柴犬カン、福の日記

柴犬カン、福の日記

柴犬カンと福、筆者の出来事、想い、政治、経済、文学、旅行、メンタルヘルス、映画、歴史、スポーツ、等について写真を載せながら日記を綴っていきます。柴犬カンは2018年12月に永眠しました。柴犬福が2020年4月7日夕方にわが家にやってきました。その成長記録。


柴犬カンと家族、そして私自身に起こった出来事、ペット、テレビ、メンタルヘルス、映画、演劇、文学、スポーツ、買い物、天気、自然、旅行、柴犬の様々なことについて描いていきます。 柴犬カンは2018年12月20日に永眠しました。2020年4月7日夕方、非常事態宣言が発せられた日に柴犬福がやってきました。その成長記録を載せていきます。









Amebaでブログを始めよう!

 村上春樹の女のいない男たちの短編集の中で、映画化された「ドライブ・マイ・カー」の作品に取り込まれたのはタイトルと同じ作品にプラスして、「シェエラザード」と「木野」という作品が、映画中に重要な要素として取り入れられている。これは監督の濱口さんが、村上ワールドを壊すことなくさらに「ドライブ・マイ・カー」 に深みを持たせるために、この二つの短編をさらに追加して脚本を書いたとのことである。
 「シェエラザード」とは物語を語る女性で、アラビアンナイトの中で、ササン朝ペルシアの王様に不思議な話を語る。
 村上春樹の短編集においては羽原という主人公の男性に、シェエヘラザードと主人公が名付けている愛人が、性行為の時に不思議な話を話すのである。シェエヘラザードは結婚しており、羽原は浮気相手なのである。ドライブマイカーの映画バージョンでは、このシェエヘラザードの性交時の時に語る物語は、映画においては重要な一場面となっている。この短編ではシェエヘラザードという女性が10代の頃に経験した恋の病が重篤であり、それが十数年経っても彼女の中から消え去らないどころか、彼女の心の片隅に常に存在し、いや、まさに中心に存在して彼女の人生を左右してるということである。これも回想の手法を使った作品である。男の方である羽原もこのシェヘラザードが自分の元から立ち去ってしまうことを恐れている。ある意味では映画のドライブマイカーはこの「シェエヘラザード」の方がメインと言ってもいいぐらいの重要な作品として映画に取り入れられている。
 人間というものは出会い別れは常にあって、二度とも会うことがない人は多々いる。特に一時的に極めて密接な関係を結んだ異性は、心における存在感は消すことができない。映画の「マディソン郡の橋」もそのようなテーマである。人間は月日の長さではなく、その瞬間瞬間の強烈な、濃密な時間が頭の中に、体の中に強く刻印されて、それを消し去ることができない。


 

 村上春樹の「女のいない男たち」という短編集を少し紹介をしたい。もちろん感想も。

 この短編集を見て読んで思うのは、基本的にもはや高齢となった村上春樹が、若い頃の出来事を回想するというスタンスの作品が多いということだ。つまり若い頃の出来事を何十年も経った後から振り返るという形。
イ 「エスタデイ」という作品は村上春樹自身も母校である早稲田大学が登場する。僕と呼ばれている主人公は早稲田の学生。おそらく村上春樹自身の体験が着想させた作品だろう。早稲田のそばでアルバイトをしていてそこで出会った男との数奇な運命を描いている。浪人をしているこの男には彼女がおり、幼馴染であり、またこの男にとって不釣り合いなほどの女性と交際している。そこで主人公のぼくと呼ばれる男は、この浪人男のサジェスチョンで自分の彼女と「僕」とデートするという設定になっている。その後主人公ともう一人の男は疎遠になりそして数十年後に・・・・といった展開になっている
 「独立器官」という作品は、僕という人物が、渡会と言う医師との交流とその後を描く。渡会は独身で、経済的にも満たされており複数の女性との交際も続けている。そのスケジュール管理は秘書である男が行なっていた。ところが渡会は、数いる交際している女性の中で、中年になり初めて本気で好きになってしまった女性が出てしまった。そしてその恋は結局実ることがなく、また渡会はその後惨めな末路を迎えていく。
 

 恋愛というのは本当に不思議なもので、恋は盲目であり病気のようなものである。精神に取り付いて離れることがない。特に若い頃は恋の病にかかると妄想が肥大し、心が激しく痛む。私も経験があるが、いまだに忘れることができなく、その初恋の相手とは結局会話すらしたことがなかったが、今どうしてるのかということを気にしてしまう。
 恋の病というのが、どういう心のメカニズムで発生してるかは謎である。もちろん見めかたちもあるだろう。それだけでなく言葉やまたその出会った時の年齢においての、成長の一時期、非常に魅力的に見える時期が人間はどうやらあるようで、その時期の彼女に出会ったことが、より病状が重くなってしまう。
 ユングは彼の説の一つである「元型」の中に、アニマとアニムスという元型を持ち出し、心の中に自分が理想とするアニマ・・・自分の持つ理想の女性(男の場合)・・・があり、それに近いものを持っている女性に急激に惹きつけられるという説を唱えている。女性の場合はその逆で、女性の中にあるアニムスに近い男性に惹かれるという。私が知り得る限り、恋の病に関わる説明として唯一それを証明しようとしているのがユングの心理学である。まあ寡聞にしてこれ以外の説は聞かないのだが、他にも別の説を唱えている人もいるかもしれない。
 恋の病は、例えば受験の失敗や失恋などと同じで、その人物が人生を破壊したり他者を傷つけたり、統合失調症のきっかけになったり、廃人同様になったり そして場合によっては死に至る事もある。特に年をとってからの恋の病は本当に人生を破壊してしまうこともある。

 ちなみに、村上春樹も若いころ恋の病にかかり苦労したのではないかと推測する。
 誰か科学者がこの心理的メカニズムについて説明してくれることを望む。

 「ドライブマイカー」を映画で見て、小説も読んで、どうも心が揺さぶられ不安定になってしまう。下手くそな臨床心理士や 精神科医みたいに、患者やクライアントの心の中まで手を突っ込んでぐちゃぐちゃにして、かえって患者の精神を混乱させ、症状が悪化するということもよくある。臨床心理士や精神科医はあくまで患者の内面のそっとしといたほうが良いものを掘り返すことは必要ではない。クライアントの外側に出た見える部分から類推して治療する。これが優れた精神科医だと思う。
 ただ小説においては逆に、心の奥底に強い刺激を与えるものの方が感動を呼ぶ。
 今回は、小説よりむしろ映画の方が私の内面を強く揺さぶって不安定にさせた。

 人の行動すら変えてしまったりきっかけを与えてる映画はいい映画なのだろうが、例えばディズニーの映画「ジョーカー」、これを見て凶悪な犯罪に手を染めることになってしまった人もいる。私はこれをジョーカー現象と呼んでいるが、ただこの手のやけになった人物が起こす事件は、「ジョーカー」以前からあったわけだから、「ジョーカー」だけのせいとは言えない。ただインスパイアされている人がいるであろう。

 いずれにせよ精神科医だろうが臨床心理士だろうが、またその他のカウンセラーにしても、何にしてもあまり患者の心の奥を抉り出す必要はない。その方がリスクがある。死ぬまでそっとしておくほうが良いし、経済状況が改善すると症状が収まることもある。

 また私にも経験あるのだが、心の不調の時に、様々な心理学や精神分析の本などを読まないほうがいい。もちろんネットも。確かに自分と同じような症状を持つ人を探してしまうが、深入りは禁物だ。精神科医は表面に見えるもの、または日常的な会話の中から患者の症状の程度を測るべきだ。精神科医の腕の見せ所は基本的には投薬である 欧米でもフロイトから始まる精神分析はあまり大きく発展していないようで、そもそも精神分析は何回も患者と面談する割に治療効果が少ない。

 カタリバというNPOかなんかがあるが、これはあまりにも学生、生徒の心の中のものを吐き出させすぎる集団で、やめさせたほうがいい。 また若い人で内面に不安定なものを抱えている人が大学の心理学科などを受験するケースがままある。これもやめたほうがいい。心理的な治療をする人は、自分自身が不安定であるのは良くない。基本的にはメンタルが強い人、安定している人、しかし弱さも見抜ける人。こういう人がやるべきだろう。


 

 映画「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹の短編集、「女のいない男たち」の中に収録されている短編小説を元に作られているのだが、実際はさらにもう二つの短編の要素も組み込まれている。濱口監督によると「シェエラザード」と「木野」である。 おそらく浜口監督が村上春樹の作品を長編短編を読んで、そしてこの「女のいない男たち」を選びそしてそれを映画化したのだろう。
 女のいない男たちのテーマはほとんどの収録されている短編で、女性が何らかの形で男性から離れていなくなってしまう様子と、男のメンタルと行動の変化を描く。 交際していた時期を振り返ってみたり、虚脱感だったり、心身を蝕むようなことになったりと、色々な角度から描かれている。ほとんどの短編で、 やがて離れていく、失われていく女性と男性はセックスをしその場面の描写がある作品もある。これは映画の「ドライブ・マイ・カー」も同様だ。  村上春樹得意のあまりドロドロとしていないあっさりとした性行為の描写は、ちょっと道を外れるが村上春樹がノーベル賞を取れない理由の一つだろう。もう一つの理由としてはイスラエルでのスピーチがある。ノーベル賞取れば子供も読むわけだから。
 この短編集を読んで、まずは村上春樹の独特の表現、特に 比喩。例えば何々と比較して同じ様であるとか、その例えが非常に卓越している。村上春樹の読者がこの例えを楽しみにしている。私もそうだ。音楽だったり絵画だったり様々な、一般的にあまり知られていない曲、作品などを短編集の中に散りばめてある。このあたりも村上春樹は様々なことに詳しいのだなと畏敬の念を読者に与えるであろう。村上春樹は確かに博学だし、小説も極めて計算され尽くした骨組みとディテール。殴り書きではない。推敲も何度も何度もしなおしたり、場合によっては半分以上書き直したりなどということが多分にあるのだろうと、読んでいて思う。そうでもなければこのような文章は書けない。より良い比喩が見つかれば、それ以前のものと即座に置き換えているのだろうと思われる。
 蛇足が長くなるが、」YouTube で様々な歴史について紹介する動画なども、おそらく動画を作った人が調べに調べてそれをよく吟味して並べ替え、あたかも全てが頭の中に入ってるように語る。私のようなものも誰かに、または複数の人に何かを説明する時には、事前によく調べ頭に叩き込み、自分の中でしっかり消化した上で人々にそれを話す。おそらく聞いた人は、いろんなことを知ってるねと言うかもしれないが、それは あくまで事前に 調べてあるからである。
 先日亡くなった石原慎太郎氏も極めて博学であった。頭の中にもちろん知識として様々な事象が入っているのだろうが、それを人前において台本なしで豊かな語彙を使いながら喋っている。話し言葉も文章も言語能力の高さを示している。
 村上春樹が話しているのはほとんど聞いたことはないが、最近は FM ラジオなどに出演していることもあると聞く。いずれにせよ作家というのは卓越した言語表現を、即興で話せることができるのかもしれない。

 

 この手の暴力がメインの映画は苦手。最近蒼井優さんの出演する映画はこの手のものが多い気がする。「オーバーフェンス」の印象が強烈だったからなのか。汚れ役も必死にこなす蒼井優さんが痛々しい。「スパイの妻」や「フラガール」のようなものは例外的。

 2019年キネマ旬報ベストテン、日本映画部門3位。

 主演は池松壮亮。暴力によって前歯が4本くらいない状態での演技が長く、痛々しい。ホントに前歯を映画のために抜いてしまったとしたらあまりにも残酷すぎる。私は、小学校3年生の時に前歯1本失っていて、それにずっと悩ませられてきたので特にだ。

 それにしても一体何を描きたいのか・・・?

この作品の監督は「ディストラクション・ベイビーズ」という暴力映画を作った人。こういうのが好きなようだ。

 

情報

 

2018年のテレビドラマ版が好評を博した新井英樹の原作コミックの後半部分を映画化。

宮本浩は、不器用ながらも真っ直ぐに仕事に向き合う営業マン。女性・中野靖子と恋に落ちた彼の前に、最大の試練が立ちはだかる。出演はドラマ版から引き続きの池松壮亮、蒼井優、。監督は「ディストラクション・ベイビーズ」の真利子哲也。

 2017年キネマ旬報ベストテン、外国語映画部門2位の作品。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の監督、ジム・ジャームッシュ作品。

 穏やかで静かな作品。全体を通して何かを作り出す、創作することがテーマ。しかもそれが日常のすぐそばにあること。

 主人公はバスの運転手で、代り映えのない人生を送り続けている。しかし、詩を作りながら生きている。夜は犬の散歩に行き、その途中でバーに寄る。バーの店主も客も何かを生み出す。そんな生活でも詩は生まれる。妻はデザインと、お菓子作りで創作活動を行っている。

 主人公の男は、パターソンといい、彼の住む町もまたパターソンという。そんな街の中で、10歳くらいの少女や、日本人のビジネスマン(永瀬正敏が演ずる)がまた詩を創作していて、こういった人たちとさりげない出会いが生まれる。1週間を描く。

 この映画を見ていて、見たことがあることに気が付いたでも、ブログに感想を記さなかったので、気が付かなかった。私は見た映画をブログに記録している。ブログ内の検索を使って見たか見ていないかを確認している。

 

情報

 

 アダム・ドライバー主演による鬼才ジム・ジャームッシュ監督作。ニュージャージー州パターソンを舞台に、街と同じ名前を持つバス運転手パターソンのなにげない7日間を、ユニークな人々との交流を交えながら映し出す。主人公の愛犬マーヴィンを演じたイングリッシュ・ブルドッグのネリーが第69回カンヌ国際映画祭<パルム・ドッグ賞>を受賞。

 

 パターソン(アダム・ドライバー)の1日は朝、隣に眠る妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)にキスをして始まる。いつものように仕事に向かい、決まったルートを走り、フロントガラス越しに通りを眺め、乗客の会話に耳を澄ます。乗務をこなすなか、心に浮かぶ詩を秘密のノートに書きとめていく。一方、ユニークな感性の持ち主であるローラは、料理やインテリアに日々趣向を凝らしている。帰宅後、パターソンは妻と夕食をとり、愛犬マーヴィンと夜の散歩、いつものバーへ立ち寄り、1杯だけ飲んで帰宅。そしてローラの隣で眠りにつく。そんな一見代わり映えのしない日常。だがパターソンにとってそれは美しさと愛しさに溢れた、かけがえのない日々なのであった……。

 

  もう、駄作という印象。第89回アカデミー賞で作品賞を含む8部門にノミネートされ、音響編集賞を受賞したというのはほんとうか?見る目を疑う。

 SFドラマ。ある日、地球各地に大きな宇宙船のような物体が現れる。彼らの言語を解明するよう要請された言語学者ルイーズとアメリカ人はたちは、驚くべきメッセージを受け取る。エイミー・アダムス、ジェレミー・レナー、監督は、「灼熱の魂」のドゥニ・ヴィルヌーヴ。

 あまりにベタな感じ。ミステリアスな感じも、時空を超えるような壮大さと神秘的な感じもない。物理学や数学の世界観もない。ネットで見られなかったら見なかっただろう。

 

 あらすじ・・・ある日、地球各地に大きな宇宙船のような物体が出現する。言語学者のルイーズは、宇宙船から発せられる音や波動から彼らの言語を解明し、何らかの手段でこちらのメッセージを彼らに伝えるよう、国家から協力を要請される。やがて少しずつ相手との距離を縮めていく。彼らはアインシュタインの相対性理論の進化形の如く、驚くべき真実をルイーズたちに伝える。それは、3000年後の地球も現在と同じ座標軸にあるというものだった。ルイーズは彼らの言語を研究し理解するにつれ、自分の人生における経年も今までの時間軸の概念を超越したものになることを知る。ルイーズは彼らからの影響に混乱する。ついに最終決断を下した中国の行動を止めるため、ルイーズはイアンを使って思い切った賭けに出る。彼女の行動は、地球を、そして彼女自身を救うことができるのか?

 

 村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」は短編集「女のいない男たち」の最初に綴られている。2013年に文芸誌にものされている。最近の彼の長編はあまり面白くないのだが、短編は光っている。また村上春樹がもう72歳くらいになっていることに驚いた。その分自分も年老いているので当然なのだが・・・。

 短編では「ヴァーニャ叔父」と記載されている。短編でもキーとなっているが、映画では「ワーニャ伯父さん」が3時間すべてを貫いた基調となっている。

 そこで本棚にあった「ワーニャ伯父さん」をたぶん20年以上ぶりに取り出してみた。埃をかぶっていたのと、20代後半の自分が付箋を貼ってあった。そこだけ取り出して読んでみると、映画で取り上げられた部分と重なりところが一つだけあった。それは「ワーニャ伯父さん」のラストでソーニャとワーニャ伯父さんが会話する部分だ。そして私の今の人生と、10数年前に病んだうつ病とその後遺症について頭によぎった。20代から、いやもっと幼い、物心ついたころから、私は厭世的だった。そして何のために生きるのかが良くわかっていなかった。だから探していた。付箋の部分を、映画の部分を重なり合ったところを、「青空文庫」を拝借して抜き出してみる。太字は私が加工した。

 

ワーニャ 

 (ソーニャの髪の毛をでながら)ソーニャ、わたしはつらい。わたしのこのつらさがわかってくれたらなあ!

 

ソーニャ

 

 でも、仕方がないわ、生きていかなければ! (間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあうれしい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。……(伯父の前に膝をついて頭を相手の両手にあずけながら、精根つきた声で)ほっと息がつけるんだわ!

 

テレーギン、忍び音にギターを弾く。
 

ソーニャ

 ほっと息がつけるんだわ! その時、わたしたちの耳には、神さまの御使みつかいたちの声がひびいて、空一面きらきらしたダイヤモンドでいっぱいになる。そして私たちの見ている前で、この世の中の悪いものがみんな、私たちの悩みも、苦しみも、残らずみんな――世界じゅうに満ちひろがる神さまの大きなお慈悲のなかに、みこまれてしまうの。そこでやっと、私たちの生活は、まるでお母さまがやさしくでてくださるような、静かな、うっとりするような、ほんとに楽しいものになるのだわ。私そう思うの、どうしてもそう思うの。……(ハンカチで伯父の涙を拭いてやる)お気の毒なワーニャ伯父さん、いけないわ、泣いてらっしゃるのね。……(涙声で)あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でも、もう少しよ、ワーニャ伯父さん、もう暫くの辛抱よ。……やがて、息がつけるんだわ。……(伯父を抱く)ほっと息がつけるんだわ!

 

 太宰がチェーホフに入れ込んで、のめり込んで、抜け出せなくて自害したのが、本当はもう少し苦しみに耐えなければならなかった。

 映画の中でも「チェーホフの脚本に入り込むと抜け出せなくなる。」という部分がある。

 

 まず、とても良質な映画でした。約3時間。いろんな賞を取っていて、日本で再評価され

一部の映画館で再上映されている。夕方から21時くらいまでの上映だった。

 

 スタートから1時間は「村上ワールド」。村上春樹の短編を映画化している。スノッブで都会的。舞台俳優とテレビの脚本家の夫婦の生活が描かれる。サーブという外車に乗っている。3時間ともサーブの赤い車が走り続ける。高層ビルの隙間を縫って走る首都高を描く。そして性的描写村上春樹得意のパターン。主人公がベケットの「ゴドーを待ちながら」に出演している場面は、知ってる人なら唸る。わたしは20代のころ、富山県の利賀村にSCOTのによる「ゴドまち」を見て感激したのを覚えている。2人しか出てこない。ゴドー、すなわち生きる意味とは何なのか?

 次の1時間はは主人公の舞台俳優の妻が亡くなって、場面は広島に移る。ここから1時間はSDGsに移る。多様性。多言語(手話を含む)によるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を主人公の家福が演出。東アジアの、中国、韓国の俳優が母語で演じる。

 そして最後の1時間はチェーホフの世界に。生きていること自体が苦しみ。チェーホフは「かもめ」「3人姉妹」など若いころによく見た。太宰よりも遠くから人々を描写し、しかし個々人に強く訴えかける。わたしも大好きな戯曲家。生は一切が苦、なのか。

 

 全体にやや長い。あと30分短かったらどうだろう?演劇の稽古の場面がやや長いかな。でもとてもよかった。ヨーロッパのインテリにはとても受ける映画だと思う。アメリカのアカデミー賞は難しいかな。村上春樹はユダヤ人批判をイスラエルでしてしまって、ノーベル賞ほかの賞は受賞が難しくなっている。

 村上春樹の本は、私が一文に在籍していた時に、生協の本屋に山積みされており、次々と売れていた。博学。音楽や演劇、ブランド服。フランスの哲学。みんな村上春樹になりたかった。でも小説家として成功したのは、私の知りうる限り角田光代さんだけ。

 

 とりあえず外のサイトからの情報で。↓

 

 村上春樹が2013年に発表した短篇小説に、カンヌ・ヴェネチア・ベルリンをはじめ国際映画祭で高い評価を得た濱口竜介が挑む意欲作。舞台俳優の主人公・家福(かふく)に西島秀俊、ヒロインのみさき役に三浦透子を迎え、愛と喪失、希望の物語が紡がれる。

 脚本を担当した黒沢清監督「スパイの妻<劇場版>」がヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)に輝く。また、公開を控える監督作「偶然と想像」は2021年・第71回ベルリン国際映画祭銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞する。西島秀俊は、村上春樹作品を経験済み。一方、三浦透子は「天気の子」の主題歌を歌った。さらに、物語を大きく動かすキーパーソンの俳優・高槻役には、。岡田将生。秘密を抱えたままこの世を去る家福の妻・音役を、村上春樹の長篇の映画化「ノルウェイの森」の霧島れいかが演じている。

 

 あらすじ・・・舞台俳優・演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と満ち足りた日々を送っていた。しかし、妻がある秘密を残したまま突然この世を去ってしまう。2年後、演劇祭で演出を任されることになった家福は愛車のサーブで広島へと向かう。そこで出会ったのは、寡黙な専属ドライバーみさきだった。喪失感を抱えたまま生きる家福は、みさきと過ごすうちに、それまで目を背けていたあることに気づかされていく。

 

 「ひびこれこうじつ、と読むのだと思っていた。「にちにちこれこうじつ」と読むのがこの映画。

 樹木希林の最晩年の作品。キネマ旬報2018年ベストテン9位の作品。ほかに黒木華、多部未華子、鶴見慎吾、鶴田真由らが出演。

 お茶 、茶道を通して20年近くの歳月を、様々なエピソードと、季節の移ろい(24節季)などとともに静かに描く。

 

 静かな短編ながらとても良い映画。心にじんと来る。「歩いても歩いても」や「海街ダイアリー」などと同系統の作品かなと思う。樹木希林ががんを公表して、そして「万引き家族」と「日日是好日」といった名作に出演し、人生最後の最後まで女優であり続けた。一見の価値ありです。

 

 解説は

 「エッセイスト森下典子が約25年にわたり通った茶道教室での日々をつづり人気を集めたエッセイ「日日是好日 『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」を、黒木華主演、樹木希林、多部未華子の共演で映画化。「本当にやりたいこと」を見つけられず大学生活を送っていた20歳の典子は、タダモノではないと噂の「武田のおばさん」が茶道教室の先生であることを聞かされる。母からお茶を習うことを勧められた典子は気のない返事をしていたが、お茶を習うことに乗り気になったいとこの美智子に誘われるがまま、流されるように茶道教室に通い出す。見たことも聞いたこともない「決まりごと」だらけのお茶の世界に触れた典子は、それから20数年にわたり武田先生の下に通うこととなり、就職、失恋、大切な人の死などを経験し、お茶や人生における大事なことに気がついていく。主人公の典子役を黒木、いとこの美智子役を多部がそれぞれ演じ、本作公開前の2018年9月に他界した樹木が武田先生役を演じた。監督は「さよなら渓谷」「まほろ駅前多田便利軒」などの大森立嗣。」