新・英語の散歩道(その29)-英文解釈考①-アインシュタインの英文から | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

英文解釈の受験参考書などを読んでいると、読みやすい自然な日本語に訳出するのかがいかに難しいかを痛感させられる。どの和訳も実に見事なものである。なかなかできるものではない。

 

受験生の時は、なるべく辞書にのっている訳語の通りに、文法書にある定訳の通りに逐語的に訳出することを心掛けていた。だがそれでは自然な美しい訳文はできない。訳文は自分の語彙や文法の知識をひけらかすためのものではない。実は、真の英文和訳には語彙や英文法だけでなく、私の苦手な深い国語力が必要だった。

 

そんな理由から「英文解釈より英作文の方が自分の個性が生かせて遥かに面白い!」と長い間感じてきた。

 

その考え方が変わったのが、翻訳者になり一次翻訳者の和訳をチェックするようになってからである。あまりに逐語訳的で何を言っているかわからない訳文もあった。それをいかに意訳して、読みやすく自然で意味の通る日本語に改訂してゆくかに自分の個性が生かせて面白いとを感じるようになった。和訳が嫌いではなくなった。

 

 

以下は「英文をいかに読むか」(朱牟田夏雄著・文建書房)からアルベルト・アインシュタイン(1879-1955)の英文の和訳である。

 

 

彼が、自分が生きている(生かされている)ということをいかに真摯に、また謙虚に捉えていたかが窺われる英文である。天才とはそういうものなのかも知れない。英文を真摯に受けとめて訳してみた。結構難しい。

 

 

 

(問題)

Strange is our situation here upon earth. Each of us comes for a short visit, not knowing why, yet sometimes seeming to divine a purpose.

From the standpoint of daily life, however, there is one thing we do know: that man is here for the sake of other men ―― above all for those upon whose smile and well-being our own happiness depends, and also for the countless unknown souls with those whose fate we are connected by a bond of sympathy. Many times a day I realize how much my own outer and inner life is built upon the labors of my fellow-men, both living and dead, and how earnestly I must exert myself in order to give in return as much as I have received. My peace of mind is often troubled by the depressing sense that I have borrowed too heavily from the work of other men.

I do not believe we can have any freedom at all in the philosophical sense, for we act not only under external compulsion but also by inner necessity. Schopenhauer’s saying ―― “A man can surely do what he wills to do, but he cannot determine what he wills” ―― impressed itself upon me in youth and has always consoled me when I have witnessed or suffered life’s hardships. This conviction is a perpetual breeder for tolerance, for it does not allow us to take ourselves or others too seriously; it makes rather for a sense of humor.

(“What I believe” by ALBERT EINSTEIN)

 

 

(拙・英文和訳)

地球上での、我々人間の状況とは実に不思議なものである。私たち一人一人が、その訪問の理由を知らずに、短い時間地球を訪問しているが、それ自体が時にはその訪問の目的を神聖化しているようにも思われる。

しかし、日常生活の観点から、我々が知っていることがたった一つだけある。それは、我々人間が他の人たちのために地上に生まれてきたこと、とりわけ、自分自身の幸福が、その人たちの笑顔や幸福に拠るものであるような他の人たちのために、そしてまた、共感という絆によって我々とその運命が繋がっている無数の未知の他の人たちの魂のために、我々が地球に生まれてきたこと、ということである。私は、一日に何度も、どれくらい私自身の外面および内面の生活が、他の人たち(たとえ生きていようが死んでいようが)の労力の上に成り立っているか、また、私が受け取ったものと同じくらいのものを彼らに返すために、どれくらい私が真面目に努力しなければならないか、を痛感する。私の心の平安は、私が他の人たちの労力に負うところがあまりにも大きいという憂鬱な気持ちによってしばしば乱される。

私は、我々人間が哲学的な意味で自由を持てるとは全く考えない。何故なら、人間は外からの強制だけでなく、内からの必要性によっても行動するからだ。ショーペンハウアーの言葉「人は自分のやりたいと思うことを確かになしうるが、自分が何をしたいかを決めることはできない」は、若い頃の私に感銘を与えたし、また私が人生の苦難を直面したり苦しんだりするたびに、いつも私を勇気づけてきた。この確信が、常に寛容の精神を生みだしている。何故なら、この確信は、我々に自分自身や他の人たちをあまり大真面目に受け取ることを許さず、どちらかといえばユーモアの気持ちを生じさせるからである。