プロ野球の投手だった桑田真澄さんが引退後に大学の卒論としてまとめた「野球道」に関する論文は、野球のみならずスポーツや企業における教育や人材育成論としても興味深い指摘をしている
論文をざっくりまとめると、第二次大戦中に外来スポーツであるとして軍部の指示で教育界から排除されそうになった野球は、強い精神の育成を打ち出すことによって軍部による排除から逃れたという
その精神性の強調された野球をスポーツとしての野球と区別し桑田さんは「野球道」と分類した
「野球道」の伝統は戦時中から戦後も受け継がれ、今なお野球界に影響を与え続けていると分析している
具体的には技術や体力と同じくらいかそれ以上に重視される精神力、科学を軽視した練習内容、絶対的な上下関係とパワハラやいじめなど
しかし、周りを見渡すとこのような例は野球のみならず他のスポーツにも見られ、また企業においてもたびたび問題として取り上げられているように思う
つまり、「道」的な価値観は社会全体に蔓延しているといえる
数日前のブログで自分は空手をやっていたと書いた
その空手も多くの場合、「空手道」と表記される
個人的な解釈だと、「道」とは何かを追究する過程で時に厳しい鍛練をしつつ研鑽を重ね、自身の精神的な成長を目指すある種の哲学、またはその実践だと思っている
さらに言うと、「道」は仏教的な価値観を背景にしており、苦行を重ねることで精神的の強化を目指している
そのため、精神の強化を図るにはより強い苦行的行為が望まれる
そこでひとつ問題が生まれる
苦行的行為を課すのが自分自身であれば自身の判断で行為の中断が容易であるが、他人や組織、集団が課したものだと容易には中断が出来ない場合がある
スポーツや企業、組織におけるいじめはこういう精神力を価値基準の中心においた空気が作ることも多い
逆に、合理性に欠けるものでも時間をかけ苦痛を伴うものであればその努力は認められる傾向がある
結論として言いたいのは、苦行的行為の追究は自身の精神の強化に有効であったとしても決して他人に押し付けてはならないこと
そして、苦行的行為を続けたからといって必ず技術や体力面における成長は保証されないこと
そして究極の「道」は「社畜道」じゃね?
ってね