流離の翻訳者 青春のノスタルジア -40ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

久しぶりの雪である。今回は積もりそうだ。そんな中、夕刻から大学時代の旧友と一献傾けることになっている。

 

 

小林秀雄「考えるヒント」亀井勝一郎「愛の無常について」。いずれも私の時代の大学入試頻出の作家だった。それも今は随分変わっただろう。

 

当時、両書ともお守りのように持っていたが「愛の無常について」を少し読んだだけで「考えるヒント」については手が出なかった。

 

 

 

早稲田・法学部の入試で、小林秀雄「モーツアルト」に撃墜されたことは以下の記事に記載している。

 

自叙伝(その33)-高田馬場-ボールペンと悪問・奇問

 

 

現在、小林秀雄より難解な、丸山真男「日本の思想」に取り組んでいる。半分ほど読み進めたが余りに難しい。何を言っているのかわからない。とにかく二回は読もうと思う。

 

何かがわかったら本ブログに記載したい。

 

 

 

「英文表現法」から上記、亀井勝一郎の以下の文章の英訳に挑戦したい。

 

(問題)

正義のための怒りは人間の最高の美徳だ。しかし人間である限り真に公平であることは、むずかしい。虚心であることは至難だ。そういうときに怒りを純粋ならしめるところに祈りがあるのではないか。怒りを伴わない祈りが微温的な自己満足におちいりやすいように祈りを伴わない怒りは利己心に堕しやすい。(亀井勝一郎)

 

(拙・和文英訳)

Anger for the cause of justice is the highest virtue as a human being. However, it is difficult for a human being himself/herself to keep a truly fair attitude. What is next to impossible is to keep an open-minded attitude. In such cases, a prayer, I think, could help purify the anger. Just as a prayer that is not accompanied by anger is liable to fall into lukewarm self-content, so anger that is not accompanied by a prayer is prone to lapse into selfishness.

 

今から干支が一回り昔の2011年1月。真冬の海で雄大な景色を見たことがあった。寒空の中、かなり時化た海に夕日が沈んでゆく光景である。場所は福津市津屋崎の海岸。あまりの美しさに車を停めた。

 

頬に吹きつける風は冷たかったが吹かれるままにして海岸に佇み海を見ていた。何故か心が洗われる気持ちがした。翻訳者としての経験は3年足らず。自分の英文に全く自信が持てずに悩んでいた頃だ。

 

 

 

あれから12年。随分と気持ちも変わったものである。元々英訳に正解など無いのである。原文の日本語の真意を汲みとって適切な名詞や動詞を文法的に正しく使いながら英文を構成すればよい。一つの日本語に対して正しい英訳は複数ある。たったそれだけのことだった。

 

自分の好きな文体にどれだけ早くたどり着けるか?その一方で、先方(顧客)が指定する文体で英文が書ける能力も必要となる。まあ、ソフトを使えばそんな能力もいらないのかも知れないが、そんな機械的な翻訳に興味はない。

 

 

 

「奇跡の海」

 

闇の夜空が 二人分かつのは

呼び合う心 裸にするため

 

飾り脱ぎ捨て すべて失くす時

何かが見える

 

風よ 私は立ち向かう

行こう 苦しみの海へと

 

絆 この胸に刻んで

砕ける 波は果てなくとも

 

何を求めて 誰も争うの?

流した血潮 花を咲かせるの?

 

尊き明日 この手にするまで

出会える日まで

 

風よ 私は立ち向かう

行こう 輝きを目指して

 

祈り この胸に抱きしめ

彷徨う 闇のような未来

 

風よ 私はおそれない

愛こそ見つけだした奇跡よ

 

君を 信じてる歓び

嵐は 愛に気づくために吹いてる

 

年明け以来季節外れの暖かさが続いていたが、今週から天気は荒れ始め週末には寒波が来るという。とは言え寒いのもあと一か月余りだろう。

 

 

「古書への旅」中で、佐和隆光氏の著書を都合4冊読むことになった。彼の著書の中には経済学の制度化と言葉が再三出てくる。著書「経済学のすすめ」(2016年・岩波新書)にその定義について触れられていたので以下に記載しておく。

 

 

 

ここで「制度化」というのは institutionalization の訳である。…… institution というヨーロッパ語はもともと普通の言葉で、確立されたもの、とくに人々の政治的・社会的生活において法律、習慣、慣行をとおして定着した行動形態や組織などをさす。たとえば政党とか学校がそうである。科学も社会的に容認された組織体であり、それを維持する物質的基礎が社会に備わっており、それを専門的にになう職業集団が存在しているという意味で、明らかに一つの制度である。しかし科学ははじめから社会的制度として存在したのではない。科学が制度化するのは19世紀のことであった。(以上、広重徹『科学の社会史』から引用)

 

佐和氏は、上文(下線部)の「科学」「経済学」に、「19世紀」「1950年代」に置き換えれば、私が言う「経済学の制度化」を意味するところとなる、と言う。

 

さらに佐和氏は「経済学の制度化」ための以下の4つの必要十分条件を規定する。

①経済学の標準的な教科書が「易」から「難」へと秩序正しく整っていること。

②経済学の査読付き専門誌が存在しており、経済学者の業績評価が、同専門誌への掲載論文の量と質により定まること。

③経済学を専門的に担う職業集団(=学会)が存在し、経済学を修めた者(修士できれば博士)がプロとして働ける職場が存在していること。

経済学の有用性が社会的に認知されていること。

 

 

私が学生だった1970年代の終わりから1980年代初めの時期は、経済学部は、法学部や経営・商学部に比べて、学派(新古典派、マルクス主義、ケインズ派)の論争もあり上記①③④(②はよくわからない)すべてが中途半端であったように思われる。

 

 

最後に動詞 institutionalize について英英辞典の定義を記載しておく。

 

Institutionalize:

To institutionalize something means to establish it as a part of culture, social system, or organization.

「ある物を、文化、社会システム、または組織の一部として確立すること」

 

共通テストの問題が新聞に掲載されていたが、理数系などでやたら絵図が多い感じを受けた。私の場合は共通一次が始まる前の一発勝負最後の年だった。今の時期は鉢巻を締めての追い込みの最中だった。

 

苦手な現代国語や日本史に無理して時間を割いていたが、日本史に関して祖母とよく話をした。明治生まれの祖母は田舎には珍しく高等女学校卒のインテリ(笑)で、ものをよく知っていた。

 

明治後半から昭和初期・戦前の時代について祖母は自らの人生を振り返るように歴史の話をしてくれた。問題は年号が西暦でも和暦でもなく「神武天皇即位紀元」だったことである。でもそれが苦手な教科書を読み返すきっかけにもなっていた。

 

神武天皇即位紀元とは西暦に660年を加算したもので、1940年(昭和15年)が紀元2600年、ゼロ戦の生まれた年であり、今年は紀元2683年になる。祖母は換算方法まで教えてくれた。優しかった祖母が懐かしい。

 

 

「群衆・大衆」の意味の名詞 crowd は動詞で「(人が)ある場所に群がる、押しかける」の意味になり crowd out「押し出す、締め出す」の意味を表す。

 

 

経済学で「クラウディング・アウト効果」とは、基本的には、民間消費を前提とする国債発行によって政府が財政資金を調達するとき、金融市場から資金が吸い上げられ、資金の不足、利子率の上昇をもたらし、その結果、民間資金需要が「押しのけ」(crowd-out)られ、民間投資ひいては消費支出が後退を余儀なくされる効果をいう。

 

 

 

少し平たく言うと、政府が財政政策を行うための資金として大量の国債を発行すると、その国債を購入するための資金が金融市場(現金・預金など)から政府に移動することになる。

 

このため金融市場では資金が不足することになり、それが利子率を上昇させる。利子率が上昇すれば、民間企業は投資を減少させ、それが消費支出全体の減少に繋がるというものである。

 

政府が財政政策を実施して財政に関する乗数効果により国民所得が増加しても、クラウディング・アウト効果により民間投資が減少すれば、その増加は減殺される。結局、財政政策が、民間企業の生産活動の妨げになることもあるということである。

 

経済学の論法は相変わらず胡散くさい。「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいなものだ。静かな曲でも聴きながら気分を変えよう。

 

「現代の金融政策-マネー・サプライをめぐる理論と実証-」(石川常雄著・東洋経済新報社)を年明けから読み始めて8割ほど読み終えた。石川氏は大学2年時の「金融論」の教官で、自分なりに真面目に受けた講義だった。

 

本のタイトルは「現代の金融政策」となっているが昭和60年(1985年)発行なので昭和期の金融政策史という感じで読み進めてきた。

 

私が中学から高校に在学中だった①1973年4月~1975年4月までの時期、また大学に在学中だった②1979年4月~1980年8月までの時期の2回にわたり、日銀は金融引締政策を実施した。

 

①は第1次石油危機により誘発された物価暴騰、2桁のインフレ鎮圧のためのもの、②も第2次石油危機による原油価格の80%程度の上昇を受けてのものだったが、これにより日本経済は「安定成長」への「軟着陸」に成功したと著者は述べている。

 

また、この2回の金融引締政策を通じて、マネー・サプライのコントロールがきわめて適切に行われたこと、すなわちマネタリスト的な推論が成立しうるケースが多いと結論付けている。

 

自分が中学⇒高校⇒大学と「ボーっと生きていた」間に裏側で様々な金融政策が実施されていたことを知ったことは有意義だった。新聞記事が少しは面白く読めるかも……という気がする。

 

 

 

 

パートナーからある英語の質問を受けて except という前置詞(接続詞)を辞書で引く機会があった。そこに妙な文例を見つけた。

 

She is never cross except when she is tired.

「彼女は疲れている時以外は決して怒らない」

 

 

形容詞の cross はこの歳になって初めて見た。早速英英辞典で確認してみた。

 

Cross:

Someone who is cross is rather angry or irritated.

「人がかなり怒っている、またはいらいらしている様子」

 

綴りから想像しえない意味を持つ単語はまだまだたくさんある。

 

夜中に目が覚めて書斎に行き、コーヒーを飲みながら本棚の整理をする。それから読みかけの本を読み始める。そんな生活が続いている。何となく高校2年頃の生活を思い出す。

 

 

昨日の日経のAngle欄にドイツのハイパー・インフレに関する興味深い記事があった。

 

今からちょうど100年前の1923年、ドイツで発生したハイパー・インフレは経済史に残る悲劇だった。ドイツ・マルクの価値は1923年末までに戦前と比べて1兆分の1以下に落ち込んだ。

 

1杯5000マルクのコーヒーが、飲み終わったときには8000マルクになっていると形容されていた。

 

 

 

政府が野放図に国債を発行し、中央銀行がお札を刷って引き受ける。それを続ければ通貨は信用を失い、やがて紙くずになる、ハイパー・インフレは必然だったらしい。

 

人々も政府もモノの価値が上がっているのか、それとも通貨の価値が下がっているのか、コインの裏表のどちらかがわからなくなった。

 

政府は裏表の判断を誤り、国民の生活を奈落の底に突き落とした。

 

 

昨今の消費者物価指数(CPI)の上昇と150円を超える急激な円安、以後の為替相場の乱高下。一旦円安には歯止めがかかったようだが、政府が発行した国債を日銀が買い続ける構図は変わっていない。果たして円は価値を保つことができるのか?

 

記事は「100年前のドイツからくみ取るべき教訓は多いはずだ」と締めくくっている。

 

「初夢」は1月1日の夜から2日の朝にかけて見る夢となっているが、何を見たのか忘れてしまった。いつものことである。

 

 

昔読んだ本に「夢を思いだすためには夢のしっぽを捕まえることだ」とあった。

 

夢のあるシーンを覚えておき、目が覚めたら忘れないうちに何処かに書きとめておく。このシーンから夢の全体が芋づる式に思い出せるらしい。何度かやってみたが確かに夢の大部分を思い出すことができた。

 

 

 

「英文表現法」からもう一本英訳に挑戦したい。今回は「演習」「学芸・文化に関する表現」からの問題である。

 

 

(演習問題)

「詩や小説の中で人間が眠っているときに見る夢を、ありありと描くことはじつにむずかしいようである。なぜなら夢には、独自なリアリティがあり、短さ、あいまいさ、非合理さ、あるいは主観的な無類の真実さなどそれらのいずれを欠いても夢らしい自然は失われてしまうからである。」(清岡卓行)

 

 

(拙・和文英訳)

It seems truly difficult to describe a dream vividly in a poem or a novel when we dream while sleeping, which is because a dream has its own reality. Therefore, without either of the shortness, ambiguity, irrationality, or subjective unique authenticity of a dream, the naturality of the dream would be lost.

 

昨日は宇佐神宮へ参詣。少し遅い初詣となった。それから安心院(あじむ)へ。すっぽん鍋を堪能した。

 

東椎屋の滝近くの「滝見苑」は風情溢れる民宿である。女将さんのコレクションの伊万里や波佐見の焼き物が店内に展示されている。雑炊を食べ終わると体の中からポカポカになった。

 

 

 

 

「英文表現法」(戸川晴之著・研究社)は学生時代に購入し、少しかじった後卒業後に手放し、昨今Amazonで再度中古品を入手した代物である。

 

中をパラパラとめくっていると懐かしさがこみあげて来た。少し高級な英作文の参考書のように思えてくる。本稿では同書の「演習」「自然に関する表現」から今の季節に因んだ問題の英訳に挑戦する。これを2023年の書初めとしたい。

 

 

 

(演習問題)

「雪がちらちらと降りはじめたかと思うと、その重い雪雲が、低くたれこめたまま、幾日も、京都の町並を、くろくとざしつづけた。思いだしたように、ちらちらと降ってはやみ、やんでは降っていた雪が、霙になり、雨になり、やがてその雨もやんだと思うと、今度は、晴れ上がった凍てつく寒さの日々が、続くのであった。」(田宮虎彦)

 

 

(拙・和文英訳)

Once a light snow began to fall, the heavy snow cloud kept on lying low over the streets of Kyoto for days, blocking the city gloomy. The light snow, which was falling on and off sporadically, turned sleet or rain. When the rain seemed to stop, the sky cleared up in a short time, carrying a freezing fine day. Thus Kyoto would usually suffer such cold weather day after day.

 

 

実に難しい。受験英語のレベルではない。なお、田宮虎彦氏(1911-1988)は昭和の小説家で、旧制第三高等学校(現・京都大学総合人間学部)文科から東京帝国大学文学部国文学科卒。「落城」「鷺」などの歴史小説のほか「足摺岬」「絵本」「沖縄の手記」など多くの作品を残している。

 

年末年始の暴飲暴食に「七草粥」のほろ苦さが胃に優しい。「芹(せり)薺(なずな)御行(おぎょう)繁縷(はこべら)仏の座(ほとけのざ)菘(すずな)蘿蔔(すずしろ)これぞ七草」昔の人はよく考えたものだ。

 

 

 

 

年末から「現代海上保険」という本を読んでいる。以前途中まで勉強して挫折した分野だ。前回は保険からではなく英文契約書からアプローチして契約書の英文の内容のみ理解しただけで終わった。今回は正面から挑戦する。

 

 

同書に「危険」を表す英単語のペリル(peril)ハザード(hazard)リスク(risk)の違いについての記載があった。

 

同書にはこんな例が記載されている。洪水の可能性がある河川の土手に建てられた家屋を想定する。「事故である洪水がペリル、家屋が河川に近接していることがハザード、そして洪水が発生する可能性(機会)がリスクである」と説明している。

 

 

併せてこんなことも書かれている。「保険者がある一定のリスクを引き受けるべきか否か、また引き受けたリスクにいくらの保険料を課すかを決定する際にはハザードについて斟酌することが重要である。ハザードは物理的ハザードまたは道徳的ハザードのどちらかでありうる」とある。

 

 

さらに物理的ハザードは保険の目的物の物理的または有形的な側面に関係し、道徳的ハザードは人の態度および行動に関係する」とあった。

 

 

3つの「危険」ペリル、ハザード、リスク。損害保険会社に在籍した人間として言葉の使い方にもう少し神経質になるべきだと感じた年明けである。

 

年末年始一冊の本を読んだ。佐和隆光著「経済学とは何だろうか」というものである。1982年2月発刊だから私が大学を卒業する寸前のものである。佐和氏は大学2年時に「計量経済学」を担当されていた教官である。テキストは「数量経済分析の基礎」というものだった。

 

 

 

この本を読んで知ったこと。

 

「新古典派経済学」「ケインズ派経済学」を折衷して成立した「近代経済学」は世界恐慌後の1930年代以降米国で制度化され1950年代に日本に移植された。そして1960年代には隆盛を誇ることになった。

 

しかしながら、その前提となる仮定の非現実さなどから1970年代に入ると批判と反撃にさらされた。批判した側にはマルクス経済学者などを含むが同書では総称して「ラディカル派」と呼ばれている。

 

私が大学に在学した1978年~1982年という時期は、まさに「近代経済学者⇔ラディカル派」の論争の真っただ中にあった。

 

京大では大学2年から学部講義を受講できた。確かに「経済原論」が近経とマル経で1年毎に交互に講義されるとか、原論総論がマル経で原論各論が近経などといった一貫性のない講義が続けられていた。

 

経済政策に至っては、日本経済の成長化政策とか安定化政策ではなく、大野英二教授のドイツの金融資本成立史的な講義が行われていた。講義にやたらドイツ語が出てきて、何処が経済政策なんだ?と疑問に思いながら毎週受講していた。要は、各教官が自分の専門分野を好き勝手に講義している状況だった。

 

 

そんな混沌とした状況の中で、受験勉強程度の知識しかない自分が、如何に専攻分野を見いだし将来に向けて勉強していくかの判断がどれほど難しかったかを同書を読んで痛感した。当時の自分を正当化するわけではないが、それを知っただけでも同書を読了した価値があったと思える。

 

今のようにネットで情報が取得できたならばそんな苦労は無かっただろうが。