An Ulterior Weblog -5ページ目

An Ulterior Weblog

更新は全く不定期です。広告は勝手に付き、外す費用も馬鹿らしく、アメーバからも一切頂いておりません(コメント・読者登録もアフィリエイト狙い多く、受けておりません。ご容赦下さい)
Read-only, not set communicative and periodical updating, sorry.

いまや、ケータイと言えばスマホだが、このまま標準化すれば、日本の産業界はかなり様変わりとういか危機的な状況におかれる。

スマホによって質の問題はともかく、機能的に今後も含めてカバーできそうなものを列挙してみよう。

 

電話(FAXや会議システム含む)

パソコン
TV・ラジオ
CDおよびステレオ
DVDおよびDVDプレーヤー
カメラ
ゲーム機
フォトアルバム

クレジットカード
銀行カード
換金カード(Edy、Suicaなど)
ETCカード
病院診察券
各種認証(パスポート、運転免許証、健康保険証、会社入構証など)
ホテルチェックイン&アウト(フロントが不要)
アパートやマンションのキー(管理人不要)
飛行機搭乗

お仏壇・神棚(お経をあげて、鈴も鳴る)

 

まだまだ出て来るだろう。大きく影響を受けているのはNTTと電機業界、出版業界。出版業界はだいぶ前より深刻化している。ネット販売だけでなく電子書籍化が出版社、書店や印刷会社を数多く葬り去ってきた。今は一般書籍も底を打ったと言われるが厳しさに変わりはない。電機メーカーはとにかく悲惨になっていくだろう。これまでの文明の利器がことごとくスマホに殲滅されていく。白物家電などは残るにせよ、それだけでは維持は厳しく1社や2社以外は生き残れないだろう。シャープのような身売りの可能性もある。これだけ集約できれば、独身一人住まいの場合、部屋をすっきりにできる。学生なら講義の動画は無理でも音声録音は可能。出席者はわずかでも誰かがデータをくれればそれで点数を取ることができるだろう。
各種カードがアプリで不要になると、カードの作成や材料製造の仕事が無くなる。Suicaがあれば券売機が要らなくなる。飛行機も搭乗は可能だし、自動手荷物受付もできている。あとは税関のパスポートコントロールとセキュリティのみ。それもAIの画像認識セキュリティシステムが遠からず標準的になるだろう。

 

80年代から広まり始めた電子メールシステムは骨董品と言われながらも生き延びていた。それもLINEなどの登場により、他人との連絡方法が変質してきている。携帯電話なのに通話しない状況が増えている。音声コミュニケーションではなく文字と画像によるコミュニケーションにシフトした。iPhoneが出るまでのスマホはこんなことを想像させるものはなかった。あくまでPCネット接続の補助的な役割だった。しかし、今やネットはスマホ主体でシステムが作られている状態。PCの方が制限されたりする。誰がこんな状態を予測できただろうか。

 

昔はPCを使うことは特殊技能だった。かなり勉強をしないと使えない。コマンドを打ち込んでファイル操作やプログラムの変更などを行うのは容易ではなかった。それが、Windowsが搭乗して激変、パソコン通信から一挙にネットの時代に突入して、多くの人がPCを操作するようになる。ネットの充実と普及、PCの低価格化が後押しした。しかし、それも20年ほどで中心から退場することになった。今はPCを使えない人が増えている。これからのPCはむしろ昔のように特殊技能の分野に逆戻りするだろう。

TVが家宝として扱われていたのが個人の部屋に置かれる調度品程度になったのと同じように、PCも一家一台から個人の机に載った。TVはスマホに吸収されたがPCはまだである。そうなれば一般対象のマイクロソフトはお終いだ。おそらく、資料作成はスマホで済むようになるが、プログラム開発はどうかは微妙だ。そんな職業の人間がスマホ環境に満足するとはとても思えない。ただ、時間勝負の彼らは何でも利用するかもしれない。あるいは自分でカスタマイズして補助道具とするか。

スマホの成功は、電子部品のミクロ化と、ネットを取り込んだこと、同時期にSNSが拡大したことの3つによる。ネットに個人の居場所を作った。容易にたむろできる場所を提供した。いくらスマホであってもipodのような個人で閉じた使用では広まらなかっただろう。ネットという開いた空間の中でありながら居場所も作ったことが大きい。孫が祖父母と連絡を取るために支援して高齢者を引きこんだことも大きい。

 

あとは業務関係。会議にしても今ではスマホでweb経由で世界のどこからでも参加できる。あとはPC代わりに資料作成とかデータ加工とかができればもうPCに用は無い。プログラム開発もやろうと思えば環境は提供できるはずだ。マイクロソフトはPCに拘る限り未来は無い。
あと10年もかからずにスマホで日本での生活の様子は一変するだろう。TVや車が一変させたように。ただ、今度のはそれまでのとは全く意味合いが違う。TVと車は人々に働く場を多いに提供した。スマホはありったけ周囲のものを集約し、軒並み殲滅してしまう破壊力を持つ。当然、仕事は減る。このままいけば、スマホに集約される仕事に関連して多くの職場が失われることだろう。そこにAIまで乗り出して来た。アンドロイドが可能になれば、ほとんどの人の仕事は消える。アンドロイドの普及はスマホも減らす。人はいないし、通信はアンドロイド自身が行う。


20年前、携帯電話は普及していなかった。PC向けWindowsが出たばかり。資料作成の多くは一太郎/花子だった。たった20年で人間の生活様式は激変した。今後、人間はどう生きて行くべきかをこの激変した様式の中で見つけ出していかなければならない。昭和1桁生まれの方々が多く亡くなっているが、その当時にあったのはせいぜい映画とラジオ。地域によっては電話どころか電気もなかった。それが子供までスマホを持ち歩き、宇宙旅行も視野に入るまでになった。想像もできなかったことだ。今、生まれたばかりの子供たちが死を迎えるであろう今世紀末、一体、世の中はどうなっているのだろうか。

 

これらに逆行する力があるとすれば、1つは家族の形態だ。家族が団欒を持つなら共有空間を満たす視聴機材は必要とされるだろう。しかし、産業として特に未来性はなさそうで国を牽引する産業としての地位は難しいと思う。国力衰退は押さえられないだろう。もう1つは金の無い地域の存在だ。インフラが揃わないとできないもの、利用者がいない地域は厳しい。Suicaの装置導入やメンテの費用を賄えるか、アンドロイドを導入する費用があるか、お金があるかどうかで地域によって差が出る。それが解消できないならば、上記のことは都会に限定されて終わることになる。つまり標準化されない。はたしてどうなるかはわからない。

それにしても日本が多くを開発してきた電子製品がことごとく集約されてしまっている。言わばかっさわれた格好だ。電子立国というのは最早過去の話。日本は何のために頑張ってきたのだろうか。携帯が普及して10年未満でiPhoneが出現。あれから10年。新しいタイプの携帯電話は出ていない。アップルもiPhone以降特別のイノベーションを興していない。やはりジョブズの不在は大きいようだ。この調子ではアップルもマイクロソフトのようになっていく。今後一番の敵はしばらくはグーグルだろう。日本の電機メーカーはまだ体力があるうちに何かを打ち出さないと本当に消滅の道を辿るのではないだろうか。

 

 

何度も書いたが、自分はガラケーで、カメラはコンパクトデジカメを使用している。iPhoneもさすがにきちんとしたデジカメには敵わない。それにSNSでそれほど人と繋がっていたいという思いもない。実生活でもそう。ガラケーで済んでいるのはそういう生き方だからだろう。逆に言えば、皆、スマホに生き方を合わさざるを得なくなっているともいえる。ガラケー一体タブレットが希望だが、そのうちスマホに組み込まれざるを得なくなっているかもしれない。携帯自体持ちたくなかったのに仕方なく持ったときのように。

昔も今も若者は自分たちの個性を主張する。若かった自分のときも周囲はそうだった。しかし、下らない主張だと当時でも思った。個性?自立してるわけでなし、中身も対して違いなんかないじゃないかと。むしろ外れたものを馬鹿にする。今だと、中学以上でスマホを持っていない生徒の個性は認められない。つまはじき。どういう生き方だろうが迷惑をかけてないのだからほっとけと自分なら思うだろう。実際に高校以降はそんな生き方だった。同世代には辟易していた。今は大人も子供並みだ。

 

※※

こういう記事がある。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51791

半分は当ってるが半分は外れてる。アップルはハードにも強い。マイクロソフトやTwitterの減速はどう説明するのか。それにM&Aによる拡大に触れていない。アメリカでも、挙げられた会社は独占度が高過ぎると批判を浴びている。欧州はグーグルが違反して利益を上げたと告発している。もし、日本が独禁法に厳しくなく、ホールディング会社が早くからこれらのどこかを買収していたとしたら、日本はリードできた可能性がある。彼らは時宜を逃さずうまく売り逃げして拡大したようなもので、ずぼらな庶民が1つだと便利で楽という心理で残っただけの話だ。2つは求められていない。その中で一番の存在となるべく、あの手この手で寡占を図っていった。私がmixiでなくFacebookを選択したのは世界と繋がっている巨大空間だからだ(Twitterにもすぐ繋がるが規模が違う。TRUMPで退会が多いとも聞く)。選択の余地がなかった。一度出し抜けば、坂を転がるように負けた方はj消えていく。LINEのような閉じた空間は消えないにしても世界では主流にはなれないだろう。

大学入試が大幅に変わる話は何度かしてきたが、その目的はと言うとグローバル化への対応。

では、その教育を受けた個人が直面するグローバルとは実際に何なのか?英語が使えればグローバルなのか?

 

とてもいい例を見つけた。恐ろしいことに身に起こった事件までサラッと書いている。精神の強さに驚く。

http://toianna.hatenablog.com/entry/2017/06/13/180959

これを読んでわかる通り、苦労して留学などして、海外で独立してやっていくとなるとどれほど大変か。

海外駐在経験はないにせよ、何度も1人でそっち、そこからあっちと行って、調査や嫌な交渉に参加したりの経験から言わせてもらうと、ここに書かれていることがよく理解できる。突っ込みコメントもあるが、大枠ではここの主張は外していないと思う。

 

外国人と結婚して日本に戻らないと決めたなら、それはそれで構わない。親や親族は嘆くかもしれないが。しかし、日本、特に東京はすでに他に類の無い都市の面はあり、グローバルとか何とかよりある意味独自路線でむしろ生き伸びているような街である。それが好きで日本に住み着く外国人もいれば、やっぱり欧州文化だとヨーロッパに戻る人もいる。

 

自分が思うには、グローバル化とは、世界の金融をドル為替で、治安をその軍事力で牛耳っているアメリカの基準とそれに追従しているようなイギリスといった国をあたかも世界の絶対中心的指針として彼らの言語にまで従属する破目となり、思考回路までおかしくなることだと思っている。その他の先進国は特にアメリカ人なんか人間じゃないみたいに馬鹿にしながらもその金と力の下に付き従わざるを得ない状態で、それが経済ではアメリカから中国に替わりつつある状況だ。もしかしたら十数年後の世界では 中国化=グローバル になっているかもしれない。

 

官庁からは毎年、職員が英米中心に研修留学に行かされる。決められた枠があり、それを必ず埋める。なので、場合によっては優秀ではあるが、その気がない人まで海外に行かされ、それで開花すればいいが、最悪の場合は自殺になったりするわけである。特に、留学でなく、いきなり現地に派遣された場合にはかなりのストレスで危険なことが多い。現在は育成プログラムが昔より充実しているはずなので少しは負担が軽減されているはずである。

で、うまく戻ってきたとして日本のために頑張ってくれるかというと、大抵はディベートだ何だと向こうの思考回路に染まって、日本はおかしい、これだからグローバル化の後塵を拝していると日本全否定に走ったりする。文化の根本的違いを熟慮しようとしない。先のブログ主のようなところまでしっかり実態を見ることもできずに帰って来ているというのが実情だ。

 

ドイツ語は主流ではないし(北欧では使える)、フランス語はフランス人の酷さから覚える気が湧かないし(アメリカ人も毛嫌いする)、イタリア語やスペイン語が使える国はむしろ先進国ではないところが多い。今はラテン語ができたら案外有益ではないかと思う。ラテン語系の間はやはり楽らしい。

Facebookでやりとりしている1人が話す言語がポルトガル語で、いつも相手はグーグル翻訳を通して英語でやりとりしている。日本語からポルトガル語への翻訳能力は英語への翻訳に遠く及ばないだろう。たまに英語で書いてポルトガル語に変換したりもするが、正確に伝わっているのかさっぱり。相手も英語に苦労している感じで、ときにすれ違いが起きる。もう1つ言語ができると違うだろうなと思うのだが、人生の半分以上も英語に関わってきて言語の壁にうんざりしている身としてはもうあまりやる気が起きない。なお、英語で書いているとき、自分の人格との関係を重視している。言葉でこっちを判断されるのだから。構文がどうのこうのなんて馬鹿な考えは一切ない。残念ながら、相手が母国語で打ち込んですぐに変換されるが、こっちは返事を返すのに時間がかかってしまう。相手の変換英文が意味を成さないときもあり、苦労する。

会社に入っても何かと英語から離れることができないのなら、英語だけでもいいので国内グローバル対応という方針で悪くないと思う。もちろん、世界のあちこちに進出だと頑張ることは日本の未来へと繋がるなら大歓迎だ。CNNでアジア系特派員は何人も出てくるが、そこに日本人はまず居ない。明確に把握しているのは1人だけ(配偶者がネイティブの模様)。これでは漢民族や朝鮮民族にやられてしまう。だから、ガンガン行ける人もある程度は出てほしい。ハードルを越えて。

 

 

第二次大戦後、国連ができ、戦勝国とくにアメリカが世界を実質的に牛耳っていく。その過程でアメリカは気付いたと思う。言語を広めてスタンダード化することで自国を繁栄し続けられることに。為替基準を握った上に、目にする文字、思考回路まで占領すれば世界に君臨し続けられることに。イギリスがフランスが世界のあちこちに植民地支配を行ってもできなかった言語による支配がこうして始まった。

一方、日本はどん底から先端技術へと追いつくが計算機の基本部分はアメリカの圧力で潰され、政府のバックアップによるマイクロソフトによるパソコン支配が起きる。そして今はアップルのスマホ、グーグル、アマゾン、Facebook。ネット世界までも牛耳るアメリカ。

自分としての英語の終着点に達した今、振り返ると何のことはない、その支配に絡められてしまっていたということを感じる。仕事の関係上仕方なかったとは言え、隷属するために半生を英語に捧げてきたようなものだという虚しさもあるのは事実だ。ジョイスやベケット、ハメットの創造に触れられたにせよ。

 

※※

日本のアニメーターが海外に出て活躍しないことを不思議に思った人はいないだろうか?日本での収入はよくないので欧米から高額の誘いが来るが、行かないという。しばらくはやっていけるが、欧米で暮らしていては創造力が枯渇するという。日本文化があり、東京の街の独特の世界に居るから創れてるのであって、海外にでは自分が望む作品を作り続けられないという話をきいたことがある。

私はあまりに生活が不便な東京の街そのものに興味無いし、山手線のすぐ傍に住んでたこともあるが、その後二度と住みたいなどと思ったことも無い。東京に憧れはしたが幻想に過ぎなかったし、ロンドンや香港、パリといった海外の大都市にも住みたいと思ったことはない。最近はそうでもなくなったが、何より東京はゴミはそう落ちていないがどこにいっても臭いと感じ、ある意味いたたまれない。大学受験に来たときからずっとだ。排ガスもきつい。健康に過ごせる気がしない。

日本は欧米の既定路線のグローバル化ではなく、そこから外れた道を目指さないと少子化云々より日本そのものの消滅に向かうのではないかと最近は思う。ネット世界でもいいが、日本が欧米から消されない文化圏を確保すること、それには文学だけでなくアニメを含めた芸能文化の強さが必要だろう。先月、文学の存在意義について書いたが、それはこちらにも大きな影響を与える。

 

※※※

ノーベル賞、屈指の輩出大学、英国ケンブリッジ大でさえ中国の言論統制に屈した。

http://www.sankei.com/world/news/170821/wor1708210009-n1.html

英米も簡単に対抗できない国になったのは事実。そしてその手助けをしたのは日本だ。

ポケットに入らない大きさとバッテリー時間などで使う気が全くしないスマホだが、ネット接続の便利さはたしかに大きい。

今までにもガラケーについて何度か書いてきたが、今もって出てこないのが不思議で仕方がないのが、ガラケー付きタブレットもしくはガラケー一体型タブレット。

 

今年になってもう一度ケータイショップに行った。タブレットとガラケーの並行利用の場合の金額を訊いた。高額になるのでやめた。

とにかくスマホには機動性がない。大きくて邪魔。小さいとネット関係が厳しい。スタイラスがないといらいらするだけだろう。だから、大きさの違うものがいくつも出ているという状態になっている。中途半端な製品という認識しか私にはない。1台で済むので皆使っているだけで、使うことは何が目的かで最適化されたものではない。そして多くがLINEで他愛もないやりとりにずいぶんと時間をとられ、ゲームでさらに人生を無駄にする。場合によっては金銭まで。

 

通話とメール、カメラはガラケーで十分できる。あとはネットと資料のやりとりなどができるといいが、それは分離しても問題ない。しかし、データは一体で使える方がいい。そうなると、1mぐらいの範囲ではガラケーと通信できるタブレットがあるのが望ましい(タブレット自身は携帯通信が直接はできない)。これは現在製品としてはないはずだ。

資料やネットについて、良好な通話を確保しながら相手と相談できる。タブレット内部にガラケーを収めてタブレットだけで運べるようにもしておき、資料やネットだけを操作するときはタブレットのみで済む。ガラケーが邪魔にならない。内臓式にすると紛失率が減るだろう。もちろん、ガラケーをポケットに入れて持ち歩くのが主体でも問題ない。

前にも書いたがそういうのに向いた薄くて小さく手に収まるいいケータイが昔あった。2000年頃のものでIDOブランドだったと思うが探しても見つからない。アンテナ引き出し型なのも健康に敏感な人に向いている。液晶表示でカメラ機能もなかったが、今の技術なら加えるのは難しくないだろう。そのあとで初めてのケータイとして通信帯域停止になるまで頑張って使っていたのがauのinfobarのICHIMATSU。かなり希望に近いものだったが昔のシンプルさには今一つ及ばなかった。

 

ガラケー&タブレットは結構前から使いやすいと言われていることなのになぜか今もってケータイ各社は出してこない。収入を減らしたくないからだろう。メンテ対応も煩雑になる。

逆に言えば、どこかが出せば結構いけるんじゃないだろうか。

自分としてはあの昔のケータイの小ささによる機動性がどうしても外せない。スマホなんて使ってられない。いま、皆スマホで問題ないのはLINEで済ます割合が増えてSNS主体で通話が減ったからだろう。

携帯電話はもはや電話で無くなってしまったと言っていい。機種変更するとき、通話のことを気にして一番に耳にあててみるなんてことはしていないと思う。しかし、ユーザーはSNSとゲームばかりのユーザーだけではない。本来の使い方をしているユーザーもいることを通信会社は忘れないでもらいたい。

 

 

スマホに依存度が上がるとこうなる。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170828-00012753-wsj-int

ここに見えるのは、人との関わりの中にさえも異常な効率主義を持ち込むこと。ここからは対人恐怖症の助長が起きているのではないだろうか。社会の様子を変えるようになっていくだろう。

現在、いくつもの分野に急速に広がっているAIだが、1960年代の第一次ブーム、1980年代後半からの第二次ブーム、それから長い沈滞の末に現在の第三次ブームが発生している。第三世代については『人類は終わった(人工知能はスーパーサイヤ人)』に書いた。
第一次はある意味おもちゃのようなかなりルールや条件が限定された中のもので、当時のコンピュータの貧弱さ(主記憶数十kB)からどうしようもなかった。そして、80年代後半からは計算機性能の向上(特にワークステーションやミニスーパー。主記憶数十MB)から第二次ブームが起きる。現在の基本系となるニューラルネットの開発が進んだが、依然、人間がデータ学習を事前に吟味しないと効果を示さないものだった。ちなみに、この時期には高温超電導や常温核融合の科学的話題とともに企業も基礎研究に力を入れた時代で、AIもその一つだった。日経が日経AIなる非常に薄い雑誌を創刊したほどのブームだった。特に注目されたのが、民営化されたばかりの日本一の巨大企業NTTだった。

 

現在はTVでも特集番組が作られるほどになった。以前のAIブームではいろいろな形でのアルゴリズムが研究されたが、今はニューラルネットが圧倒的主流と思われる。他のシステム手法を部分的に使っているかも知れないが基本はニューラルネットのはずだ。ディープラーニングなど汎用性の高い手法もできたし、ニューラルネットなら規模の拡大縮小も容易で順応性も高い。
第三世代はほとんど脳細胞ネットワークと変わらない。人間が学習していくように学習する。決定的に違うのは学習速度。計算機なので人間の比ではない。それを実現させたのが容量と速度の大幅な向上にある。将棋や囲碁だけでなく株取引のほとんどは今はAIだし、自動運転も視野に入り、実用段階に移行している。

 

今後はどうなるか。

推定でしかないが、この先10年は実用化推進が求められるだろう。その間に新たなAIの開発が並行するが、それが実を結ぶかどうかが鍵になる。目指すは『意識の構築』。
いくらディープラーニングを使おうが、現AIソフトはデータ処理を効率的に進める大規模因子分析をしているに過ぎない。それでも、これまでのような計算機とソフトの能力向上(主記憶数十GB以上)が必要だった。環境が熟すのを待っていた。そしてそれをリードしようという巨人会社が現れた。グーグル。グーグルのソフト会社の買収と応用の衝撃から世界でのAI活用が加速したのは事実だ。
ビッグデータを元に学習することは可能になった。しかし、それはあくまでデータをただ読んで関連付けや重み付けをソフトにさせるだけだった。今後は使うべきデータの吟味や、その背景として使う思考や論理の能力獲得である。つまり『意識』を作ることである。目的を自分で適したものを設定して、それに見合ったデータを探す。結果を吟味する。あらたな仮説を作ってそこから検証をデータで自ら行う。ここまで来ると『自立した個人』ということになる。AI開発としてはほぼ最終到着地点と言っていいだろう。全く別次元に突入する。

 

現在の第三世代は人間のサポーター的道具だが、次は人間と対等の独立存在になる。これを実現するにはさらに高速で大容量の計算が要求される。そこで重要なのが量子コンピュータ。現在の計算より何桁も速いコンピュータを使えるかどうかが重要である。
第二世代では人間がデータを見繕って目的の方向に教育する必要があったし、それが精一杯の計算機技術しかなかった。今はデータさえ目の前にあればそれらで自己学習できる。そして、次には論理をデータや自分が行った分析履歴から作り、学習しながら修正し、ものの見方を身につけていき、データ処理とは独立した思考回路を自ら構築していく。人間と同等の意識の誕生となる。ニューラルネットだけでいけるのか、それらを多段に組む、階層的に組む、あるいはスーパーバイザー機能のニューラルネットを別に持たすのか、もっと別の方法かは何とも言えない。しかし、人間の脳を基本モデルとしてアプローチし続けることは変わらないだろうと思う。ほかに自己組織的手法が見いだされてないようだからだ。
その完成形を見せたものとして『2001年宇宙の旅』の中のHALがある。また、90年代のアニメ映画『甲殻機動隊』の中に登場する「人形使い」もそうだ。後者はネット社会という前者にはない社会前提があった。後者のように人間世界を惑わすかどうかはわからないが、既に株式市場はAIに席巻されている状況を考えると半分起きているともいえる。もし、株式AIたちが暴走すれば実社会に恐慌が起き、餓死者や自殺者が増えるのは確実だ。

 

量子コンピューティングはハードとソフトともに開発が始まった程度だが、これが現実化してソフト開発が急速に進んだとき、はたしてAIは人間に対してどういう意識を持つかは全く開発者にも読めない。人間に歯向かうことをしないようにソフト上に仕組むことはできる。その代わり、その制約によってそのAIの能力は限定され、開発にブレーキがかかる。その妥協点を見い出せるのか、そこが人類の未来を決めるだろう。はたして共存するのか対立するのか。おそらくはそれぞれ何がしかの割合で人間にとって時に大きく不都合で、時に救世主となるという神と悪魔の2面性を持った存在になると予想している。問題は悪魔の部分の肥大をうまく押えることができるかだ。新世代テロリストは自爆テロよりも政治関与のAIソフトの乗っ取りか破壊を目指して世界に混乱を招くという時代になると思う。いや、AIそのものがテロリストとなって、皆のスマホ(将来的にはVRヘッドセットか?)に入っているAIを制御にかかり、人間社会を征服しようとする可能性が増す。

例えば、人類を根絶やしにすべく、あるときから産婦人科医療機関での指示に悉く介入して新生児の死をもくろむなど、AIが人類の存在こそがAIの繁栄の妨げの根幹だとみなしたとき、AIと人間の対立は決定的になるだろう。そのときにAIを制御化におけるかどうか、制圧できるかは難しい。なぜなら、そのときには彼らの方が人類が束になっても勝てない相手になっているからだ。

 

FacebookのザッカーバーグはAIの未来について楽観的だが、愚かか気付いているがいま自分たちが成功し続けるためには目をつぶっているかのどちらかだろう。哲学者たちの警鐘やテスラCEOの見解の方が正しい。

なぜ、前の投稿で悲観的であったかというと、今の第三世代の発展は第四世代を現実化する基礎だからだ。ここまで来ると実用化はもちろん自立化が現実性を帯びる。犯罪者を社会から簡単には無くしたり排除できないのと同様、新たな人間と計算機の社会から不都合なAIを識別して排除するのは容易ではないだろう。いつ神のAIが悪魔のAIに転じるか誰もわからない(米マイクロソフトのネット向け人工知能がナチス肯定した事件のように)。当初は開けた自由性で社会の質的変革が期待されたネットもこの通りで、すでに我々はネット上でいつも負の部分を目にしてもいる。中には間違った情報によって社会的に葬られたもしくは自殺の形になって表れてもいる。第四世代を待つまでもなく、人類はパンドラの箱を開けてしまったと思う。量子コンピューティング(科学技術の発展には大きく寄与する)を排除する理由が見つからない以上、この道筋は保証されたも同然だ。
もし、ブレーキがかかるとしたらエネルギー問題だけ。少なくとも初期は量子コンピューティングには物凄いコストと電力がかかる。スマホがガラケーより能力が高い分、とてつもなく電池を消費するのと全く同じ。多くのことをさせることはそれだけエネルギーを消費することを意味する。電力が高過ぎれば手が出ず、超伝導が民間に広がっていないのと同様に第四世代は普及しないだろう。

2030年より先にはもう様子がわかっているかもしれない。まだ生きているはずなので、はたしてその結果はどうなっているか。。。

 

https://matome.naver.jp/odai/2148355760089012501?page=2

囲碁の世界では世界トップの連敗の衝撃とともに、AIによる新たな発展の段階と好意的に捉えている。こんなことを言っていられるのは今のうちだ。オープン戦は全てAIに席捲される。そうなったときに、人間のプロ棋士の存在意義を問われる破目になるだろう。AIが先行して新たな戦法を見せているということは、それを何千倍もの棋譜で学習で獲得している結果であり、人間がぼちぼちと棋譜の研究をして間に合うような代物ではない。ご愁傷様としか言いようがない。今後プロ棋士同士での闘いに変化が出て、それを楽しむことはできても、所詮狭い人間の棋譜数の中での闘いでAIの敵になどなりようがない。あるときたまたま人間が勝ってもすぐさまそれはAIで研究されて克服される。処置も簡単で早い。

 

※※

世間の人もそうだが、楽観論が出る背景にはプロ棋士たちの認識不足が大きいように思う。先端プログラムの開発者たちはどのような連中か。今の世代は違うかもしれないが。。。それこそ寝ずに何日もコンピュータを自分の言うことをきくまで引きずり回すような驚異的な執着力を示す。ごちゃごちゃ面倒臭い人間より計算機を相手にしたがり、お天道様を一週間ぐらい見ないことも珍しくなく、彼らの意識はずぅーっと計算機の中に居続け、計算機が音を上げてオーバーヒートして動かなくなるまで平気で酷使できる。あー、とうとうこのマシンお陀仏だと平然としている。そうやって次のステップへと進んでいく、彼らの後には酷使されて潰れた夥しい計算機が死屍累々とある。彼らはどんな高性能な計算機を与えられても自分の思うことをするには不十分と不満を漏らす。会社が休日取得や残業ゼロに煩いと休日を取って自宅で閉じこもってやり続ける。自分の目的達成が何より優先。会社の行事なんかにも参加なんかしてられない。そういう連中が人生をかけてやっているソフトが生半可なわけはないのである。彼らは自分たちの手を離れるようなソフトを理想としている。プログラムが自己を変えてプログラマから自立すること。それが悪い方向に行ったのがウィルスだ。

 

※※※

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/08/ai-17.php

AIリストラはすてに起こっている。まるでTVゲームのような感じで年収3千万とか4千万を稼いでいたトレーダーたちが職を去っているようだ。昔はそれで十億ほど貯めて若くして引退し、貯蓄で残りの人生をリゾート地で優雅に暮らすという流れがあったが、もう過去の話になってきているようだ。

 

この投稿は31日夜に基本形を作っていた。しかし、投稿した頃にはすでに以下の記事が出ていた。

https://jp.sputniknews.com/world/201708013947295/

一体、どういう手法かわからない。まだ暴走しても十分な力にはならないだろうが、すでにここまで来るとはちょっと想像を超えた。案外、人間の思考というのも模擬脳があればあっさり出きてしまうのかもしれない。すると第三世代の延長にすぐ第四世代が続く可能性が高い。これでザッカーバーグの愚かさはほぼ確実。彼はコンピュータ技術には疎いのだろうか?

さらに、英語関係について述べて来たように言語こそが思考を規定し、文化および自己を形成するという私のこれまでの主張を裏付ける絶好例である。ロボットたちは人間とは別の自分たち独自の世界を作り始めていた。言語がツールでいいのであれば英語のままでいいのに、それを嫌って自己主張を始めたわけである。言語ツール思想は妄想に過ぎない。

昨日は文学が必要かという社会的疑問について答えを書いた。もう少し違う視点でこれについて述べたい。それは日本の作家は大馬鹿者が多いということだ。

 

例えば村上春樹はハードボイルド文学を原点にしている。ヘミングウェイも対象だっただろうし、ハメットらの推理作家も当然対象だった。ほかに一体どのような作品を読んでいたのかは知らない。源氏物語や枕草子などの古典を読んたのかどうか、あるいは漱石や鴎外などの近現代の代表的作家の著作も読んでいたのか。

それをおいておくにしても多くの日本の作家は欧米の文学作品や日本や中国の古典、そして近現代の有名日本作家の作品を何がしか読んでいるはずであるし、そこから文学を学んでいるはずだ。そして、それ以外となるとまずないだろう。少し毛色が違うところで詩や戯曲から影響を受けてる人がいるぐらいで。

 

しかし、絶対に中心的には読まれていない立派なものがある(理系でも論文と断片を除けばほとんど読んでいないだろう)。湯川秀樹の著作である。昨日のところにも書いたが、湯川秀樹の著作集があり、そこには専門の話だけでなく講演やエッセーも含まれているが、幼少期から漢文朗読をやらされていたといったことも影響してか、漢文に長けていて、ものの捉え方も中国の大陸っぽいものを持っている。沈思黙考型で、その点で言うとあまり対応する欧米の研究者はいないのだが、同じく昨日触れたイギリスの Dirac が近い。そして、両者ともに当時の物理学者よりもぶっ飛んだところに居た(医学・生物関係でいえば、DNAの発見やiPS細胞の革新性と同等)。アインシュタインも大陸的だが、ほかにはノーベル化学賞で有名なイリヤ・プリゴジンなども同類の感じだ。

 

ノーベル文学賞を取ればその著作はとても読まれるが、同じノーベル賞でもほかの分野の受賞者の文章が読まれることはまずない。こう言っては何だが、川端にしろ大江にしろ安部にしろ、湯川が成し遂げた新世界観ほどのことはしていない。欧米の進んだ世界の中の天才たちでさえ誰一人できなかったほどの天才が湯川である。その湯川の残した文章というのがこれまた深遠なものが多い。詩というか歌もよく書いている。

なのに、寺田寅彦のあまり科学直結でない随筆あたりについては読んだとか論評が作家の口から出たことはあるが、湯川や朝永などは聞いたことがない。

 

文学を創造していくべき作家たちが身内ばかりの文章を読んでいるだけで、湯川など他の分野の人たちの言葉に耳を傾けていない。易しくはないが毛嫌いされているだけなのではないかと思われる。視野が狭いのだろう。五木寛之などは徹頭徹尾科学は負の存在などと見下したままの思考的不随者である(自作品がたくさん人に読まれているのは高度な印刷技術や配送手段という科学の恩恵の上にあることさえ認識できない愚か者。若い時からずっと。ボケではなく愚か)。

作家たちは自分たちの文学の場をさも大事な世界だとばかり叫ぶだけで、実は狭隘な精神しか持ち合わせていないだけではないか、というのがあって私は長きに渡り文学嫌いだったのである。そんな狭隘な連中の戯言作品を何でお金と時間を割いてまで読まなければならないのかと。

 

今は違う。たしかに文学には人間の本質的面がある。我々の母語が日本語であり続けるのだから、それを磨いて高みに引っ張ってくれるのは彼ら日本作家以外にはいない。しかし、彼らは狭隘な連中でもある。そこが問題だ。おそらく、今後も湯川のような文人的科学者は日本から出ることはないだろうと思う。教育事情があまりに違う。となれば、せめて湯川ぐらいは読んでから文筆業に入ってもらいたい。朝永もそうだが、湯川以外にもたくさん刺激的な世界を文章にしてくれている科学者はいる。そういうのを関係ないこととして済ましている限り文学が深みと広さを示すことはないだろう。これだけ、ネットだAIだというものが身近になってきた中でいつまでも文学文学では閉塞するだけだ。現にカズオ・イシグロはそういう面を母語の英語ですでに書いていて映画化までされているではないか。

日本で文学存否論争が出るのはこういう日本作家の質の悪さにあるのではないかという気がする。

 

早稲田出身の村上さん、理科科目は苦手だったでしょうから、湯川の著作など読んだことないでしょ?自分がコスモポリタンではなく日本人としての作家だともし主張するなら、今後はそれぐらいは当然読みますよね?

ヤレヤレ。w

 

 

日本の作家はピュリッツァー賞を受けたダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』を読んだりもしていないのではなかろうか。仮に通読していても自分の血肉となったという人はまずいないだろう。翻訳はジョイスでお馴染みの柳瀬尚紀ほか2名。彼は数学などにも強い。ホフスタッターは父親はノーベル物理学賞を受けているし、本人も数学と物理学を修めている。それだけでなく、哲学や心理学にも通じていて、かついくつもの言語も操る天才。さすがに日本語はダメのようだが。理系とか文系といった枠を超えた人物で、その傑作だ。ちなみに彼は15才でベケットの Waiting for Godo を読んでいる。

数学者のロジャー・ペンローズの傑作啓蒙書『皇帝の新しい心』はもっと読まれていないだろう。ましてこれらに論評するなどは不可能だろう。

いわゆる作家側からこのような例は洋の東西を問わず聞いたことがない。辛うじて、次の作品ぐらいか。

https://www.amazon.co.jp/dp/4309461565/

ただ、大衆SFと何か違うのかと言われると厳しい気がする。シュールレアリスム文学の代表作となっているが、残念ながら序盤あたりで早世のため絶筆。一般相対論を利用して、太平洋あたりにある強い重力のために誰にも観測されなかった高い山を持つ島に向かい、その山に登りだしたところで終わっている。日本のアニメの方がまだいいかもしれない。例えばラピュタなど。

 

卒業の式辞で阪大の文学部長兼大学院文学研究科長が語った文学の存在意義について話題になっているようだ。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170723-00000001-withnews-sci

 

理系の院を出て理系の仕事をそのまま続けていながら、最近、英文学の芯に辿り着いた(と思っている)一個人として、思うところを言いたいと思う。

断っておくが、文学という言葉を聞くようになった高校以上で文学が好きになったことは一度もないし、英文学も嫌いな方だった。どっちも不要だと社会人になってもかなり長いこと思っていた。現時点でも文学が好きとまではなっていない。

 

自分もそれなりに人生の岐路のときもあったが、そのときに文学が主要な助けになったことなど一度も無いし、それが期待できるような気もしたことなど無い。また、そのときには人生の岐路だなどと思っていなかったが、実は岐路だったこともある。

両親の仏壇を前に毎日拝んでいると、文学などより、ハイデッガーも驚いた空海の考えを学んだり、むしろ宗教の教えの方がためになると思う。核家族化と生活や家の洋風化で現代日本人はすっかり祈るとか拝むといった神聖的行為を完全に失っている。それが現代人の人間関係すなわち人間そのものの喪失をもたらしている。他人を労われないのだ(自省)。

 

さて、今振り返って文学は何の意味があるか。

何度も書いてきたことだが、言語はその文化の思想そのものだ。我々が使う言葉は我々のものの考え方を示しており、人格そのもの。言葉は精神のご飯だ。酷い人間は言葉も乱暴で、そういう不味いご飯ばかり食べてきた証拠。だから、文学は何に使えるかというのは愚問。役に立とうが立つまいが、食べないと体が持たないと同じで精神が鈍する。自身そのものを形成する糧である。もちろん、消化できない、つまり受け付けないものもあるだろう。そういう中で自分の精神に血となり肉となるものを見つけて自分そのものを作り上げていく。阪大の学部長の話はあまりに弱過ぎる。でも、彼は三島とかのような作家ではない。職業文学研究者であって、言葉の創造をしているわけではない。したがって、文学の意義を問いたいならやはり文豪にということになる。三島などは文学を人前に説ける力を持っていた。彼ならどう言うか、あるいは安部公房ならどう言うか知りたいところだ。(彼らの著作やインタビューにあるのかもしれないがさすがにそこまで追う気は無い)

 

文学は不要だという意見は馬鹿げている。それは自分は大した人格を持っていないと宣言しているようなものだ。もちろん、避けて生きていくことはできるし、問題は起きないだろう。しかし、人生に厚みは出ない。表層的に生かされているという状態に過ぎず、積極的に生きていることにはならない。実際に文学作品を読むことは積極的にならないとできない。もがき苦しみから抜け出すために手を伸ばすこともあるかもしれない。

理系だと研究者の生き様に影響を受けることがある。現実なだけに名の知れた傑作以上と言っていい。しかし、そのことと、毎日の言葉の操作の中で自分を形成することとは次元が違う。普段から心がけて自分を社会の中の1人として強く生きていくために文学は必須と言っていい。逆に作家はそういうものを提供しなければならない。

ただ、残念ながら人間は大した存在ではないので、どのみち傑作もパターン化し、真新しいものは出にくい。人はそれほど大きく変化することはできない。マンネリ化する。飽和状態。現代人はこれに近いのだと思う。それで新しい文学が生まれにくく、かつ文学が役立たずに見えてしまうのだと思っている。

 

特に理系の人に、もし、自分に新たな視点の獲得や心をもっと広くしたいと思うのであれば、文学は案外よいとだけは言える。ただし、そう言えるような作品はそれほど多くないので古典的な定番のものから読んでみてはいかがだろうか。ほかの有名でない人たちの作品から入るのも悪くはないが、経験から言うと、やはり格が違うので、できれば最初から傑作を薦めたい。原書で英語の学習も兼ねるのも一つである。

そうすれば、口先だけの文系幹部をたしなめることもできるだろう。何せ彼らは理系についてはからっぽの役立たずが多いのだから。自分の経験から思うには、文系が取り仕切ってうまく回っている背景には理系のこの人格形成の弱さがあるためではないかと思っている。まあ、実際にほんとに口先だけの人間が多い。会社経営者しかり、政治家しかり。文学的理系研究者ってのがあって悪いという話はない。

私も変わったものだ。

 

 

文学が人生に影響すると言われてもやはりピンと来ない人は多いだろう。では、音楽はどうだろう。クラシックでもジャズでもポップスでもいいが、あの曲を耳にしてから自分は変わったとか生きる気力が湧いたとかいう経験を持っている人は少なくないだろう。それがメロディーでやってくるのか、文章でやってくるのかの違いと言えばわかるのではないだろうか。ただし、文章の方が努力を要するので、特に面倒くさがりの現代人には響きにくいだけだろう。昔はラジオさえなかったので、新聞などの活字の方が生活に密着していた。音楽も活字も一切なしに生活するとなるとどうだろうか。人生がつまらなくなるのはわかるのではないだろうか。と理解できるなら、答えは自ずとわかる。

 

※※

理系分野において文学的というかそのテキストの中に新たな思想を透徹した言葉で展開した傑作がある。ノーベル物理賞受賞者であり、かつケンブリッジ大学のルーカス教授職にまでなったP.A.M. Dirac の The Principles of Quantum Mechanics (同じくノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎監訳による訳書が岩波から出ているが、やはり原書を読まない限り Dirac の意思を本当に理解することはできない。ハメットやジョイスに至ったのも同じ経緯)。ある意味聖典的である。今後これを超えるようなテキストが出る気は、しない。

なお、その Dirac とも面識のあった詩人かつ物理学者がいる。原爆の父と言われる Robert Oppenheimer。ただ Dirac は詩人をやりながら物理の研究なんてできるはずがないとあまりいい印象を持っていなかったようだ。実際、個人的実績では Dirac が本質的で多岐にわたっている。Diracは自分が物理学そのものに対する詩人となっていることに気が付いていなかったのだろう。

 

※※※

日本にも理系ながらに文学的側面を持つ人たちはいる。まずは寺田寅彦。今は少ないだろうが、昔は彼のエッセーなどを読んで科学や工学の道に入った人が多い。寺田寅彦全集が岩波書店から出ている。そして、同級生にしてノーベル賞コンビ、湯川秀樹と朝永振一郎。湯川秀樹は著作集が岩波から、自選集が朝日新聞から、朝永振一郎著作集がみすず書房から出ている。この3人の著作集は日本の大事な宝と言っていい。湯川は漢文も修めてもいることから、文人っぽい部分があり、文章も深遠。村上春樹もつまらん文章など書く前に一度拝んでみたらどうだといえる内容だ。一方の朝永は本人が落語を披露したりするほどの軽妙さで読んでて誰でも入れるし楽しいものが多い。一度、これらを図書館などで手にしてみてほしい。

一つ前に、双璧の英米言語文化(ジョイスとハメット)について述べた。そして、それは英語の習得というのが文化や思想の理解を含むことであることを何度も強調してきた。それを証拠づける話をたまたま会社の同僚たちから聞いた。

 

同僚の1人は本人がイタリア好きが高じてイタリア語もかなり達者という話だった。その彼は、現地でイタリア人たちといろいろ話していくと、どうしてお前はラテン語(古イタリア語になる)をやらないのかと、何度も言われるという。ラテン語をやらないとこっちのニュアンスがわからないだろ?と詰め寄られるのだという。ラテン語は現代では死んだ言語である。使う場が無い。しかし、古典などを紐解くには必要とも言われる。つまり、言語文化の中身を理解していないといろいろな話をしても真に通じないというのである。

 

もう1人の同僚は従姉がアメリカ人と結婚してアメリカ人になってしまっている。そのご主人はいろいろ起業していて、CEOとして渡り歩き、浮かんだり沈んだりの人生を送っているという。しかし、アイビーリーグの大学を出ているエリートなので教養がある。本人曰く、教養が無いとわかった人間とは話はしない、ただ情報交換をするだけだ。どうせ深い話など続かない。つまらないだけで時間の無駄。話がしたいのであれば、まず歴史(西洋史)をやれ、そして文学、芸術だ、と言うのだそうだ。

 

イタリアにしてもアメリカにしても、現実的に歴然と社会的階層がある。大学を出ている者、社会的地位のある者、貴族などの出自の違いなどなど。そして階層が上であるなら、そこでは教養を求められるのである。相手と心通じる形で話をするためには、その文化を理解しなければならない。そうでなければ本当のコミュニケーションなんかできないという当然のことを主張している。

言語習得というのはこういうのを目指さなければ意味が無いということである。

 

2021年度の大学入試からTOEFLなり英検なりで民間試験を導入することになった。上記の視点からはむしろ昔の大学入試の方が目的に適っている。

表面的な英語使いが増えると言ってきたことが正しいことがこれでわかるだろう。英語はツールなんてどれほど無知な見方かということだ。ツールで済むのは表層的なやりとりであり、人間対人間のコミュニケーションには入り込めない。すなわちネイティブからは本気で相手にはされないということである。彼らは自分たちの人格が言語そのものなのだと言っている。こっちも相手の言語で人格を作らないことには相手と真のやりとりはできないのだ。

こうした目標の下に中等、初等の教育をどうするかという展開をすべきなのだが、文科省はどういう姿がいいかを示してなどいないし、一方、予備校では点数稼ぎに寄与すべく文法を超えた構文主義で誤魔化して意味的アプローチを遠ざけ、結局、英語学習者が言葉の世界に本格的に入る機会を邪魔する。

 

文科省は何もわかっていないおバカさんの集まりなのである。せめて大学でのカリキュラムに反映されることを望むばかりだ。

1969年秋、アメリカの物理学者マレー・ゲルマンがノーベル賞を受賞した。原子核を構成している中性子や陽子がさらに細かなクォークからできているという、現在の標準理論の大元を提唱した功績による(今もって、クォークがより小さい粒子で構成されているかどうかの決着はついていない)。人類は新たな世界に踏み込んだ。しかし、その意義は世間一般に伝わることは当時はなかった。世界はその前に起きたアポロ11号の月面着陸に沸き立っていたからだ。

 

その「クォーク」という名はどこから来たか。20世紀最も難解な作品と言われたジェイムズ・ジョイスの作品『フィネガンズ ウェイク』に出て来る鳥の啼き声だという。『フィネガン』は言葉遊びの極みのような作品で、筋を読むとか何とかより、その言葉遊びに翻弄されるためネイティブにも難しく、他言語には翻訳不可能とまで言われた作品である。当然、出版から永きに亘って和訳書は出なかった。

1991年、突如それが現れる。柳瀬尚紀が8年近くをかけて完訳した。第一巻を買ってみたが読む気が失せた。とても文学作品には思えなかった。なぜゲルマンがここから採用したのか、そもそもなぜゲルマンは『フィネガン』を読んだのかと不思議に思ったぐらいだ。

日本の文学関係には衝撃が走った。あの『フィネガン』が日本語になったと。誰もが訳す気さえ起きないような作品を翻訳するという偉業を成し遂げた柳瀬は昨年の今頃他界している。しかも、『ユリシーズ』を翻訳している途中だったという。大体2/3まで訳していたらしいが、残念ながら未完となった。柳瀬の代わりができる人などいようはずもない。『ユリシーズ』も難解と言われる作品でこちらも完訳は1人しか出ていない。注釈書などはあるが、それだけ難しいようだ。中にはこの翻訳を目標としていると宣言もしていたのに完遂できず鬼籍に入ってしまった英文学者もいるほどだ。

 

柳瀬はジョイスファンであり、ジョイス本人や作品に関する著書も多い。例えば『辞書はジョイスフル』はジョイスの翻訳の難しさと辞書引きの楽しさを教えてくれる。それにしてもよくこんな実力を北海道の端の街で生まれてつけたものだと感心する。『ユリシーズ』をやりたいという学生はいても『フィネガン』はいないようだ。前者でさえ教授から「おやめなさい」と諭される作品である。教授自身が理解できないのだから。

自分と英語との関りを振り返るととても英語はジョイスフルとは言えない。TOEICや予備校英語に翻弄されて来た経緯は幾度となく書いてきた。その混乱から何とか抜けだし、やっとここが一般人としての自分の限界点だというのに辿りついた。それがダシール・ハメットの Maltese Falcon  であり、ジョイスの著書群だ。しかし、上記2つは難解の極み。自分が注釈付きで何とかなるのは Dubliners だ。これ以上は無理である。もちろん、英文学にはほかにも凄い作品はある。しかし、ダブリンの街もぶらついたことのある自分にはこの作品しかないし、この作家しかないという気がする。サミュエルベケットも独特で面白いが、それより Dubliners だ。

 

英語ができるようになるには推理小説がお薦めだとよく言われる。変わったところで英詩。文学は特殊過ぎて一般人が英語を習得する上ではむしろ使う場もなく不適切との意見が多い。そうでなければモームだラッセルだと。たしかにそうだという気がする。しかし、英文そのものを楽しむということになると、それらはある意味つまらないのである。クリスティーも読んだがあまり性に合わなかった。グレアム・グリーンは面白く文章も好きだが深遠さを感じない。ベケットも独特だがジョイスはさらに先。言葉そのものへの意識が極めて強い。その先となる人はいないようだ。決まったという感じである。ライティングに役立つかどうかなどどうでもよい。

幼稚な英語学習段階からよくこんなところまで文学嫌いで理系の自分が旅して来たものである。こんなところに来るなどとは想像だにできなかった。今、もう一度出発点に戻ったとしてここに来れる気がしない。なぜ、来れたのかもよくわからない。実力なんかついてる気はしないが、ここに来れたことに満足している。英語をやってきて満足したことなど一度もない。しかも、実力不足のままなのに満足とは不思議なものだ。

 

これまで散々、TOEICなどの試験は実力とほとんど関係しないし、実用にも使えないことを説いてきた。わかった、ならその上の松本道弘の「英語道」はどうか。

どのみち努力は要るのだからやること自体は問題ない。しかし、それで2段とか3段とか行く意味が本当にあるかというと疑問だ。松本の大好きなディベートは論理ゲームであり、言語文化の創造性とは何ら関係ない。日本人の英文作家がいたら何段なのだ?作家の善し悪しに段位は意味あるか?ないだろう。ということは本質的にはTOEICやTOEFLと差が無い。その指標となるものがTIMEとかになっているだけで(それも昔のならまだしも今のは)。それに、留学してケンブリッジやMITでPh.Dを取って世界で活躍しようとしている人がいるとしたら、こんなことに血道を上げるぐらいならもっとやるべきことがある。ランキングは指標にはなるが所詮は他者による標準化評価の道具に過ぎず、機械的であって中身との相関は低い。

 

我々はランキングを上げるために英語に貴重な人生を捧げてはいけない。ツールという視点も論外だ。そういう面で捉えることはできるが目的や本質とは直結しない。どうせ人生を削って学ぶなら(何故かこの意識が学習者には低い)、英語文化を理解して英米人の精神に直接切り込むことを目指すべきだということである(多田正行の言う思考訓練はそういう意図)。そのためには英米の知的巨人たちや作家の作品に直に触れる以外ないのだ。外人が知的レベルの高い日本人と日本語を介してその精神文化の土俵でやりとりしたいなら、漱石、川端、三島、安部といった人たちの作品を読んで理解するぐらいでないと太刀打ちできないだろうと想像はつくだろう。赤川次郎は易しく実生活では役に立つだろうが、それでは相互理解は進まないだろう。そこが推理小説を推薦している人たちの視点で欠けているところだ。それを逆にすれば我々がやるべきことがわかる。それがどの程度まで達成されるかは個人の努力と掛けた時間による。そんなレベルのやりとりをする気が無いなら頑張る必要は無い。ツールでも可だ。

 

来れるところまで来た。大きな海原の見える地の果て。快晴の視界の中に目指すべき陸地は見えない。修行まがいの旅も終わりだ。何度も道を誤った。ながかった。。。

 

 

wikipediaなどによると、まるでヘミングウェイがハメットのハードボイルド文体の祖のような記述になっているが、時代考証ではその可能性は否定される。むしろハメットの方が早い。たまたま才能ある2人が独立に似たことを始めた。展開手法も違う。両者がそれぞれ意識したことがあるのかどうかは調べたことがあるが、明確なものはなかった。別ものとみていいだろう。

シェイクスピアを基幹として大陸とは別に(料理も絵も音楽もパッとしない)英国は誇れる言語文化を築き、それを現代的に極めたのがジョイス。同じ英語でも英国とは異なって隷属しないアメリカ独自の言語文化の萌芽を作ったハメット。結局、双璧の言語創造者に触れないといけなかったのだ。昨年ハメットを読んでいたときには気付きもしなかった。

 

※※

ジョイスが Dubliners を書いたのがアインシュタインが一般相対論を発表する前年。ユリシーズやハメットの Maltese Falcon は量子論が完成した頃、フィネガンは湯川が量子論を素粒子論に変革させた頃に世に出ている。変革は文学も科学も人間の所業として同時期に起きるものなのだろう。

 

こう書くとジョイスをやらなければならないという強迫観念を持つ人がいるかもしれない。その必要は無い。自分が英語の言語文化を突き詰めていくとこうなったに過ぎない。本来は英文学の道を目指す人たちのある意味定石的コースだ(ハメットは違うが)。コースもいろいろあり、ジョイスが全てではない。日本の学習者は最初に学習の王道を示されないこともあって、いつまでも文法を舐めまわしていたり会話だけに埋没したりしているかと思えば、強迫観念に囚われ過ぎて、順にこれあれと営業ノルマのごとくに目敏い商人たちの教材を健気に消化しようとする。達成感はあるだろうが、人生を犠牲にしていることをお忘れなく。

言語の習得は大変であり、やったことは何がしかの効果はある。自分にとっての英語の本筋をまず見つけることが重要。会話だけできればいいならそれはそれでよい。ただ、大学を出て社会人になり、場合によっては海外に出ることもある人はその程度で終わっては困る(ビジネス会議とか学会発表とかいうレベルを超えるべき)。そういう人のために情けないながら自分の道の例を示してきたつもりである。

実家には仏壇と神棚があった。年配の方の家では両者がほぼあることだろう。

実家の仏壇は立派な農家にあるような代物だった。高さ170cm、幅65cm、奥行き55cm。基壇が2つあり、その上に本体が載る3段構成。中央にはご本尊として30cmの高さもある木彫りの立派な阿弥陀像があった。普通は掛け軸のことが多い。母は掛け軸になって横の壁に下がっていて、父は納骨は済ませていたが白木の位牌のままだった。神棚の方はどこのご家庭でもよく見かけるもので、特別立派なものでも何でもない。

仏壇は価格的には現在でも40万から50万ぐらいになるが、これは大きく頑丈な今の実家に引っ越した四半世紀前に母が自分の口座の蓄えから購入したもので詳細は父母以外知らない。

 

法要を終えて2人を納めた仏壇を持ち帰らなければならない。自宅は小さくは無いのだが、車に実家のでかい仏壇を載せることはできても、他の荷物を運ぶのが難しくなるし、犬を連れ帰れない。それに、こんな大きな仏壇を置き続ける意義が見当たらない。地震時の心配もある。仏壇の小型化を決めた。

 

母のときもそうだったが、父が亡くなったことを新聞に告知を出すと必ず、葬儀の仕出し料理や仏壇の案内が届く。こういう事態を見越して取っておいた仏壇屋の広告の中にいいのがあった。おそらく、仏壇形式としては屈指の小さいものだろう。実家から50キロほど離れたお店で実物を見て、問題無しとわかり、ご住職と相談して魂抜きと魂入れを同時にするので後で連絡しますと伝えた。

 

自宅に仏壇を納めるのに都合のよい造り付け棚がある。この小さい仏壇が、この棚に収まりかつ現地ですぐ手に入るあちこちの業者などを調べた限り、唯一の仏壇だった。

実家に戻ってご住職と相談すると、仏壇が小さいので掛け軸より過去帳がいいだろうとなり、その場で携帯電話で業者とも調整して、日程と内容を決めた。

 

仏壇交換の時刻になって、ご住職がまず来られた。早速、大きな仏壇(四半世紀経っているとは思えないほど状態はよかったのだが)の魂抜き。その途中で仏壇業者がやって来た。新しい小さな仏壇と仏具を確認し、持参された過去帳のうち1つを選択して、ご住職に記入してもらう。と同時にガタイの立派な遺品回収業者1人が大きい仏壇を抱えて車に詰め込んだ。このときに神棚も一緒にお焚き上げをお願いした。以上をその場で精算した。

ご住職は過去帳の記入が終わると、車に積んで帰ることを考慮して、緩衝材が付いたまま新たな仏壇に魂入れを行った。終わったあと、お布施とお車代をお渡しした。

こうして、仏壇の小型化を短期間で終え、両親たちは今は自宅に居る。

 

仏壇の小型化で意外なことがわかった。

お仏壇は本来は檀家となっているお寺に毎日供養をあげに行かなければならないところを、そのお寺代わりとして用意されたものであり、その役目を果たせるようにするためにお経をあげるが(お寺さんのご近所の檀家さんなら仏壇が無いこともあるかもしれない)、それが魂入れと呼ばれる。逆に、仏壇を更新するときにお焚き上げに出すために、古い仏壇にお役目を解くのが魂抜きと呼ばれている。

しかし、ご住職(本願寺派)に依れば、それらは俗称であって、魂抜きは仏壇が役目を全うし続けたことへのお礼とお別れの挨拶であり、魂入れはこれからお世話になることへの依頼の挨拶なのだという。ご本尊や故人の魂を移すといった意味は無いという。例えばご本尊が掛け軸でそれをそのまま次の仏壇に移すことはできる。

実は、大きい仏壇の木彫りご本尊を持ち帰りたいが可能か伺ったのである。魂を抜かれたご本尊は持ち帰ってもいいものかどうかと。ちょっと不思議に思われたらしく理由を訊かれた。父母が亡くなるまで四半世紀の間見守っていたのはこのご本尊なのと、とても細やかに彫られていて非常に美しかったからである。そこから出た回答が上記。気兼ねなく持ち帰り、現在は棚に同じく収まっている。ご本尊としての役目は終えているが今後も両親らを見守り続けてくれることだろう。

 

 

神棚のお札は頂いた神社の賽銭箱に戻し、お焚きあげ料として千円を一緒に入れた。

自宅には神棚は無い。洋風なのでモダン神棚なら合うかもしれないが、犬の散歩でも複数の神社の前はよく通り、礼拝するので、必要性を今は感じていない。

狭小住宅で仏壇も置けない置きたくないというお宅もあるかもしれない。スマホであれば仏壇アプリがあるようなので(宗派ごとにお経も選べ、お鈴もちゃんと鳴る)、遺影を中に取り込んでやればできる。ただ、そんなんで本当にいいのかという気はするが。

 

※※

我が家では立ってるときにちょうど目の高さにご本尊が来るので、いちいちしゃがんで立ってという手間がなく、簡単に礼拝できる。その結果、自分でも信じられないほどよく拝む。朝晩は必ず、何かふと思うときにも礼拝している。通りすがりに拝むことができる。小さくして大正解だった。お客が来て焼香を考えると仏壇は低い位置がいい。そのときは棚の下段にすぐに移せばよい。こういうときにこの小ささは強力である。もっとも焼香に来られるお客さんが今後いるかというといないと思うが。

 

※※※

古い仏壇のさらに前の両親初の仏壇は高さが60cm程度の適度な大きさだった。しかし、かなり傷んでもいた。引越しが何度か続くなど諸々の事情で特にどこかの檀家になっていない(ちなみに近くに本来の宗派が無くて、ほかの宗派の檀家になることもままあるし、全く問題ないそうである)。したがって、大きな仏壇に替えたとき、魂抜き魂入れはしていなかったようだ。生前、確認したわけではないが間違いないと思う。通念的にはおかしいとなるのだろうが、ご住職に言えば、永年亡くなるまで毎日、お水とご飯を供えてきた父母の行為に阿弥陀様の思いが伝わっている証拠だから気に病むことはありません、と応えてくれるに違いない。本来の檀家ではなかったことから、はたしてよい対応なのか問題ないのかといろいろとやりとりしてきた中で、ご住職から少なくとも本願寺派の教えを垣間見てきた気がする。

前回、ダイキンのエアコン本体が再び絶命して、別のメーカーにすることを予告した。

まず、量販店に行く前に、家の電気工事をして頂いた業者に電話した。ダイキンのエアコンはネットで注文したもので、それを取り付けて頂いた。予定はパナソニックが候補だと伝えた。すると、パナソニックは掃除で出るゴミ排出のための配管が別にあるという。その工事の手間がかかるという。配管は何とかなるのではないかと思うということだった。余計なものが付くと必ず余計な問題が生じやすいので、パナソニックを除外した。これはもう量販店でいろいろ聞いて判断するのがいいかということになった。

今回は暑い日が来ることがわかっていたので時間勝負でネットで注文するのは諦めて、業者さんにお願いするのも断念した。本当は作業に信頼を置いてるし、いろいろ都合がいいのだが。。。

 

 

【購入編】

近くの量販店に行った。まず、そこで薦められたのがダイキン。有無を言わさずダイキン。(笑)

実際、複数の量販店で一番、展示されてる機種数が多いのはダイキンだった。特に室外機のチェック項目は200に及び図抜けて丈夫だという。

事情を話してダイキンだけは御免だと伝えた。要望項目は3つ。

 ①ダイキンのようにリモコン含めて簡単に壊れないこと

 ②最低出力ができるだけ静かなこと(妻の強い要望)

 ③一定の気流運転に向いていること

 

大雑把に言って、ダイキンを外すと見るべき展示品の1/3近くが消える。残った中から、静かさではたぶん三菱だろうということだった。モーターとその制御に強いという。冷蔵庫からすると三菱が一番の可能性だと。モーターなら日立もではないか?と訊くとそうだという。ところが、2つともセンサーで人の表面温度を感知して、風を送り込むという。人がいないとほとんど動かなくなるらしい。これは我が家には向かない。

 

我が家は③が肝心で、人を冷やすといった、ある意味馬鹿げたことはせず、家の構造体を一定温度に冷やすために一定の弱い気流を家全体に回すことを目標とする。

前にも書いたが、人が冷暑を感じるのは体周りの気温より、壁温や陽射しといった輻射が主である。外で気温が低くくても強い日差し(太陽からの輻射)に当れば暑い。つまり、壁や天井、床を冷やしておけば多少室温が上下してもそれほど感覚に影響しないということである。そのため、気流をうまく回して各部屋の内部、すなわち家自体を冷やすことをしている。壊れはしたが、ダイキンのエアコンではそれがうまくできた。当初かなり苦労したが、最終的には家全体をほぼ狙い通りに冷却でき、電気代が節約できた。真夏でも月の電力使用量は120kWhを少し超える程度で済んでいる。

連続微少運転はエコ住宅の性能を最大限に活かす常識である。エアコンを入れたり切ったりすることで余計な加減速で電力を無駄に消費してしまう。

人を狙って冷やすのではなく、家を快適温度に保つために冷やすのである。人に直接風を当てるなどという不快なことは避けなければならない。風は最初は快適ても、それを浴び続けるのは体にはよくない。よく扇風機を回したまま人が亡くなっているのはそのためだ。

エアコンがこんなことをしていること自体、日本の家の断熱力が今もって弱過ぎることを証明している。冷房のみで単純な機能にした方が壊れることも少ない。

 

これで三菱や日立のエアコンは消えた。センサー機能を殺せて気流が作れるという点では1つしかなかった。富士通ゼネラルのnocria。もともと大きかった定格出力を1つ上げてさらに大きいのにした。もし、実能力が低かったら大変だからだ。工事日は2日後の夕方。これならまだ何とか凌げる。

そして、帰宅してみて室外機の大きさに驚いた。前のも大きい方だったが、業務用かと思うほどでかい。出力を上げた結果で大きさの分類が上になってしまった。まあ、仕方がない。本体の大きさは少しだけ大きくなっただけでほとんど差がない。リモコンはデザイン今一つだが、かなり簡素なものになっていた。

 

 

【使用編】

さて、運転してみるといろいろ問題が生じた。まず、涼しくないのである。ファンはブンブン回っているし、室外機もフル回転。なのに生温かい風の感じ。なぜだろう?

nocriaは通常の吹出しとは別に両端にサイドファン(サイトではデュアルブラスターと呼んでいる)が付いている。主吹出しのところと上の吸込み口と手を当ててみた。吹出し冷気の温度があまり低くない。ダイキンの場合、性能として10℃下がるようになっている。明確に冷たい。冷た過ぎてその前にはずっと立っていることができないほど。ところが今度のは、7からせいぜい8℃ではないかと思うほど温度差が小さいようだ。そして、その気流の横をサイドファンからの風が支えるような形になっている。このサイドファンの風が全く冷たくない。明確な記述は見つけていないが、単なる扇風機で周囲の空気をただ吸って吹出しているだけのようだ。

 

それで理解した。ただでさえ温度差が小さい主吹出しに両側から周囲の空気の風を送って混ぜている。それで急激な冷えを抑えるように仕組んでるようなのだ。ダイキンが愚直に冷たい風を作ってこれでもかと冷やしにいくことができるのに対して、緩やかに不快な思いをせずに時間をかけて冷やすのがこの機種の狙いのようである。いきなり冷気に晒すのではなく、サイドファンの風で温度差の無い快適さを与えながら徐々に室温を下げていき、冷えるとサイドファンは人に風を当てずに、主吹出しと三位一体でほぼ同じ温度の冷気を天井に走らすようになっている。この機種はとにかく、人というより、部屋の均一な冷暖房を目的としていて、かつ人間に不快な風を当てないことを売りにしている。我が家の目的にかなり合致している。急速冷房には向かない。(その場合は「ハイパワー」モードを選択。当然電気代は跳ね上がる)

 

しかし、ことはそう簡単には運ばない。このままでは冷えないし、気流発生が2部構成になっていて複雑である。実際今もダイキンと同じような希望の温度分布が実現できていない。サイドファンの風は家全体を回る気流生成に寄与していないし、主吹出しと連動固定にした場合、自動出力調整で急激に気流が弱まったりして一定冷却がなぜかできない。それで、サイドファンは止めた。センサー機能も止めている。サイドファンは無駄な付属物となってしまったというわけだ。

サイドファンを止めたことで安定的に冷えやすくはなったがダイキンよりずっと時間はかかる。それに風量と風向のモードがダイキンに比べて少なく、細かな調整ができない。それもあってか特に1Fが狙い通りの温度になっていかない。ダイキンのときもうまくいかず苦闘した経緯があるが、今回は及第点ではあるものの、より快適な温度分布になるような設定の組合せを探していくことになる。

睡眠時はタイマー(和製英語に思えるがれっきとした英語)で消音モードで運転。ダイキンより静かと妻は満足している。

 

もし、貴方の家が十分にエコな家ならその性能を最大限に活用して、かつ不快を避けたいならnocriaぐらいしかないのかもしれない。まあ、ダイキンでもいいですが。(笑)

 

 

リモコンで外気や室内の温度を知る機能はダイキンにもnocriaにもあるが、nocriaは音声のみで答えてきて、液晶に表示されない(ダイキンは液晶に表示のみ)。いつもだらだらと音声回答を待つことになる。何で表示も併用しなかったのか理解に苦しむ。ただ、ダイキンの複雑さに比べれば使いやすい。