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An Ulterior Weblog

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Read-only, not set communicative and periodical updating, sorry.

我が家のエアコンはダイキンである。ダイキンと言えばエアコンの代名詞として世間では通用していると思う。

 

ダイキンのエアコンを購入して1年後、あるとき突然止まった。どうにも動かない。そこで取説を見てエラーコード「U0異常」が判明した。連絡した。女性が出た。冷媒のガスが漏れて無くなったということだという。1年を超しているのでお金がかかると言う。故障確認に人を派遣するのに派遣費用がかかる。それを払うのかどうかと迫られた。それでエアコンの故障でなければそのまま。その受答えも悪く、施工業者に非があると決めつけた言い方だった。(実はこの女性に当ったのが間違いだったことが後にわかる)

まずは確認のためにと思い、施工業者に連絡した。再度ガス充填されて動かすとたしかに動き、安心した。ところが、その翌年、使い始めにまた同じ異常。施工業者にもう一度チェックしてもらうと、配管ほかに大きなミスは見つからないので本体が疑わしいということになり、もう一度ダイキンに連絡した。

 

今度は男性で、冷媒故障は本体の可能性があり、冷媒に関しては5年保証だという。つまり、先の女性は間違っていたのである。男性は非を詫びたが彼の問題ではない。近いところの対応業者を調べて、できるだけ早くいかせるということになった。翌日来たが手持ちの部品ではどうしようもなく、後日また来るとなった。その2日後だったか、自分も早退して立ち会い、手伝いもした。その様子と全く同じなのが下の記事の詳細のとおり(配管の腐蝕が下の方の画像でよくわかる)。我が家の本体はもっとボロボロだった。

http://gigazine.net/news/20120716-aircon-repair/

つまり本体丸ごと交換に至った。対応した業者さんは仕事に真摯で作業着が汗びっしょりになっていた。実際、とても暑かった。エコな家で1台運転にするからと家族からは散々の言われようだった。

 

その後は問題がなかったが、それからたった3年後、昨日また同じことが起きた。そして、冷媒保証期間は見事に避けた結果となっている。

朝晩の低い温度で家本体を扇風機と風呂に水を貯めて冷やして凌ぎ、現在、ほかのエアコンを検討中である。明日、電気店に行って購入を決める。

 

ダイキンはいろいろな意味でおしまいの気がする。1年やそこらでいつも使えなくなるエアコンは御免である(エアコンでは暖房していない)。少なくとも我が家ではもう無い。家族皆が怒っていて納得しない。妻は微風運転でも煩いと不満でもあり、別メーカーは確実。

上の記事ではダイキンの対応を評価しているが、自身何台ものエアコンで故障経験が無いし、我が家では妻の一言が全てを表している。「見限った」。

 

 

壊れているのは本体だけではない。リモコンもそうだ。風向きを上下左右でモードを選べるのだが、左右の制御基板が壊れたのか一部の範囲に向けることができなくなっていた。こっちは保証期間外で別途購入だという。幸い、家を冷やすのに影響は出なかったが、一時はそれが全く変な方向を向いたりしてあせった。最悪の事態は避けられたが、その代わり、送風範囲が少しずれたままなのは変わらない。本体もダメならリモコンもダメというお粗末さ。これほどお粗末なエアコンはいまだかつて無い。

http://www.buzznews.jp/?p=2109256

昔は舌鋒も強かった左翼だが、今のその最大の旗振りの朝日新聞は何をしてきたか。ヤラセ問題や慰安婦関連の捏造。仮にそれらと切り離して議論したとして、はたしてこの記者の主張は正当化されるかという点でかなり疑問である。

昔は天下の朝日だったが、今はその面影も無い。文系と官僚的体質が朝日の現状の悲惨さを作ったと言えるが、それは今回の対象ではない。

 

東京電力は被災者への賠償金などを支払ってはいるが、それに対してもここでは問題ではない。では何が問題か?全く官僚的で仕事をしない連中だということである。政治家や官公庁の幹部と同じように自分たちは何もしないのだ。ただ、文句を言い、良い結果の報告が上がって来るのを待つ。仕事が回るような調整などを自分自身ではやらない。やっているのは社員でも下々の方のみ。まあ、それはどこでも同じだが、東電は下々でも他社に対しては会社の御旗の下、傲慢で態度がでかいことでは右に出るものは政治家と官庁幹部ぐらいだろう。

 

東電に対して文句が言える立場の会社はそうは無い。トヨタでも無理ではないだろうか(トヨタは中京圏トップの企業だが、本社や工場、販売店やサービスセンターなど東電域内の総電力量の方が上だろうと思う。グループ企業入れたら間違いないだろう)。電力会社は地主や大家みたいなもので、気に入らないなら出て行け、使わなくていいとそれでおしまい。

311で少しは懲りて体質が変わるとは思ってなどいなかった。表面的に取り繕えばいいだけの話だからだ(逆に、被災者の中にも酷いのが居て、補償金でパチンコ通いなどの話も聞く。仕事直結でないものはいい結果にはならないものだ)。いざとなればJRがダイヤを乱す障害を与えた場合に賠償請求の裁判を起こすように、東電が切り返して利用者を訴えることなど容易いし、そのためには一肌も二肌も脱ぐ弁護士など、仕事が少ない中で希望者殺到は間違いない。

 

一緒に共同プロジェクトをした人から聞いた話。自分の担当の仕事なのに、他社の人間に全てやらせ、報告書をまとめさせた挙句に、上層部への報告だけは行って、評価を自分のものとするという。呆れてしまったという。何もしないという点では完璧だったという。しかし、体制的には東電が強いので、他社の人たちはいいなりにならざるを得ないという。これは民間ならよくあることだが、特に強い立場のトヨタなどでよく見受けられる話である。分が悪くても拒んで切られたらそれっきり。(東電やトヨタと共同もしくは傘下で働いた企業で、よい対応で今後も仕事をしたいと思ってる人がいたら知りたいところである。大学関係者は特別扱いなので除く)

基本的には東大閥の東電。今も変わらないと思うが滅多なことでは他大学の人間は入社も簡単ではないし、入れても上には行かれない。東芝も研究所などは有名だった。東大閥で無いものはずいぶんと酷い扱いを受けたという。今もかは知らない。

 

パートの検針員に当り散らす人もいるようだが、そんなことをしても、社員は痛くも痒くも無い。

311後も何も変わっていないように思える。彼らが本当に困る相手は顧客ではない。政治家と官庁だ。権限が上の彼らの意向を無視はできない。だから、彼らを正すには政治家を動かすしかないだろう。といっても、そんなまともな政治家はいやしないが。。。

民主党政権下のときに馬鹿首相菅(と鳩山は最悪だが、理系でもこんな愚か者は見たことがない)と政商孫とが結託してできた愚かな再生エネルギー法での施策が行き詰まりを見せ、来月から以前に比べ700円も値上げとなる。政治家の言うことはきいたが、その困り分は顧客に平気で回せるという御立派な殿様商売。

 

一方、朝日が潰れてもカメラマンや駐在員、印刷会社、新聞配達関係者を除いて困りはしない。どっちが潰れた方が社会的影響が少ないかと言えば朝日だろう。それ自体望ましいことと言える。言論の自由とか知る権利などきちんとその代弁者としてやってなどいないのだから。天声人語は今も入試で出ているのか知らないが、あれも意味の無い暇人の呟き以外の何物でもなかった。こんな中身の無い、何が主張したいのか、傍観者でただ好き勝手言ってるものを題材にする東大をはじめとした大学関係者には呆れた受験時代だった。文芸が嫌いになった理由の一つだ。こんなものが文芸の一つとみなされていたのだから。

 

 

http://www.buzznews.jp/?p=2009641

2年前の朝日の捏造。こんな連中に言論の自由とか知る権利などという権利など与えない方がよい。捏造されるだけである。と書いていたら、こんな話題が昨日あったそうな。しかも天声人語元執筆者。(笑)

https://mera.red/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E6%A0%BC%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%A8

パリ在住とは朝日の中で今だ高い扱いを受けてることだろう。パリの片隅だと日本ほど忙しくないのか、こんなことをわざわざ書いて暇つぶしだろうか。それとも、単にネトウヨ憎しの空脳味噌、情けないながらもここは引けない、こんなことを書くことになるのはと自分の人生への嘆き(としてももう少しまともな文章にしなければならない。その能力が無いか)。この人は死んでもまともな脳味噌にはならないだろう。たしか天声人語担当というのは社内ランクとリンクし、ステータスの点でもそれ相応の扱いを受ける人が成るとかいう話だったと思うが、どうやら過去の話かとんだ間違いだったか。

自分の仕事をあろうことか他社の人に押し付けてやらせておいて、その成果を自分のものにするのも捏造。東電も同じ穴の狢というお話でした。

 

※※

天声人語でも何でもいいが、誰かが書いたことが、ある人々を動かし、生活を社会を世界を変えることがよくあるのであれば意味がある。この前、投稿したマンチェスター追悼式での現代詩朗読はあそこにいた何万という市民に直接働きかけた。文芸だからダメということはない。が、誰か権限のある人への提言でもない(あるなら新聞の片隅に書くのではなく、直接記者を送って働きかけることが朝日にはできる。庶民には無理)、市民に直接呼びかけて導くわけでもない、言いっぱなしの評論なら、それは文芸の本来の力を持ち合わせていないし、そんなものを声高に叫んでも無力なので、「文芸もどき」に意味は無い。

 

※※※

朝日の朝はかさはこのとおりである。https://thepage.jp/detail/20160519-00000006-wordleaf

軽減税率が適用されてからはマスコミは政権批判がほとんどできなくなったと言われている。間違いないだろう。日本新聞協会がEU諸国を例にしているが、実際には日本の新聞社の形態が異常なので、比較にならない。爺ちゃん婆ちゃんはまだそうでもないからも知れないが、いま、多くの人はマスメディアそのものを信用しなくなっている。

http://ohnishi.livedoor.biz/archives/51472335.html

 

東電は潰れると影響が大きいから無理と考えるかもしれないが、大丈夫。ほとんどの社員は事務職みたいのばかりだし、311のときには幹部たちは的確な指示を出すことも判断することもできなかったのはご承知のとおり。つまり彼らは不要なのであって、技術職を除いて他の新電力会社の人たちに入れ替えればよい。深刻に困ることはほとんど起きないだろう。ある電力会社の幹部と交わした話からもそういう印象だった。

近くに大きな公園がある。庭園があり、中に池がいくつかある。白鳥や鯉が放たれている。

池の間は水路で繋がれていて、複数の池があるというよりは1つの池がアメーバのように大きく変形していると言った方が近い。

 

あるとき、いつものように早朝、我が家のボーダーコリーを連れて散歩していた。水路には飛び石があって、対岸に渡れるようになっているので、散歩のバリエーションとして先頭になって渡っていた。

すると、後ろで「ドボンッ!」と音が。振り返ると犬が池側に落ちてしまっていた。

慌ててると、池の中から神様が現れて、

「いま、池に落ちたお前の犬はこの賢いボーダーコリーか?」

と毛並みも艶々の立派なボーダーを差し出して訊かれたので、

「いいえ、違います。」

と答えた。すると、

「では、こちらの鈍くさいボーダーコリーか?」

とずぶ濡れでみすぼらしくなった我が犬を差し出した。

「そうです。そのボーダーです。」

と答えると

「お前は正直者だから、こちらの賢いボーダーコリーをあげよう。」

と言われた。

「いいえ、賢いボーダーは我が家では扱い切れないので、こっちの鈍くさいのでいいです。」

と言い残して、我が犬をさっと抱えて帰って来た。

 

犬の体はびしょ濡れ、脚は泥だらけで、こっちも濡れて汚れてで出勤前に大わらわだったことは言うまでもない。

 

 

ボーダーコリーは全犬種で一番賢いとの定評だが、我が犬については「うーん...」なのである。しかし、引取るまであまりよい人生(犬生)ではなかったらしく、どれだけ飼い主が代わったかもはっきりしない中、人間にずいぶん翻弄されて来たようだ。せめて、我が家では心安らかに楽しく過ごさせてやりたいと思っている。今は元気で、急勾配の石段もひょいひょい上り下りするが、推定年齢からは終わりもそう遠くない。たぶん、一緒に東京五輪は見れないだろう。

従兄が昨晩、緊急入院し、今日手術する。病状は狭心症。原因はタバコ。60歳。まだ家族健全で現役で働いている。

小学ぐらいのときに会ったのが最後か。来月、亡くなった母と父の合同法要を行うため親族に案内を出していた。その出席者だった。一緒に来るはずだった別の従姉もキャンセルとなった。いとこ同士がこれだけ揃う機会はもう無いだろうと思えただけにとても残念だ。

 

従兄が住んでいるのは大都市ではないが、全国的には名が知られているところで大きな病院もあるのだが、そこでも無理らしく、別のより大きな(たぶん大学)病院へと搬送されている。

奥さんから連絡があり、伺うと、定期健診では心電図に出たことが無いという。その一方で、本人は胸が苦しいことをときどき訴えていたということだった。禁煙外来にも行ったりしたが止めることはできなかったという。はたして、術後はどうなるか。

両足が壊疽して切断しても吸い続けた人がいた。たぶん、あの世でも煙を吹かしていることだろう。口と手さえあればいいのかもしれない。

 

亡くなった母はもちろん、父もタバコはやらなかった。正確には来客のときに父だけが一緒に喫っていたが、50ぐらいからはそれも止めた。結石で手術をしてからだ。酒も付合いだけで自分から飲むことはなかった。母が急逝したあとも2年近く1人で生きていけたのも酒やタバコと縁がなかったからだろう。親類の中で現時点では一番の長寿で平均余命を軽く超えて亡くなっている。もっと高齢の伯母が1人いるが認知症で入院中だ。

叔父にタバコ好きがいて、兄弟の家を訪問している際に倒れて大学病院に搬送されて緊急手術で一命を取り留めた。こちらも狭心症だった。

 

実家のご近所で高校の先輩が家業を継ぎにかなり以前に戻って来ていた。じきに親が2人とも亡くなり、独身ながら頑張っていたが、酒好きが祟って50半ばで他界。住人が居なくなった住居はガタガタに荒れ放題だ。

タバコと酒のお金があったら、別のもっと有効なものに注ぎ込むので基本的に自分はやらない。割と高額の寄付をすることもときどきある(東日本大震災など。献血ももちろんしている。高血圧の人にはお勧め)。それに回してるともいえる。酒は付合い程度で、お金をかけて寿命を縮める気は無い。

 

歳を取り、家族や親族、ご近所の方々を見て思うのは、お金で健康は買うどころか取り戻せもしないということ。芸能人もどれだけ病気で亡くなっていることか。遺伝もあるだろうが、あの華やかな世界では生活習慣と食事は酷かろう。彼らの財力を持って全国一の治療を受けてもダメな場合を我々は何度も見てきている。一度損なった健康はどんなにお金を費やそうと戻らない。億だろうと兆だろうと維持すらままならない。辛うじて移植のみがそれを可能にするが、ドナーが必要だから回復というより、体を入れ替えたというべきだ。

宣伝の健康食品などは商売のためであり、本来の人間の営みとは別のものだ。自分の生活の様子と食事を見直して健康で晩年を終えるように心がけてみてはいかがだろうか。

 

 

iPS細胞で細胞再生で取り戻せる日がいずれ来るかもしれない。成果は着実に拡大している。しかし、致命的な問題がiPSにはある。細胞寿命。自分の細胞なので、自分と同じく歳を取った細胞に遺伝子操作を施すためガン化が激しい。生れたばかりの新しい細胞ではないのだ。つまり、一時的には回復してもいずれガン化してしまう恐怖との闘いが続く。iPSとは違った方式でガン化しない手法の開発も進められているが、可能性は出ているもののまだ実証段階にはないようだ。長寿というのは冒さざるべき領域なのだろう。

ここしばらく、左膝の調子悪く、特に階段を下りるときが痛い。職場ではエレベーターを使いたくなるほど。湿布を貼ってみたが、治癒する感じがなく病院へ。レントゲン撮影での診断は膝周りの軟骨がいくつか擦り減っている箇所があるということだった。

その原因が昔の古傷。スラロームで2度、旗門に引っ掛けて十字靱帯を伸ばしたことがある。そのため、関節の拘束が弱くなり、ガタガタと揺れることで、グリグリと軟骨同士が擦れ合って互いに傷めつけられることになったのだという。階段で上るときに痛くなる部位と下りるときの部位は別で、下りるときの軟骨のダメージがレントゲンでは映らないが大きいのだろうということだった。若くないので、年齢かとも訊いてみたが、右膝は健全でその兆候は見られないという。

 

さて、治療はどうするかと、ほぼ対等な感じで相談に乗って頂いた。その過程でいろいろ教えて頂いたが、擦り減った軟骨は簡単に回復させることができるという。さらに成長させることもできるというのだ。そのためには運動しかないという(化学的には浸透圧による効果)。筋肉と同じで何もしないとただ痩せていくのみ。ところが、負担がかかって擦り減ったのだから、そのまま散歩とかランニングなどでもしようものならさらに悪化させるのは目に見えている。運動は良いといっても体を傷めているときはだめなのと同じ。一番いいのはプールの中でのウォーキングだそうだが簡単にはできないので、横になって脚を動かすとか自転車で立ち漕ぎをしないなどといったものが大体の対処になりそうだというのがわかった。また、体重を少し軽くすることができれば負担を軽減できることも大きいとのこと。あまりに酷い場合は他の部位から軟骨を移植して増殖させることもあるというが、そこまでには至っていない。

 

食事は効果がないという。バランスよい食事を摂るのは当然だが、それで軟骨に効くようなことはないというのだ。よく、サプリメントが通販で流れているが全く効かないと言える。サプリはどれも同じで胃腸で分解されて、腸で吸収されることがほとんどない。具体的には、膝に打つヒアルロン酸液が入った注射器が用意されている。血液採取と同程度の太さのものだったが、それを口から飲んでも糖に分解されてしまう。ある医師が調べたところ、1日160本も飲まないと軟骨には到達しないのだという。そんなことを毎日してたら治る前に糖尿病になる。軟骨の調子をよくするには直接膝に打込むのが一番だが、当然とても痛い。まずは2週間痛み止めを飲んで様子を見て、それから打つかどうかを判断しましょうということになった。錠剤と湿布をもらって帰ってきた。

 

運動をするのはいいとして、普段の生活や夜中にあまり膝を傷めることをしたくないので、長く装着可能なスポーツ用の膝のサポーターを買うことにした。スポーツ専門店に行って、両サイドに柔らかいプラスチックの棒が入った通気性のよい固定力が中度のものを購入した。6千円近い。車の運転でも痛みが出ない程度に拘束してくれる。これでしばらくは何とかなるだろう。問題は治っていく流れに本当になるかどうか。残念ながら犬の散歩を完全に家族に任せるというわけにもいかない。そこが辛いところだが、今のところサポーターがかなりの助けになっている。

 

さて、ヒアルロン酸と聞くと、年配の方々などはTVでずいぶんとサプリメントの宣伝に騙されていることだろうと思うが、厄介なことにサントリーとか味の素とかそれなりの会社までいろいろ出してやっている。胃腸にそのままで吸収させるものはいいが、グルコサミン、コンドロイチンと分解されて役立たないものを売るなんて阿漕ではないか。分解を防ぐためにコーティングしてあるとか反論するかもしれないが、腸まで届いて吸収されたとして軟骨部まで到達することはまずない。食事療法が無いのはそのためで、だから160本も毎日要求される。ヒアルロン酸だけで食欲を奪われ、栄養が無いから体全体は却ってガタガタになる。大きいメーカーがやっているからと、年配の人たちは信用してしまうだろう。大体、どんな製造をされているのか保証されていない医薬部外品を買って安心しようという気持ちがなぜ湧いてくるのか私には全く理解しがたい。ボケ老人と言われないようにしっかりと見極めて購入を控えた方がいいだろう。調子が悪いのなら病院にまず行って、正しい対処法を教えてもらうのが一番だ。

 

膝の調子が悪ければ、体重管理、負担の軽い膝運動、そして直接の注射、最悪は手術の4つしかないことを肝に銘じておくべき。軟骨をつくれるのは運動のみ!ほかにない。サプリメントなんか買わないように。

 

 

とある事情で、あるサプリメントを飲み続けたことがある。胃腸が微妙におかしくなった。原因がサプリとはなかなかわからなかった。10日ほど経ってから服用量をどんどんと減らしたが、緩和されても不調は消えなかった。3週間かそこら経ってそのことを報告して、残りを全てゴミとして処分した。

ほかのサプリも2、3種飲んだことがあるが、ほとんど同じことが起きた。普通にどこでも海外でも食事で大変な目にあったことはない。食い合わせが悪いものを無理して食べたとき以外は。サプリはその後、口にするのも嫌になった。どんな成分をどう製造しているのか何も書かれてないし、小さい会社なら材料や製造の管理がしっかりしてないところもあるだろう。元々効果の無いものを売りつけているところだってある。お金を出して買うものでは決してない(買ったことはないが、タダで頼まれてももう御免だ)。

三浦雄一郎がセサミンで出てきたときは、今後の冒険のスポンサー確保として仕方がないかと思ったが、三国連太郎と八千草薫が皇潤のCMに出てきたときには、同世代の人たちを騙して恥ずかしくないのだろうかと思った。それとも仕事をもらえただけで嬉しかったのか、ギャラがあまりに破格だったのか。。。

 

※※

BSのCMで名の知れた芸能人を何人も並べたワイドショー風のものがあった。膝の「軟骨が全て入れ替わるのに117年」かかると衝撃の事実が!(笑) サプリ(リョウシンJV錠)売込のためのようだった。出鱈目にも程がある。筋肉は2ヶ月ぐらい。骨は1つだけなら3,4ヶ月、全骨格は大体3年長くて5年と言われている。軟骨は筋肉と骨の中間的存在だから長くても3,4ヶ月ということになる。個人の運動量や年齢、新陳代謝にも依る。

こんな嘘を放送に平気に流していてTV局も恥ずかしくないのだろうか?もちろん、歯のように一生ほとんど入れ替わらないものもあるが、歯も再生することが最近はわかってきている。引っかかる高齢者が一杯いるのだろう。

どうしてもその可能性を考えてしまう人は医師のこちらの説明で納得してもらえるだろう。

http://www.kunichika-naika.com/hitorigoto/2014/20141008197.html

結婚に向かっていると言われる眞子様がブータンを訪問されている。そこでスピーチを行っている。

https://www.youtube.com/watch?v=85bSOPAS-XY

大変申し訳ない話ではあるが、日本人発音がやや強く残り、一本調子。眞子様は通常の学習院系列から外れてわざわざICUに入っている。次女の佳子様はそれに影響受けてか、学習院の途中からICUに転学している。眞子様は卒業後は英国のレスター大大学院で寮生活を送りながら1年間、博物学を学ばれでいる。

ICUはこう言っては何だが、英語が全てのような大学。そして、その後の留学。それでこれなのかとちょっと驚いてしまった。しかも、母親の紀子妃殿下は帰国子女であり、天皇家一族の幼少期からの教育を考えると、ここまでやってこの結果なのだろうかとかなり衝撃を受けた。祖母の皇后陛下と比べると、という感じになってしまう。

 

一方、駄々っ子の北のおかげで大変な稲田防衛大臣がこちら。

https://www.youtube.com/watch?v=DKA3BRGIjMk

大臣は早稲田の法学部出身の弁護士で、かつ税理士の資格を持つ。文学部では無いにしても私学の文系であるから、英語の重要性は理系の比ではない。それでこの状況。まあ、彼女の場合は当時の年代的な問題もあり、今ほどは学習環境が充実していたわけではないが、それにしてもというのが正直なところ。

 

2人は日本を代表するエリートである。それも、語学に強いとされる女性。一般人なら許されるレベルでもエリートはそういうわけにはいかない。大変、暗い気持ちになった。稲田大臣の方は大学以降あまりやっていない可能性が高いが、眞子様には当てはまらない。理解しがたい。

ロンドンで起きたテロの関係で週末はかなり英語ニューズを見ていた。そんな中で彼女たちのスピーチを耳にした自分はちょっと立ち直れないような気分になった。メイ首相の Enough is enough. と同じセリフを言いたくなる。この衝撃をどこに向ければいいのか。

 

よい例として皇族の雅子妃殿下にご登場願おう。しかし、彼女も帰国子女なので、ここまで到達することは一般日本人にはまず不可能と思っていい。少なくとも耳が全然違う。

https://www.youtube.com/watch?v=VNAmrm3nI0U

もう一例。元首相の故宮澤喜一。この年齢の日本人で留学無しでここまでいければかなりだろう。ブッシュが晩餐会で倒れたときに海外メディアに直接英語で対応して賛辞を受けている。コメントにはダメとか書いてる人もあるが、時代と再学習年齢の相違や帰国子女の悲哀を考慮すらしようとしない大馬鹿者だろう。

https://www.youtube.com/watch?v=6bfBwbPY6EI

本当は皇后美智子様にご登場願いたいところだが、日本のwikipediaでは聖心の英文科を出られたとしかないが、BBCにはハーバードやオクスフォードに留学経験があるとの記述があり除外した。しかし、ほとんどは日本での教育で、柔らか目の英国風の発音で英米ネイティブからもその品位ある発音と話し方に驚かれる人が非常に多い。皇后陛下は英文学を修められている。あの英語の品位は、もし日本に英文学科がなかったら生れようもなく、日本の戦後外交上とても大きな損失を招きかねなかった。明治維新以降、国際的な場に皇室の人々の英語力が重要になるのは飛行機が発達して外遊が容易になった第二次大戦後。この時期に皇后陛下を日本が得たことはとてつもなく幸運だったと言える。東京五輪招致のため、IOC総会で高円宮妃久子様(民間から入られた帰国子女)の仏語と英語のプレゼンテーションの素晴らしさは記憶に新しい。外務省時代に首相級の通訳までされていた雅子妃殿下が経済学を学んでいたことから実利的な英語には断然強いのだろうが、英語そのものとしては難しい世界ではない。しかし、こと皇室外交を考えると文学の素養がないのは苦しい。皇后陛下の品位ある英語を獲得するのは雅子妃殿下を持ってしても至難、年齢的にも公務からももう不可能だろう。

何も英語文化だけが重要ではないが、仏や独、露、西、伊など何でもというのは個人にはとても難しい。言語的に近い、仏、独のどっちかに手が出ているだけでも御立派の一言。

よき相手とよい関係を持つためには尊敬を得なくてはならない。それには相手の言語文化をよく理解しない限り、つまり文学や哲学を知らない限り、相手に響くことはないだろう。昔の大学入試が輝いて見える。(とはいえ、Joyce の Dubliners や Ulysses を出題するのは酷ではないか。。。)

 

 

今回の眞子様のブータンご訪問は、ご成婚が現実に近づいて、宮から民間に出たら二度と皇族としてのご公務は果たせないので、宮内庁から外務省を通じてブータン政府に持ちかけた話に間違いないだろう。形としてはブータンからの要請にして。ブータン側にしても喜ばしい話には違いない。そういうこともあって尚更、個人的にはちょっと残念であった。

英国ではロンドンでのテロがあったばかりだが、マンチェスターで大きなアリーナでのコンサートのあとに自爆テロが発生し、かなり死傷者が出た。ロンドンより酷い。

 

事件翌日、そのマンチェスターのど真ん中、アルバート広場のデモというか追悼式(両方を兼ねているはず)で市民ホールに長身の詩人が立って朗読をした。宗教を超えたメッセージとするためか、背後にヒンズー教徒と思われる方もいる。全文が公開されている。TVの海外ニューズで観て、文化の違いをまざまざと感じた。

http://www.manchestereveningnews.co.uk/news/greater-manchester-news/tony-walsh-poem-manchester-vigil-13082050

何万人いるかというような群衆を前にした追悼で、現代詩を朗読するというようなことは日本ではちょっと考えられない。しかも、詩の中にこの城塞都市の現代までの歴史を織り込んで、強くマンチェスター魂を持ち続けることを呼び掛けている。韻も踏んでいる。他にももっと複雑に思いを盛り込んでいるのかもしれないが、マンチェスターをよく知らないと無理だ。お手上げ。

日本だと、弔辞を詩あるいは長歌で唱えるようなものだが、現代において一般市民の追悼でそういうことを重視することは非常に考えにくい。

 

英語については何度も投稿してきたが、主張して来たことは結局、この日英の文化の違いを知ることなのである。ボブディランのノーベル賞受賞に関連して、英語において詩というものが文学の根幹にあることを強調したが、まさしくここに表れている。英詩が特別好みということはないが、やはり、そこに英語文化としてのエッセンスがある。それに触れたければ、昔の入試のように英文学作品に触れる以外に道はない。少しは足がかりになる。決して、TOEICだTOEFLだ国連英検といった対策をしても英語については何も知ってなどいないのだ。逆に日本文学で日本の心に触れているネイティブと日本語検定でただ点数が高いネイティブでは日本への理解は全然違うだろう。この簡単な事実に気がつけば、どう英語と付き合うべきかわかるだろう。1点だけ注意が要る。英語文化は素晴らしいと無批判になってはいけないこと。多田正行が何度も思考訓練シリーズで指摘していたことである。

 

英国に居るわけでなし、追悼式がどんなで、それが何だ、という反応はあるだろう。英語が関わることがなければ問題ない。しかし、大学受験の時期は一生にまず一度。海外のように日本の大学は門戸が開かれていない。となると、そこでしか獲得できなければ一生できないものが多くある。歴史や科学については入試を過ぎればもうほとんど関係ないとして追いやることはできるだろう。が、こと英語については頻度の差こそあれ、関わる人はずっと関わる。大卒の誰にでもその後降ってくる科目と言えば英語ぐらいだろう。相手をよく知る上で、こういう言語文化を理解できていると全く違うことだけははっきり言える。残念なことは英文学で苦労して理解しても、独語や仏語の理解にはあまり寄与しないことである。文字からして違う露語はなおのこと。

文学嫌いだったのが、仕方なく文学作品に少し触れたのはこうしたことからである。高校でも予備校でも大学でも示唆されたことはない。英語はツールだなどと言ってるうちは子供の域だ。ただ、どこまで成長させるかは難しい。人生英語ばかりとはいかない。非常に重要なことなので、この片隅のブログながら何度も主張してきたわけである。まさしく、私にとって this is the place.

 

 

上の朗読の動画で詩人の右側に黒ネクタイをしている背広姿の人物は英下院議長 John Bercow のようだ。出身地や大学は違うので下院議長としての応援だろう。

https://www.youtube.com/watch?v=QP0c6smM_NM

英語については散々書いているので、その気は全くなかったが、昨日の発表を聞いて驚いたというか何というか。

 

2021年度からの新たな入試英語の検討については2年近く前に「大学入試英語改革の茶番」というのに詳細に思うところを記している。

しかし、昨日の発表はこのときの予測と異なった。何と英語の試験そのものを止める。代わりに民間の英語力の評価を利用することになった。これの何が驚きと言って、文科省はある意味、敗北したのだ。

 

明治からこの方、英語教育が旧制中学から大学まで成されていたわけだが、それを国としての全面的な面倒はもう見ないというわけである。大学毎の試験はまた別に行われるはずだが、小さな大学では教員が少ないからとても対応できない。複数で対応するか、もしくはもう完全に民間英語資格に委ねるところも出てくるはずだ。これは大学教育の劣化を意味する。国としても面倒は見ず、大学も対応せずということになるからだ。負担は減るが、その負担こそがその大学の施行教育の質そのものだ。何より、民間の検定は高校の学習指導要領とは何の関係もない。英検1級などは高校範囲の遥か彼方にある。青天井だ。当然、少しでも有利になるとなれば学外教育も加熱する。

 

大学毎のバラバラの試験だけだったのを学習達成度評価の公平性を保つために38年前に始まった共通一次からの英語試験をやめるということは、これまでのやり方が悪かったと認めたということだ。これが驚きでなくて何だろう。共通テストがベストな試験だなどとは思っていないが、長きにわたってやってきたものを捨てて他人に委ねることを、日本の大学教育の施政者としての芯の無さに恥ずかしくないのかと言いたい。(国語や数学も易しすぎると批判の声が上がっている。改革の諮問機関は一体、何を基準にしているのか)

今後は英検やTOEFL・TOEICといった処理能力中心で中身の無い英語利用術が日本を支配することになる。大学入試にもちろん汚点はあった。年配の教員たちは相変わらず古い文法知識に基づいた出題などをして来たし、生徒の何を実力として期待しているかはっきりしないものが少なくなかった。一方、受験生側も点数を取るだけに終始していた。特に文法問題などはそういう面が如実に出ていた。しかし、今後、英文科のような本当の英語文化に触れる分野にはちゃんとした人材が来なくなるだろう。

 

実用英語が重要でTOEICとかで高得点者が何人も周囲にいる人はよく観察してみてほしいが、彼らが何か英語の世界に関することで議論している姿を見たことがあるか。皆無だろう。英語を使うことばかり気にしていて、英語の世界そのものを見ている人はまずいない。ニューズなどで世界情勢には通じていてもそれは情報を英語を介して入手しているだけの話で、英語の言語文化そのものをどうこう議論している姿など見たことがない。

それに、実用ばかり喧伝されるが、本当にTOEICやTOEFL、英検などの試験対策で高得点を得ている人が、現地生活で実際に耐えられるかというと驚くほどできなくて、市民の会話表現を新たに学び直す羽目になる。ビジネスだけならTOEICはたしかに役に立つ。留学ならTOEFLはほぼ必須。でも、それらが有効なのはかなり限定された状況の場合であって、ほとんどはネイティブ同士の会話にはついていけない。「実用」と言ってるのは何なのかを中身をよく吟味した方がいい。

 

英語は多言語が混ざって、許容性が上がった分、文法には絶対的強さがなく、例外扱いが多い言語と言える。独語を学んだ人ならそれがよくわかるはずだ。語順も独語は日本語と同じで意味の塊を前後に動かしても文意に変化は出ない。英語は副詞相当部1つ場所を動かすと文意がころころ変わったりする。言語文化的にはシェイクスピアだ聖書だとあるが、聖書は他言語でもある話だし、はたして思想的な面で優位とは言えそうもない。欧州大陸の哲学や音楽の広さを考えると貧弱な思想、つまりは言語の貧弱さにあるのではないかと思えるほどだ。

そういうことを考えることができる受験に絡んだ教材は多田正行の思考訓練シリーズと旺文社の英標シリーズぐらいしか今は残っていないのではないかと思う(佐々木高政『英文解釈考』は受験関係とはいいにくい)。どっちも70年代以前のもの。つまり、昔の受験の方が上を行っていたということである。大学は頑張っていた。問題文選択では Good job! が少なくない。

 

私も最初は英語をツールとしてしか扱って来なかった。しかし、使う時間は同じ。ついでにその思想を理解していた方がよいに決まっている。米語は表層的なジョークが多いが、英語はユーモア精神があり、これが曲者。日本の以心伝心みたいなもので外人の私にはうまく掴めない(米人もわからないようだが)。

情報交換や意思疎通という点で今回の改革は多少成功するだろうが、文化や思想を知る上では英文科以外はほぼ放棄と言っていいと思う。大学教育の中身の改善が出てないし、それにリンクさせようという意図もまだ無いようだからだ。スローガンとしては挙げてるかもしれないが、実質には何も変わっていないだろう。対応が難しい小さい大学では大学教育内に大きな歪が出ると思う。あるいは、実用性で教員とカリキュラムを一掃していくなら別だが。

 

たぶん、大学内部での英語については骨抜きになっていく可能性がある。一方で、文科省は成功したとも言える。

今頃こんな民間利用をするぐらいなら、なぜ30年前からやらなかったか。それに対しては、当時の学習指導要領の公平な達成度評価の必要性を言い、今としては試験実施の負担がなくなること(マークシートやリスニング設備の維持など)と実用性の実現ということで、これまでの不十分な教育施策への批判をかわすことができるし、責任を今後は民間にある程度なすりつけることができる。そして、それらの法人や企業に天下りしていくことが新たにできる。転んでもタダでは起きない。

 

英語の運用スキルを上げたいだけなら大学なんか要らないのである。少なくとも大学で教えるべき中心のものではない。大学は理系にしろ文系にしろ、学問の哲学と文化を教え、次の世界を切り拓いてもらうための研究と教育の機関である。こんな英語の試験のみで左右されるのは大変問題だ。英語の運用スキルは万人が持てる。しかし、英語で世界に向けて思想展開できる能力は限られた人間しか持っていない。それを選別して未来の日本のために育てる第一歩が入試だ。運用スキルで全面的に選別するなら大学に来てもらう意義はない。運用スキルがないのは困るが、それで学問の能力ある人材が埋もれて引き揚げられない事態は亡国となる。だから、何度も実用関係は中高中心にして、大学は論説能力強化に励むべきと言ってきた。まさか外注丸投げとは。。。全体のバランスが検討された結果とはとても思えない。せめて、足切りに使うのであれば低めの設定でやってほしい。

それもこれも文部省から文科省になっても言語習得が何を意味するかをわかっていないからだ。一般人に文学はまず不要で、言語学も不要だ。それに追従するなら大学教育は死ぬ。実用性で産業からの突き上げのいいなりになった結果だろう。

 

1つ前の投稿で触れた関連会社の方からも話を振られたが、おそらく、ミネルヴァから出て行った人たちのある程度はまた戻って来るだろうし、新たな生徒が入って来る可能性が上がった。学習塾側がどこまで対応できるかによるが、どうせTOEFLや英検でしか見ないだろうから、本来の教育支援の意味は成さない。その能力自体ないだろう。試験対策のみ。それが中学受験に及ぶということは小学校入学段階からの受験対策の加熱が増して常態化するということであり、金持ち一家がより優位になるというふざけた改革なのである。しかも、文化としての英語教育は死ぬ。実利から入った私でもこう思うのである。実利に結び付かない勉強は時間の無駄としてやらなくなると日本の教育はさらに薄っぺらになる。

教育が実利目的になった日本はジリ貧的に後退する。

ゆとり教育の間違いは最初から指摘されていたが、今度のは多くが当然のよい方向だと思っていることだろう。とんでもない。対極の問題ある施策である。会話比重を上げるぐらいなら理解できるが、今度の丸投げは国としての教育の放棄と教育産業との癒着である。指導要領が実質無視されるし、実用英語に絡んだ教材企業は掃いて捨てるほどある。その対象が一挙に広がって収益は上がる。笑いが止まらないだろう。役人様様だ。反対に、受験生はそれらの受検料が発生する。演習兼ねて受検できるところに何度も交通費をかけて行くことにもなる。どれだけ都会を有利にして、未来ある若者からお金を毟り取る気か。これでは教育の機会均等なんか無理だ。ネットで受けるにしてもそれは環境整備に金銭的時間的負担がかかることでは同じだ。

見せかけだけの教育改革をしてきて、挙句に無責任に放り出し、彼らは民間のヒモとなった。こういうことを見抜けずに、実用英語化万歳の連中もいい加減にしてもらいたい。

 

ポスト枠の実情を考えずに全国の大学院の博士課程枠を増やしたり、弁護士の仕事が多くないのに法科大学院を多数作ったりと改革をしている振りをするだけで、全く実用を見ていない。実用性を持つべきは文科省の役人たちの頭だろう。消えて無くなれ、バカ文科省。

 

 

昔、ある大きな規模のアメリカのゴルフクラブが会員から日本人を除外した話があった(今は人種差別で撤廃ではないかと思う)。日本人だけ。この組織はゴルフクラブに姿を借りたサロンのようなもので、ボランティアなど全人格的な活動をする人々の社交場だったのである。日本人はゴルフのスコアを伸ばすことばかりで社会的活動を全くしないので除外された。クラブが大学なら日本人は入試を突破して入ってきた学生に対応する。文科省はこういう連中を増やそうとしているわけである。

一般人に文学とか言語学など関係しない。だから、実用だけでいいんだという立場はとってはいけない。言語の運用スキルは言語に張り付いた皮だ。本体は文学や言語学にある。それがもし無くなってしまったら、そこに文化は無く、言語の死を意味する。直接恩恵がなくても、大元を無くすような愚行はすべきでない。運用する側も萎んでいく。高等教育と初等教育を明確にして接続をうまく図ればこんな事態は防げる。文学嫌いだった私でさえ、これは認知できる。どうせやるなら言語そのものを楽しんで生きて行く方がいいだろうし、人間らしいではないか。

 

※※

高校受験でもすでにこんな事態が出ている。

http://ameblo.jp/yuka-sumomo/entry-12275404976.html

こういうときこそ頑張るのが日教組ではないのか?リベートでも貰っているのだろう。どいつもこいつも。

 

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上智大はさすがに先行した形で進めている。

http://www.sophia.ac.jp/jpn/info/news/2014/1/globalnews_1340/20150129_press

学部から英語のみにするらしいが、上智やICU、東外大などの語学専門性が高く、言ってみればそれだけという大学を除けば多くの大学では無理だろう。専門に特化した大学院で対応する方が現実的。実際、留学でも学部の方が大学院よりも語学的にきつい。専門外の英語も多く知らないと単位が取れないからだ。上智の真似をしても仕方がないし、適切でもない。大学は英語をやるために行くのではなく専門を学ぶために行くところだ。

もし、文科省が大学全体の英語教師陣の実態に驚いて、もう自分たちの手で入試の実用化や正常化が望めないと判断したのなら、日本の大学教育はすでに崩壊していたことになる。(上智でさえ、以前はおかしな問題を結構出している)

以前、関連会社のご子息で私立中高一貫校の入試に対応した話を書いたが、そのお子さんが中3になった。いろいろ科目での対応に苦慮しているとのことだったが、英語で重要な局面に立たされているとのことで相談を受けた。

 

内容はこう。2歳のときから親子での英会話の塾に入っている。ミネルヴァという会社(ミネルヴァ書房というのは学問の世界では知られているが、幼児英会話学校に関しては知らず、どうも直接関係は無さそう)。週一回でもう10年以上やっている(親はもう一緒ではない)。

同級や周囲の子たちが段々居なくなっているという。中学に入って成績に反映されないため、かなりの子が学習塾に鞍替えしている。それで検討したが費用がとてもかかるし、長くやってきたものを止めるのもと悩んでいるというのである。学校の英語は週に1時限だけ会話の授業があるが、ほかは全て通常の文法とリーディングだという。そっちの試験の出来がぐっと悪いという。

ミネルヴァでどんなテキストをやっているのか持って来てほしいと依頼した。

 

後日、テキストを見て驚いた。質は十分に高かった。周囲の若手、東大京大の修士出でも英会話はろくに出来ないのが圧倒的。彼らが社会人として受ける英会話学習の初期に十分耐える内容で、しかも学習指導要領にある程度配慮しているものとなっていた。内容的にはすでに高校の部分も入っていて、日常会話で必要なものは中高の範囲を気にせず取り込んでおり、よく練られた現実的なものとなっているのにはとても感心した。

 

出した結論はこう。

小さいときからやっているので耳が我々より絶対にいい。これは後で取り返すことが不可能。カリキュラムも良いし、脳の思考力が固まっていく高1までは何としても続けるべきだと伝えた。受験を考えると高2からは止めた方がいいが、幸い高2からは効果が薄まることは留学斡旋関係者の間では割りとわかっている。中3になったばかりでやめるのはあまりに勿体ない。加えて、学校に誰でも希望可能な短期留学コースがあるという。中学からも可能だが今はそれに見合う力がないので、頑張って1年後の夏休みに留学してはどうかと伝えた。そう誘えば子どもも弾みがつく。こんな絶好の機会は人生で一度あるかないかだ。金はかかるが活用しない手はないと力説した。

その代わり、高2からは受験1本に切り替える。その準備を少しずつ今からやり、主要英語試験の対策をする。具体的には中学の文法の参考書をまずこなしていく。とにかくこの2年の対処の仕方が彼の人生における英語のレベルを決めてしまうのは間違いない。少なくとも鞍替え組を最終的に置き去りにすることはお安い御用。彼らが逆立ちしても敵わない力はつけられる。それを目の当たりにしたとき、彼らは大きく後悔することだろう。いや、なぜこうなったか全く理解できないに違いない。

 

ピーターセン教授も指摘のように、今の中学の英語教育内容が悪いので(間違った語法などが今も教えられている。帰国子女は日本製英語との2本立てを余儀なくされる)、英語ができない大人が多いのは事実だ。前にも書いたが、中学は正しい会話に比重を置いた方がいい。高校ではそれを逆転させるが、それでも受験内容的には負担を一部減らして、それを大学の教養課程に回す。大学で遊ばせるぐらいなら、そんなことができないぐらいのカリキュラムを必修として加えればいいではないか。どうせ、まともな研究となると大学院なのだから、大学で論文に対応するように今までの受験で出されるような難しい文章以上をそこで消化させればよい。英語ができなければ困るような職業に就く人たちは大学で学べばよい。こうすれば、中学高校で必要以上の英語の負担を減らしながら、会話力が増えてかつ現実的に外国人に対応できる力を養うことは十分に可能だ。英語と日本語はとにかく相性が悪い。かといって、構文主義のように点数は取れるが形ばかり見ていて結局、自分の感覚にならないでは使いこなすなど絵空事だ。

 

ご子息は大学受験では文系になりそうなので、何とか頑張って『英標』あたりが理解できるまでになっていれば、その後相当楽になるし、220題もの英語のものの見方がわかるような代表英文を読んでおくことで、予備校系の過剰な構文主義に惑わされずに英語の世界をそのまま直に理解することができる。いつも座右に置いておくちゃんとした作品が見つかればなおいいが、今の容赦ない機械的分類の試験状況をみると高望みもいいところ。そこまででなくても、より上の学習ができれば、そこそこの大学に入ってもとても楽で、就職後も全く違うだろうと伝えた。

しかし、ここでうまく乗れずに失敗すると、ほかの凡人学生英語に埋もれる結果となることも付け加えた。企業などは英語はできるが日本社会に馴染まない人材を好まない。その憂き目に遭わないよう、英語力を日本人として適切に伸ばしてほしいと思っている。辞書読みももちろん話したが、これは相当本気を出してやる意識がないと続けられない。希望大学もまだ決まっていないし、実力も現時点では無い。今は避けるべきだ。

 

何とか波に乗ってほしいところだ。うまくいったなら、それは幼児期から将来、困らないようにと英語だけはと配慮した親の長年の支援の賜物だ。こういう例を見ると、親とか周囲の扱いが如何に子供の人生を左右するかが思い知らされる。

 

 

普段、小学英語教育に批判の立場なのに、今回はその逆をしていることに混乱を覚える人がいるかもしれない。その違いは、個人教育と国民教育にある。英語を個人でやる分には構わない。しかも、今回は週に1度の授業。国語への影響は無い。それを個人でやりたいのを止める理由は無い。しかし、全部の小学校に導入すれば、私立の入試が当然1教科増え、成績による差別やいじめがより小学の段階からさらに拡大。しかも、耳に関して言えば、小学5年からでは遅すぎる。つまり受験が過激になるだけでメリットが何も無い。大学受験で会話がそれほど主体になる可能性も無い。大学としてはそれより文献の読解力が重要だからだ(昔、口語問題が流行った時期があるが、結局は大きな比重になっていない。文献を読めない学生が増えたからだ)。英語で講義は大学院でやれば十分。となれば、大学受験を小学まで遡って会話に力を入れない。予備校のような塾が幅を利かす(ミネルヴァの経営は厳しくなるだろう)。今と変わらない。文科省は予備校の勉強で英語の点数だけは稼いだ東大出のおバカさんの集まりだとよくわかる。

 

※※

こういう事件が起きた。http://www.afpbb.com/articles/-/3128131

これは元々、受け入れ側のアメリカに大きな問題があるのは明白。しかし、一方で英語での読み書きができれば一晩も拘束されずに済んだだろうことは間違いない。言葉というのは時に生死や人権に関わることになる。空港の警官に引きずり降ろされたことはないが、セキュリティゲートでの対応も酷いことが多い。検査に引っ掛かって、何か言えば黙ってろと言うし、別のところで黙っていれば何か言えというし。英国人やフランス人は特権意識的に態度がでかいし、ドイツ人は頑固で融通が利かないし、基本的に外人にはうんざりである。

時期の関係もあってか、閲覧が多い投稿が「伊藤和夫という幻影」。そのほかの英語に関連するものも閲覧はあるが、いつも多いのはこれ。

ここまで来たならざっくりと直球で行ってみよう。

はたして、ここの読者は英語を習得するとはどういうことだと思っているのだろうか?

 

結論を言えば、脳に英語(正確には英語文化)を埋め込むことだ。

脳科学的に英語と日本語の活動域が違うことはずいぶん昔から言われている。日本語に特殊性があることも知られている。それに関しては養老孟司の記事も紹介した。

 

脳に埋め込んだということは英語だけで考えたり、呟いたりと日本語と同じように行っているということである(私は無意識に頭の中で呟いているときが稀にあるが、言語文化的にはとても貧弱)。日本語とほぼ同等の英語での意識を形作るということでもある。知的レベルが高い状態でこの状況にある人は恐ろしく少ない。例外が配偶者がネイティブという場合だけ。小さいときに英米に行って英語はよくわかるが日本語がおかしいという帰国子女は多い。それについても何度か触れた。むしろ、どっちの言語も中途半端に終わって苦しんでいる人が少なくない。子供をバイリンガルにと苦労して向こうで暮らして戻ってきたものの、どっちも十分に使えないという事実にショックを受ける親は多い。日本人にもネイティブにも成りきれていない。そういう例がほとんどなのである。概して、現地では日本語が難しいために英語に逃げてしまうので、帰国してからが大変になる。

あるとき、職場に院生と学部生の研修生が来た。学部生は英国の大学に在籍していて、ちょっと話してみた。家の中で日本語中心に戻して頑張っているという。楽な英語になりがちなのを日本での就職に不利になりそうだと変えたという。日本では向こうのそれなりの大学を出てもいいことは無いし、日本の習慣に馴染めずに苦しむ話をよく聞く。研修に来てよくわかったという。本当に不安そうに話していた。院に進んだか、どこに就職したか、英国か日本か全くその後はわからない。

 

いかにネイティブが日本語を習得するのが難しいかがわかる例を上げよう。

英語を真剣に学んでいる人でドナルド・キーンと言う名を聞いたこともないという人はまず正当な英語を身につけて来ていないと言っていいと思う。東日本大震災のあと、日本に帰化したことは話題になった。日本語、それも源氏物語まで理解できる、名門コロンビア大学名誉教授で、昔は米軍の日本人捕虜の通訳をしていたことでも知られている。日本人以上に日本語の神髄を知っている人だ。日本語の著作も多い。その方の東京外国語大学での講演がこちら。

https://www.youtube.com/watch?v=nVVPfmlfCsM

 

どうだろうか。意外に喋れていないことに驚くのではないだろうか。マーク・ピーターセンも尊敬する日本語の泰斗がこうである。では、どうしてこうなのか?彼が独身だからだ。たしか信条的か何かだったと思う。今は日本人の養子がいるが、年が年だけに修正することは無理だろう。

ちなみにマーク・ピーターセンの喋りはこちら。https://www.youtube.com/watch?v=leEI9CM07oo

一方、デーブ・スペクター、ピーター・バラカン、マーティ・フリードマンなど妻や恋人が日本人だった人たちの日本語はとてもうまい。つまり、常にお手本となり、修正してくれる人が傍にいないとバイリンガルにはなれないと言ってまず間違いない。しかも彼らは成人してから習得しているので母語がおかしくなったりしていないことがほとんどだ。独学で習得した人は特別な言語能力を持っている人に限られる。

 

日本人が外国語習得できるかどうかの要因は何だろうか?

 ①個人の熱意

 ②日本の全社会的環境

 ③生活範囲の環境(家庭、職場含む)

 ④教育システム(独学も含む)

 ⑤言語の世界的変化

 ⑥言語の履歴と財産(文学など)

 ⑦肉体的相違(遺伝含む)

ざっとこんなところ。いくら①や④が十分としても②や③で全く使うことがないので、この定着しにくい他言語を脳に染み込ますことさえできない。しかも耳については幼少時にすでにハンディが⑦としてついてしまっている。だから、私はリスニングはほぼ諦めている。細かに音を聞き分ける訓練はしていない。その代わり、コロケーションを利用してパターン(正確にはチャンク)で理解する。日本語でも聴き取れないことはよくある。それでも会話は成立したりするので不可能な肉体改造はしない。

⑤は英語が世界のどこまで通用するか、さらに表現がどんどん変化することの影響である。言語は概して簡素化へと変化する。例えば、米人は時制とか三単元が出鱈目なことが少なくない。そういうのを理解できるのはいいが、真似ずに正統的な文法や例文を覚えた方がいい。⑥はわかるだろう。英語にも背負ってきた歴史があり、シェイクスピア、聖書、マザーグースなど背骨となっているものがある。そこに英語の精神が宿っている。これを理解しないことには何を言ってるかわからないというのはよくある。

自分で変えられないのは⑤以降だ。留学すれば②、③、④は大幅に変えられるが、結果はその期間での英語の使い方で決まる。実際には先の帰国子女の問題のとおりであまりうまくいっていない。むしろ、ある程度学習で身に付けた人が留学をすると、力をつけて帰ってくることが多い。なので、今の小学からの英語学習には反対だ。中学以上の学習内容の見直しの方が重要だ。

頭の良さについてあげてないが、意外なほど関係ない。世界的に有名な数学者で東大の河東教授のTOEFLの点数はそれほどぱっとしていない。この手の話はあちこちにある。頭がいいと要領の良さで効率がいい程度だ。言語能力に長けている人以外は皆凡人と同じ。

 

留学は金がかかる。日本に居て日本の教育システムの中で、日本語が成熟した脳に、どう英語をある程度染み込ますことができるか?決して埋め込み切ることを狙えないし、特別な環境が無い限りできない。一般には英語を職業としていないのだから。

多田正行が本格的な英会話コースに長く在籍しても英語が身に付いた人がいないことから思考訓練の場としたのは理にかなっていた(多田の思考訓練は伊藤の構文主義とは全く反対の意味主義的アプローチであることを誰も強調したのを見たことがない。時間的にみて伊藤対抗で著したものではないだろう)。私も缶詰コースを何度も受けた経験がある。会話は最初はとても効果があるが、じきに飽和する。話す内容が似たりよったりになり、広がりを見せなくなる。耳は変わらないから、残るは読み書きだけ。

書く方も読めないものは書けないから、結局、日本人が日本にいて英語をある程度身に付けるためには読みから入り、その力をできるだけ拡大するしかない。読めるようになると聴き取りも楽になるし、書く方がそれで上達すると、喋るのも楽になる。基本は読み。

聴く話すについてはTVなどを使ってシャドゥイングがかなり有効で、一番容易に時間を割ける方法だと思う。ただし、読む力がある程度ないと内容が理解できないために定着しない。

 

次に、どう読解力を養うか。意識しようとしまいと文法を使って我々は言葉を操作していることは認知科学的にわかっている。しかし、文法のみで済むほど言語は小さくない。日本語でも我々は文法にいつも照らして聞いたり、書いたりなどしていない。せいぜい言葉の係り結び関係や時制を意識するのが文法的なぐらいだろう。私が何か英語で読む場合、順に目に入る単語一つ一つを追いながらも候補のチャンクを探っていて絞り込み、大方出てくる文がわかってきて意味を汲む。S、Vなどもちろん意識しない。文法を学んでる段階ではいいが、ある程度さらっと読んでわかる部分が増えたなら形による分析は避け、意味関係の塊を探す。形でSやVを判別しておらず、意味の方でほぼ自然に決まって来る。単語が出てくる度にその範囲が想定の範囲でその先もある程度わかり、ここが終わりだというのもわかる。それは形から来てはいない。文学作品などではそれがいつもと違う組合せのことがあり、そこに作者の文体がにじみ出る。構文意識の欠片でもあると絶対にここに到達できない。意味主義と構文主義は相反する。特に文学作品が長いこと読めなかったのは初期の構文主義成功体験にずっと引き摺られたからだ。喋る、書くにしても、意味と単語がまとまったチャンクの状態がポッと浮かび、それにコロケーションで時制や蓋然性、強弱といったものがニュアンスを加えて取捨選択する単語や活用形が決められていくわけである。そして、それらは文法的に外れていない状態のものが蓄えられている。いわゆる例文は、文法よりずっと狭い拘束を与えているコロケーションの類で成り立っていることがほとんど。つまり、意味が形に対して優位で決めている。決して形が先行して意味がついてくることはない。

 

ここが重要。英語を身に付けるには大変な時間がかかることは何度も述べたとおりで、文法は(会話だけとしても)必須でボトムアップを図り、上からは意味中心でコロケーション類でトップダウン的に日本語との関係をつけさせるというサンドイッチで攻めるのが一番よい。最後はこのトップダウンが支配している状態が望ましい。いわゆる構文主義はボトムアップの延伸だが、特に微に入り細に入りのものはそれを理解し覚えていくだけで時間がかかる上に文法と違って最終的には全く役立たなくなる点に問題がある。構文の係り結びの構造はコロケーション類に含まれてしまっているので、二度手間になるだけでなく、形を当てはめるだけで意味という中身を伴わないため、適切性の判断がつかないばかりか、時に勘違いを引き起こすことまであり、結局、元に戻って意味から見直すという無駄骨になる(1つ前の英文テスト投稿で意味による決定性は具体的にわかる)。書くにしても、養老孟司が博士論文でやったように意味から攻めて文を選んで英語の論理展開に乗せるというのが一番正確な文ができるだけでなく、最も効率的なのだ。辞書読みはそういった試行から得た手法だ。

山貞復活の背景には学習者、教育者がそのことを意識して理解していなくても、重要性を実感として持ち始めたからではないかと思っている。それならとても喜ばしい。ただし、山貞はあまりに語用や例文が古いのが残念だ。逆に英文学を志す人には有益だ。

 

ではなぜ、この意味的アプローチが伊藤ごときの構文主義で一度、抹消されたのか?

意味主義の方法は明確な効果を得るまでにもの凄い時間がかかるからである。例えば山貞にしても、一度でも通読して受験に臨めた生徒が今までどれだけいただろうか。しかも、改訂の佐山栄太郎がこなれた訳文を残し、どうしてそうなるかは簡単には体得できない。とにかく日本語とはあまりに違う英語を身に付けるのには時間がかかり過ぎ、多くの生徒は受験に間に合わないからだ(毎日10例文覚えて10年でも3万6千。中辞典で例文数は数万から十万程度)。また、大学受験では文法を一通り知るぐらいまでで、個人で相当進めないと意味的アプローチの段階に達しない。入試は英語習得で言えば初心者段階に過ぎない。低いレベルで評価したために、これまでの手法がよくないと間違った判断がなされてきた理由でもあるし、多田の正しさより伊藤が好まれた理由でもある。山貞を例文集ぐらいに捉えてしまうと、伊藤になびくのは仕方のないことだろう。文法に毛を生やしたような過剰な構文主義は公式的に答えまでの道筋をある程度示してくれる。あらゆる試験で点数は当然上がる。だから全幅の信頼を置いてしまうわけである。私も They had me there. で信者になりかかったのだ。しかし、伊藤は解釈の世界に進んだ構文体系を明示した点で特に教授する側にとって画期的で、受験生の秘策ともなったが、英語を身に付ける大事な転換段階を構文理解で誤魔化し続けて道を誤らしてしまっている。

 

「言語構造が違うから、構文主義で入るのが妥当」の意見はあるだろう。当初はそう思っていたが、今は違う。日本語と英語の構造が違うのと同じぐらい(特に予備校の)構文主義と意味主義は真逆。意味主義として、チャンクを意識して作ったと明言しているものに『ジーニアス英和大辞典』がある(山岸勝栄氏の辞書群に至っては英語文化まで意識されている)。辞書は変わっているのに何故か教育現場関係者の意識は昔のまま。言語構造の違いを理由に思考停止している。他国の英語授業はあまり知らないが、少なくともオランダや言語構造が英語とやはり違うフィンランドでも、日本の高校や予備校のような構文分析に力を入れてはいないようだ。自分は受験時もそういうやり方をされていなかったし、再学習でも自力で気が付いて途中から消去に転じた。全ての文がきれいに1つに分解が決まるわけでもなし、最後は文脈や慣習になるからだ。日本人の英語の成績がよくないのは構文主義と過度の文法偏重が原因(会話中心の人は逆に文法を軽視し過ぎと語彙不足。つまり学習時間が全く足りてないことがほとんど)。特にライティングで簡単な表現の基本文法的な発信型の授業を増やせば、英文解釈での構文主義は霧散していくと思う(無しも可能だろう)。どうせ、読むのも書くのも対して語彙力に差がない。並行的に同量やるべきで、難しい文章読解はその後だ。

https://ameblo.jp/speedflex/entry-12258297975.html

 

多田は英語学習の意義を受験とする意見を唾棄しているが、習得の大変さを身を持って知っていたし、添削業務に反映すべく、山貞や原仙作とは別のスタイルで意味的アプローチを進めた。構文主義には行きようもなかった。伊藤は英語習得に苦労している人たちの実態をよく理解していなかったし、英語の力もそれほどなかった。一方、受験事情と教育現場には通じていて、哲学出身で体系分類はお手の物。だから構文主義などに陥り、終ぞ抜け出ることはなかった。両者の立場は全く異なる。もし、多田が添削会社にいなかったら、英会話コースに入っていなかったら、思考訓練シリーズという金字塔は生れなかっただろう。宣伝としては伊藤に負けてしまったが、今のところあれを超える知的レベルの高い意味的アプローチの処方箋を知らない。(現在、GHS予備校にて販売中)

 

おそらく、思考訓練シリーズとか山貞あるいは原の『英標』を真剣にやった人たちは伊藤シリーズをやった人たちと実力が全然違うだろう。入試段階ではなく、大学院とか社会人になったときの実力が違うはずだ。読める力がそこそこある場合、『解釈教室』『ビジュアル』を見たら、その頓珍漢さに驚くのではないかと思う。両方やってみて、伊藤は構文指向が意味を汲む邪魔をしてくれるわ時間は無駄になったわでいいことがなかった。今はほぼ消し去った(消し去るのにも多大な時間がかかった。このこともよく覚えておいてほしい)。意味主義に馴れた人たちなら、行方昭夫、安西徹雄、中村保男、柴田元幸など翻訳系の内容理解に進むのは容易になり、英文雑誌や小説の類を読むのに滑らかに接続できる。序にTIMEの平凡さと時に見せる質の悪さも理解できる(取り立てて読むべきものではない。個人の趣味程度の話)。ニューズの理解も進み、どんどんと力が広がる。受験英語と実用英語がどうのこうの何て議論はばかばかしく響く。個人の努力で、卒業時に達成しているか社会人になってからかの時間的違いに過ぎない。

 

最近、『英文解釈教室』が新装版となって出た。装丁の変更だけでなく、翻訳家で伊藤に教わった柴田耕太郎氏ともうひと方が誤訳を手直ししている。山貞や斎藤英和の復刻含め研究社や岩波もずいぶんと商売に力を入れている。アマゾンレビューぐらいしか見てないが(レビュアーに本当の実力者はごくごく稀。参考にまずならない)、これまでと同じく、英文解釈の技術を提示した良書との意見が多い一方で、受験生にここまでの翻訳を要求するのは不適切で、昔のままこそが学習者に有益な直読直解の姿だという。

どっちの意見も呑めない。大体、誤訳が多いのに構文さえ取れればいいなんて真逆もいいところ。どれだけ言葉にいい加減かという証左だ。もし、今後もずっと英語に関わりそうとか実力をつけたいと思うなら、文法を除いて伊藤シリーズに代表される過剰な構文主義ものは害の方が大きいのでやめるべきだ。ほとんどの予備校参考書も同類。山岸勝栄氏とかの辞書を読んだ方が遥かに実力がつく。

 

はっきり言わせてもらうが、伊藤らのような構文第一主義を英語習得の本道のように絶賛する連中は、TOEIC点数がどうあろうと、広大な英語の世界を理解し使うという視点では赤ん坊同然(受験のみ対象なら構わない)。いつまでもボトムアップでは習得などおこがましい。構文主義の成果は周囲にごろごろある。難関大修士ばかりで留学した人たちも少なくないが、英語力はまずまずなどとお世辞にも言えない(TOEIC900半ば以上ばかりだが習得者は皆無。MIT、スタンフォード、ロンドン、ユトレヒト、グルノーブルなど留学組でも論文の悲惨さと言ったら。。。)。もう一度、英語を身に付けるとはどういうことか自省し、トップダウンに転換するよう読書なり辞書読みするなり、数千時間脳を洗い直した方がいい。そうすれば、英文を前に如何に意味構造が詳細な構文分析と齟齬にあるか、邪魔で不適切なものかを感じることができるだろう(文法の構文程度の緩さならさほど邪魔にならない)。構文の枠が眼前で溶けて消えていない限り、意味から次に出てくるチャンクがある程度予想がつくぐらいにならない限り、こちらに投げかけてくるものを直接受け留めたり、それを楽しむことができない限り、所詮読めてなどいないのだ。圧倒的多数が他人と学習法を説く段階にない。話はそれからだろう。

 

 

昔の受験生が、ろくに山貞を消化できなかったのに、どうして大学生になれたか?それは森一郎の『でる単』『でる熟』をやって語彙を強化していたからだ。今も、語彙強化をしている人の試験成績は総じて悪くないはずだ。例文で習得していればなお強い。でも、英語が単語熟語の塊なのは表面だけということは理解しておかなければならない。時間は皆等しく流れ、かつ人生は短い。無駄をせずに効果的に英語世界の奥深さまで実感できるにはどうしたらいいか、よく考えてほしい。

なお、語法上から説明する立場からすれば伊藤の体系は大変便利であることは何度も言ってきた通り。その便利さを教師側は習得の本道と勘違いしている点で悲しい。

お前の方法が他人にも有効か、という疑問には以下。ごく最近知った。英英読みでしばらく経ったときの出版で自分には遅すぎた。できるだけ早く英語で情報入手できるようにすること、形ではなく意味それも文脈を重視すること、は全く同じ。文法だけでは不十分とういうのも同じ。違いは会話する相手がいないこと。一般には私の方法が有効だろう。こういう科学的事実があってもまだ伊藤派?

https://www.amazon.co.jp/dp/4004311500/『外国語学習の科学』

 

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自分がTOEIC対策を捨て、受験参考書で再学習したのはかなり遅い。30も後半になってからだ。しかし、それがとても幸運だったと今ではほっとしている。自分が受験の頭の柔らかい時期に『解釈教室』や『ビジュアル』をやっていたらとぞっとする。学習初期にあんなものを叩き込まれたら、拭い去るのは容易でない。一生無理かも知れない。受験生のとき、伊藤の本に拒否反応を示したのは偶然かどうかわからないが、正しい選択だったと今は言える。思考訓練シリーズを正しいテキストとして示したが、何にでも十分対応できるわけではないのは明らか。でも、受験生でこのシリーズはあまりにきついだろう。『英標』も易しいとは言えない。もっと易しいのが現れるといいのだが。

また、多くの会社員同様、英語で食べてはいないのに、たまに英語力を要求される事象が起きるという一番厄介な状況にある。プロの方がある意味実力養成と維持は容易だ。彼らと勝負にならないのに、同等のものを要求される。できるだけ時間および金銭的コストを下げてやれるレベルを示してきたつもりだ。英文法の基準となる教材を示したし、各々の意義も書いた。次に辞書読みで厳選された英文を取り込み語彙も増やす。あとはいろいろ触れて行くだけ。内容としては至ってシンプルだ。言語習得で複雑なものは本物ではない。

 

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漱石は、文法を一通り修めたなら、あとはとにかく読むことだと指南した(決して多読のみではない。多読派の我田引水には注意)。その正しさを実感するのが自分は遅すぎた。教師なんかのレベルではなく極めた人が側にいなかったためにこんなに遠回りをした。何たる人生の無駄。おそらく、多くの学習者や受験生も、どこかに系統立った王道的秘策があるはず(一時的に伊藤がそう見えるように)、自分がちゃんと学習すれば英語を身に付けることぐらいできるはず、と期待して励んでいるかもしれない。そんな秘策は存在し無いし、能力ある人以外はまず身に付かない。強いて言えば、個人的な好みによって差が出る程度。あまり学習法探索に時間を割かない方がいい。それにしてもほんとに英語は時間がかかる。養老孟司がバカヤローと言いたくなるのはよくわかる。

 

外人には日本の英語学習者は不気味に映るだろう。システマティックかもしれないが、語彙だ解釈だ文法だととことんくそまじめに完璧を目指す。何より、細々と学習法や教材の善し悪しに始終振り回されてる様子には呆れることだろう。大局観が無い。何かを金科玉条に信じ込むと、そこからちょっとでもずれると見下すか無視する。英語もいくつもあることを知らないか認めようとしない。ロンドンとニューヨークでの英語が全てでも基準でもない。豪州やNZやカナダ、南アフリカはまた違う。どれかを正当にしてそれ以外はダメとする潔癖学習者がとても多いが、そんなことだから英語が身に付かない。もっと鷹揚に言語の学習は捉えた方がいい。大局観さえ間違っていなければ、あとは長い道のりだが一歩ずつ進めていくだけ。目の前の教材をノルマとするより楽しむぐらいの気持ちでないと途中で倒れる。教材提供側はギリギリとその効果の確認とか対象の絞り込みとか要るが、学習者がガチガチになっては意味がない。英語の世界は広く楽しもうと思えばいろいろ楽しめるのだから。

英書を読んだり、ニューズを聴いたりしているときに、それにより、日本語の何かと引換えになっているとふと不安を覚えるほどならば、日本にいる一般人として上限だろう。全く感じず、どこまでも英語で突き進む人は英米に行って戻らないことを考えた方が、よい人生かもしれない。

 

人工知能の発展は目覚ましく、2020年の東京五輪へ向けて、他言語と日本語との自動翻訳、それも方言までも取り込んだ領域まで実現しようという動きが本格化している。こうなると、英語を学習する意味があるのかということになる。ここで指摘している習得の内容はAIの学習プロセスと同じものになる。学習速度では今のコンピュータには敵わない。自動翻訳はすぐそこまで来ていると言っていい状態になった。となると、残る学習の意義は文学だけである。相手の文化的精神を理解する、言語を通じて相手のアイデンティティを汲み取る、ということに尽きる。しかし、そこまでできるためには時間はもちろんお金もずいぶんかかる。今後、本格的に英語を理解できる人間は減っていくのは間違いない。一般的によい道具は人の能力を落とす。自分はもう後戻りできない状態だった。今の若い人たちはやらなければならないことが多い。英語は特に時間を取る。どうすべきかと助言を求められても微妙で判断がつかない。ただ、言語だけで食べていけないのはもう間違いないだろう。