村上春樹「女のいない男たち」、短編集から浮かぶこと | 柴犬カン、福の日記

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 映画「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹の短編集、「女のいない男たち」の中に収録されている短編小説を元に作られているのだが、実際はさらにもう二つの短編の要素も組み込まれている。濱口監督によると「シェエラザード」と「木野」である。 おそらく浜口監督が村上春樹の作品を長編短編を読んで、そしてこの「女のいない男たち」を選びそしてそれを映画化したのだろう。
 女のいない男たちのテーマはほとんどの収録されている短編で、女性が何らかの形で男性から離れていなくなってしまう様子と、男のメンタルと行動の変化を描く。 交際していた時期を振り返ってみたり、虚脱感だったり、心身を蝕むようなことになったりと、色々な角度から描かれている。ほとんどの短編で、 やがて離れていく、失われていく女性と男性はセックスをしその場面の描写がある作品もある。これは映画の「ドライブ・マイ・カー」も同様だ。  村上春樹得意のあまりドロドロとしていないあっさりとした性行為の描写は、ちょっと道を外れるが村上春樹がノーベル賞を取れない理由の一つだろう。もう一つの理由としてはイスラエルでのスピーチがある。ノーベル賞取れば子供も読むわけだから。
 この短編集を読んで、まずは村上春樹の独特の表現、特に 比喩。例えば何々と比較して同じ様であるとか、その例えが非常に卓越している。村上春樹の読者がこの例えを楽しみにしている。私もそうだ。音楽だったり絵画だったり様々な、一般的にあまり知られていない曲、作品などを短編集の中に散りばめてある。このあたりも村上春樹は様々なことに詳しいのだなと畏敬の念を読者に与えるであろう。村上春樹は確かに博学だし、小説も極めて計算され尽くした骨組みとディテール。殴り書きではない。推敲も何度も何度もしなおしたり、場合によっては半分以上書き直したりなどということが多分にあるのだろうと、読んでいて思う。そうでもなければこのような文章は書けない。より良い比喩が見つかれば、それ以前のものと即座に置き換えているのだろうと思われる。
 蛇足が長くなるが、」YouTube で様々な歴史について紹介する動画なども、おそらく動画を作った人が調べに調べてそれをよく吟味して並べ替え、あたかも全てが頭の中に入ってるように語る。私のようなものも誰かに、または複数の人に何かを説明する時には、事前によく調べ頭に叩き込み、自分の中でしっかり消化した上で人々にそれを話す。おそらく聞いた人は、いろんなことを知ってるねと言うかもしれないが、それは あくまで事前に 調べてあるからである。
 先日亡くなった石原慎太郎氏も極めて博学であった。頭の中にもちろん知識として様々な事象が入っているのだろうが、それを人前において台本なしで豊かな語彙を使いながら喋っている。話し言葉も文章も言語能力の高さを示している。
 村上春樹が話しているのはほとんど聞いたことはないが、最近は FM ラジオなどに出演していることもあると聞く。いずれにせよ作家というのは卓越した言語表現を、即興で話せることができるのかもしれない。