英語の旅 終焉 | An Ulterior Weblog

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1969年秋、アメリカの物理学者マレー・ゲルマンがノーベル賞を受賞した。原子核を構成している中性子や陽子がさらに細かなクォークからできているという、現在の標準理論の大元を提唱した功績による(今もって、クォークがより小さい粒子で構成されているかどうかの決着はついていない)。人類は新たな世界に踏み込んだ。しかし、その意義は世間一般に伝わることは当時はなかった。世界はその前に起きたアポロ11号の月面着陸に沸き立っていたからだ。

 

その「クォーク」という名はどこから来たか。20世紀最も難解な作品と言われたジェイムズ・ジョイスの作品『フィネガンズ ウェイク』に出て来る鳥の啼き声だという。『フィネガン』は言葉遊びの極みのような作品で、筋を読むとか何とかより、その言葉遊びに翻弄されるためネイティブにも難しく、他言語には翻訳不可能とまで言われた作品である。当然、出版から永きに亘って和訳書は出なかった。

1991年、突如それが現れる。柳瀬尚紀が8年近くをかけて完訳した。第一巻を買ってみたが読む気が失せた。とても文学作品には思えなかった。なぜゲルマンがここから採用したのか、そもそもなぜゲルマンは『フィネガン』を読んだのかと不思議に思ったぐらいだ。

日本の文学関係には衝撃が走った。あの『フィネガン』が日本語になったと。誰もが訳す気さえ起きないような作品を翻訳するという偉業を成し遂げた柳瀬は昨年の今頃他界している。しかも、『ユリシーズ』を翻訳している途中だったという。大体2/3まで訳していたらしいが、残念ながら未完となった。柳瀬の代わりができる人などいようはずもない。『ユリシーズ』も難解と言われる作品でこちらも完訳は1人しか出ていない。注釈書などはあるが、それだけ難しいようだ。中にはこの翻訳を目標としていると宣言もしていたのに完遂できず鬼籍に入ってしまった英文学者もいるほどだ。

 

柳瀬はジョイスファンであり、ジョイス本人や作品に関する著書も多い。例えば『辞書はジョイスフル』はジョイスの翻訳の難しさと辞書引きの楽しさを教えてくれる。それにしてもよくこんな実力を北海道の端の街で生まれてつけたものだと感心する。『ユリシーズ』をやりたいという学生はいても『フィネガン』はいないようだ。前者でさえ教授から「おやめなさい」と諭される作品である。教授自身が理解できないのだから。

自分と英語との関りを振り返るととても英語はジョイスフルとは言えない。TOEICや予備校英語に翻弄されて来た経緯は幾度となく書いてきた。その混乱から何とか抜けだし、やっとここが一般人としての自分の限界点だというのに辿りついた。それがダシール・ハメットの Maltese Falcon  であり、ジョイスの著書群だ。しかし、上記2つは難解の極み。自分が注釈付きで何とかなるのは Dubliners だ。これ以上は無理である。もちろん、英文学にはほかにも凄い作品はある。しかし、ダブリンの街もぶらついたことのある自分にはこの作品しかないし、この作家しかないという気がする。サミュエルベケットも独特で面白いが、それより Dubliners だ。

 

英語ができるようになるには推理小説がお薦めだとよく言われる。変わったところで英詩。文学は特殊過ぎて一般人が英語を習得する上ではむしろ使う場もなく不適切との意見が多い。そうでなければモームだラッセルだと。たしかにそうだという気がする。しかし、英文そのものを楽しむということになると、それらはある意味つまらないのである。クリスティーも読んだがあまり性に合わなかった。グレアム・グリーンは面白く文章も好きだが深遠さを感じない。ベケットも独特だがジョイスはさらに先。言葉そのものへの意識が極めて強い。その先となる人はいないようだ。決まったという感じである。ライティングに役立つかどうかなどどうでもよい。

幼稚な英語学習段階からよくこんなところまで文学嫌いで理系の自分が旅して来たものである。こんなところに来るなどとは想像だにできなかった。今、もう一度出発点に戻ったとしてここに来れる気がしない。なぜ、来れたのかもよくわからない。実力なんかついてる気はしないが、ここに来れたことに満足している。英語をやってきて満足したことなど一度もない。しかも、実力不足のままなのに満足とは不思議なものだ。

 

これまで散々、TOEICなどの試験は実力とほとんど関係しないし、実用にも使えないことを説いてきた。わかった、ならその上の松本道弘の「英語道」はどうか。

どのみち努力は要るのだからやること自体は問題ない。しかし、それで2段とか3段とか行く意味が本当にあるかというと疑問だ。松本の大好きなディベートは論理ゲームであり、言語文化の創造性とは何ら関係ない。日本人の英文作家がいたら何段なのだ?作家の善し悪しに段位は意味あるか?ないだろう。ということは本質的にはTOEICやTOEFLと差が無い。その指標となるものがTIMEとかになっているだけで(それも昔のならまだしも今のは)。それに、留学してケンブリッジやMITでPh.Dを取って世界で活躍しようとしている人がいるとしたら、こんなことに血道を上げるぐらいならもっとやるべきことがある。ランキングは指標にはなるが所詮は他者による標準化評価の道具に過ぎず、機械的であって中身との相関は低い。

 

我々はランキングを上げるために英語に貴重な人生を捧げてはいけない。ツールという視点も論外だ。そういう面で捉えることはできるが目的や本質とは直結しない。どうせ人生を削って学ぶなら(何故かこの意識が学習者には低い)、英語文化を理解して英米人の精神に直接切り込むことを目指すべきだということである(多田正行の言う思考訓練はそういう意図)。そのためには英米の知的巨人たちや作家の作品に直に触れる以外ないのだ。外人が知的レベルの高い日本人と日本語を介してその精神文化の土俵でやりとりしたいなら、漱石、川端、三島、安部といった人たちの作品を読んで理解するぐらいでないと太刀打ちできないだろうと想像はつくだろう。赤川次郎は易しく実生活では役に立つだろうが、それでは相互理解は進まないだろう。そこが推理小説を推薦している人たちの視点で欠けているところだ。それを逆にすれば我々がやるべきことがわかる。それがどの程度まで達成されるかは個人の努力と掛けた時間による。そんなレベルのやりとりをする気が無いなら頑張る必要は無い。ツールでも可だ。

 

来れるところまで来た。大きな海原の見える地の果て。快晴の視界の中に目指すべき陸地は見えない。修行まがいの旅も終わりだ。何度も道を誤った。ながかった。。。

 

 

wikipediaなどによると、まるでヘミングウェイがハメットのハードボイルド文体の祖のような記述になっているが、時代考証ではその可能性は否定される。むしろハメットの方が早い。たまたま才能ある2人が独立に似たことを始めた。展開手法も違う。両者がそれぞれ意識したことがあるのかどうかは調べたことがあるが、明確なものはなかった。別ものとみていいだろう。

シェイクスピアを基幹として大陸とは別に(料理も絵も音楽もパッとしない)英国は誇れる言語文化を築き、それを現代的に極めたのがジョイス。同じ英語でも英国とは異なって隷属しないアメリカ独自の言語文化の萌芽を作ったハメット。結局、双璧の言語創造者に触れないといけなかったのだ。昨年ハメットを読んでいたときには気付きもしなかった。

 

※※

ジョイスが Dubliners を書いたのがアインシュタインが一般相対論を発表する前年。ユリシーズやハメットの Maltese Falcon は量子論が完成した頃、フィネガンは湯川が量子論を素粒子論に変革させた頃に世に出ている。変革は文学も科学も人間の所業として同時期に起きるものなのだろう。

 

こう書くとジョイスをやらなければならないという強迫観念を持つ人がいるかもしれない。その必要は無い。自分が英語の言語文化を突き詰めていくとこうなったに過ぎない。本来は英文学の道を目指す人たちのある意味定石的コースだ(ハメットは違うが)。コースもいろいろあり、ジョイスが全てではない。日本の学習者は最初に学習の王道を示されないこともあって、いつまでも文法を舐めまわしていたり会話だけに埋没したりしているかと思えば、強迫観念に囚われ過ぎて、順にこれあれと営業ノルマのごとくに目敏い商人たちの教材を健気に消化しようとする。達成感はあるだろうが、人生を犠牲にしていることをお忘れなく。

言語の習得は大変であり、やったことは何がしかの効果はある。自分にとっての英語の本筋をまず見つけることが重要。会話だけできればいいならそれはそれでよい。ただ、大学を出て社会人になり、場合によっては海外に出ることもある人はその程度で終わっては困る(ビジネス会議とか学会発表とかいうレベルを超えるべき)。そういう人のために情けないながら自分の道の例を示してきたつもりである。