苗穂村の境界の変遷 | さっぽこのウェブログ

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今回取り上げるのは札幌村の東側にあたる苗穂村の境界について。

東西を丘珠村と雁来村に挟まれ縦長に伸びる苗穂村だが、その境界は幾度か変遷を重ねている。

その変遷について確認していきたい。


まずは苗穂村の成り立ちから。

江戸時代、札幌周辺にはイシカリ十三場所が置かれ、その中にナイホウ場所が含まれていたことは過去のブログでも書いた通りである。

このナイホウ場所がどこにあたるのかは判然としない。

寛政年間(1800年前後)の洪水で流路が変化したこと、アイヌと和人とで河川の上下の概念が異なってたことで場所の名称に混乱が生まれたためである。


さて、幕末に御手作場を開き運営していた大友亀太郎は明治3年に北海道を離れるが、前年の明治2年8月に伏古川右岸(のちの苗穂村)の開拓を始め、12月には伏古川左岸(御手作場、のちの札幌元村)と右岸の両集落を開拓使に引き渡した。

明治3年、大友亀太郎が北海道を離れるのと前後して伏古川右岸にやって来た移住者が庚午一ノ村を開き、翌年には苗穂村と改称される。

同年に移住してきた者のうち札幌村(元村)の北隣に移住した者は札幌新村(仮称として庚午四ノ村が予定されていた)を開き、さらに北隣の移住者は庚午ニノ村を開き、庚午ニノ村は翌年丘珠村と改称された。

大友亀太郎の経歴について書かれた後年の文書には明治2年に引き渡された伏古川右岸について「苗保村」と記載されており、明治4年に改称され誕生した苗穂村以前に「苗保村」が存在した可能性が考えられるが、当時の文書に記載はなく実在したのか確認はできない。

なお、この頃の村落は一定の領域を持った面ではなく個々の集落ごとの点で認識されており明確な境界は無かったが、札幌村(元村)と苗穂村の境界はおおむね伏古川であったように思われる。


明治6年、札幌郡北東の対雁村の住民が水害を避け南側、苗穂村から見て東側に移住し雁来村を開いた。

明治7年、大区小区制が施行され札幌村、苗穂村、丘珠村、雁来村は石狩国第1大区札幌郡第6小区に組み込まれる。

この頃から第1~3小区にあたる札幌本府市街地との境界の必要性が議論され市街地予定地として一里四方が想定されたが、厳密な境界としては認識されなかった。


明治11年、郡区町村編制法制定の影響を受け札幌市街地の範囲を定める必要性が高まったため境界が引かれ、新たな境界が反映された地図が作られる。



<図1 『札幌歴史地図~明治編』より「札幌市街概図」(明治14年)>


図1には明治12年に郡区町村制が施行され設置された札幌区の範囲が反映されており、この範囲は明治11年の図と同じである。

札幌区の範囲が決まったことで札幌区と接する苗穂村との境界も定まり、両者の境界は現在の東8丁目通りになった。


また、明治12年から14年にかけて札幌郡の村落地域の測量も進められ、村落同士の境界もこの頃に確定する。



<図2 『札幌歴史地図~明治編』より札幌地形図抜粋(明治29年)>


まず、苗穂村と札幌村の境界は伏古川に沿っている。

苗穂村と丘珠村の境界はモエレ沼上流の三角点付近から伏古川分流(レツレップ古川)にかけて南西に向け斜めに置かれた。

苗穂村と雁来村の境界はモエレ沼上流の三角点付近から南方向に伸び、途中で西に折れ、さらに現在の苗穂駅付近で南に折れ豊平川に向かう。

雁来村の範囲はこの独特な境界の影響で南西部の豊平川沿いの部分が機械的でいびつな形になった。



さて、苗穂村を含めた四村と篠路村は大区小区制から郡区町村制にかけて同じ行政範囲に組み込まれるとともに、同じ戸長のもとに運営されている。

明治17年には官選の連合戸長制度が始まり、四村と篠路村は依然として同じ戸長のもと運営されたが、明治32年に屯田兵村を持つ篠路村が離脱した。

明治35年(1902年)、連合戸長制度のもと同じ戸長によって運営されていた四村は合併し、二級村の自治体である札幌村が誕生する。

この際、かつての札幌村は大字札幌村となり、苗穂村は大字苗穂村に、丘珠村は大字丘珠村に、雁来村は大字雁来村となった。



明治43年、札幌区が市街化の進んだ大字苗穂村と大字札幌村の一部を編入する。



<図3 『札幌歴史地図~明治編』より札幌市街之図抜粋(明治44年)>


『札幌区ト札幌村トノ境界
札幌区ト札幌村トノ境界中
「札幌村道路ノ札幌区ト札幌村トノ接衝点ヨリ札幌新道ニ至ル」迄ノ間ヲ
「札幌新道通東方苗穂道路ノ接衝点ニ至リ更ニ同地点ヨリ東南方苗穂道路通苗穂雁来鉄道線路ニ達シ同地点ヨリ一直線ニ豊平川旧東橋ニ至ル」ニ改ム』(北海道庁告示第237号)

「札幌村道路」は昭和9年の文書に出てくる「札幌村街道(中略)之ヲ接続スル準地方費道札幌村線」という記述から、現在の道道花畔札幌線と推測する。

同じ道路でありながら昭和9年の段階で札幌市部分は「札幌村線」、札幌村部分は「札幌村街道」と別の名称が与えられていたようだ。

「札幌新道」と「苗穂道路」は「札幌新道通東方苗穂道路ノ接衝点」という記述から「札幌新道」が大友堀沿いの道路、「苗穂道路」が現在の「鉄工場裏通線」(図4)及びそのまま東橋付近まで南下する「苗穂丘珠線」と推測するがあまり自信はない。



<図4 『札幌地図情報サービス』より>


なお、蛇足ではあるが「鉄工場裏通線」は交差点から北進すると「苗穂通線」として一直線に丘珠方面まで伸びていく。



<図5 『札幌地図情報サービス』より>


北端は『丘珠公園の不思議な区画』で紹介したあのエリアである。

現在は「苗穂通線」と名付けられ一直線の道路となっているが、かつては伏古川右岸に沿い蛇行を重ねる道路だった。



閑話休題、当時の告示文書から境界にあたる道路の考察をしたが、図3を見てもらえば問題ないだろう。

新たに札幌区に編入された地域は伏古川を境に北側は元村町、南側は苗穂町と名付けられた。

この元村町と苗穂町はのちに条丁が与えられ、さらに苗穂町部分は鉄路を境に北側が東区、南側が中央区と分割される。



大正13年(1924年)、札幌村が北海道一級町村制を施行。

その際、札幌村に設置され数字で表記されていた各部に名称をつけ、大字苗穂村の二つの部は上苗穂と下苗穂になった。

上苗穂と下苗穂の境界は現在の「苗穂1号線」で、札幌環状線より一本分南側の道路にあたる。

また、この頃の字名として「三角」が確認されているが、徐々に下苗穂の一部として吸収されていった。



<図5 『札幌地図情報サービス』より>


昭和9年(1934年)、札幌村の一部が市制を施行した札幌市に編入される。



<図6 『札幌歴史地図~昭和編』より札幌市公区連合公区図(昭和15年)>



『札幌市ト札幌郡札幌村トノ境界ヲ左(次)ノ通変更

(略)準地方費道札幌村線ノ東側幅線ニ沿ヒテ法国寺通ノ北側幅線トノ交叉点ニ到リ左折シ

其ノ幅線及之ト接続スル高橋横道ノ北側幅線ニ沿ヒテ地方費道札幌稚内線北西側幅線トノ交叉点ニ達シ左折シ

其ノ幅線ニ沿ヒテ札幌村畑17番地ノ1号ト同畑18番地トノ境界線ノ延長線トノ交叉点ニ到リ右折シ

同線ニ辿リテ豊平川ニ達ス』(北海道庁告示第298号)



境界変更の告示から大字苗穂村部分を抜粋したものだが、「法国寺通」が「鉄工場裏通線」の北辺にあたり、その延長部分である「高橋横道」が現在の「東苗穂1号線」(図7)にあたると見ていいだろう。


「札幌稚内線」は現在の「北1条雁来通」でありそこから先はやや細かい境界になっているが、その様子は図6を見てもらいたい。




<図7 『札幌地図情報サービス』より>



昭和9年に編入された「東苗穂1号線」の南側、

三角形のエリアは豊平川寄り半分が大字雁来村にあたり、編入後はそれぞれ苗穂町および雁来町と名付けられた。


しかし昭和58年にほとんどが苗穂町の地番となったため、雁来町は河川敷に一部残っているのみとなっている。


本来は雁来町にあった雁来神社も昭和34年に瑞穂神社に名称を変え、昭和40年代に道路の反対側に移転したあと、昭和58年の地番変更を受け住所が苗穂町に変更となった。




昭和12年、札幌村で大字が廃止され字苗穂が設置されると、大字苗穂村の小字も整理されることになる。


その頃の集落の様子は以下の通り。




<図8、表1 『札幌村に於ける葱頭生産に就いて』(昭和18年)より集落図に村境を付加したもの、集落図に対応する表>



15~17、19~20は下苗穂、18は苗穂三角、21~22は上苗穂と分類されている。


ただし、一般的な札幌郡の地図において三角と呼ばれる地名は15や16付近に記載されており、苗穂三角の地理的範囲は必ずしも定まっていない。



図を見てわかるのは15の下苗穂農本地区が明治の村境と比較して拡大してることである。


図8の集落図が字苗穂に関する字界の変更を反映してるとすれば、昭和7年の地図では明治以来の字界(明治の村境)が描かれているため、昭和18年までの間に字界が変更されたとみていい。




<図9 Googleマップに境界を付加したもの>



この図における紫の線は明治初期に確定した丘珠村(大字丘珠村→字丘珠)、苗穂村(大字苗穂村→字苗穂)、雁来村(大字雁来村→字雁来)の境界である。


緑の線が表してるのは現在の東苗穂であり、後述するがそのうち西側は伏古という名称で分割された。


桃色の線は1890年(明治23年)、北海道帝国大学初代総長の佐藤昌介氏が開いた佐藤農場である。



図8と図9を見比べると下苗穂農本地区と佐藤農場の範囲が似ているように感じないだろうか?


西側の字丘珠、字苗穂部分は現在の苗穂川あたりを境界にしてる点でほぼ一致してる。


東側の字苗穂、字雁来部分は少しばかり異なるものの、突出部分の位置関係が近い。


佐藤農場の存在がどう影響したのかはわからないが、昭和初期に境界が三角点通に平行する直線に変わり字苗穂が拡大したようだ。




昭和30年(1955年)、札幌村は札幌市に編入される。


この際、札幌市にはすでに苗穂町が存在したので重複を避けるため字苗穂は東苗穂町と名付けられた。



昭和42年、かつての上苗穂地区が本町地区と名付けられる。


昭和54~57年にかけて「苗穂1号線」(図7)と「環状通」に挟まれた部分が本町地区に編入された。




<図10 『札幌市地図情報サービス』>


昭和50~51年にかけて伏古川と『苗穂中通線』(図10)に挟まれた札幌新道以南の東苗穂地区に伏古の条丁が設定される。


昭和54年、伏古川右岸の一部に伏古の条丁が設定された。


昭和57年~平成7年にかけて札幌新道の北側にも伏古の条丁が設定され、伏古地区の範囲が拡大する。



昭和57年、東苗穂町の三角点通沿いに東苗穂の条丁が設定された。


平成6~11年にかけて東苗穂町全域に条丁が設定される。




<図11 『札幌市地図情報サービス』>



東苗穂と東雁来における境界の最も東側は現在の『雁来4号線』(図11)にあたり、図8の集落図の東側境界もこのあたりと推測される。


なお、地理院地図の治水地形分類図によると『雁来4号線』に沿って用水路があった。


この用水路は境界に影響を与えたか、あるいは境界沿いに作られたものと思われる。



平成20年に東雁来地区の区画整理の過程で双方の境界が一部変更された。




<図12 『今昔マップ』より東苗穂町付近>



なお、東雁来10条1丁目と11条1丁目は平成10年の時点で東苗穂町とされており(図12)、平成20年に東雁来の条丁が設置されるまでどのような経過をたどったのかわからない。


そして現在、境界は図9の緑線の通りである。




まとめ


苗穂村は札幌区(札幌市)への二度の編入により、南部は苗穂町として発展した。


大正時代、大字苗穂村(字苗穂)の南部は上苗穂となり、苗穂刑務所付近より北側は下苗穂となる。


昭和初期、字丘珠、字雁来だった部分が字苗穂に移行し、下苗穂の北部が拡大した。


昭和30年、札幌村が札幌市に編入合併し、字苗穂は東苗穂となる。(ただし上苗穂の扱いは確認できず)


その後、上苗穂地区が本町地区になり、東苗穂の西側が伏古地区になった。


現在では字苗穂だった地域のほとんどが住宅地になり、JRや地下鉄が走ってないにも関わらず宅地化の波は勢いよく続いている。




(出典 『札幌市地図情報サービス』



<2020/12/18 追加>


明治43年の札幌村大字札幌村の編入について、「札幌町」と記載していたものを「元村町」に訂正。