英文法(伊藤和夫批判ふたたび) | An Ulterior Weblog

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ネットの隅の本ブログだが、英語と数学、そして有名大出身者に関する記事への関心がいつもとても高い。そこで、一番多い英語に関して少し書いてみることにした。

 

表題の英文法についてだが、「英文法なんか要らない。そんなものをやろうとするから日本人はいつまでたっても英語ができないんだ。とにかく、英語だけで読んで書いて話してということを続けていけばいいんだ」という主張をする人はそのまま行けばよい。別に悪くない。しないより絶対いい。その代わり、まともなネイティブからは相手にされなくなるだけだ。仕事にも活用できない。メールでもビジネスにはビジネスライティングというものがちゃんとあり、いくら簡素化してきているとはいえ、礼節を求められるし、しっかりとした内容と展開にしないとバカにされるのが落ちだ。まず、返信が来ない。表現が変でも文法に則っていればまだ読んで貰える可能性が残るが、支離滅裂な文章はすぐにゴミ箱行きだ。留学経験者でもそういう英文を書く人は結構いる。

 

英文法が一番役立つのは何といってもライティングだが、もちろん、最初はリーディングで発揮される。

英文法は何のためにやるかと言えば、日本語とあまりに違うその言語形態を知るためだ。主語の省略はほとんどできないし、修飾の順序も逆、時系列の事象の捉え方には日本語にない概念もあり、何もかもが違う。日本人が英米人がなかなか互いの言語になじめないのはそれに尽きる(ノーベル物理学賞受賞者のリチャード・ファインマンは一時、日本語に興味を示したが、これは自分の言語にはならないと学習初期に諦めている)。言語が違うということは文化やものの考え方が違うことでもある。だから、こういうことを原点に考えていない文科省の改革は愚かとすぐにわかる。

 

英文法と言っても、実はいろいろな種類のものがあり、生成文法とか談話文法とかかなり見た目に違うアプローチがとられているが、それらを一通りやることは英語学者を除けば文法オタクに任せておくに限る。英語学界(英文学界ではない)のある種の派閥の関係でできているような面もあるので、いちいちそれらに付き合うよりは、どんどん読んだり書いたりした方がましだ。

 

では、具体的にどんな英文法を?となると、学校とあまり離れたものは脳を混乱させるのでよろしくない。学校で教える伝統的文法はたしかに問題点はあるが、実際に読んでいくときにはそれが障害となって理解できないということはほとんどない。それに、実力がつくと気になる問題は徐々に解消されていく。

自分が見てきた100冊以上(全て読破したわけではない)の文法書の中でよかったと思うのは以下。

 

  (1)『ルイちゃんの英文法 英語の言語感覚』 岩垣守彦著 玉川大学出版部

  (2)『表現のための実践ロイヤル英文法』 綿貫/ピーターセン著 旺文社

  (3)『英語広文典』 田中菊雄著 白水社

  (4)『英文法シリーズ合本全3巻+総索引』 研究社

 

残念なことに絶版がほとんど。(3)、(4)は古いので仕方がないにしても(1)までも。しかも、オンデマンドまで止まっている状況。

(1)は学校での英文法の力点がおかしいと、ネイティブの言語学者の協力を得て作られた著者渾身の作で、対話形式で大変わかりやすく書かれている。多くは中学生からでも十分わかるようになっていて、実用視点でさらに描出話法とか情報構造なんてのもちゃんと入っている。ネイティブ感覚がかなりわかる目から鱗が落ちる内容で、英文法の中の骨格的なところはほとんどこの1冊で済む。高価だったからかもしれないが、ピーターセン教授の人気を考えると、よりまとまっているこっちが絶版に追い込まれたことには驚いている。読了後は現在、手にすることはほとんどなくなった。

細かなところは足りないし、特にライティングで出てくる多くの悩みには応えきれない。それに対応して使っているのが(2)である。もし、たった1冊となれば本書が一番かもしれないが、内容はこれでもかと詰め込んでいて、かつ700ページを超える大著なので、読みやすいが一通りやるのが大変かもしれない。本書にはピーターセン教授がネイティブ感覚を随所に盛り込んでいるので正しい英語を身につける上でとても有益だ。本書はまだ全体の方向性として(1)などと比べて不十分だが、やっと日本人にちゃんと英語を感覚レベルで理解させようという流れが受験英語界で市民権を得始めたことに喜んだことを覚えている(一番手は岩垣教授のはず)。

 

(3)は知る人ぞ知る英語学者が書いたもので、著者の恩師の斎藤秀三郎が書いたスタンフォード大学の教科書にもなったことがある『実用英文典』(現在、原著が和訳再刊されている)よりも出来がいいと思う。本書より自分に合った英文法書は見つかっていない。内容的には(2)よりも少ないが、(2)はむしろ細か過ぎで、座右に置いてすぐに確認して使おうというときにとても整理されている本書の方を参照する。著者は聖書やシェークスピアから例文をとってきたりもしているが、何よりOEDを読み込んで英和辞典を作ったほどの実力者で、かつ高校や大学での教育経験が長く、なぜ、こういうものになったかというのも歴史的にわかるということと、古い本なのに文語と口語の使い分けなど現代でも通用する指摘が多く、体系と実用のバランスが優れていて使い勝手が一番よい。文構造の解剖の仕方、修辞法全般を簡潔に教示してもいるし、発音やアクセントも細かく触れていて、小型版の500ページちょっとでよくここまで過不足無くまとめられるものだと感動さえ覚える(古英語の文章を載せている学習者向け英文法書なんてほかにあるだろうか)。例文が古いので現在では教材として使いにくいというのはあるが、質的にはこれを超えるものを私は知らない。読めば読むほど広い英語の世界が少しずつ眼前に現れてくる感じがする英文法書なんて初めてだ。さらっとした筆致だが、その背後に大きな世界が背負われていることがわかる。本書をやると予備校の文法関係の書籍を読む気など起きない。

(4)は言うことはないだろう。今後、おそらく作られることはないであろう、研究社が英語関係の専門出版社としての威信をかけた全3000頁を超える文法大系である。(3)まで見て困ったときはこれになるという最後の砦だ。使ってみると、専門的あるいは細か過ぎでちょっと一般人にはどうかと思う内容ではあるので、教育者以外にはお勧めしないし、入手も容易ではない。伊藤和夫と山口俊治が湯河原で合宿したとき、このシリーズを読破していることを互いに前提にしていたという代物でもある。

 

ほかに、Practical English Grammar とか英語で書かれたものも有意義なものがあるが、和書との違いの多くは語法に関することが主で、なかなか日本人として抜け出せないとか勘違いがあるとかいう根本的な指摘は分厚い割に多くないので、特に読解力もない段階では読むことは薦めない。まして、Quirk et al. とかCGEL(ケンブリッジの方)などは科学的手法も取り入れた研究者レベルのもので、一般人が手を出すべきものではない。私はランダムに数ページを読んでみたが、とてもやり遂げようという気にならなかった。用語が大変というのもあったが、何でこれを問題にして詰める必要があるのかという項目が多かった。英語学者や教育者になる気はなかった。

もし、たった1冊((4)も1冊とみなす)しか英文法書を持てないとしたら田中菊雄になる。

 

さて、最も大事なことを指摘しておく。

中高と「日本語より論理的な英語(これは大勘違いなのだが...)では英文法が威力を発揮するはずだ。だから、何より英文法を身につければほとんど理解できるだろう」と思いこんでいた。そして、今もそう思い込んでいる人は少なくないようだ。たしかに、英文法は基本で大事だが、家で言えば基礎と骨格部で壁も屋根もない状態のものだ。少し下がれば家らしい形はしているが雨宿りできず、家として全く機能しないのと同様、英語を使う上ではそれだけでは役に立たない。なので、『英文法シリーズ』も済ませたからと言って、それで英文は何でもわかるということにはならない。それは保証できる。

読んだり書いたり話したりも言語習得の活動として、屋根や壁や内装や外構を備えていくことと同様に避けて通ることはできない。

 

 

文法書を100冊以上も触れることになったのは、どういう文法がいいだろうかという探索をしていたことと(談話文法と伝統的文法の融合が学習者向けに思える)、自分に合った文法書がなかなか見つからなかったという事情による。でなければ、一般社会人が『英文法シリーズ』だとか認知文法とか記述文法とかにまで手を伸ばそうとしたりしない(笑)。普通の学習者なら下から上のレベルまで10冊ぐらいまでやれば多様に使えるようにはなるだろう。参照用は別にして、段階的に3冊は最低でも読破する必要がある。そういう意図で上の例をあげた。

 

※※

『英文法解説』『総解英文法』などの有名文法書が無いのに驚く人もいると思う。使い勝手が悪い。辞書的で頭の整理がしにくいことと、バックボーンの違いを感じる。実用習得としては総合的に(2)の方がいい。多くの英文法書はある意味学閥的な傾向の下で纏められたものが多い。また、文法学者は原書を多くは読んでおらず、例文はどこからか探して切り取ってきたというものが多い。著者創作の場合もある。田中教授や岩垣教授はもともとそういった範疇の学者ではなかったので、ほかとは一線を画した書を提示できた。ただし、それが仇にもなって(教授の採用方法の変化が大きいか?)、続く人たちが出てきていない。

既存のやり方を批判するのは簡単。対案を示すのは難しい。例外は斎藤秀三郎だろう。100年も前の彼の辞典は今も翻訳家らが使っている。そんな辞書は誰も実現したことがない。彼は学校を開き、後進を育て、山崎貞や田中菊雄が継ぐが(OALD編纂のホーンビーもこの系列)、今は途絶えて極僅かな書籍が残るのみ。それとは別に旺文社が受験事業を起こし、小川芳男、J.B.ハリス、長谷川潔らを中心として受験英語の柱を形成したが、難関校に対応できず、駿台を頂点とした予備校群に座を譲る。すでに奥井潔や伊藤和夫がその先陣を切っていた。人によっては斎藤の役目をしているのが伊藤だという。冗談はよしてほしい。何も無いところから辞典や教科書、教育体制までを自力で作った斎藤と、『英文法シリーズ』を参照してコンパクトな文法を作った程度の伊藤では話にならない(直読直解は斎藤が既に取り入れている)。英語習得や教育の改革を唱えるなら、(1)や(2)といった日本語と英語のセンスの関係に深く切り込んだものを核とすべきだった(伊藤の実力からは無理)。今は各出版社からいろいろと所謂ネイティブものが出ているが、本格的に体系立ったものはまだ無い。しかし、学界はこの方向は手掛けないだろう。そのあたりが日本の英語教育が貧弱な状態が続いている原因だと思っている。使える英語などと騒がずともやれることはあった。なので、江利川先生のように、昔の受験参考書の良さを正当に評価するのは理解できるが(山貞の復刊を裏付けている)、伊藤の方向に希望を見出しているのは日本人の真の英語教育を考えると的外れで後退的と私は確信している。むしろ、何で同じ大学関係者の岩垣教授の方針を推さないのか理解に苦しむ。

英語を通して文法のエッセンスを突き詰めると次のようになるだろう(言語と思想形態の関係をも示唆する意欲作)。こういうのを独自に構築したとして、予備校で成功するかというと微妙な気はするし、言語機能を抽象化したものを一般人が学習する意味はないだろう。抽象化は教える側はいいが使う側からすると却ってよくない。バランスは難しい。

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伊藤和夫が大学に残ることができず予備校に移った頃、日本の英語学なり英文学は固定化されたような状況だった。学界で名を成すには教育は顧みず内輪の中での評価を上げることが中心で、出版社はその名声を利用して専門書と学習商品を出していた。戦後の教育商業システムが確立してきた頃だ。予備校は日陰者扱いで今とは比べ物にならない。収入はよかったが。そんなときに一番に信頼がおけるものはたしかに『英文法シリーズ』ぐらいだっただろう。(1)の大元を岩垣教授が始めたのはまだ先のこと。だから、それを要求すること自体難しいことではある。が、そこまででなくても学界と別に既に斎藤の流れがあり、山貞が君臨していた。その意義を知らずか、伊藤は反旗を翻し、山貞を追放宣言し、結果的に逆行的な方向に進んだ。駿台に移り、日本の秀才たちだけを相手にし、東大京大合格を目標とする中で、日本人が独習して英語を身につける上で何が必要かという主題は優先されなかった。あくまで教壇から「教えてやる」という意識しかなかったせいか(『ビジュアル』『解釈教室』からは強く感じる。田中菊雄とは真逆)、中高といった下のレベルの教育にもほとんど目がいかなかった。秀才だった自分の体験と秀才たちとの授業からは生れようがなかった。それがある意味いびつな伊藤英語の構築に繋がったし、本人も英語が身に付くことはなかった。日本人としての英語学習としては適さない。所詮、受験生向けであり、独習しようという人には薦められないし、後で結局戻ってまた出直したのが私の体験なわけである。信者になりかけたが、一歩手前で正気に戻った。教育する側には便利だろうが学習側は迷惑と言っていい。

TOEIC、TOEFL対策が日本人の英語教育を苦しめこそすれ助けるとは到底思えないし、伊藤英語はこれらや入試のような英文に対して有効性を示すこともあって勘違いされるが、日本人の英語習得としては最終的には却って後戻りを要求するので、最初から立ち位置を見直した教育体系と手段の確立が望まれる。