村上春樹「女のいない男たち」、短編集から浮かぶこと② | 柴犬カン、福の日記

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柴犬カンと福、筆者の出来事、想い、政治、経済、文学、旅行、メンタルヘルス、映画、歴史、スポーツ、等について写真を載せながら日記を綴っていきます。柴犬カンは2018年12月に永眠しました。柴犬福が2020年4月7日夕方にわが家にやってきました。その成長記録。

 村上春樹の女のいない男たちの短編集の中で、映画化された「ドライブ・マイ・カー」の作品に取り込まれたのはタイトルと同じ作品にプラスして、「シェエラザード」と「木野」という作品が、映画中に重要な要素として取り入れられている。これは監督の濱口さんが、村上ワールドを壊すことなくさらに「ドライブ・マイ・カー」 に深みを持たせるために、この二つの短編をさらに追加して脚本を書いたとのことである。
 「シェエラザード」とは物語を語る女性で、アラビアンナイトの中で、ササン朝ペルシアの王様に不思議な話を語る。
 村上春樹の短編集においては羽原という主人公の男性に、シェエヘラザードと主人公が名付けている愛人が、性行為の時に不思議な話を話すのである。シェエヘラザードは結婚しており、羽原は浮気相手なのである。ドライブマイカーの映画バージョンでは、このシェエヘラザードの性交時の時に語る物語は、映画においては重要な一場面となっている。この短編ではシェエヘラザードという女性が10代の頃に経験した恋の病が重篤であり、それが十数年経っても彼女の中から消え去らないどころか、彼女の心の片隅に常に存在し、いや、まさに中心に存在して彼女の人生を左右してるということである。これも回想の手法を使った作品である。男の方である羽原もこのシェヘラザードが自分の元から立ち去ってしまうことを恐れている。ある意味では映画のドライブマイカーはこの「シェエヘラザード」の方がメインと言ってもいいぐらいの重要な作品として映画に取り入れられている。
 人間というものは出会い別れは常にあって、二度とも会うことがない人は多々いる。特に一時的に極めて密接な関係を結んだ異性は、心における存在感は消すことができない。映画の「マディソン郡の橋」もそのようなテーマである。人間は月日の長さではなく、その瞬間瞬間の強烈な、濃密な時間が頭の中に、体の中に強く刻印されて、それを消し去ることができない。