面会交流調停のあり方について私が願うこと~渡辺弁護士論文(6),木附千晶(1)-2 | 金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

石川県金沢市在住・ごくごく普通のマチ弁(街の弁護士)が,日々の仕事の中で離婚,女と男と子どもにまつわるいろんなことを書き綴っていきます。お役立ちの法律情報はもちろんのこと,私自身の趣味に思いっきり入り込んだ記事もつらつらと書いていきます。

1.このシリーズのこれまでの記事

 

(1) 「非監護親の『寄る辺のない孤立感』と監護親の面会交流義務の『感情労働』性」(渡辺義弘)

(2)面会交流~紛争の泥沼化,高葛藤事案の背景事情~渡辺義弘弁護士論文(2)

(3)面会交流高葛藤事案の「紛争の実質」~渡辺義弘弁護士論文(3)

(4)ネットでダウンロード可能な渡辺義弘弁護士論文のオリジナル論文~渡辺義弘弁護士論文(4)

(5)面会交流~監護親母・非監護親父・DV事案の整理図~渡辺弁護士論文(5)

 

2.

 渡辺弁護士論文シリーズですが,私なりの現在の考えを最初にどーんと提示しようかなと思います。

 それは,ずっと前から考えていたことで,その方向性が,渡辺弁護士論文によって,さらに整理されたというものです。

 

 渡辺弁護士論文だけではありません。

 

 梶村太一元裁判官の一連の論文,特に,

 

 『裁判例からみた面会交流調停・審判の実務』( 2013/10/8)

から多くを学びました。

 

そして,

 

『子ども中心の面会交流―子どものこころの発達臨床・法律実務・研究領域から原則実施を考える』

 

 

所収の各論文からも多くを学びました。

どの論文もそれぞれに素晴らしいのですが,

 

第8章 臨床心理士,面会交流援助者からみた面会交流原則実施論
    … 山口惠美子(公益社団法人家庭問題情報センター常務理事/臨床心理士)

 

は,支援の現場からの発言として,とても考えさせられるものでした。

 

 また,私は,金沢家裁において,原則的実施論が家裁を覆う中で,思い悩みつつ,「よりまし」であろうと頑張ってくれた男性調査官,女性調査官が存在したことを知っております。

 

 もう移動になったでしょうが,隣県の富山家裁某支部において,熱意溢れる調停運営を行ってくれた男性家裁裁判官,そして,素晴らしい調査官,調停委員。その時間をかけた熱意あふれる調停運営により,困難ケースで関係調整がそれなりに実現できたケースを知っています。

 

 金沢家裁においても,離婚関連紛争に真剣に取り組まれている男性裁判官がいることを知っております。

 

 名古屋高裁金沢支部において,これまた困難事例で,こうあって欲しい姿のために,双方代理人への働きかけを丁寧に行い,時間をかけて事案を処理してくれた即時抗告審の主任男性裁判官がいたことを知っています。

 

 また,DV加害者,ストーカーの依頼がやたら多いとおっしゃった隣県のK男性弁護士。依頼者とギリギリ対決しつつ,対外的に依頼者の権利利益を主張し,関係調整の下準備を黙々とされてきた,本当に頭の下がる代理人弁護士の活動も知っていますし,その弁護士とともに,現実に,自身を変えていったDV加害者の道のりも知っています。

 

 そして,何よりも,原則的実施論が猛威を振るう中,苦悩の中で,子どものために母としてどうあろうとするか,自身がDVのトラウマを抱え込み,裁判手続を悪用するかのようなDV加害者の攻勢の中で,子どもを第一に考え続けた素晴らしい母たちを数多く知っています。私に多くを贈ってくれた素晴らしい方々。

 

 反面,そのようではなかった(と私には思われる),家裁裁判官,調停委員,調査官,相手方当事者,相手方代理人の存在も,数多く知っています。幸い,私は,依頼者にめぐまれていて,そうではなかった依頼者は,いまのところ,おりません。本当に嬉しいことです。

 

 そのようであった方々,そのようではなかった(と私には思われる)方々から,それぞれに贈られたものに思いを致しつつ,

 

面会交流の高葛藤事案

 

特に,

 

子どもが低年齢で,いわゆる片親引き離し症候群(PAS),片親引き離し・片親疎外(PA)が問題となる事案

 

を念頭において,

 

こうあってほしい面会交流調停の姿をイメージしてみようと思います。

 

3.

 さて, 先に,木附千晶氏の連載記事その1を取り上げておりました。

 

「『別れたDV夫に子どもを会わせたくない…』親権を持つママの苦しみ」

 

 【木附千晶プロフィール】
臨床心理士。IFF CIAP相談室セラピスト。子どもの権利のための国連NGO・DCI日本『子どもの権利モニター』編集長。共著書に『子どもの権利条約絵辞典』、著書『迷子のミーちゃん 地域猫と商店街再生のものがたり』

 

 連載1の紹介記事は,こちら

 

「夫と姑に息子を連れ去られ…。離婚で親と引き離される子どもたち」~木附千晶 (1)

 

 さて,連載1で取り上げられているケースの概要は以下のとおり。って,これ,連載1の紹介記事で書くべきだよね・・・

 

 両親は婚姻中で,父・夫が監護親,母・妻が非監護親,子は10歳の男子。

 別居経緯は,要約すると,姑言いなりの夫が,妻を妻実家へ戻らせ,その後,夫が10歳の男の子を連れて姑の暮らす夫実家へ行き,完全別居になった。

 男の子は,妻実家に来て母(妻)との面会交流を実施しているが,父(夫)との同居中に父(夫)の働きかけで,忠誠葛藤が生じ,その後,非監護親の母(妻)を嫌悪して母(妻)との面会交流を拒絶するようになったというもの(いわゆる片親引き離し症候群(PAS),片親疎外・片親引き離し(PA))

 

 片親引き離し症候群(PAS)や片親疎外・片親引き離し(PA)については注意が必要で,

 

『子ども中心の面会交流―子どものこころの発達臨床・法律実務・研究領域から原則実施を考える』(梶村太市・長谷川京子/編著 日本加除出版2015年4月発刊)

 

所収の

 

第4章 片親引離し症候群PASと片親引離しPA─研究レビュー─

    … ジョアン・S・マイヤー(弁護士/ジョージワシントン大学法科大学院特任教授)

     訳・監修 髙橋睦子(吉備国際大学大学院社会福祉学研究科教授)

 

では,片親引き離し症候群(PAS)には症候群(診断名)とするだけの科学性がなく,片親疎外・片親引き離し(PA)についても,根拠薄弱な状態で司法機関が安易にその枠組で個々のケースを「解釈」する弊害を指摘している(そのうち,この論考も紹介したい・・・)。

 

 連載1の紹介記事では,私の考えとし,要旨,以下を紹介した。

 

 いわゆる片親引き離し症候群(PAS)やいわゆる片親疎外・片親引き離し(PA)を裁判所が認定するにあたっては,きちんとした根拠に基づいて行うことが必要で,面会交流調停で小児精神科医による鑑定を導入し,一定の長期に及ぶ鑑定機関中に,監護親と子どもにストレスの少ない面会交流を家裁コントロール化で行っていき,その交流による変化(この変化は,子どもだけでなく,監護親,非監護親の3者及びその3者の関係性変化全般)を鑑定及び家裁の手続にフィードバックさせていく。

 

 上記私の考えについて,補足説明。

 

 木附千晶氏の記事1は,先のケース概要で紹介したとおり,監護親父,非監護親母の事案だ。そういうケースで片親引き離し症候群(PAS)が問題とされている。したがって,監護親父が10歳の男の子に片親引き離しを行った事案という位置づけになる。

 私は,DVや婚姻費用,養育費について情報発信することが多いので,そういう偏りからすると,上記のケース概要は,「女性側視点のケース」とも見える。

 しかし,私は,記事1の捕捉説明で,片親引き離し症候群(PAS)を安易に認定することの問題性を指摘している。その指摘は,お読みになった方は,上記のケースにおいては,どちらかというと,監護親父側の視点になっているように感じられただろう。

 

 そこで,私は,こうあってほしい家事調停の手続をイメージしつつ,片親引き離し症候群(PAS)や片親疎外・片親引き離し(PA)がテーマとして取り上げられるような高葛藤事案について,私がどのように考えていて,また,家事調停のあり方について,どうあってほしいと「夢想」しているかを紹介しようと思う。

 

4.

 

第1に

 片親引き離し症候群(PAS)だとか片親疎外(PA)だとかいった事柄は,まさに子どもが問題になっていることで,そこの認定に,監護親側,非監護親側いずれかに偏ったバイアスを持ち込むようなことをやってはいけないということだ。

 そして,私は,もし,私の依頼者が監護親で,片親引き離し言動を子どもに対してやっていることを知ったら,依頼者と対決する。依頼者が,妻か,夫かというのは全く関係ない話だ。弁護士は,依頼者に「雇われて」いるのではない。依頼者の権利利益実現のために活動するが,それは,「正当な権利利益」でなければならない。そして,「専門」としての独立性,その「専門」の知見と経験知が,依頼者自身の自己決定と対話して,依頼者にとってプラス方向へ行くように動員されなければならないと思う。

 弁護士は,依頼者のマリオネットではない。

 さいわい,私は,依頼者に恵まれていて,男性であれ,女性であれ,そういう片親引き離し言動を行う依頼者と遭遇しないで済んでいる。これまでのところ,どの依頼者も,親として,子に誠実で,それゆえに,思い悩んでいいた。代理人弁護士としては,本当に,ありがたい話だ。だからこそ,なおさら,その苦悩に,寄り添いつつ,ご本人の実質的な自己決定を側面支援したいと思うわけだが。

 

第2に

 監護親に片親引き離し言動がなく,それどころか,非監護親と子どもとの交流を保とうとしているケースであっても,子どもの方で,さまざまな理由から,非監護親を拒絶する場合が現実にある。そして,その状況は,非監護親からは,あたかも,監護親が片親引き離しを行っているように間違って認知されてしまうことがあるという点だ。

 とくに,DV・虐待ケースでは,子どもは,別居後に精神的に大きく動揺することが多いように見受けられる。それは,おそらく,安全・安心が確保されたことで,それまでの過剰緊張状態から脱し,心が回復をもとめてさまざまな反応を見せるせいだろう。そして,子ども自身の特性や子ども自身のそれまでの経験に応じて,その子どもの精神的動揺の様相はさまざまだ。極めて複雑な心理の動きがある。それを,しっかり見ないで,「片親引き離し」の影響と簡単に言ってしまったら,「子どもの心って機械ですか?」と私は聞き返したくなる。

 しかし,面会交流に前のめりになっている非監護親は,父であれ,母であれ,同居中の子どもと自分の関わりから,自分見てきた自分にとっての世界でもって,別居後の子どもを想定する。そして,非監護親との面会に子どもが拒絶的だと,認知不調和を解決するため,「そんなはずはない。もしそうだとしたら,監護親の不当影響だ」という短絡思考に走りがちに思われる。そして,この種の短絡思考は,DV加害者の場合,かなり強烈なように見受けられる。同居時の暴力すら否定する方々だからだ。

 仏陀がはるか昔に言ったとおり,人は,あるがままを見ておらず,自分が構築した世界でもって物事を見ている。そこには現実との乖離がつきまとう。その乖離から,苦(ドウフカ)が生じる。これは,DV加害者でなくても,どの人も当たり前に生じることだと思う。ただ,DV加害者の場合,その自分が構築した世界が強固すぎるように見受けられ,これが紛争を極めて厳しいものにしてしまうと私は感じている。

 

第3に

 第2のように言えるとして,では,信頼関係の破壊された状態で,非監護親に,「監護親はそういう片親引き離し言動をやっていない」と監護親側がどれだけ言っても,それは信じてもらえない。非監護親の立場からしたらそうだろう。まして,DV加害者の場合は,なおさらだ。聴く耳があれば,そもそもDV加害者になっておらんだろう・・・って話になる。

 そうだからこそ,子自身の状況を,きちんとした根拠をもって把握するプロセスが必要になる。しっかりした根拠があってこそ,DV加害者の代理人は,自身の依頼者であるDV加害者とギリギリ対決できる。

 

第4に

 子自身の状況をきちんと把握すること,それは,非監護親にとどまらず,監護親にとっても極めて重要なことだ。もちろん,監護親は,日々の監護で子どもと接しており,それまでの関係性からくる子ども理解もあり,子どもの現状把握は,監護親なりになされているだろう(そうでないケースもあるだろうが。)。しかし,心理学的知見と数多くの臨床経験に裏打ちされた専門職が,距離を置いて,第3者的に,さまざまな調査を総合して検討していくプロセスとその結果(鑑定)は,監護親にも沢山の気づきを与えてくれることが多い(もちろん,トンデモ「専門」ではないという前提であるが。)。

 

第5に

 前期第3,第4のプロセスを調査官が担えなくなっているという問題意識が私にはある。

 これまでは,第3,第4のプロセスは,家裁調査官が調査官報告という形で担ってきた。実際,私は,素敵な調査官を何人も知っている(他方で,トンデモ調査官で,途中交替を裁判所が飲まざるを得なかった人もいた。裁判所が途中で調査官を交替させるなんてよほどのことだ。)。振り返ると,私は,これまでのところ,素敵な調査官に巡り合うことが多かった。

 しかし,面会交流紛争の増大,困難な高葛藤事案,原則的実施論の横行,簡易迅速を追及する司法という状況の中で,良心的な調査官ほど,苦悩を抱え込んでいるように私には感じられる。「建前」としての調査官の職責はあるのだろうが,裁判官の意向を離れた調査官意見を書きづらい・・・とか。調査官自身,原則的実施論に多大な疑問を持っていても,全国の家裁を覆う潮流に一人抗えない。枠組としてどかっと居座ってしまったから。

 

第6に

 そうすると,前記第3,第4のプロセスを担う専門の小児精神科医(またはこれに類する心理専門職)が現実に存在するかという問題がある。この点は,私には,実際のところ未知数だ。ただ,多くの論者が,小児精神科医の家裁手続関与を提言していることからすると,供給源はそれなりにあるのだろう。当面は,少数の方に集中することになるだろうが。

 私自身,この先生ならばと思う先生は何人かいる(首都圏なのが石川県在住の私にはつらいのだが。)。

 

第7に

 第3,第4のプロセスを担う心理専門職がいるとして,鑑定のプロセスを構築する必要がある。子どもになるべくストレスを与えず,できるなら治療的効果も期待できるようなプロセスであってくれたらいい。また,鑑定のプロセスと結果に対する監護親,非監護親双方の信頼を担保できるようなものでないと,鑑定に対し私的鑑定をぶつけてさらに泥沼化していくことが懸念される。

 

第8に

 鑑定によって長期化する面会交流調停の係属中の面会交流については,鑑定人の見解・方法についての提案を尊重し,家裁コントロール下で,子どもが受け入れ可能なものから少しずつ,時間をかけて進めていくべきだと思う。受け入れ可能でないなら,停止状態のまま,受け入れ可能な交流を準備する手立てを重ねていくことだ。時期を待つということは重要なことだ。

 そもそも,片親引き離しだ,片親疎外だが問題となっている事案であり,子どもの明示的な意思は,非監護親拒絶から始まっているケースになる。もちろん,子どもの年齢や子どもの置かれた状況,忠誠葛藤などさまざまな問題がある。そして,まさにテーマは,片親引き離し症候群ないし片親疎外かどうかである。仮に,片親疎外でなかったとしても,子どものネガティブな気持ちがスタートラインのケースである。そういうケースで,面会交流を前のめりに実施するとしたら,それは,いったい,誰のためだろう?どこを向いているのだろう?片親疎外であれ,そうでない場合であれ,子ども自身がネガティブなことに変わりないのだから,関係調整をきちんと行った上でないと,面会交流実施は子どもにとってリスキー過ぎるのではないか。長期的に面会交流実施を必要と考えるなら,関係調整が真っ先の課題のはずだ。そこをやらないでおいて,面会交流に前のめりになるとしたら,「面会交流に前のめりな非監護親に与することで家裁マターから落としたい家裁官僚主義」と言われても仕方ないのではないか?

 非監護親も家裁も,スタートラインは,子どもはネガティブという点を直視して,その上で,長期的にみて,面会交流実施が子の最善利益につながると考えるなら,結果を焦らず,関係調整的な面会交流を,小さなところからゆっくりと積み上げていくべきだ。家裁コントロール化で。

 

第9に

 第8で述べた漸進的な関係調整,漸進的な面会交流実施など待ってられないと非監護親が言うとしたら,その非監護親の心理,その衝動がわき出る根本部分を焦点化すべきだろう。非監護親の孤独,実存的苦悩それ自体に耳を傾け,そして,その実存的苦悩に対する非監護親へのサポートを考えるべきだと思う。

 私は,非監護親の喪失感は極めて大きいだろうと思う。特にDV加害者の場合,支配の喪失を取り戻そうし,傷つけられたプライドを回復しようとし,実りある面会交流が目的なのか,別目的の道具に面会交流が持ち出されているのかよく分からない事案に遭遇したりもする。

 非監護親が,「寄る辺のない孤独感」,そういう魂の飢餓感から,失われたものの回復に目が向いている状態だと,まさにそれは,釈迦の言う苦(ドウフカI)だ。愛別離苦,怨増会苦,求不得苦が五蘊盛苦として我が身に襲いかかる。対象喪失理論で言うと,否認の段階と絶望の段階を行きつ戻りつし,新境地へといっこうに進まない。無間地獄をさまようようなものだ。

 求不得苦の絶望をくぐり抜けた地平にこそ,新たな関係性があるのだ。失われたものを服喪し,別居・離婚を突きつけられても,自身のありよう次第では,全く失われることのない確かなものがあることに目を向け,新たな関係性構築へと歩んでいく。そうなるには時間が必要であり,さらに,癒しを準備する「何か」が必要なのだろう。

 簡易迅速な手続は,私は,非監護親の魂も置き去りにしてしまうと思っている。人間の実存的な苦悩を正面から見る必要があると思う。

 

第7に

 監護親の監護の安定も,時間をかけた調停の中で実現していくべきだ。経済問題はもちろんのこと,監護親自身の心理的回復も視野に入れて。監護は,「感情労働」の最たるものだと思う。そこに,さらに高いストレスの面会交流実施協力が加わって監護そのものが瓦解するようだと,結局,面会交流は子のためにならない。監護親の実存的苦悩。それは,DV被害者の場合であれば,DVの支配を認知する意味喪失をくぐり抜け,自分一人分の人生を自分自身でハンドルする道へと歩み出し,自身と子どもの現在と将来に集中したいのに,過去を取り戻そうとする非監護親の支配が,司法手段によって自身に襲いかかってくることだ。経済問題,子どもの監護,自身のトラウマ。そこに,別居後も形を変えて続く非監護親対応ストレス。

 DV被害者の場合,自身がトラウマを抱えたDV被害者母は,精神的に動揺する子のケアも同時に引き受けなければならない。子が安定するには,まず,母が安定しなければいけない。

 私は,別居後に子の精神的動揺が噴出するのは,回復に必要な子どもの心理反応なのだろうと思っている。子の精神的動揺は,あって当然だし,それが無い方がむしろ長期的には怖いと思う。顔を殴られて痣ができなかったら,痛がらなかったら,「この子,超合金ロボですか?」って話になる。長期に亘って反復継続的に受けた心的外傷と適応心理は,安全・安心が確保されたとき,その傷を治癒せんとして,さまざまな心理反応を噴出させるのではないだろうか(私は心理非専門だから,違っていたらご教示いただきた。)。

 このように,子の精神的動揺は,むしろ自然なこと,当然のこと,子にとって必要な回復のためのプロセスなのだと言ったとしても,短期的に,子の精神的動揺をケアする母のストレスは並大抵ではないだろう。そして,その母自身が,DV被害のトラウマを抱え込んでいたりする。子どもの精神的動揺が,時として,DV被害のフラッシュバックの引き金になることだってある。だからこそ,母をサポートし,母が,子の精神的動揺について,「今,それは子にとって必要な回復のプロセスなのだ。子は回復する。健やかに育ってくれる。」と,心底信じることができ,どっしりと子どもに接し続けるようになることを,母に寄り添いつつ,母とともに目指していくサポートが必要なのだ。

 ローゼンタール効果(ピグマリオン効果),ノン・バーバル・コミュニケーション。学問的には,議論されているものだが,私は,母がどっしり構えて子を信じ続け,そのようにして子に接し続けることが,子自身が回復の道を歩むにあたって,とても重要な要素になるのだろうと思っている。

 

第8に

 面会交流は,それぞれに実存的苦悩を抱えた子ども,監護親,非監護親の3者の関係調整の問題だということを正確に認識することだ。

 特にDV事案では,こでまで述べてきたような子ども,監護親,非監護親へのサポートにより,①子自身の回復を目指し,②監護親の回復により,監護親の耐性を高め,③非監護親の回復により,子どもと監護親に向かう暴力性・攻撃性を減少させていく3方向アプローチが必要になる。

 ②監護親の回復は,子自身の回復を支えるとともに,面会交流実施協力の「感情労働」へのストレス耐性,対処能力を高めることになる。

 ③非監護親の回復は,これもまた,子自身の回復にプラスになり,また,監護親の非監護親対処ストレスを低下させることにつながる。

 上記②,③に関して,「親教育」というコトバが用いられているが,その実質面において,上記②,③の観点と寄り添う姿勢がなければ,大所高所からご宣託を垂れる「説教」にしかならないだろう。そういう「説教」で,人の実存的苦悩に何らかのプラスが生じるとは私には思えない。反発しか生じないだろう。「説教」を垂れていい気分になるような勘違い,さも自分ではその事案解決のため,誠実に努力していて,「私,いいこと言ってるわ~」みたいな思い込みを,調査官,調停委員,裁判官にはしてほしくない。

 私自身の,援助者としての自戒を込めて。そして,民間支援団体の援助者に向けても同様に。

 

第9に

 以上の第1~第8が,家裁裁判官,調査官,調停委員,そして,監護親,非監護親双方の代理人弁護士の共通認識となって欲しいと思う。めざすべきは,子ども,非監護親,監護親の3者のWinーWinーWinだ。人間関係調整そのものであり,そこには勝者も敗者もない。そういう人間関係調整の試みを尽くして,時間をかけて,それでも奏効しないという段階となれば,何が問題であるかは明らかになっているだろう。その問題に即応して,面会交流を禁止・制限するか,段階的な実施枠組による面会交流を命じるかを考えればいい。

 

第10に

 以上を実現するためには,税金投入が必要ということだ。

 家裁裁判官,書記官,調査官,調停委員の増員。

 鑑定が必要なケースを餞別し,かつ,その鑑定費用を当事者に負担させない合理的な制度設計

 ピカピカの気障でありたい私は,弁護士報酬については,私個人としては後回しでいいと思っている。どうも誤解があるようだが,離婚関連紛争の法テラス案件は,弁護士事務所経営的には,「重荷」でしかない。もし,事務所経営的に法テラス離婚案件を位置づけるなら,それこそ,簡易迅速促進だろう・・・。離婚関連紛争法テラス案件は,弁護士にとっては,経営圧迫案件であって,それで儲けようとしているなどと言われると,なんともはや実情を知らない人は好き勝手に言うものだと呆れてしまう。じゃあ,なぜ,そういう案件に力を入れるのか。それは,弁護士のエートスと言うものだ。ロースクールと大量増員で揺らぎつつあるが,弁護士が自身の問題意識から力を入れる事件類型というものがあり,私の場合は,さまざまなご縁,はからいから,それが犯罪被害者とかストーカー被害者とか離婚関連紛争になってしまっているということだ。

 ただ,若い弁護士が離婚関連紛争にきちんと取り組み,さまざまなものを贈られて,さらに離婚関連紛争への取り組みを深くしてくれるには,法テラス・・・もうちょっとなんとかならんもんかなぁと思う。ロースクール,給費制廃止(復活するが)のせいで,若手弁護士は,弁護士になった時点で多額の債務を背負っている。私は,男性弁護士であれ,女性弁護士であれ,弁護士のエートスから,ピカピカの気障を目指して,「ボランティア的」に取り組んでくれる人が多く現れてほしいと願いつつ,多額負債を背負っていることを考えると,それはつらいだろうなぁと思うわけだ。

 弁護士報酬については,犯罪被害者支援の領域もそういう道を辿った。初期段階は,弁護士の手弁当でやるしかないと言われ,実際,関心,問題意識を持つ弁護士の「ボランティア的」な受任が多かったと思う。今は,日弁連委託援助事業である犯罪被害者法律援助制度があり,十分とは言えないにせよ,昔よりは,「業務」としてやっていける水準に近づいてはいる。若い弁護士も,当たり前のように犯罪被害者支援の活動を弁護士の仕事としてやる時代になっている(と思う。)。十数年前とは雲泥の差だ。

 

第11に

 私は,人は変わり得ると信じている。もちろん,現実には,良い方向に変わらない人もいる。脳天気に「人は変わる」と言っても始まらない。変わるには,さまざまな条件が必要だ。最終的にものを言うのは,本人の志向性だろうけれども,最初から「変わらない」と言ってしまったら,何も始まらない。本人の志向性・・・これに第3者がどうこうしようというのはなんとも傲慢な話ではあるが,関係調整とかカウンセリングとかは,そういうものではないか。

 そして,私は,詳細は言えないが,劇的な変化を見せたDV加害者のケースを知っている。それは,そのDV加害者の代理人弁護士が素晴らしかったし,家裁裁判官も,調査官も,調停委員も素晴らしかったケースだ。時間はかかった。しかし,かけただけのものが得られた。

 当方依頼者が,私の予想を遥に超えた劇的な決断をし,感動に包まれた調停体験もあった。それは,その依頼者自身の資質も大きかったし,調査官の調査報告書が秀逸だった。

 「その人の状況の中で,その人が,どうあろうとするか(志向性)」

 その態度決定において,感動を表現してくれる当事者は一定数いたし,これからもいるだろう(ありがたいことに,私は本当に依頼者に恵まれていて,そういう感動を贈られることが余りにも多く,そういう点では報われている。)。

 人は変わり得ると信じ,そして,ただ信じるだけじゃなくて,そのために関係者は汗をかこう。関係者が潰れないように税金を投入して,人的な態勢をきちんと整えよう。そのようにして,時間をかけて,そういうことをやってみて,それでも変わらないなら,その現実を受け入れて,次に進もう。財務省緊縮財政路線に屈し,大量案件処理のために簡易迅速に家裁マターから外してしまえというありようでは,子どもも,監護親も,非監護親も苦悩にたたき込まれるだけだ。民間支援団体が丸投げされて困るだけだ。

 

人間の根本的な自由と

 

 

 

人間の苦悩の持つ深い意味に思いを致し

 

人間の実存的苦悩を大切に取り扱う家庭裁判所であってほしい。

 

渡辺弁護士論文の願いは,そこにあると私は思う。

そして,私自身,苦悩にふさわしくあろうとし,現にそうであった依頼者から多くを贈られてきたものとして,私なりのやり方で,「家裁を愛し」ていこうかなと思っている。