振り回す人 〜湯婆婆と坊〜 | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

あの人といると、

本当に振り回されて大変だー って人いるよね。

 

気分屋で、わがままで、

意に反するとすぐに感情的になるし

言ってることとやってることは大違い。

そんで、こちらの苦労や我慢なんて気にもせず、

散々フォローしてあげてるのに、感謝の一言もない!!

 

そんな人といると、

疲れるし、こっちのペースを失うし、もー大変。

 

そんな人、どうすりゃいい?

 

ってのが、人間関係の問題の基本ケース。

 

・振り回す人と、振り回される人。

この状態を説明するのに、最近よく使う例え。

 

「千と千尋の神隠し」に出てくる、湯婆婆と坊の関係。

 

坊「◯◯してくれないと、泣いちゃうぞ!!」

湯婆婆「ひゃあ~ ◯◯◯してあげるから泣かないで~」

 

これですね。

あれを思い出してください。

 

さて、問題です。

どっちが、悪い?

 

ふふふ、

このシーンは、とっても良く描いているよね。

だから、答えもすぐわかる。

 

YES、ソノトオリデス。

答え:「どちらかが悪いわけではない」or「どちらも悪い(=原因という意味で)」

 

そもそも、「わがままな人」がいるわけではないんだよね、

「わがまま」なんてモノ、実は、存在しないから。

 

ここポイントだよ。

「わがまま」っていうのは、

それに影響を受けることを「選択」した人が、勝手に命名しただけのモノ。

 

敗者がいない、勝者って、論理上ありえないでしょ?

同じ。

振り回される人がいない、振り回す人ってのも、存在しない。

どちらか一方では、絶対に成立し得ない関係性。

つまり、完全な共同作業ってわけ。

 

湯婆婆が、わがまま坊やを創り出しているし、坊やが、湯婆婆を創り出している。

”裸の王様”と”腰巾着の大臣”は、互いが互いを作り出し、

どちらもアンハッピーなわけだ。

 

つまり、振り回す人=加害者 VS  振り回される人=被害者

ってことじゃないわけです。

 

振り回されてる人が、振り回す人を、自分で育成してるんだね。

自分が相手に、力を与え、その力で負かされているってこと。

自分が、「命令される人」、「気遣う役割」、「我慢する側」へと

積極的に歩を進めているということ。

 

こんな風に、自分の状況を、湯婆婆と坊みたいに、客観的に眺めると

もうその時点で、「何やっとんだ自分、もーやめよ・・・」と

終わってくことも多いと思う。

 

 

今日は、もう少し深く掘っておこ。

 

なぜ湯婆婆は振り回されることを、選択しているのか?

なぜ、あなたは、あの人に傷つけられたり、イライラさせられることを、

選択しているのか?

 

それはね、身も蓋もない言い方すればね、

「かっこつけたいから」なんだな。

 

理想的な◯◯は、こうあるべし!

と思っているから、それを演じるわけだ。

そんで、その理想と違う自分を、隠し通そうとするわけだ。

 

例えば、

浮気をし、暴力を振るうパートナーと一緒にいる人、

その人を受け入れ、許し、支えてあげなくては!!と思っていない?

なぜ?

それが、人として素晴らしいことだから。それが、”愛”だから。

 

逆を見てみるとわかりやすい。

・人を捨てること、人を拒絶すること、人を傷つけること

は、ダメなことでしょ?

受け入れること、許すこと、包むことが素晴らしいこと。

拒絶すること、許さないこと、傷つけることは、ダメなこと!

 

うん、僕は、ずーっとそう思ってたー だから、そんな奴にはなるまい!と誓ってましたー!!

(あ、別に僕のパートナーたちが そういう人だったってことではなく、

様々な人間関係で、そういう関係を創り出してきたってことです)

 

できないっての、そんなの。

 

人を捨てるような人間、人を拒絶し傷つけ、不幸にするような人間は、

ダメな人間(大人として、男・女として、妻として夫として、パートナーとして

スピリチュアルな人として、探求者として、人間として・・・)だから、

自分がそういう人間だとは絶対に認めたくな~~~~~い!!

 

だから、相手を認め(それは、弱さの裏返しだ!と説明し)、

相手を許し(怒りや悲しみに蓋をして)、自分が強くなればいいと言い聞かせる。

そして、結果として、最後の最後で、もうダメだー ってなるのだよ。

それができない客観的な状況をわざわざ創り出してまで、終わろうとするのだよ。

(事故、病気・・・恋人関係なら相手の離心や浮気とかね)

 

僕は、この理想的な自分を追うというプロセスも

人生に必要だろうと思ってるのでやりきれば良いじゃん!と思ってる。

それをやることでた~っくさんの出会いがあるからさ。

 

でも、どこかで人は、卒業をせまられるのも、確かと思う。

フランクリン風に言えば、人生にそれを求められる。

 

優しい方が良い、たくましい方が良い。

受け止める方が良い。温かい方が良い。

安定している方が良い。

悪口や陰口を言わない方が良い。

ネガティブなことを言わない方が良い。

人の批判はしない方が良い・・・・etc etc.

 

それらは、素敵なことかもしれないけれど、

これらの尺度がある限り、

僕らは、自分を、そして人を、”できてる人”、”できてない人”と

ジャッジすることになる。ここに、善悪が生まれて、「悪」の排除や隠蔽が始まる。

だから、「~の方が良い」というのを、捨てるしかない。

 

そして、これまで否定してきた行為をする自分を生きるんだねー

怖いよなー それは。

 

だって、ありのままの自分を生きたなら・・・嫌われて、捨てられてしまう!!

そんな非常識なこと、できなーーーーーーい!!!!!

と思ってるから、それを出さずに隠してるんだから。

 

なぜそう思うの?

 

簡単。

 

自分が、そういう人のこと、大嫌いだからよ。見下してるから。蔑んでるからよ。

そいでね、それはもちろん、自分の中の、大嫌いな部分なわけだよ。

自分の中で、どうして、大嫌いな部分があるの?

 

それは、ダメだと言われたから。それをダメな部分だ!と習ったから。

もしくは、それをしたことで、傷つく経験をしたり、否定される経験をしたから。

(ここは、どっちが先って話をしても、あまり得るものはないと思う)

 

すると、観念が経験を作るから、それを強化するような体験が人生で続いていく。

 循環~ くるくるくるくるくる・・・

  観念→経験→恐れ→経験→観念→恐れ→・・・・

 

まずは、これに気がつくことだよね。

自分の中の許せなかった自分を、許してこ。許せない自分も楽しんでこ。

どんな自分が許せないのか、見つけるのは、簡単だよ。

あなたの目の前の、振り回してくれる人が、あなたそのものだから。

 

その人のモノマネをしてみるといい!

なりきってみると、自分の中に、存分にその人的要素を見つけられる。

本当、板についてて驚くよー 自分に。

 

そんでね、最後に残念なお知らせ!!!

 

あなたは、もともと、そう見られてるよ。

 

思い出してみて。

・坊 → 湯婆婆の関係 = 湯婆婆 → 使用人の関係

でしょ?

 

坊に振り回される湯婆婆は、使用人達を大いに振り回す女王様。

・自分が誰かにされていることは、自分が誰かにしていること。

これ、真理。

 

振り回されている人は、必ず、誰かを振り回してるよ。

傷つけられている人は、必ず、誰かを傷つけてるよ。

 

だからね、もう、自分が認めるかどうかの問題でしかないわけだ。

僕らは、思うほどに器用じゃない。

自分が、絶対に隠しておきたいと思っている、その部分・・・だだ漏れですからー!!!

 

だからね、もう、楽になろー

自分が、頑張っても、頑張らなくても、同じなんだからさ!