流離の翻訳者 日日是好日 -8ページ目

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

父は昔気質の人だった。9歳の時に父親(私の祖父)を亡くし、長男として母親(私の祖母)や幼い弟たちのために随分苦労したらしい。

 

まだ私が中学生くらいの頃、家族で正月を迎える準備をしていた。何処か滑稽に思えて「こんな日本式の正月っていつまで続くんやろうね?」と父に聞いたことがある。「お父さんのような大人が生きている限りずっと続く」と父は答えた。

 

父が家事を手伝うのを見たことはなかった。いつも居間に座って煙草を吸いながら新聞を読んでいた。家事は母と祖母の女二人に任せっきりだった。

 

そんな父がたまに台所に入ることがあった。ステーキを焼くときである。「お前たちにやらせたらステーキがセッタ(雪駄)になる」などと冗談を言っていた。

 

60代に入った頃から父は少しずつ家事を手伝うようになった。と言っても、縁側の雨戸の開け閉め程度である。母が膝を痛めたことも理由のひとつだった。

 

ある日、実家に行くと、父が「○○、この雨戸何とかならんか!?全然動かんのじゃ!」と言う。「ちょっと見せて!」と見ると、確かに雨戸の一枚が戸袋の中に引っ掛かっているようでビクともしない。10分くらい悪戦苦闘した結果、「ガタッ」という音がして雨戸が動いた。「よくやっつけてくれたな!ありがとう!」と父は言った。

 

「やっつけた」という言葉が可笑しくて覚えているが、父から「ありがとう!」という言葉を聞いたのは何十年ぶりだっただろうか。そんな縁側の雨戸の開け閉めも今は私の仕事だが、時々そんなことを思い出す。

 

 

 

久しぶりに英文法の話を書いてみる。昨日、英会話のレッスンを受けたが、テキストに「Attributive Ditransitive Verb(二重目的動詞)」という品詞が出てきた。何となく難しそうだが、テキストの文法的な説明は以下の通り。

 

Attributive ditransitive verbs such as make and call can be followed by two objects: a direct object and an object component. In passive constructions, the object usually remains at the end of the sentence.

 

Makeやcallなどの二重目的動詞は、直接目的語と目的語成分の二つの目的語を取ることができる。受動態の構文では、目的語は通常文の最後に置かれる。

 

これは単に、第4文型(SVOO=Subject+Verb+Indirect Object+Direct Object)をとる動詞のことを言っており、それが受動態になった場合は、(直接)目的語が文末に置かれることを説明したものである。決して難しいものではない。

 

「二重目的動詞」に他にどんなものがあるかAIに尋ねると、makecall以外に以下のものがあるらしい。いずれも何処かで習ったものばかりである。

 

1) Appoint

The personnel department appointed her manager.

受動態⇒ She was appointed manager by the personnel department.

 

2) Name

The parents named their baby Oliver.

受動態⇒ Their baby was named Oliver by the parents.

 

3) Elect

The committee elected him chairman.

受動態⇒ He was elected chairman by the committee.

 

4) Consider

The class considered him a genius.

受動態⇒ He was considered a genius by the class.

 

5) Choose

The coach chose her the team captain.

受動態⇒ She was chosen the team captain by coach.

 

6) Designate

The company designated him the spokesperson.

受動態⇒ He was designated the spokesperson by the company.

 

英会話のレッスンではあまり文法にこだわらないが、家に帰ってテキストを復習していると結構疑問に感じる点も多い。因みに以下の文の違いはわかるだろうか?

 

① He was considered a genius by the class.

② He was considered to be a genius by the class.

③ He was considered as a genius by the class.

 

AIの回答は以下の通りである。①は彼がクラス全体によって天才として認識されていたことをシンプルに伝えている。②は彼がクラスによって天才として評価されるプロセスや状態を強調している。to beが加わることで彼の天才性が認識されるというニュアンスが強調されている。③のconsidered asは文法的には正しいが、①②と比べるとやや冗長な表現である。

厳寒の京都から帰り、翌日は英会話のレッスンを受講した。また2日間の休肝日を設け、2日間働いて何とか社会復帰した。バレンタインの昨日は家内と自宅近くの中華料理屋に行った。JR下曽根駅近くの「富貴楼」は手頃な値段でなかなか美味しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

旅行から帰って感じるのは「やはりいちばん寛げるのは自宅である」ということである。また、友人たちに会って思うのは「自分ももっと頑張らねば」ということである。とにかく春に向かって少しでも体を動かそう。やはり、健康こそが一番大切なのである。

 

 

旅行をしていつも思うのが「車窓から眺める景色こそ旅の醍醐味」ということである。目的地に着いてあちこち観て歩くのももちろん楽しいが、車窓を流れる受動的な景色に色んなことを感じる。これも旅の楽しみの一つである。

 

今はあまり見ないが、小さい子どもがバスや電車の座席に靴を脱いで窓に向かって座り、移り変る景色を楽しんでいる姿、それこそこの感覚である。私の精神年齢はその頃からあまり発達していないのかも知れない。

 

 

2022年の京都大学の英作文の入試問題に以下のものがあった。私の心情にピッタリのものである。英訳は以前本ブログに掲載したものを再度掲載した。

 

Ⅲ.次の文章を英訳しなさい。

数ある旅の楽しみの中で、車窓からの眺めというのもまた捨てがたい。そこに美しい自然が広がっていれば、ただただ目の保養になる。でも、ありふれた田舎や町並みを眺めているのも悪くない。そこに見かける、此の先出会うこともなさそうな人々は、みなそれぞれにその人なりの喜びや悲しみとともに暮らしている。そう思うと、自分の悩み事もどこか遠くに感じられて、心がふっと軽くなる気がするのだ。

(2022年 京都大学)

 

(流離の翻訳者・拙訳)

Among a lot of pleasures of traveling, I think, scenery from train window is attractive in its own way. Beautiful nature spread in the scenery, if any, itself can serve as a feast for the eyes. Nevertheless, it is not bad to simply look at commonplace countryside or town streets. Those who are found in these places, and who are not likely to meet again in the future, are respectively living their own lives with their own joys and sorrows. Such casual facts seem to keep my own agonies somehow away from my mind, and also to lighten my troubled heart a little in a moment.

 

2月9日(日)午後

駅員に聞くと彦根へは京都駅0番線から琵琶湖線だという。とにかくわからなければ人に聞く。最近はいつもこんなスタンスだ。沿線の何処かで機械的な事故があり列車は少し遅れていた。

 

この先の雪の状況などについてホームで我々と同年配ぐらいのご夫婦と話をした。彼らは奈良へ帰るらしい。電車を待っている僅かの間、色んな話をした。

 

話しているうちに「やっぱり学生時代の友人と飲む酒が一番楽しい」という結論になった。「今まで頑張らはったんやから、これからは精々旧交を温めはったらいい!」と言われたので「大して頑張ってないんですが」と言うと「今こうしておられるのが頑張らはった証拠や」と言われてほっとした気持ちになった。

 

琵琶湖線の野洲あたりから雪景色が見えるようになった。この辺りは川を1本隔てただけで随分気候が変わるらしい。1時間ほどで彦根に着いたが積雪と降雪で歩くのも大変な状況だった。とりあえずホテルに荷物を預けて街に出た。

 

 

駅前の商業モールで「彦根チャンポン」を食べた。九州のものとは全く異なり野菜と醤油出汁のあっさりしたものだった。彦根城へは雪のため行けそうもなかった。ホテルに戻りチェックインすると娘家族との待ち合わせの時間が近づいて来た。ホテルを出て約束の居酒屋へと向かった。娘と旦那、孫娘3人連れである。三女はまだ生後3カ月でこれが初顔合わせとなった。

 

長女・次女がはしゃぐ中、娘夫婦とは色んな話ができた。21:00くらいに店を出た。雪のためタクシーがなかなか拾えなかったが、娘たちが無事タクシーに乗り込むまで見送って駅の反対側のホテルへと向かった。少し飲み足りない気がしてホテルの1階の居酒屋に入った。なんと九州料理の居酒屋だった。

 

 

 

2月10日(月)

朝食をとり10:00前にはホテルをチェックアウトした。彦根の雪はそのまま、琵琶湖線で京都に戻ったのは11:00過ぎだった。

 

駅のロッカーに荷物を預けようとしたがカード専用で使い方がわからない。隣にいた若いカップルに「使い方を教えてくれませんか」と声を掛けた。彼らも荷物を預けようとしていたところだったので「ちょっと待ってくださいね」と言われたが、すぐに丁寧に教えてくれた。私が持っている交通系カードでも大丈夫だった。実に爽やかなカップルだった。

 

京都市街地の雪は消えており天気は快晴だった。「さてどうするか」と考えたが「とりあえず叡電に乗ってみよう」と思い、地下鉄とバスで出町柳まで来た。叡電のホームには「鞍馬」行きが停車していた。とりあえず乗り込んだ。

 

大学の3・4年は叡電の「一乗寺」から徒歩10分ぐらいのアパートに住んでいた。一乗寺燈籠本町という場所である。吉田二本松町からここに引っ越した頃から大学にあまり行かなくなった。少し心を病んでいたようである。そんなことを考えていると電車は「修学院」を過ぎていた。「比叡山」「鞍馬」かで迷ったが、このまま「鞍馬」まで乗ることにした。

 

「岩倉」くらいからちらほら雪景色が見え始めた。過去「鞍馬寺」に来たことはあったのだろうか。記憶がはっきりしない。大学1年の時、父母が上洛した時に大原や貴船神社に行ったのは確かだが…。「出町柳」から40分くらいで終点「鞍馬」に着いた。

 

「鞍馬寺」には雪が残っていた。また階段が多い。今の体力で果たして上まで登れるか。ケーブルカーもあるから何とかなるか。そんなことを考えながら階段を登っていった。途中ケーブルカーに乗り、息を切らしフーフー・ハーハー言いながらどうにか本殿まで辿り着いた。「やはり此処に来たことは無かった」と実感した。

 

本殿に参詣してお神籤を引いた。「第八番半吉」「急がずと時のいたるを待つならばやがて花さく春の来るなり」とのこと。今の季節そのものだ。とりあえず信じてみよう。

 

 

 

 

 

叡電の「鞍馬」に戻ったのが14:00過ぎ。「出町柳」から京阪電車⇒地下鉄東西線⇒地下鉄烏丸線と乗り継いで京都に戻ったのは15:30過ぎだった。

 

地下街ポルタ生八つ橋やお香を家内へのお土産として買った。新幹線は指定の時間には間に合わず自由席となったが窓際E席に座れた。時間的には夕焼けを追いかけながら西に向かうことになった。日が暮れたのは岡山を過ぎたあたりだった。

 

新大阪から30代くらいの女性が隣に座った。なんとこの女性、カツサンドやサーモンのマリネなどを肴にしながら広島までにワインの小瓶2本を空にした。相当な酒豪らしい。

 

小倉には19:00前に到着、自宅に帰り着いたのは20:00くらいだった。夕食は酒を飲みながら今回の旅行について家内との話に花が咲いた。

兼ねて計画していた大学のプチ同窓会(雀友会)滋賀県彦根に住む娘の家族に会うために、この極寒の中、京都・彦根へ2泊3日の旅行を挙行した。

 

2月8日(土)

前日からの雪が気になっていたが、当日の朝は雪も無く在来線(日豊本線)は通常運転新幹線は小倉を定刻通りに発車した。だが山口県に入ると車窓から見えるのは雪景色へと変わった。広島までの区間は若干の徐行運転を行うらしい。

 

結局、京都には30分遅れで到着、ホテルに荷物を預け地下鉄烏丸線で今出川へ。烏丸今出川から203系統のバス京大農学部前で降り、待合わせ場所の喫茶「進々堂」には13:45くらいに到着した。私が一番乗りだった。

 

一人また一人とメンバーが集まってきた。麻雀の面子が集まるような感じである。「進々堂」には15:00くらいまで居ただろうか。それから5人で農学部キャンパスへ。農学部/理学部のキャンパスは学生時代最も縁遠かった場所である。とりあえず農学部グラウンドまで行って農学部キャンパスを後にした。

 

 

本学構内には北東の通用門から入った。工学部各棟の側を通って法経済学部本館へ。法経済学部本館を巡って時計台に出た。本学を抜けて教養部(現・総合人間学部)構内へ。それにしても政治的な立て看板(タテカン)は全く無い。随分変わったものである。

 

教養部の建物も見覚えのないものばかりだった。構内を北から南に縦断して吉田寮まで来た。当時の風情のままである。今もまだ立ち退き問題でもめているようだが、当時吉田寮に住んでいたクラスメートの話では、寮食は飯30円、味噌汁10円で食べ放題・飲み放題だった。昼食を寮で食べていた学生もいたらしい。

 

 

 

 

 

南西の通用門から教養部を出て東大路通百万遍に向かって北上した。居酒屋は百万遍出町柳の間にあった。「隠れ家琢磨」という店である。第一勧銀/百万遍支店は無くなりみずほ銀行のATMだけが残っていた。よく行った(負けた)パチンコ屋「モナコ」は無くなり2階が「サイゼリア」になっていた。

 

居酒屋では美味しい料理を肴に思い出話に花が咲いた。学生時代の様々な思い出が蘇った。麻雀の話や数少ない恋の話(恋バナ)「勉強した」といった話はほとんど出てこなかった。結局大学受験の話に行きついた。ボーダーライン等を細かく分析していた友人もいた。でもやはり一番勉強したのは入学より前だ

 

店を出て出町柳から京阪電車で三条へ。ここで1名が帰宅、残る4人で先斗町まで歩きあるバーへ入った。そこで場違いの日本酒を飲みながら話の続きとなった。

 

 

2月9日(日)午前

友人からの携帯電話で目が覚めた。8:30頃だった。「今から南禅寺まで行って哲学の道を歩くぞ!ホテルまで迎えに行くから準備しろ!」と言う。眠さと二日酔いの中、シャワーを浴びてそれなりに人心地が着いた。

 

南禅寺へはタクシーで。少し雪が残る山門を抜けて境内を散策した。南禅寺から銀閣寺へ向かう哲学の道をひたすら北へと進んだ。薄く積もった雪を踏みしめながら歩いた。永観堂に立ち寄ったり、また友人たちの当時の下宿の跡地を確認しながらの行軍となった。昔あったお洒落な喫茶「若王子」は無くなり、いくつかの新しいカフェがオープンしていた。

 

 

 

途中、鹿ケ谷通りに入り、喫茶「バンビ」で休憩・軽食をとった。「バンビ」は徹マン明けによくモーニングを食べた喫茶店だった。当時はジューク・ボックスがあったがリクエストした記憶はない。レイアウトも随分変わっていた。銀閣寺道で2名と別れた。彼らは出町柳まで歩くらしい。私ともう1名でタクシーで京都駅に向かった。

 

 

京都駅で友人と別れまたひとりになった。これから雪深い彦根へと向かわなければならない。まだまだ前途多難である。

 

※なお肖像権の関連で個人が特定できる画像は掲載していません。また一部の画像は拝借しています。

家内が長崎へ「ランタン・フェスティバル」を観に一泊二日の一人旅をしてきた。昨晩駅まで迎えに行ったが、雪の影響で日豊本線の電車が途中で止まり少しアタフタした。だが、祭り自体は雪の影響もなく色とりどりのランタンの他、蛇踊り変面など十分楽しめたようである。

 

私は仕事もあったし、また今週末京都・彦根へと同窓会及び娘家族に会いに行く予定なので留守番となった。以下は「ランタン・フェスティバル」からの写真である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日からの雪で今朝はすっかり雪景色となった。近くの小学校は休校になったが中学校は通常通りだったようで、道路の雪が消えた午後3時過ぎに買い物に行ったが、無邪気に雪と戯れる中学生たちを見かけた。まだまだ彼らにとっては雪は楽しいものらしい。

 

そろそろ京都旅行の準備もしなければならないが、週末にかけて雪は続くようで多少心配だ。とは言いつつも雪の京都も大学3年(1981年)以来、随分久しぶりなので楽しみでもある。

 

 

今思えば、学生時代の京都の冬は本当に寒かった。暖房設備は炬燵しかなく毎晩炬燵に足を突っ込んで寝ていた。部屋の中でも息が白いほどだった。

 

体が温められるところと言えば銭湯居酒屋くらいだった。飲む金を電気ストーブに回すくらい何時でもできたはずだが……。それができないのが当時の自分だった。思えば、毎朝冷水しか出ない洗面所で顔を洗っていたのが嘘みたいである。

 

そんなことを考えていると、京都行きがまた一つ楽しみになってきた。

 

私の自宅の隣には、米寿くらいの高齢の女性が独り暮らしをしている。ご主人は随分前に亡くなったそうで、二人の娘さんが月に何度か訪れている。

 

家内が洗濯物を干すときなどや、また私も顔を見かけたら声を掛けるようにしている。このお婆ちゃん、少し耳は遠いものの心身ともにご健康なようで、庭の植木の手入れも随時ご自分でされている。大したものだ。

 

お隣りさんの誼で家内はこのお婆ちゃんと仲良くなったようだ。聞くと、この女性の口癖は「もったいない」、またいつも感謝の気持ちを持って生きているそうだ。例えば、今日はお天気が良いだけでも、それをお天道様に感謝しているという。ある意味幸せな生き方だと感じた。

 

 

随分前の話だが、就職が決まった1981年の秋頃から、精神を病んだ時期があった。いわゆるパニック障害というもので、突然に強い恐怖や不安、また不快感が起こり、動悸、息苦しさ、吐き気、ふるえ、めまい、発汗などの発作が繰り返し現れた

 

精神科を除いて色々な病院で診察を受けたが、何処でも「異常なし」という結果だった。今なら真っ先に心療内科を受診するが、当時は精神科に行くことは憚られた。まだまだ偏見が強い時期だった。

 

その頃、たまたま書店で見つけたのが「あなたの不安は解消できる」(石井丈三著)という本だった。藁にもすがる気持ちで購入し帰宅してからむさぼるように読んだ。共感できるところが多く感激して涙が出た。

 

それ以来、その本に紹介されていた「森田理論(森田式精神療法)」に興味を持ち勉強するようになった。もう40年余りになるが、今でも私の書棚の片隅には森田理論に関する本が数冊、まるで常備薬のように並んでいる。

 

今年の年明けくらいから、多少生き辛さを感じることがあり「森田式生活法」(生活の発見会著)を引っ張り出して再度読んでみた。十数年ぶりくらいだろうか。

 

その本の冒頭に長谷川洋三先生の「努力即幸福」ということばが解説されていた。以下は同書からの引用である。

 

「このことばを聞いて、皆さんはどう考えられるでしょう。努力して目標を達成したら、そのとき幸福が到来する、幸福は努力の結果くるのだ考えられる方がいらっしゃるかもしれません。実は私も以前、そのように考えていました。幸福とは努力の結果だと考えていたのです。ところが、そうではないのです。このことばは、努力そのものが幸福であると言っているのです。どういうことかというと、人間は、運動するにしろ精神活動をするにしろ、いろいろな機能、もてる力を全面的に発揮している状態が実は幸福なのだ、という考え方なのです。努力の結果として幸福な状態があるのではなしに、全力を発揮して持っている機能を全面的に発揮する、そのことが幸福なのだという考え方です。」

 

 

自宅で英会話の勉強をしているが、リスニングは聴き取れないしテキストも結構難しい。電子辞書やネット、またAIにも相談しながらいつも悪戦苦闘している。それでもでも我慢して続けていると、小さな心地よさ(快感)を感じる瞬間があった。もしかしたらこれが「努力即幸福」なのか、などと思った。努力の結果はまだ何にも出てはいないのだが………。

 

 

随分前になるが。英会話のGEOS(2010年経営破綻)に通った時期があった。2003年の半ば頃から2年間ほどである。当時GEOSは小倉駅前の井筒屋コレットビルの10階にあった。

 

NOVAを辞めてブラブラしていた頃、NOVA時代の知り合いから紹介されて入学した。アメリカ人のCという個性的な若い女性教師が今も印象に残っている。

 

先日久しぶりに、そんなGEOS時代の友人と飲んでカラオケを楽しんだ。2年ぶりくらいだっただろうか。同い年だけあって共通の話題も多く思い出話に花が咲いた。また1970~80年代の青春ソングで懐かしく楽しいひと時を過ごした。

 

 

私がGEOSに通っていた2004年、年明けからテレビドラマ(TBS系)で「砂の器」が放映された。今は時の人となっている中居正弘氏が主役の和賀英良を演じていた「彼にもこんなシリアスな演技ができるんだ!」と随分感心させられたものだった。

 

このドラマ「砂の器」はその後DVD化されて何度か借りて観た。やはり種明かしがされる最後の2話(全11話)が印象深い本浦千代吉・秀夫父子の春夏秋冬の逃亡の旅の映像がとても感動的だった。春は桜、夏は海、秋は紅葉に冬は雪、美しい景色のバックで流れる千住明氏のピアノ協奏曲「宿命」が哀しくもあり素晴らしかった。

 

この飲まず食わずの父子逃亡の旅は、秀夫にとっては相当に辛いものであったはずだが、彼は後にそれをとても楽しかったことのように振り返るシーンがある。その部分がずっと私の記憶の中に残っている。

 

 

2010年の秋から約2年間、毎週のように独りドライブに明け暮れた時期があった。車を走らせながら見知らぬ街や景色を眺めていると何となく心が解き放たれていった。その頃の様々な出来事は本ブログで何度も取り上げている。

 

目的地の無いドライブの目的は、一人暮らしの孤独や仕事の辛さ(ストレス)を発散させることだったが、後になって考えてみると、実は「辛かったからこそ楽しかったのだ」と思える部分が結構あった。自分なりに一生懸命生きていた時期だった。

 

テレビドラマ「砂の器」(2004年版)は、そんな一生懸命な頃の自分を思い出させてくれる。

 

 

 

 

一週間ほど前、山口方面に独りドライブを楽しんだ。高速で下関まで行って国道191号線沿いに山陰線を走った。

 

豊浦町の「福徳稲荷神社」に立ち寄って今年二社目の初詣を終え、近くの「稲荷茶屋」で昼食をとった。「ちゃんぽんセット」が素朴な味で美味かった。

 

191号線を右折して内陸部に入り菊川町の「道の駅きくかわ」まで走った。何度も走ったコースである。「道の駅きくかわ」の隣には「小日本ふるさと市」があり産地直送の野菜などが販売されている。

 

ちょっと覗いてみたが時間が遅かったのか商品がほとんど残っておらず、家内から頼まれた白菜は買えずじまいだった。

 

「道の駅きくかわ」の近くにはお食事処「ふじ」がある。ここのかつ丼は安くて美味く何度が食べたことがあったが、残念ながら閉店したようで看板も暖簾も外されていた。思い出の店がまた一つ無くなった。何とも寂しいものである。

 

 

 

 

 

 

 

昨日は昼食を食べようと家内と外出したが「少しドライブしたい」というので、国道322号線沿いを香春町まで車を走らせた。テレビ番組「うどんマップ」で紹介されたうどん店「ドライブインかわら」に立ち寄った。看板には立食いと書かれていたが座席もあった。

 

少し甘みのある薄い出汁が美味しかった。柔らかくてやさしい味のうどんが印象に残った。昼時は過ぎていたが結構混んでおり、ごぼう天うどんやおにぎりなども売り切れになっていた。朝6:30から営業しているので、次回は平日早めに来てみようと思った。

 

その帰り道、以前あったラーメン店「珍竜軒」のそばを走ると店の名前が変わっていた。老夫婦がやっていた豚骨ラーメンの老舗で結構美味しく、ドライブの途中に何度か立ち寄ったことがあった。「ここも閉店したのか!」とまた寂しい気持ちになった。

 

 

 

 

 

街を走れば走るたびに町並みも建物や店も変わってゆく。そこに住む人々もまた移り変わってゆく。でもそれはどうしようもないことである。

 

県内、および近隣の県(山口・大分)のあちこちを車で走るようになったのが2010年だから、もう15年になる。色んな道も覚えたし色々な景色にも出会った。好きになった町や場所もたくさんある。立ち寄った店のひとつひとつが思い出になっている。

 

50代初めから60代半ばまでの私の人生の後半は、翻訳の仕事とそんな思い出の欠片に満ち溢れている。果たしてそれが自分の望んだ結果だったのか?答えは誰にもわからないがそんなことを今も時々考える。

 

阪神・淡路大震災からはや30年が経った。震災当時は福岡に住んでおり、ある銀行の本店に勤務していた。1995年1月17日、神戸市をマグニチュード7.3の地震が襲った。地震での死亡者数は約6,500人、この地震で私の銀行の神戸支店も倒壊した。

 

震災の年、年明けの人事異動で本部のある部門の副部長が神戸支店長に異動になった。後に聞いた話だが、その副部長の赴任日が1月17日だった。彼は前日に神戸入りした。その翌朝(赴任日の朝)震災が起きた。「支店に向かうための道が無いどころか、支店自体が無くなっていた(倒壊していた)」状況だったらしい。

 

震災の日の朝、いつも通り自宅でNHKのニュースを見ていた。とくに地震のことは何も報道していなかった。チャンネルを回しているとある映像が目に飛び込んできた。たぶんテレビ東京だ。冷たい灰色の空の下、ある大都市のあちこちから炎と黒煙が上がっていた。また高速道路の一部が破壊されて崩落していた。その映像に目を奪われた。「神戸じゃないか?神戸でとんでもないことが起きている!」と思った。とにかく家を出て駅への道を急いだ。

 

あれから30年、様々な仕事を経験した。翻訳者になって17年になるが今も英語を生業にしている。でも英語の道に進んだのは間違っていなかったと今は思っている。

 

 

ふと、書斎の本棚を眺めると買っただけで読んでいない本が結構ある。そんな中「詳説 世界史B」(山川出版社)が目に留まった。元々は英語版の「英文 詳説 世界史B」を書店で見つけて衝動的に購入、日本語版はついでに購入したものだった。

 

英語版「英文 詳説 世界史B」は、翻訳会社に勤務していた頃に登録翻訳者・通訳者および翻訳・通訳の依頼元(顧客)宛に発信していたメールマガジン(メルマガ)で紹介したものだった。調べると同メルマガの発信が2020年2月、従って約5年、日本語版/英語版ともに書斎で埃を被っていたことになる。

 

今日たまたま手に取って開いたのは日本語版の方だった。巻頭の「世界史をまなぶみなさんへ」を読んでみた。昨今の教科書は随分変わったものである。カラー写真が多いうえに随分読者に優しく(フレンドリー)書かれている

 

私が高校2年に進級した今から50年前の1975年、その年の4月、同じく山川出版社の「詳説 世界史」を初めて読んだ。当時、世界史担当のM先生は思い出に残る教師の一人である。初めて私を勉強の面で褒めてくれた人だったからだ。以後の私の勉強のきっかけを作ってくれた人でもあった。

 

 

今後、時間が許すかぎり高校「世界史」を再勉強してしてみようか、という気持ちになった。「大学入学共通テスト」が終わった今日、そんなことを思った。

 

 

 

 

今から20年ほど前になるが「昭和歌謡を彷彿とさせる」という曲が流行った。「青春アミーゴ」(修二と彰)という曲である。どういうわけかここ数日、この曲が繰り返し頭の中で流れている。

 

ドラマ「野ブタ。をプロデュース」の主題歌だが、ドラマの方は堀北真希が主演だったことくらいを覚えている程度であまり記憶に残っていない。

 

 

今から20年前の2005年、週末になると一人でよく飲みに行った。居酒屋→スナックと梯子してよく歌った。仕事の方もそれなりに楽しく、40代半ばで体力もあった。また、保有していた株が上がって結構金もあった時期だった。

 

 

もう20年も経つのかと思うと時の流れにぞっとする。「2005年に何があった?」とAIに尋ねると以下の答えが返ってきた。

 

1.愛知県で「愛・地球博」が開催されました。これは国際博覧会で、持続可能な未来をテーマにしたイベントでした。

2.JR福知山線脱線事故が発生しました。この事故では多くの犠牲者が出た大惨事となりました。

3.宇宙飛行士の野口聡一さんがスペースシャトル「ディスカバリー」で宇宙へ飛び立ちました

4.小泉純一郎首相が行った郵政民営化とその後の総選挙がありました。この選挙では自民党が大勝を収めました。

5.ライブドアによるメディア買収騒動がありました。堀江貴文社長が中心となり、大きな注目を集めました。

 

「他には?」と尋ねた結果が以下である。

6.トヨタのハイブリッド車「プリウス」が大人気に:トヨタのプリウスが世界的な人気を集め、環境に配慮した車として注目されました。

7.村上ファンド事件村上世彰氏が率いる投資ファンドが、阪神電鉄の株式を大量取得し、企業統治のあり方について議論が巻き起こりました。

8.阪神タイガースがセントラル・リーグ優勝:プロ野球の阪神タイガースがセ・リーグで優勝し、ファンに大きな喜びをもたらしました。等々

 

最後に「その年流行った『青春アミーゴ』についてどう思う?」と尋ねてみた。

 

回答は以下の通りである。

 

「青春アミーゴ」は、2005年の音楽シーンで特に際立った存在でした。修二と彰(亀梨和也さんと山下智久さん)が歌うこの曲は、ドラマ「野ブタ。をプロデュース」の主題歌としてリリースされ、多くのファンの心を掴みました。

 

この曲は昭和歌謡のメロディを彷彿とさせる独特の旋律が特徴で、歌詞も友情や青春をテーマにした感動的な内容です。リズム感のあるサウンドとキャッチーなメロディが相まって、多くの人々に愛され、長く記憶に残る曲となりました。

 

また、二人のパフォーマンスも非常に魅力的で、ダンスや歌唱の見事なコラボレーションが楽曲の人気をさらに高めました。「青春アミーゴ」は今でもカラオケで歌われる定番の一曲であり、多くの人々にとって青春時代の思い出を蘇らせる特別な曲です。

 

 

オリジナルと女性ボーカルのカバーを以下に掲載する。女性ボーカルの声が気に入っている。