菩薩の修行としての布施と菩薩の懺悔~「道徳と宗教ー人はなぜ施しをするのか」(鈴木隆泰)の紹介5 | 金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

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石川県金沢市在住・ごくごく普通のマチ弁(街の弁護士)が,日々の仕事の中で離婚,女と男と子どもにまつわるいろんなことを書き綴っていきます。お役立ちの法律情報はもちろんのこと,私自身の趣味に思いっきり入り込んだ記事もつらつらと書いていきます。


「道徳と宗教ー人はなぜ施しをするのか」(鈴木隆泰)の紹介1~道徳的見地からの施しの問題点 追記有
「道徳と宗教ー人はなぜ施しをするのか」(鈴木隆泰)の紹介2~キリスト教的見地からの施し
「道徳と宗教ー人はなぜ施しをするのか」(鈴木隆泰)の紹介3~仏教的見地からの施し1 不殺生戒
六波波羅蜜~「道徳と宗教ー人はなぜ施しをするのか」(鈴木隆泰)の紹介4~仏教的見地からの施し2 
の続きです。
 鈴木隆泰教授
 山口県立大学 国際文化学部 国際文化学科 教授 (アジア文化論研究室)
 山口県立大学大学院 国際文化学研究科 教授、同 研究科長
 Takayasu Suzuki
 ご専門は,インド哲学仏教学。特にインド大乗経典研究専攻。
 鈴木教授のHPには,鈴木教授執筆論文公開中
 研究活動の概要・発表論文一覧
この公開論文の中に「道徳と宗教ー人ははぜ施しをするのかー」(山口県立大学社会福祉学部紀要 第12号 2006年3月)があります。
とても分かりやすく,奥深い論文ですので,関心のある方,一読をお勧めします。
この記事では,この論文をレビューしております。 

2.
 前回記事では、大乗仏教の修行者が成仏(ブッダになること)を目指しす修行として、6つの徳目の完成
pāramitā(パーラミター)=六・波羅蜜の考えがあることを紹介しました。
 この記事では、「菩薩」について書きます。
 前回記事で、大乗仏教では,成仏(ブッダになること)を目指して修行する者は,出家・在家,老若男女の別を問わず「菩薩」 bodhisattva(ボーディ・サットヴ)と呼ばれると書きました。
 てっとりばやく,菩薩ーWiki
 日本で「菩薩」といいますと,弥勒菩薩,文殊菩薩,観音菩薩等々と,まあお偉い方々です。
 でも,先のwikiの記事にも書いてあるのですが,語源的には,

 梵名ボーディ・サットヴァのbodhiとは「覚」であり、sattvaとは「生きている者」の意味で衆生とか有情と意訳された(wiki)

とのことです。

 鈴木教授の論文でも,「菩薩」=「覚りに向けて歩む衆生」としています。
 そして,鈴木教授の論文では,菩薩は,「まだ覚りを得ていない迷える衆生」であってリッパな人物ではないと位置づけられます。
 覚りを目指して修行する至らぬ衆生である菩薩(修行者)が,その修行のために六つの徳目の完成を目指しておるわけで,その徳目の一つに布施行があるわけです。
 ここから,菩薩にとって布施は,リッパでない自分自身が自分の修行のために行う必須徳目であって,社会的次元の義務ではないし,布施を受ける方々は,菩薩のその修行を助けるために菩薩の前に現れたものであって,決して「弱者」ではない,菩薩こそが,その布施を受けてくれるために現れてくれたその人に感謝の念を発するのだと説きます。施しを受ける者は,「弱者」ではなくて「善き友人(kalyanamitra(善知識)」なのだそうです。
 またまた,仏教用語が出てきたので,てっとりばやくwiki
 善知識ーwiki
 「善知識」って,
  「善き友」「真の友人」、仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人
だそうです。

 この日本社会で,生活保護バッシングが続いております。「選良」であってほしい政治家のセンセイ方に,結構,ドあほうなことをおっしゃる方々もおいでで,めまいをすることが多いのですが・・・・。マッチョしんちゃんの息子のお坊ちゃま君とか・・・。苦悩を知らないで「選良」という地位を得ちゃった人たちって,もうため息ばかり。まあ,それを「良」として選んでいるのがこの日本の国民ですから・・・・とほほなんですが。
 新自由主義の言説が猛威をふるってボロボロになったこの日本社会の姿を思うとき,この社会を「良き社会」にしようという私たちの意思,願いの試金石として,理不尽にも苦悩を背負わされた方々が目の前にいるのだという謙虚な感覚があっていいんじゃないかと思います。

3.
 鈴木教授の論文では,至らないリッパでない菩薩ですから,時として布施行ができない場合があることも指摘します。
 鈴木教授は,電車で席を譲ろうと思ってもあまりに疲れていてどうしても立てないこともあるとします。
 そのときに,「疲れているのだから立てなくてもやむを得ない。そもそも座席を必要とするような人はこのような混んでいる時間帯に乗ってくるべきではないのだ」などという自己正当化は決して行ってはならないとします。
 菩薩は,ひたすらに自らの”リッパでなさ”を再認識し,布施行を行うことのできない自分を素直に懺悔(desanna.ksama)すればよいと鈴木教授はいいます。仏教の五戒だけでなく,六波羅蜜もまた,布施行を行い得ない場合があることで,さらに修行者に,自らの”リッパでなさ”を自覚させ,懺悔し他人を赦せる人間になるように導くためにあるとされます。

 いまの日本社会ですとね,たとえば子供の養育とか教育にかけている社会的負担とか,日本はとってもお寒い状況なんです。
 次世代は,鈴木教授の論文でいいますと,まさに,布施を受け取ってくれるために大人の目の前に現れてくれた存在です。
 その次世代に対し,私たちの社会は,なんとも情けないことばかりし続けているわけです。
 そして,困ったことに,「財源がないから子供の養育のための施策なんてやれない。そもそも,子供の養育は私的領域で親が責任をもってやるべきだ」なんてね,いろんな人が言うわけですよ。そういうあなたは,結構なご身分で,経済的に恵まれた親から十分にお金をかけてもらって育ってきたんでしょうなぁ・・・・。その親の地位,経済活動,あなたが育ってきた諸々がこの社会の恩恵を受けて成立していることに思いを馳せることもなく,自分の親と自分だけが独力で無から勝ち取ったものであるかのような超勘違いをしながらね。
 鈴木教授の論文に即していえば,財源を理由にして次世代育成の社会的負担を十分に果たせないことを懺悔し,ど阿呆なことに財源を食いつぶしている私たち自身の姿に思いを馳せないとね。

 鈴木教授のこの論文は2006年3月執筆です。
 正面からは書いておられませんが,この論文の執筆動機には,このなんとも荒れ果てた日本社会の精神に対する宗教的見地からの警鐘が強く込められているように思います。

 次回は,まとめに入ります。

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