新・迷って、悩んで、でも笑ったりもして…。 -27ページ目

新・迷って、悩んで、でも笑ったりもして…。

不惑の40代などと言うものの、40代になってから「踏んだり蹴ったり」、「弱り目に祟り目」な日々…。
あれから幾年過ぎ、日々の一喜一憂を好き勝手にほざいてる次第です。

一昨日は神宮球場へ。

かつての同僚でスワローズ・ファンでもある友人が「そろそろまた一緒に神宮観戦行きたいんですけど」と依頼が来て観戦へ。

彼とも年1回は一緒に神宮観戦している。

この日は東京ヤクルトスワローズ「TOKYO燕プロジェクトDAY」との事で、ここもう何年も恒例の緑色のユニフォームを選手もスワローズ・ファンも来て一体となろう!という企画ゲームだった。

キャッチコピーは「さあ、ミドれ。」!

スターティングメンバー発表も緑の文字。

この日はこんな眺めで観戦。

先発ピッチャーは、スワローズが高橋投手。

スワローズでは唯一の先発左腕。(ちなみに嫁は元AKB48の板野友美)

この日の対戦相手は横浜DeNAベイスターズで、先発は石田裕太郎投手。

ルーキーです。

そして、ベイスターズのスタメンには、かつてスワローズでショートを守った西浦選手も。

試合は、3回裏スワローズの攻撃時に動きが。

1死で1番西川が出塁すると、続く2番で、上掲の西浦の後にショート固定となった長岡選手もヒット!

1、3塁になったところで、打率トップのサンタナ選手の犠飛で1点先制!

ここで4番村上が打席に。

バックスクリーンに叩きこむ2ランを放つ!!

これで3-0とスワローズがリード。

偶然にも、この回のスワローズ得点のタイミングで、お隣の国立競技場から大掛かりな花火が上がった!

サッカーの試合で、そのセレモニーとスワローズの得点のタイミングが偶然にも合った。

その後も、スワローズがバントを決めたタイミングにまた花火が上がった。(笑)

 

さて、結論を言うと、この3点が両軍合わせこの日の全得点となったのでした。

ベイスターズは継投策に出る。

2番手は佐々木投手。

ん?!佐々木?!

オールドファンとすると、大魔神と呼ばれたあの佐々木投手を思い出してしまう。(笑)

そしたら、ロッテドラ1だった佐々木千隼投手ですね。

今年から移籍したんでしたっけ。

6回に入ると、今度は山崎康晃がマウンドに。

それこそ"大魔神”佐々木に次ぐ抑えのエースだったが、今は中継ぎなんですね。

時の流れを痛感。

このまま終盤になると、雨が降って来た。

スワローズ戦は雨天観戦はレインコート系での観戦がルール。

でも、最近のファンはダメだね。

全く、見えやしない。

ただ、幸いにも通り雨だったので、その後止んだ。(ラッキー。)

試合は最終回2死となり、スワローズ勝利まであとアウト1つのところで、代打に筒香選手!

メジャーから戻ったスラッガーが再び。

しかし、スワローズ小澤投手の投球に三振でゲームセット。

スワローズが3-0でベイスターズに勝利。

スワローズは、結果最下位脱出を、ベイスターズは何とか3位になりたいところ。

残り試合も少なくなって来たが、今シーズンの結果はいかに?

 

 

 

 

 

 

 

 

8月23日は「ウクレレの日」なんだそう。

 

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これは、1979年にアメリカ・ハワイ州政府が認定したそう。
なので今年で45周年ほど。
何故8月23日なのか?
ウクレレの原型となる実は「ブラギーニャ」と言う楽器を持ち込んだポルトガル人が、ハワイで移民登録を行ったのが1879年の8月23日だったとの事。
なんか多少強引な感じもするが、常夏の島ハワイと言えばやはりウクレレは付き物。
日本でもウクレレ愛好家はものすごく多い。
 
自分の昔の友人も今はウクレレを弾く。
その友人は高校~大学時代に、自分のクラスメートとバンドを組み、ヘビーメタルやハードロックを演奏するギタリストだった。
フライングVを弾き、余裕で肩まである長髪で、何故かあの頃は素肌にベストを着てたりしてた。(笑)
ところが、老齢になり指の筋を痛めてしまい速弾きが出来なくなり、どういう経緯かウクレレを弾くようになった。
 
先日、そいつともう一人お互いによく知ってる友人と3人で飲んで話をしていたが、その日まだ明るいうちが飲んでしまったこともあり、酔いが回り、ふざけて「ウクレレ・メイデン」とか「ジューダス・ウクレレ」だ、「ウクレ魔Ⅱ」弾け!などと訳の分からん事をほざいてしまったら、翌日いろんな動画が送られてきた!

アイアン・メイデンの「トゥルーパー」のウクレレカバー!

 

ジューダス・プリーストの「ペインキラー」のウクレレカバー。

 

聖飢魔Ⅱ「蠟人形の館」のウクレレカバー。(笑)

 

世の中には、もう色んな事をやってる方々が多いです。(笑)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

この2日ほどのうちに、仏日の傘寿超えの大ベテランが鬼籍に入られた。

 

お一人は、フランスの俳優アラン・ドロン

パリ・オリンピックが終わったばかりのタイミングで逝くとは。

昔、子供の頃、「ハンサム」と言えば間違いなくこのアラン・ドロン氏の名が真っ先に出た。

ことさら日本での人気は高かったのだろう。

自分も彼の映画など観た事ないのに、小学生の時分にはふざけて自分を二枚目と言うお決まり文句は「日本のアラン・ドロンだからさ!」だった。(他の人もよく口にしてたと思う。)

あと、時代的に、フランスというのもあってか、この方はよく煙草を咥えているイメージがあった。

今思えば、おそらくなのだが、当時の日本俳優も咥え煙草が「男をカッコよくみせる」小道具として演出に使ったのはこの人の影響だったのでは?などと改めて感じたりもする。(笑)

彼の代表作も多々あれどテーマ曲のヒットもあり多くの人の印象にあるのは「太陽がいっぱい」だろう。

10代の頃、テレビで観たがその頃は正直よく判らなかったが、大人になって観たら、アラン・ドロンが人を惹きつけるのがよく判ったのを覚えている。

時代を象徴した二枚目俳優アラン・ドロン、去る8月18日フランスはドゥシーの自宅で死去。

死因不明、享年88歳。

 

 

そして、日本では音楽界の流れを変えるキーマンの一人でもあったシンガーソングライターの高石ともや氏が亡くなられた。

日本の音楽界がまだ民謡や音頭ものの流れを組んでいた歌謡曲がメインストリームだった時代、職業音楽家たちでなく一般民衆が作り歌う「フォークソング」が黒船のような勢いで台頭した。

小室等や岡林信康らと共に現れたのが高石ともや氏だった。

学生運動、安保闘争など当時の若者~特に大学生が、大人に国にものを申す力をつけた時代。

歌詞にメッセージ、風刺などを込めて、作曲し、アコースティックギター1本で弾き語り、多くの支持を得たのがフォーク・シンガーだった。

井上陽水や吉田拓郎なんてその後にこの人たちの影響で曲を作り出したのだから。

3年前たった一度だけ高石氏のライブを観たっけ。

この時はギリギリ70歳代で、穏やかながらも奔放なステージで、激動の時世を過ごした若者のその遥か先がどんな舞台なのかを見た気がした。

詞は御本人ではなかったが、ユーモアと風刺の混じった「受験生ブルース」は、あの頃の受験戦争に参戦した10代たちに愛された。

他にも、ザ・ナターシャ・セブンというグループで「想い出の赤いヤッケ」もヒットさせた。

また、今や日本も「フェス」として野外での複数ミュージシャンによるライブ・イベントも多々定着したが、「宵々山コンサート」と言う今で言う野外フェスをもう50年以上前に行うそんな先陣の一ミュージシャンだった。

1970年代からは、マラソンランナー、トライアスロン・アスリートしても活躍。

生きたいように生きるを体現した稀有な人でしょう。

アラン・ドロン死去1日前の8月17日地元京都の病院にて膵炎により永眠。

享年82歳。

 

アラン・ドロン、高石ともや両名に心よりお悔やみ申し上げます。

合掌。

 

 

 

 

 

 

 

前スレッドの映画が昼の12時台上映だったので、鑑賞後に遅めのランチを取る。

最近ちょっとカレーブームが自分の中に来ていて、この日もカレーライス一択だった。

ただ、前スレッドで述べたようにひざ下が全部びちょびちょに濡れていたので、あまり歩きたくもない。

そこで、最寄りのJR新宿駅東口横にあるカレーショップへ向かった。

カレーハウス リオ」である。

店外横の自販機で食券を求めるのだが、コスパが良過ぎ!

一番の売りと思われるカツカレーが¥890(税込み価格)!!

900円でお釣りが来る。

今時カレーライスは1000円台が主流なので、これは素晴らしいです。

もちろんここは、その「リオの三元豚カツカレー」の食券を求める。

店内は意外と広く、ファストフード的なキッチンカウンターに食券を渡すと、カウンター上にあるモニターと呼び出しで食券にある番号が呼ばれるシステム。

 

待ち時間に上掲メニューの裏側を見たら、元は横浜の有名店だったようだ。

1960年創業だと言う。

そんな時代の横浜発のカレーと知ると、ちょっと期待感が沸く。

そして、しばらくして番号が告げられ取りに行く。

シンプルながらいいビジュアル。

カツは丁度いいサイズ感。

カツカレーのカツは厚くても薄くても良くない。(人にもよるだろうが)

そのいい感じのボリューム感。

さ、いざ実食!

カレーはどういえばいいのだろう…。

例えば「ラーメン」は今時に進化した味と、昔ながらの懐かしいノスタルジィ味のものと2パターンがあると思っている。

「カレーライス」は、そういう意味で言うとパ4パターンある気がするのだ。

1つは家で食べたカレーライス。

母親が作ってくれる定番味なカレー。

2つめは、家とは違う懐かしさを感じる外食のカレー。

これは、昔のカレースタンドやカレーショップのもの、町中華や町蕎麦屋のもの。

この1、2は懐かし味を誘う。

3つめは、レストランと呼ばれた前者2つよりは一段グレードが上がった味のもの。(このカレーは、ライスが盛られた皿とは別に銀のランプに脚のついいた容器にカレーソースが入ってるパターン多し。)

4つめは、本場のカレー、エスニック料理店などの1980年代以降急激に増えたカレー。

上記のパターンで言うと、2と3の間といった感じ。

現在では、こちら「リオ」的な味のカレーは多いし、今時のカレー専門店でもお目にかかる(お口にかかる?)とは思う。

だが、前述のように今から60年前の横浜発のものだと思うと、当時としては画期的な味のカレーだったのではないだろうか?

その味はと言うと、スパイス感、またそこから来る(?)酸味(一瞬トマトカレーのような雰囲気を覚えた)とカレーのコクを感じる。

意外と辛味と塩味は控えめな印象。

また口内に感じる日本人好みのトロッとしたルーの感じも安心感を感じる。(シャバシャバでもドロドロでもなく。)

これは現代に万人受け出来るカレーだと思う。

そして三元豚カツ。

カリッとした表面と、出過ぎず存在感消さずのバランスの豚肉でカレーの介助としては良い出来です。

ただ、…三元豚に明るくないのですが、もう少し「豚」感があれば、このサイズでも上等!と思われると思う。

カツを全部カレーソースで食べるのも何んだなぁと思い、せっかくなのでソースかけても食べてみたいという欲求に。

先の食券を渡すキッチンカウンターの端に薬味系のボックスが有り、そこにウスターソースが有った。

カレーライスの味足しだと、昭和人は「ウスターソース」だが、カツには「とんかつソース」か「中濃ソース」が欲しかった。

で、カレーソースだけで食べたり、ウスターソースだけで食べたり、両ソース混ぜて食べたり、カツも堪能。

 

駅構内の飲食店だと、どうしても下に見られがちな傾向が正直あると思うが、こちら「リオ」さんは、その敷居の低さと現代のカレー好きに訴求する味と、1960年創業と言う昭和人も納得の部分とバランス感の優れたカレーライスだと思う。

なんてたって、カツカレーが890円なんだから!

 

帰途に向かう途中、口内と唇にスパイスのヒリヒリする感じがしたのだった。

食べ終えた後のサプライズ。(笑)

 

 

 

 

 

 

今日と明日が、丸1日何も仕事のない「夏休み」!

日がな一日、明るいうちは高校野球を、夜はプロ野球をテレビ観戦して過ごすのも有りか?とも思ったが、たまたまレアな映画の再上映を知り、本日はそちらへ。

 

事前オンライン予約をし、12時35分上映に合わせて家を出ようとしたら突然の豪雨!

ほんの1時間前までスマホの天気予報は晴れだったのに…。

予約してなかったら行くのやめたよ。

でも、もう予約しちゃったので出かける事に…。

この豪雨だとスニーカーはすぐ水没するだろうと思い、真夏なのにブーツを履いて出かけるも、ブーツとジーパンはわずか2分で水没…びっしょびしょ。。。

(挙句の果て、久々に履いたブーツなもんで踵上部の内皮が型が付いて硬くなり靴擦れをおこす。。。)

そんな濡れネズミ状態で上映館「新宿武蔵野館」の前に辿り着くと、同じタイミングで50人ほどの中国人旅客の大集団が同じビルに入って行く。

3基あるエレベーターは当然中国旅客団が占拠。

仕方ない階段で上がると、階段室は湿度100%で、目的階に着くと汗だく。。。

雨と汗で完全ビショ濡れ状態で映画鑑賞に臨む。

本編上映が始まるとあろうことか空調を強め出した!

こうなると、濡れ身体が冷え、寒さと尿意との戦いとなるのでは?と大きな不安を抱きながら鑑賞に入る。

あ、書き忘れてました!

映画は「帰ってきたドラゴン」です。

これは、ブルース・リーからなるカンフー映画ブームの真っ只中の1974年に日本上映された。(本場、香港では前年1973年公開)

当時、カンフー映画の都である香港で、無名の日本人が1人本場カンフー映画で大活躍していると言う事でその俳優と出演作映画「帰ってきたドラゴン」が、今から50年前に日本上陸したのでした!

今回の上映はそのアニバーサリーである。

その和製ドラゴン、和製ブルース・リーと称されたのが「倉田保昭」氏だったのです。

リアルタイムでも映画館で観ました。

当時、新宿に住んでいて、確か東映パラス劇場っていうのがあって、そこだったような…。

あれから50年後にまたこの映画を新宿で観れるとは!

しかもほぼ満席!

場内にはフォトスポットも。

 

正直、この映画の主役はポスト・ブルース・リーと言われた「ブルース・リャン」で、その敵役が倉田保昭氏。

なので、日本では大々的に倉田保昭主演作のように吹聴されたが、実は違う。

ただ、ブルース・リャンにしても異常なまでの身体能力を持つので、それよりも強いと思わせるカンフー及びアクションをやれる俳優はそうそうはいない。

そこと互角で付き合える倉田氏のアクションもあってこそ、この映画が観客を魅了する。

だが、この映画は当時はそれなりにヒットしたろうが、世間的に名作と呼ばれず、時の流れと共に忘却の彼方に消え、マスターテープさえも無くなってしまった。

今回は、監督のウー・シーユエン氏が個人所有していたフィルムを2K化し(4Kでなく2K?…いわゆるデジタル・リマスター化って事だと思う。)、再上映に至った。

ちなみにウー・シーユエン監督は後にジャッキー・チェンの出世作「酔拳」の監督で、その後は香港映画の重鎮となる方。

 

作品はと言うと、1970年代初頭の香港映画ですので、なんか1940年代のアメリカカラー映画のような粗さではあるが、前述の倉田氏とB・リャンのアクションは今も目を見張るものがある。

当時はまだ香港もワイヤーアクションもなく、あくまで一俳優の身体能力だけがものを言う世界。

たぶん上映時間の半分以上は、アクションや小競り合いのシーンだったのでは?

かつて倉田氏の回想トークで、この映画が一番大変だったと言っていた。

リハや具体的なアクション指導が無く、倉田氏が自らアイデアも出して、B・リャンと二人で「こんなアクションをしよう~」みたいな感じでぶっつけ本番の一発勝負で成功させないとならなかったとおっしゃっていた。

余談だが、ブルース・リーにヌンチャクの存在を知らしめたのは倉田氏である。

とにかく、カンフーや連続バク転やら、他の出演者も含め、身体能力がものを言う映画である。

 

そして、同時上映では現在の倉田氏主演の短編映画「夢物語」を立て続けに上映。

ここでも、倉田氏78歳でファイトシーンを身体張って演ってます!!

もちろん「帰ってきたドラゴン」の頃のほど、足は上がらないし、ジャンプや回転するシーンは無いが、それでもこれだけ動ける!というのを見せつけてくれます。

 

日本に戻ってテレビドラマの「闘え!ドラゴン」や「Gメン75」でご活躍したのもリアルタイムで観ていたし、7年くらい前に昼ドラ「やすらぎの郷」でも喧嘩アクションを見事に極めていたのも印象深い。

シルベスター・スタローンがかつてのアクション系俳優を集めて「エクスペンダブルズ」と言う老齢傭兵の映画シリーズを成功させたが、倉田氏にも、藤岡弘、とか勝野洋とか、あの辺りの俳優さんらと日本版「エクスペンダブルズ」みたいな映画を制作して欲しい。

現在、倉田保昭氏は自ら「倉田プロモーション」という会社を運営して、俳優の養成や、演劇・映画制作など精力的に活動されています。

 

映画「帰ってきたドラゴン」は新宿武蔵野館で上映中。

 

座っていた座席の前が通路だったのだが、終演後にいそいそと出口へ向かう巨漢女性に思い切り足を踏まれた…超痛ぇ!

さらに、地元最寄り駅を出ると、雨は完全に上がり夏陽が射しまるでサウナ状態。

帰宅すると身体中から汗が吹き出し、服が汗で再び濡れネズミ状態に戻った。。。