卒業の式辞で阪大の文学部長兼大学院文学研究科長が語った文学の存在意義について話題になっているようだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170723-00000001-withnews-sci
理系の院を出て理系の仕事をそのまま続けていながら、最近、英文学の芯に辿り着いた(と思っている)一個人として、思うところを言いたいと思う。
断っておくが、文学という言葉を聞くようになった高校以上で文学が好きになったことは一度もないし、英文学も嫌いな方だった。どっちも不要だと社会人になってもかなり長いこと思っていた。現時点でも文学が好きとまではなっていない。
自分もそれなりに人生の岐路のときもあったが、そのときに文学が主要な助けになったことなど一度も無いし、それが期待できるような気もしたことなど無い。また、そのときには人生の岐路だなどと思っていなかったが、実は岐路だったこともある。
両親の仏壇を前に毎日拝んでいると、文学などより、ハイデッガーも驚いた空海の考えを学んだり、むしろ宗教の教えの方がためになると思う。核家族化と生活や家の洋風化で現代日本人はすっかり祈るとか拝むといった神聖的行為を完全に失っている。それが現代人の人間関係すなわち人間そのものの喪失をもたらしている。他人を労われないのだ(自省)。
さて、今振り返って文学は何の意味があるか。
何度も書いてきたことだが、言語はその文化の思想そのものだ。我々が使う言葉は我々のものの考え方を示しており、人格そのもの。言葉は精神のご飯だ。酷い人間は言葉も乱暴で、そういう不味いご飯ばかり食べてきた証拠。だから、文学は何に使えるかというのは愚問。役に立とうが立つまいが、食べないと体が持たないと同じで精神が鈍する。自身そのものを形成する糧である。もちろん、消化できない、つまり受け付けないものもあるだろう。そういう中で自分の精神に血となり肉となるものを見つけて自分そのものを作り上げていく。阪大の学部長の話はあまりに弱過ぎる。でも、彼は三島とかのような作家ではない。職業文学研究者であって、言葉の創造をしているわけではない。したがって、文学の意義を問いたいならやはり文豪にということになる。三島などは文学を人前に説ける力を持っていた。彼ならどう言うか、あるいは安部公房ならどう言うか知りたいところだ。(彼らの著作やインタビューにあるのかもしれないがさすがにそこまで追う気は無い)
文学は不要だという意見は馬鹿げている。それは自分は大した人格を持っていないと宣言しているようなものだ。もちろん、避けて生きていくことはできるし、問題は起きないだろう。しかし、人生に厚みは出ない。表層的に生かされているという状態に過ぎず、積極的に生きていることにはならない。実際に文学作品を読むことは積極的にならないとできない。もがき苦しみから抜け出すために手を伸ばすこともあるかもしれない。
理系だと研究者の生き様に影響を受けることがある。現実なだけに名の知れた傑作以上と言っていい。しかし、そのことと、毎日の言葉の操作の中で自分を形成することとは次元が違う。普段から心がけて自分を社会の中の1人として強く生きていくために文学は必須と言っていい。逆に作家はそういうものを提供しなければならない。
ただ、残念ながら人間は大した存在ではないので、どのみち傑作もパターン化し、真新しいものは出にくい。人はそれほど大きく変化することはできない。マンネリ化する。飽和状態。現代人はこれに近いのだと思う。それで新しい文学が生まれにくく、かつ文学が役立たずに見えてしまうのだと思っている。
特に理系の人に、もし、自分に新たな視点の獲得や心をもっと広くしたいと思うのであれば、文学は案外よいとだけは言える。ただし、そう言えるような作品はそれほど多くないので古典的な定番のものから読んでみてはいかがだろうか。ほかの有名でない人たちの作品から入るのも悪くはないが、経験から言うと、やはり格が違うので、できれば最初から傑作を薦めたい。原書で英語の学習も兼ねるのも一つである。
そうすれば、口先だけの文系幹部をたしなめることもできるだろう。何せ彼らは理系についてはからっぽの役立たずが多いのだから。自分の経験から思うには、文系が取り仕切ってうまく回っている背景には理系のこの人格形成の弱さがあるためではないかと思っている。まあ、実際にほんとに口先だけの人間が多い。会社経営者しかり、政治家しかり。文学的理系研究者ってのがあって悪いという話はない。
私も変わったものだ。
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文学が人生に影響すると言われてもやはりピンと来ない人は多いだろう。では、音楽はどうだろう。クラシックでもジャズでもポップスでもいいが、あの曲を耳にしてから自分は変わったとか生きる気力が湧いたとかいう経験を持っている人は少なくないだろう。それがメロディーでやってくるのか、文章でやってくるのかの違いと言えばわかるのではないだろうか。ただし、文章の方が努力を要するので、特に面倒くさがりの現代人には響きにくいだけだろう。昔はラジオさえなかったので、新聞などの活字の方が生活に密着していた。音楽も活字も一切なしに生活するとなるとどうだろうか。人生がつまらなくなるのはわかるのではないだろうか。と理解できるなら、答えは自ずとわかる。
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理系分野において文学的というかそのテキストの中に新たな思想を透徹した言葉で展開した傑作がある。ノーベル物理賞受賞者であり、かつケンブリッジ大学のルーカス教授職にまでなったP.A.M. Dirac の The Principles of Quantum Mechanics (同じくノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎監訳による訳書が岩波から出ているが、やはり原書を読まない限り Dirac の意思を本当に理解することはできない。ハメットやジョイスに至ったのも同じ経緯)。ある意味聖典的である。今後これを超えるようなテキストが出る気は、しない。
なお、その Dirac とも面識のあった詩人かつ物理学者がいる。原爆の父と言われる Robert Oppenheimer。ただ Dirac は詩人をやりながら物理の研究なんてできるはずがないとあまりいい印象を持っていなかったようだ。実際、個人的実績では Dirac が本質的で多岐にわたっている。Diracは自分が物理学そのものに対する詩人となっていることに気が付いていなかったのだろう。
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日本にも理系ながらに文学的側面を持つ人たちはいる。まずは寺田寅彦。今は少ないだろうが、昔は彼のエッセーなどを読んで科学や工学の道に入った人が多い。寺田寅彦全集が岩波書店から出ている。そして、同級生にしてノーベル賞コンビ、湯川秀樹と朝永振一郎。湯川秀樹は著作集が岩波から、自選集が朝日新聞から、朝永振一郎著作集がみすず書房から出ている。この3人の著作集は日本の大事な宝と言っていい。湯川は漢文も修めてもいることから、文人っぽい部分があり、文章も深遠。村上春樹もつまらん文章など書く前に一度拝んでみたらどうだといえる内容だ。一方の朝永は本人が落語を披露したりするほどの軽妙さで読んでて誰でも入れるし楽しいものが多い。一度、これらを図書館などで手にしてみてほしい。