戸田城聖全集質問会編 35 なぜ釈尊の説いた方便・寿量を読むのか

 

 〔質問〕 釈迦仏法が功徳を失った今日、釈尊が説いたところの方便品・寿量本を毎日読むのは、どういうわけですか。

 

 御義口伝には南無妙法蓮華経如来寿量品第十六とあります。ところが、われわれが読む経文には「妙法蓮華経如来寿量品第十六」と書いてあります。しかし、御義口伝には「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六」と書いてあります。その「如来」というのは、天台は三世十方の諸仏を如来と説いております。日蓮大聖人様は南無妙法蓮華経の仏様だと、こう御義口伝にはっきりいっておられます。ですから、この如来寿量品という寿量品は、日蓮大聖人様のお悟りの寿量品で、釈尊の説いた寿量品ではないのです。たとえば、いま創価学会の青年部が「日本男子と生まれきて」と歌っておりますが、あれはなにも戦時中の日本男子ではありません。創価学会の日本男子です。そのように、日蓮大聖人様のお読みになる寿量品は、釈尊の説いた寿量品ではなくて、南無妙法蓮華経の寿量品なのです。

 それからもう一つ、これは法華経を読んだ読んだというけれども、法華経など読めるわけがありません。そういうと、先生は読めなかったから、自分が読めないから他人も読めないというのだと、そういう人がいるかもしれませんが、そんなばかなことはないのです。字が書いてあるから、読むだけは読めるでしょうけれども、一般の人には意味がわからないだけです。

 序品第一など、いつもいいますけれども、菩薩が八万人集まって、声聞は一万二千人です。摩詞波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)の眷属は六千です。天、竜、夜叉等が何万人と集まるというのです。天竺(インド)からぜんぶ集まるというのです。いまの数でいったら。三十万を超すほど集まっていますが、こんなに霊鷲山へ集まるわけがないではないですか。それなのに、霊鷲山へ集めておいて、序品第一から四部八万の大衆といいますけれども、そんなに集まるわけはないのです。

 法華経と申しますものは、大御本尊の姿が書かれているのです。二十八品にわたって、この大御本尊の姿をおしたためなのです。どこでホシを打ってあるか、それがなかなかわからないのです。神力品でホシを打ってあるのです。そのなかのほんとうのホシは神力品で行われた付嘱の儀式で、上行菩薩が受け取った御本尊様なのです。このとき、寿量品は御本尊様へほんとうのホシを打つのです。これを、体外とか体内とか、仏教哲学ではやかましいことをいうのですけれども、そこで、はじめて、妙法蓮華経如来寿量品の如来というのは、南無妙法蓮華経の如来だと、日蓮大聖人様はお読みになっているのです。

 日蓮大聖人様のは「妙法蓮華経如来寿量品」ではないのです。「南無妙法蓮華経如来寿量品」なのです。ですから「如来秘密神通之力」というあの「如来」とは、天台の読んだ如来ではないのです。日蓮大聖人様がお読みになった「如来秘密神通之力」の如来なのです。日蓮大聖人様は「秘密」なのです。日蓮大聖人様は「神通之力」なのです。あの「如来」は普通の如来ではないのです。あの「如来」は日蓮大聖人様の如来なのです。秘密なのです。日蓮大聖人様を他人がおしはかることはできません。日蓮大聖人様の神通力とは、どんな貧乏人でもなおる。どんな病人でもなおる、という神通力なのです。凡夫が仏になるという神通力なのです。だからあの如来は、ただの如来ではないのです。

 それから自我偈の「自我得仏来」は、我仏来は自得なり、というのです。「自我得仏来」の「自」と「得」の字を除けば、「我仏来」になるのです。「我仏来」は三身如来を意味するのです。それを自得せり、という日蓮大聖人様のご境涯を説いているのです。ですから、「自我得仏来」の「自」と、「速成就仏身」の「身」とを入れると、自身の経文なのです。仏自身の経文であり、われわれ自身の経文なのです。

 それから、方便品はなんでお読みになるかというと、方便品は迹門を代表したものでありまして、如是相、如是性、如是体とする、あの十如是が御本尊様のお姿になるのです。略して御本尊の姿をあらわすということになるのです。

 それで方便品と寿量品だけは日蓮大聖人様の御内証であり、悟りの境涯であそこを読むのです。釈尊の経文を読んでいるのではないのです。日蓮大聖人様の経文を読んでいるのです。そのように読みますれば、もうなにも不思議はないでしょう。

「方便」とは秘妙方便の意味であり、世法でいう「うそも方便」の方便ではないのです。仏法上の方便というのは法用方便、能通方便、秘妙方便と、三種あります。それで法華経の方便は、秘妙方便にはいるのです。

 秘妙方便ということを話しましょう。私も皆さんも凡夫です。しかし、われわれ自身、理のうえでは仏なのです。成仏とは、自分が仏であることを知ることで、これは秘密にされ、妙がかくされているのです。これを秘妙というのです。仏が、凡夫の姿で、苦労させるためにつくられたのです。これが、秘妙方便の原理です。皆さん方は、地涌の菩薩なのです。この原理が心の奥底でわかれば、方便品が読めるのです。