烈々布神社と祭神 | さっぽこのウェブログ

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札幌市東区の北西部、かつて烈々布と呼ばれた地域に烈々布神社がある。



<図1 『札幌歴史地図 昭和編』より札幌村管内図(昭和7年)の集落の境界に線を付加したもの>


道内最多、九柱もの祭神を祀る烈々布神社は国家神道が制度化された中において無格社に位置付けされていた。


<祭神>

天照大神
少彦名神
大穴牟遲神
倉稲魂神
埴安姫神
誉田別尊
崇徳天皇
菅原道真公
藤原三吉命


まずこの神社の由緒について書きたいところだが幾つか異伝があり一筋縄にはいかない。


【1】(札幌郡部で)三吉神社の分霊を受けたとされる小祠が二つ建立された。
一つは札幌村の烈々布神社で、二十六年に住民の横山久太郎が発起し、札幌区守護神三吉神社の御分霊、大己貴神、少名毘古名神、崇徳天皇、菅原道真、藤原三吉命を鎮祭して烈々布神社と称した。
(引用『新札幌市史』、引用元の出典『札幌村史』)

【2】明治22年11月9日、天照皇大神を斎き奉る小祠を建立し、村名を冠して烈々布神社と称したと言われる。
明治26年、横山久太郎が発起人となり、村内の2ヶ所に祀られている小社を合祀する旨協議がなされ、同年9月、札幌区(当時)鎮座、三吉神社の祭神、大穴牟遲神、少彦名神、藤原三吉命3柱の御分祀を受け、新社殿を造営した。
(北海道神社庁HP)

【3】1889年(明治22年)11月9日 - 三吉神社からの分祀をもって祠を設立する。
1899年(明治32年) - 中通り地区と北組地区に祠が設けられる。
1923年(大正12年)9月 - 上記2祠を合祀するとともに無格社となる。
(引用Wikipedia、引用元の出典『札幌の寺社』)

【4】明治二十二年、旧元村字烈々布地内三地区各々(烈々布、北組、中通)に、氏神として奉斎したことに始まる。
明治二十六年十一月九日、横山久太郎氏が発起人となり、烈々布地区に、当時札幌区鎮守三吉神社の分祀を受け社殿を建立。
大正十二年九月、三地区合祀の議が成立ち第三小学校(現栄小学校)西隣の現在地に、本殿造営遷座。
(神社碑文)




幾つか重複する要素があるので確認してみたい。

一つ目は明治22年、烈々布に小祠を設けたこと。

二つ目は明治22年もしくは明治32年に隣接する中通、北組に小祠を設けたこと。

三つ目は明治22年もしくは明治26年に三吉神社から少彦名神、大穴牟遲神、藤原三吉命の分祀を受けたこと。

四つ目は大正12年に北組、中通の小祠を烈々布に合祀したこと。(同年、無格社となる)


また、『新札幌市史』によると烈々布地区で明治25年、中通地区で明治32年に地神塔(地神碑)が建立されたとされ、明治42年から烈々布南組で地神祭りを始めたとの記述がある。

ここに出てくる地神塔とは五角柱または六角柱に五柱の神名が彫り込まれたもので、主に徳島や淡路、香川からの移住者によって作られ、五柱の神名は農業に関わる「天照大神、少彦名命、大己貴命、倉稲魂命、埴安姫命」の場合が多い。(太平会館、篠路神社に現存する地神塔はこのタイプ)

地神塔の五柱と烈々布神社の祭神が同一なのは偶然ではないと思われるが、五柱がどのタイミングで祭神となったかは検討が必要である。


そもそも、明治25年に地神塔が建立されたとされる「烈々布」が烈々布北組(北大第三農園の北側)を指すのか、烈々布南組(同南側)を指すのか、中通(現在の東8丁目通)以東の烈々布を指すのかハッキリしない。

(北大第三農園は南北が北23条から北51条の琴似川まで、東西が東1丁目から7丁目の中通までの烈々布地区、中通地区にまたがるエリア)

また、明治32年に地神塔が建立されたとされる「中通」(中通以西)が地理的に重なると思われる烈々布南組と同一なのかという問題もある。

ただ、明治中期の時点で東区エリアに地神塔が二つしかなかったとされる点、それらが烈々布神社とは区別されているように思われる点から、地神塔があったのは烈々布北組を指す「烈々布」と烈々布南組を指す「中通」と推測し、その前提で考察を続けたい。


この場合、烈々布神社の元になった小祠は北海道神社庁が記述するように天照大神が祀られていたと考えるのが妥当だろう。

丘珠神社がそうであるように開拓初期は北海道で天照大神が祀られることが多かった。

その理由として天照大神は皇祖神であり日本各地から移住してきた人々が信仰できる祭神として無難だったからである。

(平成26年の『西野神社 社務日誌』によると、札幌で最も祀られている祭神は天照大御神であり、そのほとんどが一番目の序列で祀られている。)


明治26年、三吉神社から祭神を分祀されたのはほぼ間違いないだろう。

ただし、同時期の三吉神社からの崇徳天皇と菅原道真公の分祀については断定できない。

隣接する篠路村のレツレップ地区(のちの太平)にあった烈々布天満宮では菅原道真公が祀られており、篠路烈々布に多数移住してきた富山県出身者により天満宮が創祀された。

烈々布古川沿いの札幌烈々布、丘珠烈々布にも篠路烈々布同様富山県出身者が多数移住してきており、その関係で烈々布天満宮から分祀された可能性も考慮する必要がある。

なお、烈々布天満宮は昭和41年、篠路神社に合祀された。


一方、金刀比羅系神社で崇徳天皇を祀るのは香川県の本社とその系列が主であり、札幌で崇徳天皇を祭神とするのは近年に限れば篠路神社と烈々布神社だけである。

ただし、古い資料では三吉神社の祭神である金刀比羅宮にも崇徳天皇が含まれていた。

篠路神社は昭和43年から崇徳天皇を祀っており、その由来は明治20年頃の創祀とされる山口金比羅宮である。

山口金刀比羅宮は篠路村の最北に位置する山口開墾にあった神社で、その名の通り山口県からの開拓民によって創祀された。

山口県には崇徳天皇を祭神とする金刀比羅系の神社は見つからないが、海難や水害から守る神様として全国的に金刀比羅神社は建立されており、石狩川に突出した位置にある山口開墾の祭神としてこの上ない存在である。

しかしながら、金刀比羅宮の主神は大物主神であり、どの金刀比羅系神社に由来するにせよなぜ崇徳天皇だけが烈々布神社に分祀(ないし合祀)されたのかは判然としない。

結論として烈々布神社の崇徳天皇については三吉神社由来、山口金刀比羅宮由来、二つの可能性が考えられる。


菅原道真公と崇徳天皇については1950年(昭和25年)発行の『札幌村史』を出典として明治に分祀されたという由緒が『新札幌市史』に書かれていた。

分祀の事情を知っている人から話を聞けたならその情報は正確であり、当時の事情を知る人が存命せず伝承を元にしたのならばそれなりの時間が経っている事を表しているためやはり明治に分祀された可能性が高くなる。

(追記)

三吉神社の祭神については明治15年に村社への昇格を求める請願書において「相殿 琴平宮菅原宮」と記載されており、山口金刀比羅宮および烈々布天満宮より早い時点で二柱は祀られていた。

このことから『札幌村史』を出典とする『新札幌市史』の記載、明治26年に三吉神社より五柱の分祀を受けたという内容の信憑性は少しばかり高まったように思える。


これらをふまえ明治末までの祭神の動向をまとめるとこうなるだろうか。

天照大神(明治22年、小祠時代の祭神)
少彦名神(明治26年、三吉神社から分祀)
大穴牟遲神(明治26年、三吉神社から分祀)
藤原三吉命(明治26年、三吉神社から分祀)
菅原道真公(明治年間に分祀)
崇徳天皇(明治年間に分祀)


さて、大正12年に烈々布北組と中通に祀られていた地神塔の祭神は烈々布神社に合祀された。

最も多い地神塔の祭神は天照大神、少彦名神、大穴牟遲神、倉稲魂神、埴安姫神の五柱だが、北海道開拓の村に移設された地神塔には誉田別尊が入っている。(神名の表記は烈々布神社の祭神に統一)

天照大神、少彦名神、大穴牟遲神はこの合祀で新たに祭神となった可能性もゼロではないが、幾つかの由緒を比較する限り明治の時点で祭神なっていた可能性が高そうだ。

倉稲魂神、埴安姫神についてはこの合祀で新たに祭神となったものと思われ、誉田別尊については十分可能性があると現時点では濁しておく。


この誉田別尊、宇佐神宮の主神として八幡大神という神名を持ち、奈良時代までに応神天皇という諡号が与えられた。

安政2年(1855年)創建の篠路神社で最初に祀られた祭神も品陀別大神(誉田別の異字)である。

烈々布神社における誉田別尊の由緒については琴似川と伏古川で繋がる篠路村と札幌村烈々布の関係も頭の隅に置いておきたい。

ただし、誉田別尊が「神」ではなく一段下がる「尊」という称号であることは、倉稲魂神、埴安姫神とも品陀別大神とも異なっており、地神由来とも篠路神社由来とも言えない別の由緒を想像させる。


なお、明治の末から大正にかけては一村一社と呼ばれる運動が盛んに行われ、無格社としても認められていない無願神社(神祠)は積極的に統合された。

烈々布神社もこの流れに乗って無願神祠だった地神を合祀し、無格社への道筋を作ったものと思われる。



九柱の由緒の推測。

天照大神(明治22年、当初の祭神)
少彦名神(明治26年、三吉神社から分祀)
大穴牟遲神(明治26年、三吉神社から分祀)
藤原三吉命(明治26年、三吉神社から分祀)
崇徳天皇(明治年間に分祀)
菅原道真公(明治年間に分祀)
倉稲魂神(大正12年、合祀)
埴安姫神(大正12年、合祀)
誉田別尊(大正12年に合祀か?)


以上、烈々布神社の祭神をまとめてみた。


札幌市の多くの神社では昭和の中頃以降、盛んに合祀や分祀を行っている。

誉田別尊については他の神社の動向もふまえて昭和中頃以降に加わった祭神であるかもしれない。



以下、参考として関連する神社についても簡単に記しておく。


◇太平山三吉神社(秋田)

大己貴大神
少彦名大神
三吉霊神


◇三吉神社(中央区、明治10年創祀)

大己貴大神
少彦名大神
三吉霊神
金刀比羅宮
天満宮


◇丘珠神社(東区、明治15年創祀)

天照大神


◇篠路神社(北区、安政2年<1855年>創祀)

品陀別大神(当初の祭神)
天照大御神(伊勢神宮から明治34年分祀)
保食神(伊勢神宮から明治34年分祀)
菅原道真公(烈々布天満宮から昭和41年合祀)
大物主神(山口金刀比羅宮から昭和43年合祀)
崇徳天皇(山口金刀比羅宮から昭和43年合祀)
天香山命(拓北伊夜日子神社から昭和54年合祀)

◇烈々布天満宮(創祀は明治32年)
◇山口金刀比羅宮(創祀は明治20年頃)
◇拓北伊夜日子神社(創祀は明治39年)

篠路神社の祭神である菅原道真公は烈々布天満宮だけではなく合祀した太平神社の祭神でもあったが重複するので記載を省いた。

伝承によると、大正13年創祀の北野神社から祭神を受け継ぎ創成川沿いの屯田三番通り付近に太平神社を創建したのが昭和26年。

太平神社は創成川の蛇行部に建立されたため、昭和47年に河川の直線化に際し祭神が篠路神社に合祀されたという。



<2020/10/25 追加>

三吉神社明治15年の祭神および西野神社ブログへのリンクを追加。