一つ前に、双璧の英米言語文化(ジョイスとハメット)について述べた。そして、それは英語の習得というのが文化や思想の理解を含むことであることを何度も強調してきた。それを証拠づける話をたまたま会社の同僚たちから聞いた。
同僚の1人は本人がイタリア好きが高じてイタリア語もかなり達者という話だった。その彼は、現地でイタリア人たちといろいろ話していくと、どうしてお前はラテン語(古イタリア語になる)をやらないのかと、何度も言われるという。ラテン語をやらないとこっちのニュアンスがわからないだろ?と詰め寄られるのだという。ラテン語は現代では死んだ言語である。使う場が無い。しかし、古典などを紐解くには必要とも言われる。つまり、言語文化の中身を理解していないといろいろな話をしても真に通じないというのである。
もう1人の同僚は従姉がアメリカ人と結婚してアメリカ人になってしまっている。そのご主人はいろいろ起業していて、CEOとして渡り歩き、浮かんだり沈んだりの人生を送っているという。しかし、アイビーリーグの大学を出ているエリートなので教養がある。本人曰く、教養が無いとわかった人間とは話はしない、ただ情報交換をするだけだ。どうせ深い話など続かない。つまらないだけで時間の無駄。話がしたいのであれば、まず歴史(西洋史)をやれ、そして文学、芸術だ、と言うのだそうだ。
イタリアにしてもアメリカにしても、現実的に歴然と社会的階層がある。大学を出ている者、社会的地位のある者、貴族などの出自の違いなどなど。そして階層が上であるなら、そこでは教養を求められるのである。相手と心通じる形で話をするためには、その文化を理解しなければならない。そうでなければ本当のコミュニケーションなんかできないという当然のことを主張している。
言語習得というのはこういうのを目指さなければ意味が無いということである。
2021年度の大学入試からTOEFLなり英検なりで民間試験を導入することになった。上記の視点からはむしろ昔の大学入試の方が目的に適っている。
表面的な英語使いが増えると言ってきたことが正しいことがこれでわかるだろう。英語はツールなんてどれほど無知な見方かということだ。ツールで済むのは表層的なやりとりであり、人間対人間のコミュニケーションには入り込めない。すなわちネイティブからは本気で相手にはされないということである。彼らは自分たちの人格が言語そのものなのだと言っている。こっちも相手の言語で人格を作らないことには相手と真のやりとりはできないのだ。
こうした目標の下に中等、初等の教育をどうするかという展開をすべきなのだが、文科省はどういう姿がいいかを示してなどいないし、一方、予備校では点数稼ぎに寄与すべく文法を超えた構文主義で誤魔化して意味的アプローチを遠ざけ、結局、英語学習者が言葉の世界に本格的に入る機会を邪魔する。
文科省は何もわかっていないおバカさんの集まりなのである。せめて大学でのカリキュラムに反映されることを望むばかりだ。