受験も終わり、大学なり高校へ進む者、再度、受験で希望先を目指す者といろいろだろう。受験が希望通りにいかなかった人も、ここでめげずに頑張って進んでいってほしい。
そんな中、入試の英語問題をチラと見る機会があった。難しいところはたしかに難しいし、とても量が多いなと思うことがある。明らかに帰国子女レベルと思えるものもある。正直、このレベルを普通の日本の受験生が頑張って突破しようというのは無理があり、賛成しない。このクラスは自分とは別と考えて違うところを受験した方がよいように思える。帰国子女というのは一般日本人とは別の人種と言っていい。言葉もそうだし、ものの考え方も違う。日本社会に触れている期間を失っていることがほとんどなので、日本的感覚が無いからだ。そういう人たちにこれまで何度も遭遇している。彼らはあちらの人間でこちらの人間ではない。異文化交流の点からはいいことだが、彼らに伍して授業を受け続けるのは相当大変だろう。成績も悪いグレードになって、就職に影響する可能性もある。先生方もシビアに見る人もいるだろうから。
以前に「TOEIC神話にうんざり」という記事を書いた。TOEICでいくら高得点を得ていても、それはあくまでテスト対策の結果であって、実力とはあまり関係ないし、本当に要求される実力は高得点者でも大抵は持っていないという事実を書いた。
英語の実力と一言で片づけるのは簡単だが、実際に何を意味するかは人に依るところが大きい。ある人は俗っぽい英会話ができることだろうし、ある人はビジネスだろうし、文学の人もいる。
ここで自身の実力も大したことがないことを承知で、あまり世間では言われたことがないであろうことを述べてみたい。
自分の日本語を考えてほしい。読むことはできても、人に見せられるような文章を簡単に書けるだろうか?たぶん、多くの人は否だろう。おそらく、読めるもののうち10分の1以下の拙いものしか書けないという人がほとんどではないだろうか。
英語も同じで、書けるものは読めるものより少ない。英語をそれなりに使ってる人も学習者も同じ。特に学習者はまともな英文などまず書けない。
しかし、自身をよくよく振り返ると、少し事情が違うという気がしている。多くの英語ができる人たちはどうなのかわからないし、お前ごときでは参考にならんと言われればそれまでだが、つとに感じるのはちゃんと読めているものは少ない。しっかり読めているのは書けるレベルのものまで、ということである。
つまり、書けることの何倍も読める、という日本語で常識的なことが外国語習得では当らず、書けるもしくは話せるレベルのものしか読んだり聞いたりできないのが実態ということだ。かなりの時間をかけても、外国語について差して理解していないし、使いこなすこともできない、という状況ということである。言語の小さな部分でしか読んだり書いたりができず、それらの大きさはほぼ同じで、読む部分だけ大きく先行することは習得が進むと無いようなのだ。
いろいろな論文、特許、解説文、ニューズと読んだり聞いたりしている時間が毎日少しはあるが、スっと理解できるのは、自身が話したり書いたりできるレベルの英文であって、見たことも聞いたことも無い表現は当然わからない。もちろん、前後から推察できる部分はあるが、しっかりとは把握できない。ニュアンスなんか絡んだものは無理。
一方、書いてるときは、全体の主張や目的を決め、段落に分解し、各文に落し込む。そのときに日本語の論理は使っていない。英語の論理で進める。文章を作っているときは日本語は出てこない。英語の論理とコロケーションでポコポコと英文が続いていく。論理とかコロケーションは多読しないと習得できない。コロケーションについては辞書読みで獲得したものである。(「英語習得法」)
おそらく、多くの人が会話やライティングで文法的に間違わないようとても注意を払っているはずだ。それが通用しないものがある。例えば
She don't look normal.
これは実際の女性に対しても使えるが、車とかバイクなどの所有物に関する場面で男性がよく使う表現だ。見た目がぶっ飛んでる、という意味である。doesn'tで無いところが何とも俗っぽいが、don'tはよく使われる。こういうのはどういう状況で使われるのか知らないとできないし(知ってても使わない方がいい)、どんな相手に向かっての発言かによって、自分の評価にさえ影響しかねない(特に英国)。そういう類の表現だ。
短文ではあるが、この英文が使える前後の文はどんなものかが推定される。少なくとも公式文書ではない。この前の経産省の関西弁による報告書みたいなものと言えば解り易いだろう。
書く、と単純に言うが、現実には文が論理と展開を規定しているし、逆にそれらから規定されて、この文しかない、となることが多い。特に英語ではそう成り易いと感じる。関係詞で繋ぐか、分詞構文か、と考えるのではなく、その文章の雰囲気(論理)と流れ(展開)から多読していた蓄えとコロケーションによって具体的な文となって姿を現す。こればかりは自身がどうこうしている感じがしない。今まで見てきた英文が、こうしなさいああしなさい、と言ってくる感じだ。この拘束は日本語より強い感じがいつもする。好き勝手に文と単語を繋げられる感じではない。概して、日本語では論理の飛躍が可能だが、英語ではできないことがそうしているのだろうと思う。
こうして、書くときはニュアンス含め、かなり緻密な関係の元に書いている(つもりである)。では、読む方は何でも読めるか?読めない。知らないニュアンスまで把握するのは容易でない。入試の英語のようにそういった文化背景が強く絡まない場合は何とかなるが、小説や文学作品になると途端に厳しい。そういう意味で読めないことが多い。書くときに使っている論理とコロケーションを超えるものはお手上げだ。これは予備知識だけの問題ではなく、作家の文体などに変形して現れるので、味わうことがとても難しい。語彙が増えたら解決なんて代物でもない。このあたりがプロと素人の技量、蓄積、経験の差なのだろう。
ただ、新たな英文の世界に触れることで、論理とコロケーションが拡大してより読めるように、書けるようになって、自分の中に英語の世界が少しずつ構築されていくわけである。この人の英文は好きだが、この人のはひねくれ過ぎてて嫌いだといったことも起きる。
文法がある程度身についていないと英文を読めるようにはならないが、文法は論理と展開を扱わないので、多読が必要なのはこういうことからも当然の帰結なのはわかって頂けると思う。読書で理解したもの=書ける文体の蓄え、である。
よって、読むだけでなく、それを使うこと(書く、呟くなど)をしないと身につかない。理想はネイティブと同じ暮らしを毎日再現しろということになってしまう。だから、TOEICの受検対策は試験内容があまりに表面的すぎる上に、やり方に問題があり、点数アップには有効でも実力にはなかなか結びつかないのである。他方、構文から離脱できない伊藤和夫を筆頭とする予備校英語も実力をつけるには不適当もしくは不十分である。(「伊藤和夫という幻影」)
それほど大変なら英語習得を捨てて翻訳ソフトに期待する、のも無理からぬことではある。自身ここまで来たから今更だが、「英語ぐらい」は身につけたいという、言語習得の何たるかも理解してない軽い感覚の乗りの人にはほどほどの会話でやめておいた方がいいと思う。探偵小説一つとっても童話なんかでも、作者の言語能力によって凝縮された英文は一筋縄ではいかない。
要は、英語に触れる機会が圧倒的に無く、母語が類似言語でないノンネイティブの我々にとって、使い方ふくめ隅々までよくわかっている表現というのは、自分が書けたり、話したりできるものに限られるという当り前のことに過ぎない。
ここから学ぶことがあるとすれば1つ。大量インプットがよく外国語学習では主張される。自身を顧みると、そのエネルギーと時間を見直し、有効な表現の獲得としてのインプットに効率化すべきということである(それでも何年もかかる)。そういう観点からも辞書読みはこの効率化と語彙拡大の両立に最適なものと思っている。もちろん、辞書読みは下地を蓄えるだけの話で、具体的な作品での表現を理解するためには別に訓練が要る。
こう書いてきたけれども、夏目漱石が言ったように、英文法をやったなら、あとは読むだけとし、それも学習などのノルマとして読むのではなく、気楽に好きなものをあまり几帳面に読み込まない程度にして人生を無駄にしない方がいいと今は思う。自身が紆余曲折してずいぶん無駄に時間を取られてしまった。英語は日本人にはハードルが高過ぎる。TOEIC対策の訓練で表面的な英語使いは今後も増え続けるのは間違いない。しかし、英語をきちんと理解できる人の割合はまず変わらないだろう。そうではない私のような人間はただただ時間と努力を費やすだけ。英語しか取り柄のない人間になるつもりがないなら、そんなに英語ができなくてもいいではないか。
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最初、学習者は主語とか述語とか時制とか文法事項を教わって、それを1文ごとに当てはめていくだけで精一杯。しばらくすると、文の構造が浮き出て見えてくるようになる。それで読めるようになったと勘違いする(受験英語の多くがここまで)。さらに多読すると、段落とか節とかのレベルでの色合いが見えてきて、それぞれの文の位置づけがわかるようになってくる。そのとき、作者の文に対する思い入れがやっとわかる。全体と個々の文の関係をしっかりとつけていることがわかって来て、作品と作者の力量に感嘆したりできるようになる。いわゆる名作は1文たりとも1語たりとも疎かにされていない。もっとも、大した考えもないというつまらない作品の方が現実には多いが。
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『続 日本人の英語』でマーク・ピーターセンはあとがきに書いている。
「前著は日本人は「読む」のは得意でも「書く」のは苦手という前提から出発したが、その前提を疑ってみたらどうか、というのがこの続編を書くきっかけであった。どこまで正確にその英語の微妙なところまで読まれているのかを中心に考えてみたかったのである。」
その通りで、前提は成立していない。書くのも読むのも苦手なのだ。ピーターセンは学生たちの様子から確信を持ってそのことに気付いていた。自分は読めているという人はこの書を読んでみるといい。小説などではこの書の例よりもっと厄介なニュアンスを読むことを要求されることが少なくないことを付け加えておく。(例えば 'The Maltese Falcon'。その解説の『「マルタの鷹」講義』を読むとよくわかる。学習者レベルでは手が出ない。ハードボイルドの原典にして文学の作品でもある)
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帰国子女は日本でどういう扱いになるかというのは、沖縄出身でバイリンガルでもあった昔のアイドル、南沙織の話からわかる。上智大学の国際学部に進んでいる。時代が今とは違うが、多くの日本の会社などでは今もこういった要素は残っていると思う。
https://www.youtube.com/watch?v=sCWB1wpXxgk
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私に定義可能な「英語が本当にできる人」というのは、会話ばかりで本やネット記事を読まないような人は対象外として、文法は修めていて、かつ中辞典クラスを2、3冊は軽く潰している人のことだ。当然、潰すだけ読んだり書いたりということである。それぐらい要る。反例をみたことがない。辞書読みを何度もあげるのはこういう事実にも基づいているし、伊藤英語が不要な理由でもある。最終的には却って弊害になるあんなものを一所懸命やるより、高校から大学までに正しいインプットとアウトプットを心がけたらかなり実力がつくだろう。英語学者になるのでなければこれで十分。これでも喉から頭から英語がぽろっと出かかるはずで、ネイティブ級となると始終英語が頭の中に巣食うことになる。もう、半分、日本人ではないだろう。それを良しとするかどうかだ。