ランリタンパ『心を訓練する八つの教え』第二偈
誰と一緒にいる時でも
自分を誰よりも劣った者とみなし
他者を最もすぐれた者として
心の底から大切に慈しむことができますように
ダライラマ
他者は自分よりすぐれていて、敬意を表わすに値する存在であると考える心を意図的に育むことによって、自分自身を慎しむための要素として準備しておくことができます。すると、そのような悪い感情が起きてきても、他の有情たちに対する自分の行ないがもたらす影響を無視するようなことにはならず、それらの悪い感情が大きな威力を持つことにはなりません。ここで言われている他者を自分よりすぐれた者とみなす認識は、このような土台に基づいて提案されているのです。
一方で、対象に対し謝った認識をすることで、私達は煩悩を起こすと説く。
だれかに腹を立てているとき、その怒りの対象は完全に敵対しているように思われるが、そのときに現われている怒りの90パーセントは自分自身の心が作り出したものにすぎない、ということを思い出すべきである
あるときは煩悩を起こすから妄想するなと説き、一方であるときは「自分は一番劣った者」と妄想しろと説く。このような矛盾する考え方を貫けるわけがない。
単純で実行可能な統治法はないのか。
スッタニバータ
「修行者はどのように観じて、世の中の何ものをも執することなく、安らいに入るのですか?」
師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて。有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
これ(慢心)によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。
修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
他人が優れているとか、自分が劣っているとか、人と比較しようとする考え方が間違っているのである。人がどうであろうと、自分は人として最善を尽くせばいいでは
ないか。
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