ちょっとナナメな歴史の続き | さっぽこのウェブログ

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「札幌村」のちょっとナナメな歴史で触れたものの情報不足で説明しきれなかった札幌村の小字に関する部分。

今回のブログはその補足的な記事で、大字札幌村の情報も幾つか加えつつ書きたいと思う。



(図1、札幌歴史地図より札幌村の地図に集落の境界を付加した図)


これは1922年(大正11年)から1934年(昭和9年)あたりの札幌村の地図。

隣接する自治体として「札幌市」が書かれており(1922年に市制開始)、札幌村から札幌市に編入された地域(水色部分で1934年に編入)がまだ編入されていないので、その時期の地図だとわかる。


前回のブログで書いた通り、「大友亀太郎の札幌村」(御手作場)は江戸時代末期から存在し、続いて苗穂村と丘珠村が作られ、最後に雁来村が作られた。

1874年(明治7年)、大区小区制のもとこれら四村と篠路村、対雁村を管轄する札幌郡第六小区が置かれ、1879年(明治12年)になると郡区町村制に移行し四村と篠路村を管轄する戸長役場が作られる。

1884年(明治17年)には五村の運営が連合戸長役場のもとでより一体化するが、1899年(明治32年)に篠路村が連合戸長役場から離脱、1902年になって四村が合併し自治体としての「札幌村」が生まれた。


札幌村から札幌区(札幌市)への編入は三度行われ、まず1910年(明治43年)に図の緑色の部分に当たる地域が編入され、1934年に水色部分、1950年(昭和25年)に北26条~北28条の東1丁目~7丁目に当たる地域が編入される。

そして、開発し尽くされ土地の少なくなった札幌市が公共施設の用地を求め札幌村に合併を申し入れ、土木工事や教育の費用に乏しい札幌村がそれに応じる形で1955年(昭和30年)に編入合併が行われた。



さて、1902年に正式な合併が行われた札幌村には四つの部が設置され、苗穂村にも二つの部が設置されている。

1924年(大正13年)になると数字で分類されてた部に元村、中通、新川添、烈々布(以上大字札幌村)、上苗穂、下苗穂(以上大字苗穂村)の部名が付けられた。

『東区拓殖史』には1926年(大正15年)時点での入植者の居住地がまとめられており、大字札幌村に元村、中通、新川添、烈々布の小字があった事が確認できる。

一方で、苗穂村における上苗穂、下苗穂の小字については確認できなかった。

そのため、これらの部が小字に対応するのかはわからない。

一定の時期、大字札幌村地区に小字が存在したことはその他の史料でも確認できるものの、いつから始まりいつまで存在したのかは判然としないままである。


なお、1937年(昭和12年)に札幌村で大字が廃止され、字元村(←大字札幌村)、字苗穂(←大字苗穂村)、字丘珠(←大字丘珠村)、字雁来(←大字雁来村)が新たに設置された。

その頃の農業に関する史料によると、札幌村は集落を元にした26の地区に分類されていたようである。




(図2、3、昭和初期の農業生産をまとめた史料より集落の区分けを抜粋)


図1のピンクと紫は図2の元村地区と烈々布地区(中通含む)の境界を加えたもの。

(元村地区は南から元村中央、元村東、元村、烈々布地区は北東から烈々布東、烈々布西、烈々布北組、中通)


その後、戦時中の1943年(昭和18年)にそれまでの部を36部、6連合部落会に改編した。

戦後の1947年(昭和22年)になると、戦時色の濃い制度を解消する形で元村、烈々布、丘珠、上苗穂、下苗穂、雁来の出張所が置かれる。



丘珠と雁来は札幌村の歴史を通して集落の分類は存在するものの行政上の分類は存在しなかったようである。

一方、苗穂村は先に発展した上苗穂と遅れて開墾された下苗穂とで分類されていた。

大字札幌村地域は先に発展した元村地区、遅れて開墾された烈々布地区と中通地区、石狩街道の発展で急速に市街化が進んだ新川添に分類される。

また、中通地区は南側が札幌市に編入されたのち烈々布地区と一体化した。

この中通地区と一体化した「新しい」烈々布地区が札幌市への編入後に栄町となり、元村地区が元町になる。

(東16丁目以東の烈々布地区と元村地区の境界は北31-32条の通りとみられるが、北33-34条間に札幌新道が作られた事でなし崩し的に北32条と北33条の行政上の扱いが元町に吸収されたようにみえる。)



<19/09/20 追加>

昭和12年の字名改称については『札幌の地名がわかる本』にて詳しく説明されている。

行政区分は6部の他に中通(大字札幌村)が存在し、小字は改称時点で大字札幌村に2つ(新川添、レツレツプ)、大字丘珠村に4つ(丘珠、レツレツプ、モイリトン、沼端)、大字雁来村に2つ(大曲、三角)があったという。

ただし、上記の道庁長官決裁文書とは異なる小字が札幌村字地番改正協議会の資料には書かれてあり、それぞれ大字札幌村に1つ(レツレツプ)、大字丘珠村に4つ(川向、レツレツプ、モイリト、大沼端)、大字苗穂村に1つ(三角)となっている。

この矛盾が発生した理由は分からない。

また、別の史料に現れる小字(中通)が書かれておらず、当時の文書との間に矛盾が存在している。

これらの謎を含め小字に関しては今後も調べていきたい。


また、地図に関する説明を今回追加。


<20/09/07 追加>

明治初期の村落行政の変遷について内容を追加。