
読んでいて頭に残った「(人との)繋がり」や「マイノリティ」のほかには、「多様性」が状況を理解するための重要なワードだった。
最初に出逢った文章で、途中で戻ってきてもう一度読み返したところだ。
6P
「多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ育ったものでジャッジされるなんておかしい。
清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる“自分とは違う”にしか向けられていない言葉です。
想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。」
「正欲」
正しい性欲とは何か?
異性に対して性的な欲望を抱くことだけが正しいとされている世界に対して疑問を投げかけているように思う。
想像の外にある人々に対して、得も言えぬ違和感があった。
思いもよらない考え方や性癖、文化を持っている人がいた。
安寧な場所から眺めている、安住の地にいるものから、あまり変にしゃべらないほうがよいと思うところで、自分が理解できる想像しうる最大の範囲内で、この多様性のようなものにどう対処すればよいのかと考えてみた。
例えば、読書会の参加時のように対応すればよいのではないか。
「こういう考え方の人がある。
そういう思いがあることは認める。
自分の考えと反する相手の考えは否定しない。
自由な意見を発表できることを歓迎する。」
普通の恋愛、異性愛など、多数派としてのマジョリティ。
少数派のLGBTQ等のマイノリティ。
マジョリティのなかのマイノリティ。例えば、年齢の高低差など
マイノリティのなかのマイノリティ。特殊で異常な性癖。この物語の事例だ。
マジョリティ以外は、簡単に理解することができない。
第三者の目や客観的に見ても、そう簡単にはわからない。
それぞれの境界を越えて理解し触れ合うための緒に、誰かおせっかい焼きが必要となろうかと。
諸橋大也と神戸八重子との話し合いの例がヒントとなった。
違う意見を持つ者同士が、感情を込めて直接対決させる大切さを。
互いの言い分をどう受けとるのか。
そこから発展して何を感じとるのか。
立ち止まっていっしょに考えるよい機会となると思う。
重要な点は、「対話」にあった。
人々に関わり会わなければ、何も業際で火花が散ることがない。
その半面、何も関係がないのならば、同じものを抱えた人々をそのままにしておいてよと。
できれば、諸橋大也や佐々木佳道の発言にあったとおり「ほっといて」
そっとしておいてあげればよいのではないかなと思ったりする。
マジョリティとマイノリティは、かなりの度合いで決して分かり合えるものではない。
マジョリティ間でも同様だが、他人同士では同じものを見ているようでじつは見ていないのだ。見ている視点が違うし感じ方が微妙に違うからだ。
だから、両者間では、かなり共感や同感できるものでもない。
自分とは違う人々がいるということだけを、まずは第一段階で認識したい。
「反社会的でない限り」、
「公序良俗に反しない限り」、
「社会福祉の範囲内において」、
行動をするように!とできれば最後に付け加えて伝えたい。
寺井啓喜、桐生夏月、神戸八重子の3人の随筆が長くて、一回目は途中で読むのを挫折してしまった。
読書会の課題本のために再び読みなおした。
人から人への章を渡るときの文中のつながりの楽しい仕掛けに気づいてから、今度は最後まで一気に読み通すことができた。
表紙のカモは、何を意味しているのか?
カモの足には、銀色のリングがつけられている。
ワイヤーに吊るされて、下に伸びていくかのように見えた。
表紙から物語全体にどんな暗示をしているのか考えるのも一興だ。
登場人物のなかでは、どちらかというと、検事の寺井啓喜のように自分の考えが正しいという堅い生き方をしてきたように思える。
読書会に参加したときのように、自分とは違う意見に聞く耳を持てるように対応していければ、自分には更に成長の変化が訪れると思った。
1989年、岐阜県生まれ。小説家。2009年、『桐島、部活やめるってよ』で第22回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。13年『何者』で第148回直木賞、14年『世界地図の下書き』で第29回坪田譲治文学賞を受賞