは、手放し出すだろう。

それは、「近づかない」ということではない。

よそよそしくあれということではない。

 

まるで逆のことだ。

 

放てば、手に満てり。

所有を手放した時に、手の中に残るのは「親密さ」だ。

それは、あの日、二人の間に芽生えた、愛とケアネス、親しみそのものだ。

 

僕らは、気がつくだろう。

独占、所有、執着、それを手放した時に、

はじめて、本当のパートナーシップが生まれてくるということに。

ほんの少しでも独占の願望があるのなら、

そこに、無条件の愛は生まれてこないということに。

 

相手がその人生を最も輝かせ

相手の人生を宇宙に最も捧げられること、

相手が相手の思うがままに生きることを支援し、祝福すること。

 

そこに、なぜ、独占が混入しえようか。

相手が世界へ放てる愛のエネルギーを、

「わたしだけ」へと縮減することが、どうして、愛たりえようか。

 

相手が、誰かを愛し、その関係性から、より深い気づきを得ていくことを

どうして、悲しむことが、できようか。

 

人は、誰か一人を愛するということを通じ、世界を愛することを学ぶ。

愛の宛先は、固有名詞ではない。

愛とは、限定的対象に与えるモノではない。

愛とは、ひとつの世界に対する共通の態度のことだ。

 

本当に、一人の人を愛するのなら

その人は、すべての出会いに、温かな親密を見出すだろう。

そこにいつだって、無条件の愛が流れているだろう。

そして、本当のパートナーシップを手にいれるだろう。

世界を変えるポジションにつくという目的のためには、

時に、自分らしくないこともする必要があるし、

力を持っている人と、うまくやる必要もある。

将来、大きく変えるために、今、小さな犠牲は仕方がない。

 

それを重ねていったのが、

今の社会であり、今の、政治の世界なんだよね。

 

みんな、本当は、わかってる。

 

そういうやり方をしているうちに、

気がつけば、自分が変えたくて、仕方なかった、

古い世界の側に、いつの間にか自分が立っている。

 

はじめは、みんな、志があったんだろう。

素晴らしい世界、愛と調和の世界を作りたかったのだ。

どこで掛け違えてしまった?

 

原因はね、「目的」と「実現のプロセス」を分離したこと。

それは、絶対に、一致していなければならないってことなんだよ。

 

平和のために、戦争をする。

開かれた政治を実現するために、裏で工作する。

幸せになるために、今は、我慢する。

 

これは、全部、不可能な夢。

もう、みんなわかってきたよね。

 

平和は、平和から生まれ

清らかな政治は、汚濁の開示からはじまる。

幸せになるためには、今、幸せを選択するしかない。

 

犠牲から、迎合から、新たな創造が生まれることはない。

 

本当に、多様性を認め合う社会を、

誰もが、ありのままで、自分を生きられる社会を作るのなら

その過程に、画一性や犠牲をともなってはならない。

 

これは、美意識の問題ではないし、哲学の問題でもない。

「意識の物理学」の話なんだ。

 

そして、今、それを明確に実現し、僕らに指し示している人が
三宅洋平さん。彼は、それを、明確に理解し、実践しているよね。

 

スーツを着て、ネクタイを締め、髪を切って、髭をそる。

その瞬間に、これまでと同じ道へと足を踏み入れてしまうんだ。

 

そう、それは僕の話であり、あなたの話だ。

自分を貫くことは、時に勇気がいるよ。

何かを失うことがあるだろう。

 

だけど、必ず、あなたは、自分を手にいれる。

生きることの本当を、誰のものでもない自分の人生を。

 

Visionを持とう。

自分たちの力を知ろう。

この大きな、地球規模の巨大な変化に乗って、どこまでも行こうじゃないか!

僕は、三宅洋平さんに入れる。

7/10 参議院選挙から世界を変えていこうぜ!!

 

 

 

 

僕らみんなが、自分の力を取り戻すこと。
これに尽きると思うんだ。

 

それは、
僕らは、もともと、何も変える必要がない。
僕らは、本当に素晴らしい存在だってこと。

 

そのために
~はダメ、~は善い っていう信念(常識)を
徹底的に、手放していくことだよ。

 

ダメだと決めてしまうことで創られた
自分の中のシャドー(見たくない自分)を統合してくこと。

 

それによって、
自分のハートに従った生き方ができてくる。
自由な、自在なる生が立ち上がってくる。

 

僕は、このプロセスの中で
自分が自分の生を、自分の仲間の生を
自足させていくことができてくると思ってる。

いや、そういう生活スタイルへと変化していくと思ってる。

 

自分が食べるものを、自分たちで作ること。
自分が暮らす場所を、自分たちで創ること。
自分の幸せを、豊かさを、自分たちで創ること。

 

それをみんなが実現できるのなら、
もう、いらないんだよね。
巨大な金融経済も、グローバル資本も、
それを成立させるための戦争も、戦争ビジネスも。

 

もちろん、それらすべて、「悪」じゃない。
それらは必要な形で、そこにあるだけだ。

 

人の心の中の戦争(善悪の基準をひとつでも持っているなら
そこに戦争は生まれる)が、ただ輪郭を持っただけだし、
”足りていない”という恐れが、具現化しているだけだからね。

 

僕らにできることは、光を当てていくことだ。
闇とは、存在じゃない。光の不在のことだから。
これまで、「当たり前」という意識、つまり「常識」によって
僕らは、闇を創り出してきたんだよ。

 

僕らが、自分の常識を誇るほどに、闇は強くなる。

 

自分はこんなもんだ、自分はダメだ、未熟だ、できない。
お金がないから、能力がないから、時間がないからできない。
社会人とはこんなものだ、家族とはこんなものだ、
政治とはこんなものだ。
生きるとは、こんなものだ。

 

この「常識」によって、闇は大きな、大きな、
それこそ、巨大な力を持つに至ってしまった。
僕らは、今、それを目の当たりにしている。

 

誰もが、もう、wake up するしかないところまで
追い込まれている。

 

こうやって生きなくちゃ・・・
これを失ったら生きていけない・・・

 

そういう恐れを、手放していくしかないんだ。
そして、自分が我慢することを通じて手に入れてきたものを、
手放していく・・・きっとそれは、あなたの大切なモノだけど・・・

それを捨てるしかないんだよ。

 

それが、僕ら一人一人のミッションだよ。

 

まずは、自分の「当たり前」を疑うこと。
違和感を大切にすること。
僕は、あなたは、100%自分の思う通りに、
自在に、幸せに、生きなくてはならない。

 

そろそろ、”can”から”must”に変わってきたよね、
そう、自分の魂が、あなたに迫ってきているはず。

 

その声に、応えよう。
この星を光で満たすために。
これからの新しい、全く新しい時代を創り出すために。

必要なことは、ただ、気がつくこと。

それだけなんだよね。

 

失った後に、その大切さに気がつく、

平穏な日々にあった、幸せに気づく。

 

それは、あった。

けど、それに気がつかなかっただけ。

 

あ~なぜ気づかなかったのだ~!!

・・・そんな経験、みんなしているよね?

 

同じように、僕らは、今、自由なんだよね。

僕らは、完璧に自由で、完全に自在なる今日を生きている。

今という瞬間、どこで誰と何をしているか、

それは自分が自分の意思で選択したことだから。

 

振り返ってみると、

あの日、あの時、僕はあなたは、完全に自由だった。

守らなくてはならないと決めていた約束もルールも、

逆らえないと思っていた人たちも、

踏み外したら終わりだと思っていた道も、

すべて、な~んの力も持っていなかった。

自分が、絶対だ・・・と信じていただけ。

 

自分が、それを逆らえないものだ、

守らなくてはいけないものだと、信じる力が

自分をそこに縛り付ける力だよ。

 

家族?仕事?ルール?常識?自分のイメージ?

 

「守らなくてはいけないモノ」だと信じる強さが、

自分に課される試練の難易度を決めるよ。

人生のハードルの高さを決めると言ってもいい。

 

自分が巨大な壁を作って、乗り越えられない・・・と嘆いている。

それが、「悩み」というモノの本質だよ。

 

そうそう、僕はO脚なんだけどさ、

中学生の頃、それが恥ずかしくて、絶対に気づかれまい・・・としてたわけ。

・・・ね、今思えば、かわいすぎるよね。

悩みなんて、そんなモノだからね。

悩んでる最中は、ものすごーく深刻なんだけどね。

 

だから、悩みを解決するのは、無理だよ。

なぜかというと、それは、そもそも解決すべき問題じゃないからね。

O脚で悩んでる人が、脚をまっすぐにしたら、悩みは解決される?

翌日には、脚の長さに悩み、背の低さに、頭の大きさに悩むよ。

悩みって、解決する意味も必要性もないんだよ。

 

問題は、それを問題だとして扱っている限り解けない。

 

それは、個人的な悩みも、人間関係も、社会問題も同じ。

そのレベルで考えている限り、解決しようとするほどに、

問題が強化されていくことになる。

 

だ・か・ら、次数をあげるしかない。

エスカレーターに乗って、次の階にいくしかない。

それが「気づく」ってこと。

 

何も、変える必要ないんだよね。

努力する必要も、頑張る必要もない。

ただ、気づくってこと。

 

それは、問題ではなかったんだ。

問題なんて、始めからなかったんだ。

ただ、それを問題だと見なしていた自分の意識があったんだ。

そう気づくこと。

 

気づくって、難しいことじゃないよ。

自分の心が、感情が、身体が、何を感じているのか

どんな風に動いているのか。

耳を澄ますこと。

そこから始めていけばいい。

 

進んでいくよ。きっと驚くほどのスピードで。

生きることの意味が、変わってしまうだろう。

いつの日か、自分の周りの風景が全く違っていることに気がつく。

 

そして、あなたは言う。

「必要なことは、ただ、気がつくこと。それだけなんだ」と。

「人の悩みの話を聴くって、大変じゃない?」

そんな風に、聴かれるたびに、全然大変じゃないよー と応えてきた。

それは100%正しい。

 

どうやったら解決できるだろう?

 

そう考えながら、懸命に生きている人と

時間をわかちあうことが、”大変”?  No No No~

変容の時を迎えた人と出会い、その変容を手伝うこと。

この世界で、一番ポジティブな瞬間とすら思うよ。

 

でもね、ある日、こんな風に聴かれた。

「人の話を聴くの、好き?」

うん・・・と言いかけて僕は口をつぐんだ。好き?

カウンセラーだぜ?傾聴が基本でしょ? 嫌い・・・ではないよね。

でも、「好き」か? すぐに、結論。

 

そうねえ・・・そんなに、好きじゃないわ・・・ 笑

 

そっか。俺、人の話を聴くこと、そんな好きじゃないわ!!

自分的に、ぱっかーん!

カウンセラーと名乗ることで、なんだか、話を聴くことを

ベースにしなくちゃいけない気がして、話を聴いてたんだなー 

と気がついたわけ。

 

実際さ、どんな問題を抱えてるのか、何が起きたのか・・・

というような「経緯」を細かく聴く必要なんて、ほとんどないんだよね。

会ってしばらく雑談したり、立ち居振る舞いやエネルギーを見ればわかるもんね。

むしろ、僕は、そこで見えたことを伝えるのが好きなわけ。

「聴くより、話してたい」んだよね。

 

さて、それってなんだろ?

カウンセリングではなくて、コンサルティングだね・・・ってことで、

「心理コンサルタント」にとりあえず名称変更。

そして、心理コンサルテーションをやることにした。

 

・今、あなたがいる場所(なぜ、あなたが今、それを経験しているのか)。

・次に進む場所(アップグレードの方向性)。

・進むために、すること(どうやってアップグレードするのか)。

 

これを見つけるよ!ってことだね。

そして、継続的にコンタクトを取りながら、

アップグレードのプロセスを並走して完了させるよー!

 

すると、1回ではなく、複数回欲しいな。

とりあえず、1回目で分析と方針を明確にして、

これから何を意識し、どんなことをやっていくと良いのか伝える。

そして、2回目でその成果をシェアしてもらいつつ、

方向性の調整と、定着を目指していく感じかなー

 

時間の許す限り、僕の見つけたモノを、手渡してくよ。

またどんどん形は変わっていくから、ピンときた人は連絡してね!

 

詳細は、HPに書いたよー

http://sudoshun.com/therapy/session/#consulting

 

 

「100%、自分を生きる!!」と決めたとき、
あなたは無敵になるんだよー

 

その瞬間に、どんな人も、あなたを傷つけることも、
振り回すこともできなくなる。

 

んで、「自分を生きる」って何?

 

例えば、誰にも遠慮しないこと、気遣いもしないこと、
人にどう思われよーと、気にしないこと・・・

 

わかってるけど、できたら苦労しないよー って思うかな?

 

YES、それもあるよね。
けれど、自分が「遠慮」したり「気遣い」したり、
「人の目を気にしている」ことに、

気付いてないってことの方が多いのかもしれない。

 

それらの習慣があまりに深く身についてしまってるから
「自分が100%自分らしくある」っていう状態が
そもそも、わからなくなっているんだよね。

 

自分が、自分を小さくまとめ、役割へと貶め、
自分を殺していることに、気がつかなくなっちゃう。

 

特に、「社会的な関係」においては、とっても顕著に見えてくる。
親子、夫婦、上司と部下、隣人同士・・・
あまりに「見本=正しいあり方のお手本」が多いのよね。

 

だから、自分もお手本通りの役割を演じるのが普通だと思うし、
相手にもそれを要求する。

 

あるべき夫の姿、正しい親のあり方、
良い子供、上司、大人、社会人、常識人、人間・・・・

 

息苦し~

 

そりゃそうだ。「あるべき自分」、「役割に即した自分」を生きることは、
ありのままの自分を離れること、

つまり「自分以外の誰か」を生きることだから。

 

けど、多くの人が、こう思ってる。

 

誰かと一緒にいるためには、
どこかで妥協したり我慢したりしなくちゃいけない。
自分が自分の要求を通したら、相手は我慢するのだから当然だよ!

 

OK、その通り。
それも、ひとつの真実だよね。
だから、「人生は妥協と我慢の中で、少しだけ自分の望みも叶えるモノ」
と思うのなら、そういう人生を生きることができる。

 

でも、「100%の自分を生きる人生」を選ぶこともできる。
自分の心のままに、思いのままに、感性のままに、自在に生きる。
傷つくこともなく、振り回されることもなく、
いつも、自分が自分であることに足りている。
そんな生き方。

 

そりゃ、実現できるならしたいさ!と思うよね。
でも、そんなこと不可能・・・と思う前に、ひとつ聴いて欲しい。

それを手にいれるには、巨大な犠牲が伴うんです。

 

・・・ふむ・・・なるほど、それなら整合性があるな・・・

 

そう思うかもしれないね。

YES。もちろん、そんな素晴らしいモノだもの。
無償では手に入らない。
その素晴らしいチケットを入手するためにはね、「犠牲」が必要なんだ。

 

どこの世界も同じだね。

人魚姫が、人間の足を手に入れるために、
魔女に、「美しい声」を失わなくてはならなかったように。

 

じゃあ、あなたがあなたを生きる時、何を失うと思う??

 

 

少し言いづらいけど、言わなくちゃね。
実は、あなたが失うのはね・・・

「あなたの一番大切なもの」なんだよ。
それを失ったら、生きていけないと思っている
「それ」を捨てるってことなんだ。

 

「それ」っていうのは、
あなたが「役割」を通じて手に入れたもの。

 

正しい妻、あるべき母、大人、相手が求めている人間、・・・
それを演ずることを通じて、作り上げた関係性、つながり、居場所、ポジション・・・
そして「あなた自身(”自分”のイメージ)」。

 

全部、持って行くことができないんだ。
それらは、あなたにとって重すぎる。
あなたが、大空へと羽ばたいていくには、どれもこれも、重すぎる。

だから、それらを手放さなくては、ならない。
ギブアップするしかないんだなー

 

だからね、あなたが、あなたを生きる時、
あなたは、そこには、いられなくなるかもしれない。
そして、自分が我慢することで、安定させてきた、
目の前の大切な関係性も、終わってしまうかもしれない。

 

知ってるよ。

 

あなたが演じたのは、「それ」が欲しかったからだって。
あなたは、どうしたってそれが、欲しかった。

 

あなたは、善き人でありたかった。
人を裏切ったり、わがまま言って困らせたり、
傷つけたりする人間でありたくなかった。
責任感があり、寛容で、利他的で、明るく、

人を勇気付ける人間でありたかった。

いい奴だなって、優秀だなって、好きだって、言って欲しかった。

 

あなたは、愛されたかった。
だから、愛される人になろうと思った。
愛されるに足る存在でありたいと思った。

 

だから、時に、それができなくとも、難しくとも、
今日まで、懸命に努力をしてきたね。
我慢し、自分を抑え、反省し、自分を責め、激励し、頑張ってきた。

 

その険しい道のりが、あなたをここに連れてきたのだと思う。
僕らはきっと、それをすることなくして、ここから先に進めないのだ。

 

今、あなたは、清水の舞台に立っている。
あなたが、あなたの人生を進めていくために、飛ばなくてはならない。

 

恐怖がよぎる。
そんな「私」を見せてしまったら、失ってしまう。
関係性を、安定的な収入を、自分の居場所を・・・愛を。

 

誰にも愛されず、はじかれて、
路頭に迷い、友達もいない。お金もなく、住む家も失う。
一度ここから、落ちてしまったら、二度と、戻れない。
そうしたら、生きていけない!!!!

 

足がすくむよね。当然だ。

 

そんな時に、思い出そう。
ありのままのあなたが、どれほどに、価値があるのかを。

どれほどに、愛おしい存在なのかを。

 

あなたの、大切な存在を思い浮かべて欲しい。

 

あなたが、あなたの大切な人(存在)を愛しく思うのは、
その人(存在)がその人(存在)だからでしょ?
何かができるからでも、何かが優れているからでもなく、
その存在が、存在しているということ、そのものに
あなたは、愛を感じている。

 

世界にとって、あなたは、そんな存在だということ。
僕にとって、あなたは、そんな存在だということ。

 

あなたは、世界に一人しかいない。あなたに、代用品はない。
この世界に、あなたというユニークネスは、たったひとつしかない。
あなたが、この世界に生まれてきた時に、あなたの価値が決まった。
たったひとつのピースがなくても、パズルは完成しないように、
あなたが、この世界に存在しているということそのものが、
世界へのギフトなんだ。

 

だから、あなたがあなたである時、
あなたが、恐れずに遠慮なく、100%のあなたを生きる時、

あなたは、最高のギフトを世界に贈ることになる。

 

あなたの怒りが、嫉妬が、嘲りが、寂しさが、痛みが、
そして相手に向けた敵意さへ、ギフトになるだろう。

 

相手の世界を壊すのを恐れず、
相手にとってはた迷惑で、非常識な存在であることを恐れずに、
正直な、まっすぐな、ありのままのあなたである時に、
あなたはあなたを贈ることができる。

相手が、自分の常識という檻から、自分を解放する契機となることができる。

 

不思議だよね、非常識と矛盾の塊(だとみなしてた)自分を生きる時に、
あなたが持っている価値が最大化されるんだから。

 

そして、あなたの世界は入れ替わっていく。
ありのままのあなたを愛する人たちだけが残り、
あなたに「役割」を求める人たちは、去っていく。

次第に、あなたは、あなたを傷つけさせることも、
振り回させることも、選択しなくなる。
あなたがあなたである時、それをできる人はいない。

 

あなたはきっと気がつく。
なんだ!生きるって、こんなにもシンプルなことだったんだ。
そして、これがないと生きていけないって思ってたモノ
・・・お金、家、食べ物、関係・・・
こうしないと生きられないと思ってたやり方
・・・しっかり、責任感を持って、役割を全うして・・・
なくなっても、大丈夫なんだなーって。

 

そう、あなたは、生きていける。
あなたが、あなたを失わない限りね!
あなたが、100%のあなたを生きる時、あなたは無敵。
走り出したあなたに、魅せられて、世界がついてくるだろう。

 

さて・・・飛びますか!

あの人といると、

本当に振り回されて大変だー って人いるよね。

 

気分屋で、わがままで、

意に反するとすぐに感情的になるし

言ってることとやってることは大違い。

そんで、こちらの苦労や我慢なんて気にもせず、

散々フォローしてあげてるのに、感謝の一言もない!!

 

そんな人といると、

疲れるし、こっちのペースを失うし、もー大変。

 

そんな人、どうすりゃいい?

 

ってのが、人間関係の問題の基本ケース。

 

・振り回す人と、振り回される人。

この状態を説明するのに、最近よく使う例え。

 

「千と千尋の神隠し」に出てくる、湯婆婆と坊の関係。

 

坊「◯◯してくれないと、泣いちゃうぞ!!」

湯婆婆「ひゃあ~ ◯◯◯してあげるから泣かないで~」

 

これですね。

あれを思い出してください。

 

さて、問題です。

どっちが、悪い?

 

ふふふ、

このシーンは、とっても良く描いているよね。

だから、答えもすぐわかる。

 

YES、ソノトオリデス。

答え:「どちらかが悪いわけではない」or「どちらも悪い(=原因という意味で)」

 

そもそも、「わがままな人」がいるわけではないんだよね、

「わがまま」なんてモノ、実は、存在しないから。

 

ここポイントだよ。

「わがまま」っていうのは、

それに影響を受けることを「選択」した人が、勝手に命名しただけのモノ。

 

敗者がいない、勝者って、論理上ありえないでしょ?

同じ。

振り回される人がいない、振り回す人ってのも、存在しない。

どちらか一方では、絶対に成立し得ない関係性。

つまり、完全な共同作業ってわけ。

 

湯婆婆が、わがまま坊やを創り出しているし、坊やが、湯婆婆を創り出している。

”裸の王様”と”腰巾着の大臣”は、互いが互いを作り出し、

どちらもアンハッピーなわけだ。

 

つまり、振り回す人=加害者 VS  振り回される人=被害者

ってことじゃないわけです。

 

振り回されてる人が、振り回す人を、自分で育成してるんだね。

自分が相手に、力を与え、その力で負かされているってこと。

自分が、「命令される人」、「気遣う役割」、「我慢する側」へと

積極的に歩を進めているということ。

 

こんな風に、自分の状況を、湯婆婆と坊みたいに、客観的に眺めると

もうその時点で、「何やっとんだ自分、もーやめよ・・・」と

終わってくことも多いと思う。

 

 

今日は、もう少し深く掘っておこ。

 

なぜ湯婆婆は振り回されることを、選択しているのか?

なぜ、あなたは、あの人に傷つけられたり、イライラさせられることを、

選択しているのか?

 

それはね、身も蓋もない言い方すればね、

「かっこつけたいから」なんだな。

 

理想的な◯◯は、こうあるべし!

と思っているから、それを演じるわけだ。

そんで、その理想と違う自分を、隠し通そうとするわけだ。

 

例えば、

浮気をし、暴力を振るうパートナーと一緒にいる人、

その人を受け入れ、許し、支えてあげなくては!!と思っていない?

なぜ?

それが、人として素晴らしいことだから。それが、”愛”だから。

 

逆を見てみるとわかりやすい。

・人を捨てること、人を拒絶すること、人を傷つけること

は、ダメなことでしょ?

受け入れること、許すこと、包むことが素晴らしいこと。

拒絶すること、許さないこと、傷つけることは、ダメなこと!

 

うん、僕は、ずーっとそう思ってたー だから、そんな奴にはなるまい!と誓ってましたー!!

(あ、別に僕のパートナーたちが そういう人だったってことではなく、

様々な人間関係で、そういう関係を創り出してきたってことです)

 

できないっての、そんなの。

 

人を捨てるような人間、人を拒絶し傷つけ、不幸にするような人間は、

ダメな人間(大人として、男・女として、妻として夫として、パートナーとして

スピリチュアルな人として、探求者として、人間として・・・)だから、

自分がそういう人間だとは絶対に認めたくな~~~~~い!!

 

だから、相手を認め(それは、弱さの裏返しだ!と説明し)、

相手を許し(怒りや悲しみに蓋をして)、自分が強くなればいいと言い聞かせる。

そして、結果として、最後の最後で、もうダメだー ってなるのだよ。

それができない客観的な状況をわざわざ創り出してまで、終わろうとするのだよ。

(事故、病気・・・恋人関係なら相手の離心や浮気とかね)

 

僕は、この理想的な自分を追うというプロセスも

人生に必要だろうと思ってるのでやりきれば良いじゃん!と思ってる。

それをやることでた~っくさんの出会いがあるからさ。

 

でも、どこかで人は、卒業をせまられるのも、確かと思う。

フランクリン風に言えば、人生にそれを求められる。

 

優しい方が良い、たくましい方が良い。

受け止める方が良い。温かい方が良い。

安定している方が良い。

悪口や陰口を言わない方が良い。

ネガティブなことを言わない方が良い。

人の批判はしない方が良い・・・・etc etc.

 

それらは、素敵なことかもしれないけれど、

これらの尺度がある限り、

僕らは、自分を、そして人を、”できてる人”、”できてない人”と

ジャッジすることになる。ここに、善悪が生まれて、「悪」の排除や隠蔽が始まる。

だから、「~の方が良い」というのを、捨てるしかない。

 

そして、これまで否定してきた行為をする自分を生きるんだねー

怖いよなー それは。

 

だって、ありのままの自分を生きたなら・・・嫌われて、捨てられてしまう!!

そんな非常識なこと、できなーーーーーーい!!!!!

と思ってるから、それを出さずに隠してるんだから。

 

なぜそう思うの?

 

簡単。

 

自分が、そういう人のこと、大嫌いだからよ。見下してるから。蔑んでるからよ。

そいでね、それはもちろん、自分の中の、大嫌いな部分なわけだよ。

自分の中で、どうして、大嫌いな部分があるの?

 

それは、ダメだと言われたから。それをダメな部分だ!と習ったから。

もしくは、それをしたことで、傷つく経験をしたり、否定される経験をしたから。

(ここは、どっちが先って話をしても、あまり得るものはないと思う)

 

すると、観念が経験を作るから、それを強化するような体験が人生で続いていく。

 循環~ くるくるくるくるくる・・・

  観念→経験→恐れ→経験→観念→恐れ→・・・・

 

まずは、これに気がつくことだよね。

自分の中の許せなかった自分を、許してこ。許せない自分も楽しんでこ。

どんな自分が許せないのか、見つけるのは、簡単だよ。

あなたの目の前の、振り回してくれる人が、あなたそのものだから。

 

その人のモノマネをしてみるといい!

なりきってみると、自分の中に、存分にその人的要素を見つけられる。

本当、板についてて驚くよー 自分に。

 

そんでね、最後に残念なお知らせ!!!

 

あなたは、もともと、そう見られてるよ。

 

思い出してみて。

・坊 → 湯婆婆の関係 = 湯婆婆 → 使用人の関係

でしょ?

 

坊に振り回される湯婆婆は、使用人達を大いに振り回す女王様。

・自分が誰かにされていることは、自分が誰かにしていること。

これ、真理。

 

振り回されている人は、必ず、誰かを振り回してるよ。

傷つけられている人は、必ず、誰かを傷つけてるよ。

 

だからね、もう、自分が認めるかどうかの問題でしかないわけだ。

僕らは、思うほどに器用じゃない。

自分が、絶対に隠しておきたいと思っている、その部分・・・だだ漏れですからー!!!

 

だからね、もう、楽になろー

自分が、頑張っても、頑張らなくても、同じなんだからさ!

トラウマというものは、本当は、存在しないし、
親子関係の問題も、カルマも、未完了の体験も、存在しない。
僕は、そんな風に考えることがある。

 

「星座」に似ている。
オリオン座は、そこに「ある」けれど、本当は、「ない」でしょ?
カシオペアも夏の大三角形も北斗七星も、存在しない。

 

つまり、トラウマというのは、
名指すことができないモヤ~っとした「何か」に、
輪郭線を与えるひとつのアイデアだということだ。

 

この世界のすべては、言葉でできている。
いや、僕らは、この世界のすべてを、「言葉」を通じて、認識している。

無数にある星のいくつかを選んで、勝手に「オリオン座」と名付けると
もう、「オリオン座」が、くっきりと輪郭線を持って、僕らの世界に現れてくる。

けれど、本当は「ない」よね。
星はある。けれど、オリオン座はない。

 

同じ。


「何か」はあるけれど、トラウマはない。カルマはない。
親子関係の問題もないし、未完了の感情もない。
愛も、恐れも、ワンネスも、ない。

ただ、そう名付け、そのように輪郭線でくくってみると、
扱いやすくなるということだ。
「何か」のままでは、手をつけられないものに。


けれど、僕らは、それらが本当は「ない」ということ、
「何か」を扱うために作り出されたラベリングでしかないことを
時に、思い出しておく必要がある。

なぜなら、ラベリングによって、むしろ見えなくなることがあるから。

僕らは、オリオン座の隣に光る小さな星のことを見落とす。
トラウマの話に回収することで、シャドーの物語を使うことで
僕らは、本来触れたかった「何か」のことを、忘れてしまう。

 

この「何か」は、面倒なものだ。僕らは「言葉」でたどり着けない。
それを名付けてしまったら、その瞬間に、僕らは失ってしまう。
ラベリングしてしまうなら、もはや、その「何か」の本質は、
抜け落ちてしまうのだ。
(だって、「何か」とは、ラベリングできないもの のことだから)

 

伝統的に「何か」は、「神」と呼ばれてきた。ワンネスと呼ぶ人もいる。
「神」というのは、外側のことであり、未知のこと、
唯一、既知化できない存在という記号だ。
理解できないもの、わからないもの、名付けられないもの。
絶対的な他者。
(とラベリングすることで、もう失われてしまうんだけれど)

話がずれてしまった。


トラウマという物語、カルマという物語を使って
見える世界がある。そして、失われる世界がある。


セラピストやカウンセラーは、
ある物語(ラベリング)を提供することで、
クライアントの中の「何か」を本人が扱える形にする手伝いをする。
でも、それは言い方を変えれば、
クライアントが固執してしまっている「物語」を解除するとも言える。


正しい物語はない。
だから、「すべては先祖のカルマ」という物語を通じて、
何かを見つけることもできるし、
同じものを、「抑圧されてきた未完了の感情」という物語を通して
学ぶこともできる。
もちろん、「星の位置関係」としてだって、「オキシトシンの不足」としてだっていい。


けれど、重要なことは、どれも「物語」だということ。
そのことを理解して、技法を、扱う時、
それらは、排他しあうものでなく、互いに補完的なものになるのだと思う。


その人にとって、その時、必要となる、支援してくれる物語は異なる。
そして、「行き詰まり」が意味しているのは、
それまで自分が採用してきた「物語」を、そろそろ出る時だということかもしれない。


新たな物語の中で、”その続き”をきっとやるのだろう。
だから、恐れずに、自分を新たな世界へと拓いこう。
興味のままに、思いのままに!

せっちゃんが逝ってしまった。
2016年1月21日、朝7時30分。
ベッドの周りに集まり、手を握り、せっちゃんの最後の呼吸をみんなで聞いた。

朝日の差し込む和室、
手のひらの柔らかさ、7人の息遣い、
薄桃色の寝間着、すすり泣く声

みんな、何か思い思いに言葉を述べていたけれど、
僕は何を話したのだろう。

あれからもう5日が経った。

今日も空は雲ひとつなく、
窓に臨む相模湾は群青に揺れている。
ベッドの上には、布団がたたまれ
片付けられた枕元に、見事な花が飾ってある。

必ずこの日が来ることを僕らは知っていて
最後の数日は、その日が今日かもしれないという思いを
胸に抱きながら過ごした。

せっちゃんの3人の娘たちは
試行錯誤しながら、献身的に尽くした。
見事なバランスとチームワークで、できるすべてのことをやった。
その姿は美しかった。

86年という歳月は、いかなるものだったか。
彼女はどんな風に世界を眺めていたのか。

彼女は、時に師であり、時に友であり、
希有なる理解者であった。

言葉のこと、絵画のこと、文学のこと、哲学のこと
愛について、身体について、生きる意味について
・・・僕らはきりなく語り合った。

僕らはいつも新鮮な今日を生き
互いが、旅の仲間なのだと知っていた。
きっと長いこと、そうしてきたのだと。

彼女の最期の数ヶ月を一緒に過ごせたことは
何にも代えがたい人生の贈り物だった。
導きに感謝をしたい。

ほどなくかかりつけの医師が到着し
速やかに生体反応を確認を行うと、臨終を告げた。
彼の振る舞いには、敬意と優しさがこもっていた。

僕らは感傷に浸る間もなく、
お別れの会の準備を始めた。

美術館の絵を架け替え、葬儀社と打ち合わせをし、
各所に連絡をし、買い出しに走り・・・

そんな中、ふと時間を見つけると
そっと二階に足を運んで、眠るせっちゃんの隣に立ってみる。
母にお化粧をしてもらったその顔は微笑みを浮かべていて
今にも、笑い出しそうだった。
しばらく過ごすと、僕は忍び足で部屋を後にする。
彼女を起こさないように。

家で最期までと僕らが決めた時
せっちゃんはまだ、生きるつもりだったろう。
12月の終わりのこと。
けれど、ほどなく起きられなくなり、飲めなくなり、握れなくなった。

彼女はいつ悟ったか。
いつ終わりを思ったか。
言葉にならない声と、一時またたく瞳の奥で
僕らに何を伝えようとしていたのだろう。

お別れ会は、祖父の時と同じく、我が家の空中散歩館にて執り行われた。
急な日程にもかかわらず、70名を超える方々が
最期のお別れに訪れてくださった。

自分の絵画群に囲まれて
花の中の棺に、せっちゃんは眠っている。

開式の宣言に続いて、
人前で話すことが何より苦手な母が
せっちゃんの経歴を話した。

成功した古書店の裕福なお嬢様だった少女時代。
灰色の戦争、焼け野原の東京、生きる意味を問い、
「絵を描く」と決めた時の躍り上がる思い。
川端美術学校から女子美術大学、結婚と子育て、
60歳で移住した湯河原での生活。

絵筆を握り続け、真理を追い続けたその人生は
情熱の炎に己が身を焦がしつつ、誰もを魅了した。

せっちゃんを誰より近くで支え続けた母、
同じ絵描きとして生きる母の言葉は
澄んだ小川のせせらぎのように、心に染み入って
彼女の生の、ひとつの完結を見たような気がした。

「私の絵は、宇宙から降り注ぐ愛への、ささやかな返信」
せっちゃんはそう残したそうだ。
彼女の絵画に流れる、あの優しさの謎が解けた気がした。

大成絵画教室の第1期生、巌谷さんのスピーチ
日野道生さんのフラメンコギター、
せっちゃんが22年通ったコーラスグループの歌。
齋藤徹さんのコントラバス。

棺を囲い、僕は妻と踊り、歌い、詩を読んだ。
家族や友人が、言葉を贈った。

お別れ会が終わり、霊柩車に乗せられたせっちゃんの身体は、
あっという間に焼かれ、白磁の壺に収められてしまった。

もちろん僕らは知っている。

彼女が、重い身体から解き放たれ、
苦しみからも痛みからも自由になって、
吹き渡る風の中を、この朝の光の中を
自在に飛びまわっていることを。

素晴らしかったね、せっちゃん。
あなたの生は、素晴らしかった。

光に向かって小さな女の子が駆け出していく。
その背中を追いかけて、僕も夢中で走り出した。

***

|祖母へ (2014年)

あなたが
ニューヨークから帰ってくる日を待って
僕は、生まれた

病室の窓辺から
桜の花びらが、舞い降りて
小さな祝福をくれた

あなたはその胸に僕を抱き
母となった娘を
誰よりも誇らしく思った

小さな少年の目に
世界のすべては不思議だった
魅せられたあなたも、幼き少女になって
2人は世界の旅に出た

風と話し
木々と語らい
三日月の物語に耳をすませて

手をつなぎ
どこまでも、どこまでも
川沿いの道を歩いた

あなたは、小さな僕に、教え
小さな僕から、多くを学んだ

時は過ぎ
あなたの背を抜いたころ、
僕らは友達になった

あなたの元を離れても
僕はあなたに会いに戻り
東京の暮らしを語り、
夢中で哲学の話をし
それは、仕事の話へと変わった

あなたはいつだって
少女のようにまっすぐで
傷つきやすく
転げるように笑い
その瞳には
いつの日も忘れられぬ
哀しみをたたえていた

あの春の日に出会ってからずっと
あなたは、あなただった

あとどれくらい
僕らは、共に この世界を生きるのだろう

あの夏の日
僕らは並んで、夕焼けを見ていた
蚊取り線香が炊かれていて
重く熟れた太陽が水平線に落ちようとしていて

僕らは共に闘った戦士だった日のことを
思い出していた
ビギナーが時に、素晴らしい結果を出すことができるのは、
自分を、「わからない」というポジションに置いているから。
わからない時、人は、センサーもアンテナーもその精度を最大化する。
相手や状況が発する微細なシグナルを拾う以外に、対処のしようがないからだ。

わからないから、目を皿のようにし、耳をそばだてる。
”決め打ち”せずに、いつでも戻れるように、変化できるように
柔軟さを残しておける。

それは、目の前の出来事を、ありのままで見ることに他ならない。
つまり、「今・ここ」に完全にフォーカスすること。

経験や知識(=これまで)をベースに、目の前の状況を理解することは、
とても「楽」だけれど、その状況の特異性、特別性こそが、見落とされる。
ベンヤミン風に言えばアウラが消失するわけだ。

一番大切なモノが、見えなくなる。
もったいないね。

逆に、自分はまだまだ・・・と過剰に謙遜していたり、自信が持てない状況とは
ビギナーであることを、否定している状況だと言える。
つまり、無力である自分を、許せていないというのが、背景にある。
ネガティブな感情というのは、つまるところ、無力感がベースにある。

ビギナーであることの否定、無力な自分を否定することの本質は、
「自分が、何かを提供できる」ということへの憧れ。

逆説的だけれど、「自分はできる!」という思いがある限り、
人は、『できる⇄できない』という二極で揺れ動くことになる。
すると、確信できるまでGIVE し続けることになる。

きっとそれも、必要なプロセスなのだと思う。
遅かれ早かれ、必ず、GIVE UP することになるから。

ギブアップすると、「自分」が与えることをやめる。
すると、ようやく、自分がただ自然に行為しており、
結果としてそれが誰かのためになる・・・ラッキーだね!って場所につく。

するともはや、『できる⇄できない』という軸自体がなくなる。
無力感は、必ず、「自分」への執着を必要とする。
「自分が◯◯する(してあげる・与える)」というポジションをなくした時、
物事は「起こす」ものから、「起こる」ものへと変わる。

「起こしている人」は騒がしい。
「~してあげる!という人は、多くの場合、
それに相手が応えない時、想定と違う反応が返ってきた時、
こんなにしてあげたのに!!!!と立腹しはじめる。

そうでなくとも、物理的に「騒がしい人」が多い。
その場のバイブレーションや調和に対してのセンサーを
閉じていることが多いから。

僕が立腹している時ってのは、起こしている時。
自分がモノを落としたり、バタバタしてる時ってのも、起こしている時。

「起こる」を生きている人は、静かで、調和していて、エネルギッシュだ。
世界にも自分にも「抵抗しない」から。
物事が、必要な形で起こり、そこにすべてがあることを知っているから。
そして、いつもビギナーだ。

その目は、世界を初めて眺めた子供のように、
いつも感動に輝き、喜びに震えている。

ビギナーであろう。無力であろう。
そして、目の前の世界の美しさに、いつも心を開いていよう。
2016年、年初の覚書。