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ステップあやです!もう早いもので三月ですね。こちらはまだ2/28ですが(もうすぐ追いつきます^^)
さてこの記事は>一つ前の続きです。
一番最後に書いてくださった、ここです。
礼儀や仕事できるか出来ないかが大切なのは百も承知ですが、新入社員として入社して、あの子が可愛いとか、スタイルいいとか悪いとか、当たりハズレとか、またそんな風に品定めされるんでしょうか。やだな。
これね、わかるー。私もそう思って怖かった!
だから
食べて太る時期には
女子が多くて 見た目のことを
あれこれいう人が多かった職場は、
身を守る為に、やめた。、
将来はともかく
今の自分は
そういうの聞いてたら
無理してでも痩せたい、
摂食障害の手段を使っても痩せたい
って摂食障害に引っ張られてしまうと思ったから。
辞めただけで治るわけじゃないけど、
その時にできる努力をしやすい環境を選ぶ
そうでない環境は捨てる
(=自分のための取捨選択)
っていつものアレです。
逃げだといわれようと、私にとっては必要な選択だったと思っているよ。
逃げるは恥だが役に立つっていうドラマが冬にやってたけど、ほんと役に立った! そもそも、逃げるって別に恥でもなんでもないしね。
*ちなみにあのドラマ、全く違う部分で、自尊感情、劣等感に悩む男女が出てきて、面白かったですよ
それとは別に、心の整理として自分でできることをもう一つ。
>またそんな風に品定めされるんでしょうか。やだな
これちょっと気になった。
あえて、ちょっとここで立ち止まってみよう★。
私も自動思考でそうなってたけどね
見た目の好みについて語る=評価してる、とは限らないんだ。
ただ、そのことについて話してるだけ。
でも、
見た目で人を品定め、評価する、される
っていうか考え(捉え方)さ、もしかしたら、なんだけどね・・
今まで(今も?)
自分自身が
自分や人を見た目でジャッジしてきたから
他人もそんなふうに自分を見てるような
”気がする(した)”
ってことはないかな。
私はね・・あったよ(^^;)
だってさ、他人があれこれ言ってても、別に自分がそこで人や自分に評価下してないことについては、気にしないでいられると思うんだよね。(^^;)
そこは、このブログによくでてくる
心のフィルター=”当たり前”と信じてる価値観=思い込み の話を思い出すとわかりやすいかも。
赤いフィルターとおして見ると目の前が全部赤くなるように、
いつの間にか自分の心に出来た心のフィルター=「当たり前・思いこみ・価値観」を通してみると、、
目の前の人、出来事の全部が、そのフィルターの色(考え)のように見える
というあの話。
それを応用してモヤモヤを紐解いてみると、以下のようになる。
人が、ただ、こんな顔や体形がいいとか
いやそれは好きじゃないとか
体形や顔のそのひとの好き嫌いをいいあってるのみた
↓
自動的に
ほらやっぱり、あの人も
見た目で人の価値を決めるんだ、
ほらやっぱり、
私は見た目でジャッジされた・・
って自分の価値観の色に見える
↓
その結果として、心が悲しみや怒りや傷つきや不安などネガティブな”反応”する。
つまり、、、
人が体型の話してても、見た目の話してても、”品定めされたり評価されたり”という恐ろしい出来事は、存在してないかもしれない、
ということ。
そりゃ、中には、本当に、見た目で人の価値を決めたり、””評価”する人も中にはいると思うから、全ケースそうだといってるわけじゃないけれど、
別に品定めしたり評価下したり全然そんな気持ちない人まで、そうに違いない、って思いながら生きてるとしたら・・・?
近くにいる温かい人の、温かい気持ちまでも、恐ろしいものに見えてしまう世界に生きてた(ような気がしてた)。
皆が評価を下す人にみえて。
一人で孤独に、私が痩せれば、私がもっとちゃんとすれば、がんばれば、、・・って考えて。
自分を”攻撃されないように””嫌われないように” ”いい評価をもらえるように” 変わらなきゃ、演じなきゃ、って自分を殺す努力して、自分だけで闘っていて・・
それはもう、寂しかったよー。
でも、その恐ろしい世界もね、
私のその時のフィルター(これは絶対こういうことのはず、こうあるべき、べきでない、っていう固定観念、思い込み)の色だったのかも?
そう思えなくてもそうかも?って思ってみる。
そして、自分と違う捉え方や感じ方をする人の話も聞いてみる。
それを続けてるうちに、苦しい気持ち作フィルターがどんどん減っていって、感じ方を楽に変えていくことができたの。
見た目についてはさ、私も、自分の好み(好き嫌い)はあるし、友達や家族と話すことも普通にあるなあって。
でもそれは、単に、”そのこと”について話しているだけであって その人の存在価値の評価、品定め してるわけじゃなくて、どんな髪型が好きとか嫌いとか、そんな程度のことなんだよ。
愛する人に、そういう時に話す"好み”になってほしいとか、好みの通りの見た目になってくれたらもっと愛する、とか、全く微塵も思ってないんだよ。
実際私が結婚した人も、スタイルがいいわけでもイケメンだと思う顔だちなわけでもないけど (旦那ごめんw
全然、”妥協”したわけじゃないし
世界で一番大好きだし!!
もちろん、もう少し見た目が好みだったらもっと好きになるなんてことも、一度も思ったことないし、そんなこと望んでない。
彼が幸せに、楽しく、生きてることが嬉しい。楽しそうにしてると私も楽しくなってくる。
自分の事は、ナカナカそう思えないかもしれないれど、
「自分についてはそう思えないけど、
きっとそういうことなんだろうなぁ」
って実際に文字や言葉にしてみる習慣をつけてみてほしい。
私も、そう唱えていたら本当に段々そう思えるようになってきました(笑)。暗示は暗示で解くって記事を書いたけど、それだよ。時間かかってもやる価値はあります。
**
摂食障害のころっていっても、発症~進行過程~回復過程の気もちもできることもずっと同じじゃないです。誰でもそうだと思う。
私の場合は、自分については、体形=自分の価値、とか、苦しんでないと=頑張ってない、という価値観で自分を裁くのがなかなかやめられなかった。
というか 意識して、今までの自分の「絶対痩せてるべき」「絶対○○であるべき」っていう思い込みのほうを、本当かな?って疑うようにしていたから、そういう人たちの存在に気づけるようになったんだと思います。
それまでは
”あの人痩せてていいな”とか
”あの人と比べて私全然太いな”とか
”あの人に太ってると思われたかな”とか
”あの人は痩せてないけど顔がいいから許されるんだわ”とか
↑
(もはや誰に?何の許しだ?ってかんじだけど)
”あの人、痩せてないのにそんなもの食べちゃってよく平気だな"
とか
そういう人の魅力にきづけてからも、自分に対しては
「あの人は中身が素敵だからいけど、私は内面もなんもない」
「だから、せめて外見くらいは痩せてないと」
「あの人たちはいいけど私は顔に肉がつきやすいから人一倍頑張らないとダメなんだ」
・・とかって結局、痩せなきゃいけない理由を探して、無理なダイエット止められないときも、何度となくあったけど💦。
それでも、見た目と関係ない魅力に気づくことはそれも含めて次へのステップだったとおもいます。
いろ色書いたけど、人は見た目じゃないとかって説得しようとかはおもってないよ。人より見た目のことが重大事で傷つきやすい気持ちを傷つかない心につくりかましょう、なんてこともおもってない~。
その点は、見た目で傷つきやすいままでも、生き辛さから楽になることも摂食障害を治すことも、できます。
今日の記事の内容を肉付けする意味で読んで欲しい記事のせておきますね。
その1
痩せないと世間が認めてくれない気がする
その2
痩せないと許してくれないのは世間じゃなくて自分?
その3
痩せないと認めてくれないのは過去の(今の)こんな自分-その3
あともう一つ、これも。
次はいただいたメールの他の太字部分についてもう少し続きかけるときにかきますね。
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