札幌市東区の郊外にある丘珠公園、この周辺はちょっと不思議な区画の形をしている。
<図1 Googleマップより>
特に南側の小さな畑に面した場所は二つの交差点が接近しており少しばかり渡るのに注意が必要で複雑な形をしてる。
この不思議な区画がどのように形成されたのか調べてみたいと思う。
<図3 今昔マップより札幌市東区伏古川東側>
<図4 今昔マップより札幌市東区伏古川東側>
この頃には四方から道路が伸びすでに不思議な区画が作られているのがわかる。
区画を囲むそれぞれの道路を調べてみよう。
<図5 札幌地図情報サービスより>
「中央支線」と呼ばれるこの道路は図2でも確認できる丘珠村と苗穂村の村境付近を走る道路である。
北東方面は区画整理の影響で無くなったが、南西方面は昭和になって整備されそのままの形が残った。
ただし、現在は南西に伸びる道路ではなく南に伸びる道路に接続している。
<図8 札幌地図情報サービスより>
「苗穂5号線」は札幌市の道路命名法から判断すると比較的新しい重要度の低い道路のように思えるが、実際は下苗穂の三角地区(三角点通付近)とこの不思議な区画を繋ぐ古い道路である。
この四つの古い道路の存在からわかるのは、丘珠公園周辺の不思議な区画は丘珠村と苗穂村の境界付近という特殊な事情が生み出したということ。
また、ここは丘珠の川向地区、丘珠の中心地(丘珠街道)、下苗穂の三角地区、そしてのちに村境沿いの道路から下苗穂の農本地区(下苗穂北部)を繋ぐ重要なポイントであった。
丘珠公園の前には農協があり、断言は出来ないがこの不思議な区画の形成に影響を与えたか、もしくは重要なポイントであるこの区画に意図して事務所を置いたように思える。
なお、この区画には昭和30年~50年にかけて烈々布街道から道路が作られている。
<図9 札幌地図情報サービスより>
のちの「丘珠空港東線」と烈々布街道が繋がるまではこの道路を経て東雁来方面に向かっていたのを覚えている。
栄町から東雁来方面に抜けるのにもこの不思議な区画が重要な役割を果たしていた。
<図10 『札幌村に於ける葱頭生産に就いて』(昭和7年)より集落図>
図10の14は丘珠村の集落で、15と17は苗穂村の集落である。
14と17の境界は明治以来のものを反映してるのに対し、14と15の境界は三角点通と平行する形に変更されており、この結果苗穂村が少しばかり拡大した。
この新たな境界は明治から存在し札幌刑務所の西側から「苗穂5号線」まで伸びる道路の延長線上に近く、現在の苗穂川と川に沿った道路付近にあたると思われる。
1890年(明治23年)、川の東側にあたるエリアに北海道帝国大学初代総長の佐藤昌介氏が佐藤農場を開いたが、その頃の佐藤農場は丘珠村と苗穂村にまたがっていた。
ところが昭和初期と推測される境界変更により佐藤農場は全て苗穂村の範囲に組み込まれる。
この境界変更が佐藤農場全てを苗穂村に組み込むためのものなのか、苗穂川沿いの東側を苗穂村に組み込む際、たまたまそのほとんどが佐藤農場だったのかはわからない。
苗穂川の西側に話を戻す。
この苗穂川と道路付近を境界とする旧苗穂村の西側、図10でいう17、19、20の下苗穂の集落は札幌市と札幌村が合併したあと区画整理の過程で伏古地区に改称された。
不思議な区画付近も現在は南側と東側が伏古地区にあたる。
なんとなく調べ始めた丘珠公園周辺であったが、村境や開拓初期の重要道路など面白い要素が思いのほか沢山見つかった。
区画や街路のいびつさは地理的な面白味の宝庫である。