ねずみ金剛般若経'(大乗仏典)

 

現象界というものは、

星や、目の翳、燈し火や、
まぼろしや、露や、水泡や、
夢や、電光や、雲のよう、
そのようなものと、みるがよい。

クマムシくん水泡=苦についてダライラマの解説

 

「水泡」というは、現象の「苦」の性格について説明するためだ。
どうして「水泡」が「苦」の比喩になるのか?
水泡は水から生まれる。水の泡は水の性格を負っている。水から出て水に戻る。このように、我々には苦しみだけでなく、喜び、中性の感覚など、如何なる幸不幸、中性の感覚が生まれようとも、苦の自性より生まれ、苦の自性の中に消え去る。煩悩の力に左右される限り、世俗とはこのようなものだ。

 

ここでいう「苦」とは、「苦の苦(身体的苦痛)」だけではない。パンチェン・ロサン・チュゲルが「汚れた輪廻の快感に出離の心を起こすは外道にだってある」。

汚れた幸福感とは業に操られるこの五蘊に関係した汚れたものである。我々が普段「幸福」と呼ぶものはこの「汚れた幸福」のことだ。

 

この汚れた世俗の幸は何れ、最後には衰え苦しみに至る。汚れた五蘊を引きずる限り、苦しみの感覚はもとより幸福な感覚でさえ、苦の自性より生まれ、苦の自性の中に消え去るしかないのだ、と説かれる。

輪廻の中のものは全て苦しみの性質を持つものである。というのはその通りだが、だから解脱しよう、では、解脱できなかったらどうすればいいのか、という理屈になる。解脱しなくても、今ここにある苦しみを小さくするための具体的な回答が欲しい。

 

サラダスッタニバータ

人は、感覚的感受による快、不快にもとづき快適な物を好み、不快な物を排除しようとする。この分ける思考こそが苦しみの原因である。快楽を貪り求める事それは、波を作る。快に大きく偏れば、不快に大きくまた偏るのである。快、不快にもとづいた思考は、この運動をする。

人は知らねばならぬ、快を得た者には必ず不快が訪れることを。快を果てしなく貪り求めたものには、それを得たのちに必ず不快が荒波のように襲いかかる。それを知って快楽を貪り求めてはならない。聖者はその理を知って感覚的感受による貪りを制する。自らの心を制した聖者には、もはや荒波が襲いかかることはなく、心は寂静に帰しているのである。

これは分かりやすい。快を得たものには必ず不快が襲いかかることに納得すれば、快楽を求める欲望が減り、人生の不快が減るのである。

よく考えれば、思い当たるのではないか。美味しいものを食べても、食べたらその分満足するのではなく、短期的には、再び快を求める欲望に苦しみ、欲望を満たしたくなるであろう。また、長期的には、食べ過ぎれば健康への害という形で思い知らされるであろう。

 大乗仏教の空の教えで煩悩をコントロールしようとする方法論が、むしろ劣化しているのが分かる。

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