小さな豊平と大きな豊平 | さっぽこのウェブログ

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「札幌の歴史と地理」シリーズを書きはじめて以降、絶対に手をつけないでおこうと思ってた地域が豊平である。

なぜかというとまず、広い。

そして豊平村、平岸村、月寒村と異なる村落が合併したあと、村落の境界に沿わずに行政区が設定されたという複雑さもある。

また、南区に関しては人生の中で能動的に立ち入ったことが一度しかなく、土地勘が皆無といっていい。

そして、広い。

ただ、今回はある程度地域を限定しながら豊平をまとめたいと思う。



最初に「豊平」の定義からはじめたい。

「豊平」はアイヌ語の「トイヒラ(トイピラ)」に由来するという。

「ヒラ」とは隣接する「ピラケシ」(平岸)と共通する「崖」を表すアイヌ語で、豊平川右岸で河道が丘陵と接する付近の崖地を表しているとされるが、例によってアイヌ語地名で流布されている一般的な由来は鵜呑みにしてはいけない。

ただ、「ヒラ(ピラ)」が崖であること、「トイヒラ」や「ピラケシ」に関して異論がないことなどから、この語源は信用してもいいだろう。


江戸時代、豊平川は「サッポロ(ペッ)」と呼ばれていた。

その頃の古地図によると「サッポロ(ペッ)」右岸で「トイヒラ」に類する名称が幾つかみられる。

「サッポロ(ペッ)」は1800年頃の氾濫で河道が変化し、古い河道が「フシコサッポロ(ペッ)」や「フシコペッ」などと呼ばれるようになった。

そして、明治になって新しい河道の「サッポロ(ペッ)」は豊平川と呼ばれるようになる。

なお、最近の書籍でも深掘りされていたが、厳密にいつから豊平川と呼ばれるようになったかはわかっていない。


この「豊平」の名を冠した村落が明治7年(1874年)に開かれた豊平村である。

豊平村は明治4年に開かれた平岸村、月寒村とは異なり開拓使の案に基づく形で現在の36号線沿いに意図して作られた集落であり、北隣には同年、上白石村(当初は新白石村)が開かれた。

その頃の境界は以下の通りである。



<図1 Googleマップに境界を付加したもの>


図を説明すると、南北にある緑の線が豊平村の境界であり、西は豊平川、東は望月寒川に挟まれた狭い範囲であった。(札幌郡の村落の境界は明治10年代以降に確定した)

余談ではあるが、現在の清田区や北広島市まで広がっていた隣接する月寒村のうち、明治時代に民家や商店が密集していたのは国道36号線沿いの月寒中央駅付近500m程度である。

この頃の月寒村の「重心」は豊平村や札幌区寄りに偏っていた。


明治35年(1902年)、豊平村は連合戸長制のもと対立もありながら一体的に運営されていた平岸村、月寒村と合併して広い範囲を持つ二級村の豊平村となり、それぞれの村落は大字豊平村、大字平岸村、大字月寒村と改称される。

明治39年に豊平村は一級村となり、明治41年には町制を敷いて豊平町になった。

明治43年、当初の豊平村(豊平町における大字豊平村)の半分以上が札幌区に編入される。

その境界が図における水色であり、元々小さな大字豊平村は更に範囲を狭めることになった。

境界は現在の都市計画道路の米里行啓通(市道・2号用水線)で、西が札幌区、東が豊平町大字豊平村となる。



<図2 札幌市地図情報サービスより>


また、南端のジグザグした部分は現在の平岸線に当たる。



<図3 札幌市地図情報サービスより>


町名の由来である大字豊平村の繁華街を失い、範囲が半分以上減少したにも関わらず豊平町と名乗り続けたことは面白い。

円山村と山鼻村が合併してできた藻岩村が豊平町と同時期に札幌区への編入で大字山鼻村の大部分を失ったあと、しばらくして町制を敷く際に円山町へと改称したというエピソードがあり、双方の地名へのこだわりが対比される。


昭和36年(1961年)、豊平町は札幌市と合併し、昭和47年に札幌市で区制が施行される際、札幌区(札幌市)と豊平町に分割された大字豊平村エリアは共に豊平区の範囲に含まれた。

なお、白石区と豊平区の境界はおおむね明治の境界(緑線)と同じだが、左上の紫線の部分だけは直線的に引き直されている。



続いては平岸村について。

ただし今回は平岸村のうち豊平区部分のみ述べたい。

なぜなら豊平町の広さ、南区の広さはほぼ平岸村の山間部に由来するもので、率直に言ってこの広大なエリアについて述べるには圧倒的に知識が足りないからである。

山間部についてはいつか気力があるときにチャレンジしたい。


さて、図1で表した豊平村の南端であるが、現在は図3にあるように「平岸線」と呼ばれる市道になっており、名前からわかるようにこれが平岸村の北端である。

西側はおおむね豊平川、東側は望月寒川が境界となっていてこれらは豊平村と共通しており、まるで平岸村の一部を切り取って豊平村の範囲を設定したかのように見えるが、豊平地区町内会連合会による考察では月寒村の一部、札幌本府の一部、行政区分が存在しなかった地区という説が記載されており豊平村成立以前の境界がどうだったのか判断は難しい。


平岸村における豊平区と南区の境界は以下の通りである。



<図4 Googleマップに境界を付加したもの>


豊平川を始点に中の島通(国道453号線)を自衛隊駐屯地を避けるように北進し、精進川分流を経て精進川本流を北進、その後は平岸天満宮の南側を東進し、学校のある丘の南側をジグザグに進んでいく。

見ての通り、豊平区に組み込まれた部分は広大な平岸村の中ではごく一部で狭い。

豊平区に組み込まれた平岸村エリアは中島地区(現在の中の島地区)と本村地区と呼ばれる平岸村の中心地であり、豊平村とは現在の国道453号線で、月寒村の中心地とはアンパン道路で繋がっており、豊平村と月寒村を繋ぐ国道36号線を含めた三角形は合併前の豊平町の中心エリアとなっていた。

ちなみに合併当時(1961年)の平岸本村は道路沿いに家々が点在する農村の名残りが強く中島地区の方が先行して発展していたが、区制が施行された昭和47年(1972年)頃には全域が住宅地に変貌し、南区に組み込まれた澄川地区にも宅地化の波が押し寄せている。




<図5、6 今昔マップより1970年代の平岸周辺>


当時の地図を見る限り、何の脈絡もなく住宅地を分断するように豊平区と南区が設定されているように見える。

自治体には行政区より細かい区割りが国勢調査の関係で設定されており、人口バランスを考慮してこれらの区割りを基に行政区が設定されたのかもしれない。



地理的な知識がほぼ皆無の豊平(特に平岸)をまとめるのは正直骨が折れたが、今回で少しだけこの辺りの地理に詳しくなったような気がする。

元々の豊平村が小さかったこと、望月寒川を境に平岸村と月寒村が隣り合ってたこと。

平岸村エリアはのちに豊平区と南区に分断され、月寒村エリアはまず広島村が分村し、豊平区になったあと清田区が分割された。

複雑な豊平町地域の範囲の変遷、今回のブログで少しばかり整理できたように思う。