邇芸速日命 | あき&みっちゃんの好きなことを好きなように好きなだけ

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新地亜紀と同居人みっちゃんです。


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伊波礼毘古命の東征に先立ち、天照大御神より授かった
十種神宝ーとくさのかんだからーを携え、
天磐船に乗り、高天原から河内の地に降り立ち、
大和の国を治めていた神がいました。

邇芸速日命ーにぎはやひのみことー
『日本書紀』では、櫛玉饒速日命ーくしたまにぎはやひのみことー
又は、饒速日命と表記。


この神が大和にいたから、塩椎神に薦められ、
伊波礼毘古命が、大和に東征したのだとも言われています。



一説で、大物主神の子孫とされている、
大和の地を治めていた一族の長、那賀須泥毘古に天神と認められ、
那賀須泥毘古の妹姫である登美夜毘売ーとみやびめーを娶り、
宇摩志麻遅命ーうましまぢのみことーが生まれています。

しかし、伊波礼毘古命に大和の地を譲る為、
敵対することになってしまった那賀須泥毘古を殺し、
十種神宝を伊波礼毘古命に奉じ、
那賀須泥毘古の一族を率いて仕えました。

『古事記』では、物部氏ーもののべしー、穂積氏ーほづみしー、
釆女氏ーうねめしー、熊野国造ーくまののくにのみやつこー、
などの祖神となっていて、
『日本書紀』では、物部氏の祖神となっています。



さて、『記紀神話』では以上の記述のみで、
多少の整理はいるものの、そんなに厄介な神様ではありません。
それを、何もわからないところから調べ始めると、
首を傾げ続けなければならない神様に仕立て上げているのが、
蘇我馬子が撰修し、厩戸皇子が記したと言われている、
『先代旧事本記ーせんだいくじほんぎー』という書物です。

『先代旧事本記』では、邇芸速日命が高天原より、
32柱の防人ーさきもりー、5柱の供領ーとものみやつこー、
警備の為の5名の物部ーもののふー、兵杖を持った25名、
船を操った6柱を率いて、共に天下ったとされています。

まぁ、『記紀神話』変遷当時の有力豪族達の祖神が勢ぞろいして、
邇芸速日命に率いられ、地上に降り立ったとされている訳ですが、
その中には、天孫降臨で邇邇芸命と共に降り立った筈の、
五伴緒ーいつとものおーがいたり、少名毘古那神がいたり、
鍛冶集団と考えられる天津麻羅がいたりと、
邇邇芸命や、伊波礼毘古命の立場がないほどの仰々しい一団となっていて、
そのトップが、邇芸速日命となっている訳です。

しかし、神武東征の際に書かれている邇芸速日命の登場シーンでは、
そんな仰々しい一団が、どこにも見受けられません。
誰一人として、邇芸速日命の側に仕えていないのです。

 

むしろ、少々の近侍のみを伴って、単独行動を取っていたかのようです。
神武東征に先駆けて、スパイ行動をとっていたようにも見えます。



更に混乱を招いているのが、
『先代旧事本記』に書かれている、
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊
ーあまてる くにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひのみことー
という、邇芸速日命の名前です。

天照國照彦天火明の部分は、邇邇芸命の兄であり、
天孫である天火明命の名前と同じになっていることから、

同一神であるとも考えられ、『記紀神話』初心者は、
メダパニやコンフュをかけられたような状態になってしまうのです。



最初は、ふーん。と思っていたのですが、
どうしても違和感があって、すっきりしません。

そこでまず、苗字の由来から、氏族別に調べてみる事にしました。
すると、邇芸速日命を祖神とする氏族が「天神」に、
天火明を祖伸としている氏族が、「天孫」に、
それぞれ分類されていることに気づきました。

「天孫」は、勿論、天照大御神から分かれた氏族ですが、
「天神」は、天照大御神以外の天神から分かれた氏族です。
この時点で、邇芸速日命は、「天孫」と認められておらず、
天火明と、同一神とは考えられませんでした。



そして、物部氏と敵対していた厩戸皇子と蘇我馬子が、

『先代旧事本記』を書いたとは、とても思えなかったのです。

仏教が日本に伝来した時、百済よりもたらされた仏像が、
欽明天皇の命で、蘇我稲目に預けられ、蘇我氏で祀られる事になりました。
それ以降、蘇我氏の仏教独占が始まり、崇仏派のトップとして、
仏教を政治利用し強大な権力を得て、
仏教を国教にするように、天皇に迫るまでになりました。

そして、神道をもって天皇家に仕えていた物部氏と、
日本で唯一の宗教戦争 丁未の乱ーていびのらんーを起こしたのです。

当時、国教とされていた神道のトップであり、
長い間、軍事と権力を思いのままにしていた物部氏でしたが、
時流に乗った蘇我氏の力には敵わず、とうとう衰退してしまいました。

戦いに勝った蘇我氏が、いざ ! と用明天皇や、崇峻天皇に迫りますが、
神道を否定出来ず、仏教を利用した蘇我氏への権力集中の危険性に気づいていた天皇達は、
のらりくらりとかわしたり、大っぴらに反対して暗殺されてしまったりと、
人を支え、救うはずの宗教が、次々と人の命を奪う時勢が続きました。

そんな時、推古天皇が擁立され、摂政として、
聖徳太子が立つことになったのです。

13歳の時、蘇我氏側として丁未の乱に参加した聖徳太子でしたが、
丁未の乱で劣勢になった際に、仏の加護を求め、
勝利へと導いてもらったお礼に、四天王寺を建てたりと、
仏教興隆に力を貸しました。

この事からも、蘇我氏と聖徳太子、
そして物部氏は、明らかに対立していたのです。
まかり間違っても、対立していた氏族の祖神が、「天孫」である。

と書くとは、私には思えないのです。



日本の史書であり、神道の神典となっている『先代旧事本記』ですが、
物部氏に連なる人物が、史書史料を基に、物部氏を「天孫」として、
天皇家に繋がる正当な血筋であると、再編したように思えます。

 

天火明のエントリで、天火明と、邇芸速日命が、
別神であるように感じると書いた根拠は、
上記の通りです。

とは言え、天照大御神と並ぶ、有力な天神の氏族が、
天孫よりも先に、天孫と同じ資格と権威を持って、
大和の地を治めていて、
天皇家の傘下に入り、その下でも司祭として強い力を持っていた事に、
嘘偽りはないのでしょう。


ご神徳 病気平癒
      家内安全
      縁結び
      子宝


聖徳太子は、蘇我氏と共に、崇仏派だと思われていますが、
実は、神道、仏教、儒教を融合させ、
「神道を根幹とし、仏教という枝葉を伸ばし、
儒教の礼節を茂らせて、現実的な繁栄に導く」という、
思想を考え出した人物でした。

これが、赤ちゃんをお宮参りさせ、
初詣には神社や、寺に行き、
仏教でお葬式をし、先祖供養をする。
という生活の基となったのです。

本格的な神仏習合が興ったのは、奈良時代になりますが、
新しい文化や文明に触れた時、固定観念に囚われず、
全てを真に受ける事無く、良い所を吸収し融合させ、
取り入れる習慣を身に付けられるようになった日本人の基礎を作ったのは、
聖徳太子である。と、考えられているようです。

そして、それを実現する為に、
外国から、新しい文化や文明が入ってくる大切な道であった、
難波津から大和への土地を支配していた、ガチガチの神道派であった物部氏が、
大変邪魔であった。という説も、興味深いものでした。



そして、何より邇芸速日命を調べている時、
出雲の王であった、須佐之男命の三男である大年神が、
実は邇芸速日命であるという系図と、
那賀須泥毘古が、大物主神の孫神であるという系図を見つけました。

出雲王朝から派遣されてきた人物  ( = 邇芸速日命? )  が、
大物主神を信奉していた古代三輪族  ( = 那賀須泥毘古? ) を支配下におき、

裏切り滅ぼした。という亜紀ちゃんが見た夢を、
 ( 亜紀ちゃんのメルマガを取ってくれている人にだけわかる話ですが )
裏付けるような系図に、とても驚きました。

更に、この人間関係だと、
神武天皇のモデルとなったと言われる崇神天皇の時代に、
日本が滅亡しかねない程の流行り病を起こし、祟った大物主神が、
自分に連なる一族を滅ぼされ、敵対した氏族に祟ったかのようで、
個人的には、大変面白かったですね。

 

邇芸速日命が、天下った時の様子で、
「空に浮かびて遥かに日の下を見るに国あり。よりて日本国と名づく」
という一文があり、
ここから国号が「日本 ( 読み方は多種あり )」になったのだという説もあるようです。

 

また、『先代旧事本記』の中には、高御産巣日神が、

邇芸速日命の事を「我が御子」と言っている一文があり、

「天孫」ではない裏付けにもなっているようです。

( 自分の孫の事を「御子」と言っているならわかりませんが )

 

ここからは亜紀がお送りします。

みっちゃんが書いていた夢の話について。

ある日、

 

力に陰りが見え始めた三輪族。

でも、若い首長はプライドが高くてやや性格に難あり。

自分の一族の衰退ぶりがあまり理解できていない。

そこに出雲族がやってきて、

その首長の一族の娘と婚姻する事で平和的に同盟を結ぼうと言ってくる。

だが、その首長はそれすらも嫌がる。

血族婚が多くて要求された首長の一族の娘というのは、

首長の妹で、首長にとったら嫁にするつもりでもあったから。

けど、首長の妹は自分達の一族の状態も理解していて、

婚姻によって出雲族と結びつくなら、

一族の生きる道もあるだろうとお嫁に行く。

でも、何だかんだあって、

その首長があまりにもいう事を聞かないから、

結局殺されてしまう。

そんでその首長は

「出雲族は死しても決して許さん」

「呪い続けてやる」

と呪いながら死んでいった。

 

て、夢を見たのですよ。

本当になんの脈略もなく。

 

この夢を見たのが2003年7月頃。

( みっちゃんが印刷した資料が残っている )

 

正直神様と歴史とか全く興味もなかった頃・・・。

( 神社は好きだったけどね )

何の夢だったのか未だに不思議。

 

たまに、人の夢に出張したり、

宇宙語っぽいものを寝言でいったりしているので、

何かにアクセスしておったのかの?

と思う次第。

 

では、邇芸速日命にコンタクト取ってみようかな。

 

うう~む・・・。

珍しい事なんだけど、

亡くなった時の姿がまず見えるという。

全身が赤黒く腫れ、

特に瞼なんかも腫れて顔は倍になっている。

疫病なのかなんなのか。

壮絶な感じ。

画像がそのままここに出せたなら、

かなりの閲覧注意レベル。

これは、登美能那賀須泥毘古の呪いと周りが思ってもしかたないね。

そんでその遺体をどこかに隠しても。

 

政にも長けた神であったと思う。

伊波礼毘古命の軍の大きさやレベルの違い、

それを指揮している政や戦に対するセンスの違い。

そんなものを敏感に察知したのでしょう。

 

手に入れた大和を手放すのは嫌だっただろうけど、

苦渋の決断で譲る事にした。

したけど、登美能那賀須泥毘古にはそれを察知するセンスがなくて、

揉めに揉めて、嫁の兄である登美能那賀須泥毘古を殺すと決断するしかなかった。

その地域が生き延びる為に。

て、感じだったんかな~と。

 

度量が大きくてとても優秀。

物部氏が天孫の一族として、

無理くり入り込もうとしなかったら、

もっと違う形で伝えられたんじゃないかと。

いろいろ被害者な神様かも。

( 登美能那賀須泥毘古の事といい )

 

夫婦仲はとても良かったんじゃないかな。

始めは政治的な結婚であったろうけど。

ん~もっと脚光を浴びていいのにって思った。

 

 

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