篠路村と烈々布地区 | さっぽこのウェブログ

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札幌市の中で歴史の古い地区といえば武士が切り開いた発寒村や札幌村付近があるが、篠路村もその歴史は古い。

篠路村は石狩で役人を務めていた荒井金助が幕末、琴似川(旧琴似川)と伏古川の合流点付近に開いた荒井村が基になってる。

村を開いたあと荒井は文久3年(1863年)に箱館、文久4年(1864年)に室蘭へ異動し、慶応2年(1866年)に亡くなった。


その遺志を引き継いだのは万永元年(1860年)までに琴似川上流付近から荒井村へ移住し、のちに名主(近世村における村長)を務めた早山清太郎である。

早山は伏古川沿いの自然堤防にあった獣道を整え石狩街道(のちの元村街道、道道花畔札幌線)を開削したことで知られるが、幕末に篠路神社が建立された旧琴似川沿いにこの街道を接続させた。

荒井、早山の墓がある龍雲寺も明治初期に早山が開いた街道沿いに建立されている。



<図1 『札幌歴史地図~大正編』より篠路村再現図を抜粋>



この荒井、早山が開いた篠路村の最初の開墾地は篠路村の範囲が拡大されたあと本村と呼ばれることになった。

本村やや南の横新道地区は住宅街や商店が絶え間なく続いており、この両地区が篠路村の中心地とみていい。


本村付近から伏古川を少し遡った五ノ戸・十軒地区はのちに上篠路と改称されるが、旧琴似川と直線的に整備された旧琴似川放水路との間は本村と一体化した住宅街となっている。

一方、旧琴似川放水路を境に南東側は街道沿いに小規模な団地と集落、そして畑が点在し、静かな田園風景が残った。



<図2、『今昔マップ』より1950年代の篠路村付近>


本村の北東方面にはかつて釜谷臼と呼ばれた拓北地区がある。

拓北は北海道拓殖銀行がこの地域を所有してたことから名付けられたが、それ以前は石狩川沿いに山口開墾(山田開墾)地区、中央部に興産社地区、その南側から篠路新川まで大野地地区、それらの東側に地理的範囲が狭まった釜谷臼地区があった。

山口地区と興産社地区、釜谷臼地区はあいの里と改称され住宅地として発展するが、西側はあいの里の地番が与えられず拓北の地名が残っている。



<図3、『今昔マップ』より1950年代の篠路村付近>


拓北をさらに東へ行くと石狩川沿いに福移地区、モエレ沼の北側に広がる中野開墾地区、モエレ沼の東に沼ノ端地区があった。

福移地区のうち上福移は豊平川捷水路による分断後に江別市に編入され、中福移は区制施行後に東区に組み込まれ、下福移のみが篠路と同様に北区に入っている。

中野開墾地区と沼ノ端地区は中沼という合成地名が与えられたのち、区制施行で東区に組み込まれた。




<図4、5、『今昔マップ』より1950年代の篠路村付近>


本村北西の一部は石狩川の三日月湖、茨戸川にちなんで茨戸地区と名付けられている。



<図6、『今昔マップ』より1950年代の篠路村付近>


本村の西側、古くは創成川がなく地続きだった地域は篠路屯田兵村として開発された。

この屯田兵村があったため人口の増えた篠路村は札幌村との連合戸長を解消し独自に歩みだしたが、間もなく屯田兵村は琴似村に組み込まれ篠路村は小村となる。

また、屯田地区も相次ぐ川の氾濫で人が離れ、本格的な開発は遅れた。



さて、ここからは本題である篠路烈々布について書いていきたい。

篠路烈々布はレツレップ古川と呼ばれる百合が原公園東側で旧琴似川に合流する小さな川に由来するとみられる。

その点で本来の地理的範囲は狭い。




<写真1、2 レツレップ古川合流点>


実際、烈々布会館や烈々布橋が存在し、かつて烈々布天満宮(烈々布神社)があった地域は百合が原公園周辺に限られる。

範囲の狭さは丘珠烈々布も同様で、レツレップ古川に沿った丘珠烈々布は丘珠空港の開発で集落を維持できず地名を失った。

一方、札幌村の札幌烈々布は地理的範囲を大きく拡大させたが、篠路烈々布ものちに範囲を拡大させる。


ところで横新道以南の創成川沿いには学田地区があり、さらに旧琴似川付近に中島地区があった。

この中島地区が幕末に旧琴似川付近を開拓した中島彦右衛門と関連があるのかわからないが、古い地図では創成川に中島橋が架かっている。

両地区は烈々布地区に統合されたあと、太平と改称された。


この篠路烈々布(太平)の範囲について南側はおおむね旧琴似川の河道に沿っているが、南東の一部は直線になっており境界に沿って道路(烈々布区界通線)が作られている。



<図7、『札幌地図情報サービス』より>


南東部の上篠路との境界は曖昧だが、レツレップ古川の両岸までは烈々布地区とみられ、のちに太平の地番が与えられた。

北東部は旧琴似川と五ノ戸烈々布線が境界とみられ、現在は百合が原の条丁が与えられている。



<図8、『札幌地図情報サービス』より>


北部は古くから用水路がひかれた学田線が境界となっており、西側の学田地区に太平公園が作られた。



<図9、『札幌地図情報サービス』より>


西部は創成川通が境界になっているが、創成川の蛇行部に建立された太平神社は現在の創成川通の西側に祀られており、ここが最も西にある「太平」と言えるかもしれない。

なお、昭和40年代になって創成川の直線化工事のため太平神社は篠路神社に合祀された。

これらは現在の範囲をもとに当時の篠路烈々布(太平地区)の範囲を推測したもので、実際の境界とは異なる場合があることを留意したい。


札幌市に編入合併されたあと篠路町太平と呼ばれた太平地区(かつての烈々布地区)は段階的に太平の条丁が与えられている。

また、旧琴似川と札沼線に挟まれた一部の地域はすでに書いた通り百合が原として独自に条丁が与えられた。

残った旧琴似川とレツレップ古川付近のごく一部には太平の地番が残っている。


太平の条丁が与えられている範囲は東側が札沼線の鉄路、北側が学田線、西側が創成川通までだが、南側については少しばかり経緯がややこしい。

結論からいうと南側も札沼線の鉄路が境界ではあるが、かつては旧琴似川の流路が札幌村と篠路村の境界だったため、両村が札幌市に編入合併されたあと区制が始まるまでの時代に太平の範囲は鉄路に沿うように変更されている。

なお、これらの条丁は昭和61年(1986年)に大部分が設置され、平成10年(1998年)に創成川通沿いと鉄路付近の一部に追加された。


百合が原の条丁は北側がおおむね学田線、西側が鉄路になっている。

ただし南西端は東8丁目篠路通であり、そこから東に伸びる南側境界の一部は合併後の境界変更の影響を受け、旧琴似川に沿っていない。

南側境界は旧琴似川の流路に沿っていたが、暗渠化(地下化)による住宅地の一体化、流路の直線化などで東区の条丁と複雑に接している。

東15丁目屯田通の東側は烈々布幹線を挟んだ北側までが百合が原の条丁であり、烈々布幹線に隣接する百合が原公園は旧琴似川まで「百合が原公園」という独自の地番が与えられた。

百合が原公園の東側は旧琴似川の河川敷を除き百合が原の条丁が与えられおり、東北端は五ノ戸烈々布線である。

最初に「北側がおおむね学田線」と書いたが、五ノ戸烈々布線部分だけはこの道路が北辺であり、両者のズレは烈々布幹線が繋いでいる。




<図10、Googleマップに境界(緑線)を付加したもの>

なお、「百合が原の条丁」と書いてきたが、百合が原には条がなく丁しか設置されてない。


百合が原地区に改称された篠路町太平だが、ごく一部百合が原に改称されずに篠路町太平として残った。

それは旧琴似川、レツレップ古川、北区と東区の境界(篠路烈々布と札幌烈々布の境界)が作る四角形の内側と辺付近(旧琴似川、レツレップ古川の両岸)である。

今でも篠路町太平の地番が残ってるこの付近は歴史的にみた本来の篠路烈々布の範囲でもあり面白い。

旧琴似川と丘珠川の合流点付近にはかつて烈々布天満宮(烈々布神社)があったがのちに篠路神社に合祀された。

丘珠川の付け替えで合流点が整備された際、そこにアイヌの集落跡が見つかり発掘調査のため付け替えと烈々布橋の工事が遅れたが、個人的にこの集落にレツレップの名を与えたい。


最後にかつて太平と呼ばれた地域の現在における境界を簡略化して表す。



<図11、Googleマップに境界を付加したもの(左から太平、百合が原、篠路町太平)>