札幌市東区の元町と札幌村の元村地区 | さっぽこのウェブログ

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今回は今までのブログ記事をふまえ、札幌村の元村地区と元町について書いていきたいと思う。


「札幌村」のちょっとナナメな歴史

ちょっとナナメな歴史の続き


その前に、「札幌村の元村地区」と「元町」とはなにか、その定義から説明しないといけない。


まず「元町」とは、札幌市東区の南部にある地下鉄東豊線元町駅や環状通東駅周辺の地域である。

歴史的にみると、1955年(昭和30年)に札幌市と札幌村が合併した際、札幌村字元村のうち烈々布地区が栄町になり、それ以外の元村地区が元町と改称した。

現在、元町まちづくり連合会(旧元町連合町内会)に属する地域がほぼ「元町」だと思って間違いないだろう。




〔 図1 連合町内会冊子より 〕
〔 図2 連合会HPより 〕


さて「札幌村の元村地区」については上で述べた通り、1955年の合併時に札幌村字元村だった区域のうち烈々布地区を除いた地域にあたり、上図の「元町」とほぼ一致する。



なお、「元村」という名称は歴史の中で幾度か登場してきた。


①御手作場

大友亀太郎によって作られた御手作場(規範農場)の隣接する場所に札幌新村が開村された際、御手作場は幾つかの名称を経て札幌元村と改称された。(1870年、明治3年頃)

この札幌元村は翌年の1871年(明治4年)、札幌新村と合併し札幌村と改称される。




(手前が札幌元村地域、右奥に進んだ所が札幌新村地域)




〔 図3 札幌村郷土記念館より元村と新村の図 〕
〔 図4 図1に村境(赤線)を付加 〕


<1878年(明治11年)、開拓使の札幌本府の街区が画定し、札幌村のうち北11条以南、東7丁目以西は札幌本府になる>


②字元村(小字)、元村部

1902年(明治35年)、近隣村落との合併により自治体としての札幌村が誕生し、元々の札幌村は札幌村大字札幌村となった。

その際、大字札幌村には四つの部が置かれ、のちに元村、烈々布、仲通、新川添に改称される。(改称は1924年、大正13年)

当時の部が自治体の中でどんな役割を担ったのか判然としないものの、のちの部落会、時代を経て町内会に繋がってゆく。

この時代、大字札幌村には字元村など四つの小字が存在しており、四つの小字は四つの部に対応するものと思われる。

また、これら小字の一部は合併前の札幌村にも遡る可能性がある。

結論として、この頃の元村は御手作場から改称された札幌元村に加え札幌新村も範囲に含まれていた。




〔 図5 札幌歴史地図の札幌村全図に部落の境界を付加 〕


<1910年(明治43年)、札幌村の一部が札幌区に編入される(図5緑線)>


<1934年(昭和9年)、札幌市に隣接する札幌村の区域が札幌市に編入される(下図青線)>




〔 図6 札幌歴史地図の札幌村全図に札幌市との境界と部落境界を付加(赤線、緑線、青線は札幌市) 〕


③字元村(大字)

1937年(昭和12年)、大字の廃止によって札幌村大字札幌村が札幌村字元村になる。

この頃の元村には大字札幌村全体を表す広義の元村と、小字の元村に相当する狭義の元村地区とが併存していた。


<この時期の農業に関する史料によると、札幌村は部落を元にした26の地区に分類されていたようである>




〔 図7 昭和初期の農業資料による図 〕


<1943年(昭和18年)、それまでの部を36部、6連合部落会に改編した>


<1947年(昭和22年)、戦時中に置かれた6連合部落会が解消され、元村、烈々布、丘珠、上苗穂、下苗穂、雁来の出張所が置かれる>


<1955年(昭和30年)、札幌市と札幌村が合併し、字元村の烈々布地区が栄町となり、元村地区が元町になる>




さて、「元村地区」と「元町」の定義がハッキリしたところで、ここからはそれらの範囲を合併前後に限定し細かく確認していきたいと思う。


西側の境界は現在の16丁目通りで、その北限は北33条付近、南限は北16条付近である。

ただし、北31~33条の東16~17丁目あたりが新道東町内会に属する関係で、この一角は現在の元町には含まれない。

この一角も1979年(昭和54年)に条丁が設定される前は元町と住所表記されており、なぜ元町連合町内会の範囲から外れたのかはいまいち判然としない。




〔 図8 札幌歴史地図より札幌村全図に昭和12年以降の境界を付加 〕

南側は北13~16条付近で元村街道と伏古川(旧河道)に挟まれた地域が元村地区(元町)にあたる。

南端は現在の北13条通り(かつての法国寺通)付近。

このあたりはかつての道路や旧河道を基に境界が引かれたので、現在の地図ではややいびつな形に見える。


東側は伏古川の旧河道が字元村と字苗穂の境界であり、伏古川の左岸が元村地区(元町)にあたる。

ただし、元町の旧河道沿いの一部は河川の直線化が行われたあと、伏古に移行した。



さて、最後に北側の境界。

北側境界の東部は北上して琴似川に流れ込むレツレップ川(丘珠川)が伏古川から分流する部分のやや北側にあたる。(※追記あり)

元村と丘珠の境界にはかつて庚申塚が置かれており、この塚は移設されホームラン公園に現存するが、このあたりが境界とみていい。





〔 図9 Googleマップに元村丘珠境界を付加(黄線が境界) 〕


北側境界の中央はレツレップ川に沿っており、現在の元町中学校から札幌新道の地域にあたる。


北側境界の西部が一番の難題である。

元町連合会の北限は札幌新道であり、かつての元町連合町内会の北限は札幌新道の一本向こう側まで伸びていた。




〔 図10 図1と図2の町内会図 〕


それよりやや南、図8のように十万坪通り(北33条通り、中通1号線)の延長線上に境界を書く地図がある一方、図7の境界は十万坪通りの延長線上を進みつつレツレップ川とぶつかるあたりでやや北に逸れている。


この境界は字元村(大字札幌村)の元村地区と烈々布地区の境界にあたり、同じ行政単位のため明確な境界線が書かれてない地図もある。




〔 図11 大正から昭和の札幌郡地図に矢印を付加 〕


また、現在の道路情報によると中通1号線(十万坪通り、北33条通り)は途中で札幌新道を渡っており、元村地区の範囲を考えるうえで参考になるかもしれない。




〔 図12 札幌市地図情報サービスより中通1号線 〕


範囲についての冒頭で北31~33条の東16~17丁目あたりは元町連合会に入ってないと書いたが、そもそもこの一角は元村地区ではなかった可能性があり、1955年に合併したあと元町の地番が当てられたものの元町連合会に加入しなかった可能性もある。

このあたりを断定するだけの情報は残念ながら集められなかった。


古い地図については細かい部分が曖昧だったりする事があり結論は出せないが、十万坪通りの延長線上から札幌新道の北側付近が元村地区の北端にあたると思われる。



〔 図13 札幌歴史地図より札幌村全図に昭和25年以降の境界を付加 〕


この図は1950年(昭和25年)に東1~7丁目の北26~28条部分が札幌市に編入された地図である。(オレンジが編入された地域)

ちなみに東区にはかつての中通り地区(烈々布地区)から元村地区にかけて北29条がない。

北28条の北側は北30条になっており、1950年の編入が関わっているかどうかは謎である。

これについては伏古から元町にかけて走る道路になぜ中央分離帯があるのか、東警察署はなぜ南西に偏ってるのかと並んで東区七不思議の一つと数えたい。



(08/12 追加)





(図14、15 北海道立文書館蔵『札幌村戸長役場管内之図』)


これは1902年(明治35年)に四村が合併し二級村として誕生した頃の札幌村の地図である。

大字札幌村と大字苗穂村の境界は伏古川よりやや西、元村街道の東側に引かれているのが目につく。

大字丘珠村と大字苗穂村の境界は元村街道と北26条道路の延長線上との交点とほぼ同じ位置にあり、現在の北25条~北27条付近にあたると考えていい。

そして、大字丘珠村の南端と字元村が接する場所も庚申塚のある北26条ホームラン公園の付近であろう。


河川の様子を見ると伏古川からレツレップ川が分流する場所がハッキリとしない。

また、レツレップ川の西を流れる古川(のちの烈々布排水川)が描かれている。


この地図の史料価値を高めているものとして気になるのは札幌村とは直接関係ない「新琴似」という記述。

1884年(明治17年)にこのエリア(琴似川右岸)は札幌区に編入されたものの、多くの史料や地図では琴似村の範囲とされており、この地図でも同様に琴似村の範囲に含まれている。



(9/20 追加)

地図に関する説明を追加。