英語習得法(英英のち英和ところにより和英) | An Ulterior Weblog

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英語そのものを生業としていない一般人としてどこまで英語に関わったらいいのか、どこまでやればいいのか、という指標はなかなか難しい。TOEIC、TOEFLは英語の理解という点ではほとんど役立たない(これらの対策だけを考えて英語学習しているなら、結局、英語を理解はできない)。いつまで経っても英語がわかった気がしないのが私を含めほとんどの人のはずだ。ピーターセン教授はあれほど日本語が達者でも、いつもノンネイティブのもどかしさを持っているという。まして我々はなおさらだ。

だらだらといつまでも続く英語学習は人生にとってマイナス面が多い。ほかにやるべきことがある。そんな中で一応、やるとしたらここまでで止めておいてはどうかという指標を示しておこうと思う。

 

英文法については最近書いた。英文解釈や英作文、リスニングとかというのも細かにはいろいろあるが、今はこれらの詳細については触れずに英文法同様、重要な目標値をあげる。

 

辞書を2冊読み切ることである。

(第一段階:英英中辞典1冊)

まず、英文法がだいぶ身について、短文が読めるようになったら、英文解釈に弾みがつき、多くが読めるようになり、また読むようにしていく。読むものは何でも構わない。新聞、小説、歌詞、何でもいい。ただし、全てを完全に理解できるまでと踏ん張らないこと。できっこないので。それらをある程度の量をこなして英文に馴染んだ頃、英英辞典に抵抗感がさほど無いとなったら1冊読み切る(途中でダメにしたときのために中古でいいので同じものをもう1冊揃えると安心)。語義説明と例文を読む。語源などは飛ばしてよい。読みながら面白い表現だなと思った例文に下線を引いておくと後で活用できる。例文が極力多いものを選ぶ。最初は英和を参照するだろうが、200~300頁を過ぎれば頻度はぐっと落ちる。これによって相当のものが読めるようになる。世界一変。どんどん読めることが嬉しくて仕方がなくなるはずだ。ライティングも俄然楽。語彙拡大の破壊力も凄まじいことを実感できる。語彙増強の教材も不要だ。

(第二段階:英和中辞典1冊)

さらに続けて行くといずれ馴れて、英文を読むこと自体また英英を引くこと自体も特別楽しみで無くなってくる時期になったら、今度は2000頁級のやはり例文の多い英和辞典を読む。そうすると今度は日本語と英語との距離感が急激に縮まり、世界がまた変わる。こうして、貴方の脳の中では英語と日本語の関係が比較的バランス良く関係付けられる。このとき、英和辞典の訳に不満を持ち始めるはずだ。間違い探しでモチベーションを維持してもいい。その後しばらく、TVなり読書なりで英語に触れて行くと英語と日本語が共存するようになってくる。

大学入試は帰国子女対応のを除けば第一段階に入る準備程度に過ぎない。スタートに立っただけ。

 

英語で食べて行くのでなければ、ここまで!

それでも、驚異的に周囲より正しい英語が使える人物になっているはずだ。そして、見える世界がここで終点となる。2冊は多いように思うだろうが、あの文法書だ英文解釈書だ、小説だ哲学書だと延々と読み続けることに比べたら大した量ではない。一般には平積みで自分の身長以上あるいは2倍以上の原書を読まないと英語は身につかないとも言われる。たった辞書2冊で大丈夫なのかと思うぐらいでないと困る。辞書はどのみち買うだろうから費用はとても安くつくこと請け合いだ。

ここから先は翻訳家とか通訳者の道、さらにその先に英文で作家となるような道が残るのみで、とても一般人が踏み込める世界ではない。人生=英語の覚悟がいる。ただ、踏み込めるだけの下地は十分に着く。あとは適当に英文と触れ合って余生を楽しく過ごせばよい。辞書読みは面白みに欠けるかもしれないが(やってみると意外に面白いのだが)、小説などの代りに読んで、時間短縮とその後の驚異的活用度をできるだけ早く身につけようというものだ。

 

英和が先で英英があとはダメか?英英は絶対に要る。英語だけを頼りに概念を知ろうとする努力が必須なためだ。その後に日本語との関係を見直すのが現時点では望ましいとの印象を持っている。感覚的だが、逆は得られる言語世界観が小さく今一つの結果になる気がする。どちらか1冊でというのも実力が中途半端に終わる。

並行して読むのはダメ。英文だけで脳内を埋め尽くす段階を必ず作ること。できれば2冊の間には期間を少し置くこと。理想は英語漬けの状態から日本語に少し戻りたいと思うような時期がいい。

辞書をよく引くからわざわざ読む必要はないと思う人はいるだろう。やってみるとすぐ違いがわかる。どんなに辞書を引いていても、読んでいった場合とでは感覚が桁違いだとわかるはずだ。辞書を最大限に活用するには引くではなく読む。

難しい文章は読めるようになるかだが、ならない。文脈も無理で、英文解釈の参考書で補うことになる。ただ、辞書読みによって参考書の消化は早いし、比較的すぐに体得できる。そのときに『解釈教室』などの予備校系参考書のような素直に整理されていた頭を混乱させるようなものはやってはいけない。伊藤などの構文主義は脳が語彙から獲得しかけようとするネイティブ語感を無視する代物だからだ。

英和の代りに和英は?不可。日本語に引きずられ過ぎる。最初に英英をやり、英和は同じものを日本語付きで見直すのであって、関連性のない和語の群を脳に忍び込ますのは折角やった英英を台無しにしかねない。3冊目としてやるのは構わない。私はやったことはない。翻訳者などのプロになるなら必須だろう。

 

リスニング、スピーキングは上達するのかと疑問に思うだろう。スピーキングはライティングが楽になるとできるようになる。もちろん、決まりパターンの会話の練習はまた別にできるが、基本的にここでの方法で下地は作れる。リスニングも効果はあるが、日本人の耳には限界があるから、ニューズなり映画なりを見てとにかくどんな音でもいいので馴れていくしかない(映画はまず観ないが、CNNやBBCなどはよく視てる。私はBBCの方が耳が受け留め易い傾向。カジュアルな会話については映画やTVぐらいしか手段がないだろうが、あまり俗っぽくないものの選択が難しい)。読解力が高いほど容易なのは間違いない。辞書での例文は典型的なものが多いので、効果はかなりある。読めてこそ聴けて話せて書ける。

 

英語を真に身につけるには原書の多読とよく言われる。多読だけで似た習得状況は得られるかもしれない。社会人レベルまでとなると500冊から1000冊だろうか。こうなると長続きしにくい。何より、日本語との関係がつかない人がほとんどで英語はわかってもそれを適切な日本語にできない人が多い(英英を読み切ると体感できる)。その意味で原書のみの多読には反対だ。上の辞書読みでさえ、普通の人はまずやる気が萎える。しかし、ここまでやって出来ないなら仕方がないではないかという諦めのつくレベルをできるだけ低コスト短時間で到達するには上記が一番だと思う。小説など読まずにいきなり辞書読みでも構わない。進行のスタイルは各自で工夫してほしい。

2冊読んだが、ネイティブのような感じになれずがっかり、もう英語やらない、ということもあるだろう。それで構わない。ネイティブみたいには決してなれないことを実感できるからだ。それに早く気付くことが重要で、何か別のことに人生を回せるメリットは絶大。それどころか英英の段階さえうまくいかない人もいるだろう。それでも、伊藤和夫などやるよりも楽なはずである。何とか踏ん張って英英の山だけでも越えてほしい。面倒だからいっそのこと翻訳ソフトに期待して、別のことに人生をかける。それもよい。

 

そして、これが私の真骨頂だが、「強く暗記しようとしないこと」。外人ながらに日本語が達者な人たちの学習法を訊いても、彼らは日本人と同じく、我武者羅に固定的に次々に記憶していくことをするし、そう薦めている。私はこれには大反対である。

辞書にしろ参考書にしろ、訳語が英語と直結して対応などあり得ないし、ネイティブによっても言うことが結構違う。ネイティブでも間違いが少なくない。誰かの正しいことが必ずしもいつも当てはまらない。むしろ、柔軟に徐々に修正していくような意識であまり暗記に重心を置かない方がよい、というのが自分の経験である。今になって間違いだと言われても、ということがもの凄く多い。辞書読みはその回避に向いていて思いついたものだ。したがって、例文を記憶しようと頑張り過ぎてはいけない。読み流すに少し近づけておくことが望ましい。記憶したら頁を破っていくなんて先人のようなことはしてはいけない。気楽目に。これを間違えないこと。

伊藤和夫批判を何度かしているが、英語習得という側面からもよろしくないからだ。下手に英文がぐんと読める時期が来てしまうがためにこれで英語が身に着くはずと大勘違いをして、伊藤の著書を穴のあくほど読み返すのは愚の骨頂。言語はそんな硬直したものではない。伊藤が全3000頁の『英文法シリーズ』を読破して学生の質問に漏れなく答えることができる自信を作ったなら、我々はそんな読みにくい教育者にしか役立たないものは捨て、代わりに英英と英和で同程度の頁数を読んで英語と日本語の関係づけを行い、彼らよりずっとましな語感を養えばいいだけだ。それはできる。

 

英語をものにしたいと血眼の人はタイトルは羊頭狗肉だと言うかも知れないが(それでも学習法的要素はほとんど無いので学習法とはしていない)、ネイティブのように理解できる可能性はまず無いという多くの事実から、一般人として困らないレベルを難しくない手段で達成するにはどうしたらいいか、というのが本回答だ。大事なことは、全体としてやろうとしていることに個人に関わる書籍とか手法とかに依存していないことだ。言語を身につける手段が一個人の編み出した何かによって達成されるなどということはあり得ない。これをやれば偏差値や点数が上がるというのはあるが、英語が身に付くことにはほとんど直結しない。あくまで、ある人々にとって受け入れやすいものを提示しているに過ぎない。この回答にしてもそうだ。汎用性はあるとは言え、やりたくない人はそれでいい。自分が悪戦苦闘した結果として、楽ではないが、かといって巷のまやかし物はもう御免だ、直球でいくという物を示してみただけである。ここでの方法を実践すれば、高校教員はもとより、多くの大学教員より運用実力がつくはずだし、言語の世界は広く、辞書といってもごく一部に触れているに過ぎないというのが実感できるはずだ(流石にOEDは該当しない。全20巻21730頁をたった1年で読み切った人が本を出している)。これが本方法をやって一番意義ある目標になる。広大な英語の世界が見えて、まだ続くのかとうんざりするのか、逆に血湧き肉踊るかは貴方次第だ。

 

 

再学習しようとした頃、TOEIC対策関係に突き進むか伊藤和夫らに頼るかといった感じだった。結局、どっちもやって失敗で、自分が述べてきたようなことは誰も言っておらず、いろいろと苦労した挙句にわかったことだ。ずいぶん道草を食った。あの時点で誰かこんな話をしてくれていたらこれほど時間とお金を無駄にせずに済んだものをと悔やまれる。皆さんも時間を無駄にしないようにしてほしい。受験生は英英を手にするぐらいまでにはなっていてほしいし、大学卒業までには全て終えておいてほしい。なお、辞書は活字が大きく見やすい目に優しいものに。1日2頁で3年かかる(大学生なら5、6頁は読んでほしい)。長期で使うから疲れずにやる気が継続するものがいい。

 

※※

一般の人は英語学者になる必要はないので、どうしてこういう言い方はできて、こういう言い方はしないのか?という疑問に納得できる語学的説明がつけられるようになる必要もないし、できない。本方法はあくまで英語と日本語をできるだけ正しい関係で運用するための下地を身につけることであって、語学的説明ができるようになるためのものではない。最終的にはいろいろな表現を蓄えて、このときはこう言うがこのときはこうとしか言わないとネイティブの回答と同じことしかできない。それは日本語について我々が何かの説明を求められても同じことになる。だから、疑問すべてが論理的にすっきりと解決されることはネイティブ語感に近い話であればあるほど無い。概して学習者は完璧な学習法を要求するがそれは無理な話。完璧は終わりを意味し、人類に終わりがない限り言語に終わりはない。

どうしてもそれがいやだという場合は、頑張って『英文法シリーズ』を探してやり切ってみるか、OEDを読み切るかしかないだろうが、人生をかなり無駄にすることを覚悟することだ。いっそのこと英語学者になるなら多いに賛成する。文筆家になるなら、西脇順三郎、石川欣一、逆の例としてリービ英雄やロビン・ギルが参考になるだろう。しかし、天賦の才が無いとこのレベルは無理だ。日本語でも作品を書けない凡人はあくまで凡人と観念することも重要だ。

 

※※※

永く英語に触れていくのであれば、一生ものの原書を見つけることをお勧めする。それが貴方の英語の原点となり続けるだろう。辞書よりずっと大事だ。母語でないだけに芯となる何かを持っておくといろいろ助けになる。女性だと Anne of Green Gables、The Little Prince なんかが多いのではないだろうか。

どうしても英語をネイティブ級にしたいなら、1つだけ方法がある。ネイティブと結婚すること。そして英米に行って日本に戻らないつもりで精進すれば、10年か20年でほぼなれるだろうと思う。逆の例では奥さんが日本人のピーター・バラカンなどが有名だし、次のような一般人の例もある。左からブラジル人、ドイツ人、ミュージーランド人だが、完全ににっぽんのおっかさん状態だ。

https://www.youtube.com/watch?v=xI_KRoQ_OXU

 

日本語母語者が英語を身に付けるのがいかに大変かを医学的説明も加え、養老猛司が以下で述べている。同意する。英語習得は生業にしない人間にとって人生の無駄以外の何物でもない。彼は論文という論文から例文を探して博士論文を書いている。辞書読みはこれと同じ。世の中にある例文をたくさん読んであらゆる場面に対応しようというものである。自力でいろいろ探すより、辞書編纂者が人生をかけて選んでくれたものを活用しない手はない。しかし、多くの人にとって大事なことは、習得ばかりに突き進むのではなく、どこを終点とするかだ。その意味で彼の記事は示唆的だ。私が今もちまちま続けているのは、特許にしろ論文にしろ自分以外に面倒を見てくれる人がいないからだ。

https://www.enago.jp/dryoro/