あの人といると、
本当に振り回されて大変だー って人いるよね。
気分屋で、わがままで、
意に反するとすぐに感情的になるし
言ってることとやってることは大違い。
そんで、こちらの苦労や我慢なんて気にもせず、
散々フォローしてあげてるのに、感謝の一言もない!!
そんな人といると、
疲れるし、こっちのペースを失うし、もー大変。
そんな人、どうすりゃいい?
ってのが、人間関係の問題の基本ケース。
・振り回す人と、振り回される人。
この状態を説明するのに、最近よく使う例え。
「千と千尋の神隠し」に出てくる、湯婆婆と坊の関係。
坊「◯◯してくれないと、泣いちゃうぞ!!」
湯婆婆「ひゃあ~ ◯◯◯してあげるから泣かないで~」
これですね。
あれを思い出してください。
さて、問題です。
どっちが、悪い?
ふふふ、
このシーンは、とっても良く描いているよね。
だから、答えもすぐわかる。
YES、ソノトオリデス。
答え:「どちらかが悪いわけではない」or「どちらも悪い(=原因という意味で)」
そもそも、「わがままな人」がいるわけではないんだよね、
「わがまま」なんてモノ、実は、存在しないから。
ここポイントだよ。
「わがまま」っていうのは、
それに影響を受けることを「選択」した人が、勝手に命名しただけのモノ。
敗者がいない、勝者って、論理上ありえないでしょ?
同じ。
振り回される人がいない、振り回す人ってのも、存在しない。
どちらか一方では、絶対に成立し得ない関係性。
つまり、完全な共同作業ってわけ。
湯婆婆が、わがまま坊やを創り出しているし、坊やが、湯婆婆を創り出している。
”裸の王様”と”腰巾着の大臣”は、互いが互いを作り出し、
どちらもアンハッピーなわけだ。
つまり、振り回す人=加害者 VS 振り回される人=被害者
ってことじゃないわけです。
振り回されてる人が、振り回す人を、自分で育成してるんだね。
自分が相手に、力を与え、その力で負かされているってこと。
自分が、「命令される人」、「気遣う役割」、「我慢する側」へと
積極的に歩を進めているということ。
こんな風に、自分の状況を、湯婆婆と坊みたいに、客観的に眺めると
もうその時点で、「何やっとんだ自分、もーやめよ・・・」と
終わってくことも多いと思う。
今日は、もう少し深く掘っておこ。
なぜ湯婆婆は振り回されることを、選択しているのか?
なぜ、あなたは、あの人に傷つけられたり、イライラさせられることを、
選択しているのか?
それはね、身も蓋もない言い方すればね、
「かっこつけたいから」なんだな。
理想的な◯◯は、こうあるべし!
と思っているから、それを演じるわけだ。
そんで、その理想と違う自分を、隠し通そうとするわけだ。
例えば、
浮気をし、暴力を振るうパートナーと一緒にいる人、
その人を受け入れ、許し、支えてあげなくては!!と思っていない?
なぜ?
それが、人として素晴らしいことだから。それが、”愛”だから。
逆を見てみるとわかりやすい。
・人を捨てること、人を拒絶すること、人を傷つけること
は、ダメなことでしょ?
受け入れること、許すこと、包むことが素晴らしいこと。
拒絶すること、許さないこと、傷つけることは、ダメなこと!
うん、僕は、ずーっとそう思ってたー だから、そんな奴にはなるまい!と誓ってましたー!!
(あ、別に僕のパートナーたちが そういう人だったってことではなく、
様々な人間関係で、そういう関係を創り出してきたってことです)
できないっての、そんなの。
人を捨てるような人間、人を拒絶し傷つけ、不幸にするような人間は、
ダメな人間(大人として、男・女として、妻として夫として、パートナーとして
スピリチュアルな人として、探求者として、人間として・・・)だから、
自分がそういう人間だとは絶対に認めたくな~~~~~い!!
だから、相手を認め(それは、弱さの裏返しだ!と説明し)、
相手を許し(怒りや悲しみに蓋をして)、自分が強くなればいいと言い聞かせる。
そして、結果として、最後の最後で、もうダメだー ってなるのだよ。
それができない客観的な状況をわざわざ創り出してまで、終わろうとするのだよ。
(事故、病気・・・恋人関係なら相手の離心や浮気とかね)
僕は、この理想的な自分を追うというプロセスも
人生に必要だろうと思ってるのでやりきれば良いじゃん!と思ってる。
それをやることでた~っくさんの出会いがあるからさ。
でも、どこかで人は、卒業をせまられるのも、確かと思う。
フランクリン風に言えば、人生にそれを求められる。
優しい方が良い、たくましい方が良い。
受け止める方が良い。温かい方が良い。
安定している方が良い。
悪口や陰口を言わない方が良い。
ネガティブなことを言わない方が良い。
人の批判はしない方が良い・・・・etc etc.
それらは、素敵なことかもしれないけれど、
これらの尺度がある限り、
僕らは、自分を、そして人を、”できてる人”、”できてない人”と
ジャッジすることになる。ここに、善悪が生まれて、「悪」の排除や隠蔽が始まる。
だから、「~の方が良い」というのを、捨てるしかない。
そして、これまで否定してきた行為をする自分を生きるんだねー
怖いよなー それは。
だって、ありのままの自分を生きたなら・・・嫌われて、捨てられてしまう!!
そんな非常識なこと、できなーーーーーーい!!!!!
と思ってるから、それを出さずに隠してるんだから。
なぜそう思うの?
簡単。
自分が、そういう人のこと、大嫌いだからよ。見下してるから。蔑んでるからよ。
そいでね、それはもちろん、自分の中の、大嫌いな部分なわけだよ。
自分の中で、どうして、大嫌いな部分があるの?
それは、ダメだと言われたから。それをダメな部分だ!と習ったから。
もしくは、それをしたことで、傷つく経験をしたり、否定される経験をしたから。
(ここは、どっちが先って話をしても、あまり得るものはないと思う)
すると、観念が経験を作るから、それを強化するような体験が人生で続いていく。
循環~ くるくるくるくるくる・・・
観念→経験→恐れ→経験→観念→恐れ→・・・・
まずは、これに気がつくことだよね。
自分の中の許せなかった自分を、許してこ。許せない自分も楽しんでこ。
どんな自分が許せないのか、見つけるのは、簡単だよ。
あなたの目の前の、振り回してくれる人が、あなたそのものだから。
その人のモノマネをしてみるといい!
なりきってみると、自分の中に、存分にその人的要素を見つけられる。
本当、板についてて驚くよー 自分に。
そんでね、最後に残念なお知らせ!!!
あなたは、もともと、そう見られてるよ。
思い出してみて。
・坊 → 湯婆婆の関係 = 湯婆婆 → 使用人の関係
でしょ?
坊に振り回される湯婆婆は、使用人達を大いに振り回す女王様。
・自分が誰かにされていることは、自分が誰かにしていること。
これ、真理。
振り回されている人は、必ず、誰かを振り回してるよ。
傷つけられている人は、必ず、誰かを傷つけてるよ。
だからね、もう、自分が認めるかどうかの問題でしかないわけだ。
僕らは、思うほどに器用じゃない。
自分が、絶対に隠しておきたいと思っている、その部分・・・だだ漏れですからー!!!
だからね、もう、楽になろー
自分が、頑張っても、頑張らなくても、同じなんだからさ!