札幌村の元村地区と烈々布地区の境界 | さっぽこのウェブログ

さっぽこのウェブログ

ブログの説明を入力します。



今回は『札幌市東区の元町と札幌村の元村地区』でも取り上げた烈々布地区と元村地区の境界を深掘りしたいと思う。



烈々布地区と元村地区の境界について記した史料や地図は多くなく、『ちょっとナナメな歴史の続き』でも取り上げたものを参考にしたい。



<図1 『札幌歴史地図 昭和編』より札幌村管内図(昭和7年)の集落の境界に線を付加したもの>


この図は1932年(昭和7年)の札幌村の地図で、元村地区や烈々布地区を含む集落の位置関係は掴めると思う。

ただし、1934年に北25条以南、東15丁目以西が札幌市に編入されたため新川添(新川沿)と中通地区は面積を大きく失った。



<図2 『札幌歴史地図 昭和編』より札幌村管内図に編入地域の境界を付加したもの>

(図の水色は1934年の編入地域で、オレンジは1950年の編入地域。)


ところでこの地図では新川沿が北20条のあたりまでと記されているが、大正期以降の別の地図では北33条あたり、北41条あたり、または北43条あたりまで広がってる地図もあり、新川沿の地理的範囲は変化していたようである。



<図3 今昔マップより札幌村西部>


これらの図の他には昭和10年代の農業資料にある札幌村の集落図を参考にしたい。



<図4 『札幌村に於ける葱頭生産に就いて』より集落図に線を付加したもの>


<表1 『札幌村に於ける葱頭生産に就いて』より集落図と対応する表>

(図の黄色が元村地区で紫が烈々布地区と中通地区)

昭和10年代の資料なので元々新川沿だった地区は札幌市に編入されており、新たに新川沿と見なされた地域がどのような扱いをされているのかは判然としない。

南部を失い縮小した中通については烈々布地区の一部とみなす資料もあるが、烈々布地区とは異なる独自の地区を維持したようである。

また、烈々布北組は北大農場の北組であり単に北組と呼ばれる資料もあるものの、開拓民の居住地が烈々布と記載されてるなど烈々布地区の一部とみなしていい。



<図5 図4の集落図を図2に反映させたもの>


さて、ここから本来の目的である「烈々布地区と元村地区の境界」に話を戻したいと思う。

図5から判断するに両者の境界は北33条通付近と思われるが、地図の精度の問題があるので現時点では断定できない。

この通りは元町北小の校長が書いた郷土誌によると「十万つぼ通り」という別称があり、このあたりでは唯一丘珠村へと繋がっていた道路と説明されている。



<図6 札幌市地図情報サービスより>


(図7 今昔マップより札幌村地域)


地図情報サービスによるとこの通りは「中通1号線」と呼称されており、付近の通りと比べると命名方法が古風で「丘珠村へと繋がっていた唯一の道路」というのも納得できる。

ただ、今昔マップによると1916年、1935年は「十万つぼ通り」と川を越えた丘珠村の道とが繋がっておらず、1950年代になって両者が繋がった。

「十万つぼ通り」は1916年の段階で東16丁目を境にズレが存在し、1935年では東16丁目のズレはほぼ無くなっているがその先にズレがある。

そして1950年代になって直線化が進みすでに書いたとおり丘珠村とも繋がり、「中通1号線」の形が生まれた。


東16丁目通を境に道路の形成過程に違いがある理由としては両者の地区が異なっていた可能性が考えられる。

パターンは三つ、西側が中通地区で東側が烈々布地区、西側が中通地区で東側が元村地区、西側が烈々布地区で東側が元村地区。

のちの名称が「中通1号線」であることを考慮すると、西側は中通地区である可能性が高い。

では東側はというと、1916年の時点ですでに烈々布地区北側に伸びる道と繋がっていて、烈々布地区である可能性が高そうである。


中通地区と烈々布地区、元村地区と烈々布地区の境界が一直線であった根拠はないが(地図には精度の問題がある)、仮に一直線であった場合、1916年の地図における中通の「十万つぼ通り」の北側、烈々布元村の通りの南側、二つの通りを含めその中間に境界があったように。


このブログを書いた時点で筆者が確認できた合併前の図はこの二つのみだったが、合併後の地図も確認したい。



<図8 『札幌歴史地図 昭和編』より都市機能図「札幌」(昭和46年)の元町栄町を抜粋>


都市化の波が進み条丁制が栄町、元町の一部でも取り入れられているが、両者の境界は完全に中通1号線に沿っている。

なお、この頃建設中だった札幌新道はまだ地図に反映されてない。

この境界が合併前の境界と同じとは断言できないが、中通1号線、昔の十万つぼ通りが境界と関わっていたのは間違いなさそうである。


これらの境界、その後は幾つかの変遷がみられる。



<表2 札幌市HPより>


<図9 札幌市HPより>


表2は現在存在しない条町についての表で、元村地区から改称された元町地区は区画整理の過程で更にこのように改称された。

中通1号線を境界とすると北33条東16~18丁目、北34条東19~21丁目の北側は烈々布(のちの栄町)と思われるが、表では一律元町として扱われている。

一つの可能性として栄町側、元町側双方で条丁への変更が行われたが、ここでは元町の分だけ記載されたことが考えられる。

ただし、栄町側の条丁への変更は札幌市HPに記載されてないので確認は出来ない。


図8は元町北地区の区画整理の図で、見ての通り札幌新道の手前まで元町地区として扱われている。

中通1号線が境界の場合、北33条東16~18丁目は烈々布地区(栄町)にあたるのでこの図は矛盾する。

札幌新道は札幌冬季五輪に合わせて作られた道路で、1970年(昭和45年)頃には用地確保も進んでいた。

可能性として新道の建設により南北地域が分断されたため、新道南側の栄町地区も元町地区と一体化して開発されたとも考えられるが確証はない。



<図10 元町まちづくり連合会と元町連合町内会の範囲>


この図では東16~17丁目で北31~32条の一角が元町町内会から外れていて、ちょうど元町図書館の前の生活道路が境界にあたる。

この一角は中通1号線よりも2条ほど南側に元町の範囲が狭まっており、区画整理の範囲とは逆の傾向がみられる。

地質図や過去の航空写真などによるとこのあたりに川や用水路の痕跡が確認できるので、古い時代にあった流路が町内会の編成(戦前の部会の編成)に影響を与えたのかもしれない。



<図11 地理院地図より治水地形分類図>


<図12 地理院地図より1960年代の航空写真>


区画整理の範囲にしても連合町内会の範囲にしても1955年の札幌市、札幌村合併後のものであり、都市化が進むなかで栄町、元町の範囲は変化していった。

そして、中通地区や新川沿地区がそうであったように、地理的範囲は様々な要因によって変化していく。

例えば元町北小(昭和47年校名決定)や元町イオンは厳密には元町ではないが元町と名乗っている。

元町図書館、元町中、元村公園は元町(元村)の範囲からすると境界ギリギリに存在するが自信をもって(?)元町(元村)と名乗っている。

一方で栄町と元町の境界付近は最寄り駅である新道東の名前を冠する町内会やマンションが作られた。

行政上の範囲も変化するが、地理的概念はもっと柔軟に変化していくし、それもまた地理考察という面では面白い。



最後に中通1号線の交差点から。






(出典)国土地理院(地理院地図)