流離の翻訳者 青春のノスタルジア -33ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

初めての「#投稿ネタ」からの投稿である。

 

 

パートナーから「私は中性的な性格」だと時々言われる。確かに小学校くらいまでは女の子の友だちが多かった。誕生会などに呼ばれると男は自分ひとりということが結構あった。

 

中学校に入り、異性を意識し始める年ごろになって妙に昔の女友だちとは疎遠になっていった。

 

 

さて、#投稿ネタの「#好きなマンガのヒロイン」だが、高校2年のとき授業で世界史を学び始めた。初めて真面目に勉強した科目だ。昔から世界史には興味があった。

 

その頃、テレビで観たアニメが「ラ・セーヌの星」というものである。パリの花売り娘のシモーヌは、実は王妃マリー・アントワネットの妹という設定になっている。夜になると「ラ・セーヌの星」となって正義の剣をふるう。

 

フランス革命の前夜の物語であるが、世界史の勉強を進めながら毎週楽しみにしていたことを思い出す。

 

 

 

今日の日経新聞の「春秋」欄に「積置(つんどく)」の話が出ていた。

 

読書には3種類ある。朗読、黙読、そして積置(つんどく)だ――。江戸時代、すでにそんな分類法があったという。明治に入り、「置」のかわりに「読」の字をあてた「積読」の表記が現れる。未読の書を抱え込む積読の歴史は古い。……

 

 

先日、大学の教官をしている友人と会食したとき、彼も蔵書の3分の1くらいは積読状態になっていることを知り何となくほっとした。

 

 

昨年の秋頃から自由な時間が増えてきて、積読状態だった書籍の半分以上は読了できたようで気分が良い。だが、その一方で新規に購入した書が積読を増やしており、これも止むを得ないことかも知れない。

 

「春秋」欄は以下の文で結ばれている。

 

気になる本があれば、積読になっても買っておこう。著者と自分自身、両方への投資になる。

 

 

下重暁子著「家族という病」は積読ではなく、数年前に「極上の孤独」に次いで読んだものだ。あまり印象に残っていないがこんな文面を見つけた。

 

 

(日本文)

死別した人のことは、なかなか忘れることは出来ないが、生き別れで離婚した人のことはすぐに忘れるという。死んだ人の場合は、面影が、その時点のままで灼きついてしまっている。言動についても記憶中のものが変化することはほとんどない。再び会うことが出来ないという思いが、懐かしさを呼び、悪いイメージを呼び起こすことがない。どんなに迷惑をかけられようと、顔も見たくないと思おうと、会う機会を失ったら、思いは変化するものなのかも知れない。父や母、きょうだいでもそうなのだから、血のつながらない夫や妻の場合は、愛憎こもごもに入り乱れて、複雑なものがある。

(下重 暁子「家族という病」p.48-49より引用)

 

(拙・和文英訳)

It is considerably difficult to forget a deceased person, however, it is said that we can quickly forget a divorced partner. In the case of a deceased person, his face has burnt into our mind as it was at that time. There is almost no change in our memories as for his words and actions. The fact that we cannot see each other again evokes nostalgic memories and does not evoke bad images about him. No matter how much you may be troubled by him, or no matter how much you may not want to see his face again, if you lose the opportunity to meet him, your thoughts might change. This applies to the case with a father, a mother, and siblings, therefore, in the case of a husband or a wife, who is not related by blood, there must be something more complicated alternating feelings of love and hate.

 

昨日からまた気温が下がった。朝方は暖房が必要なほどだ。春の天候は寒暖の差が激しい。

 

 

母が亡くなってもうすぐ丸4年になる。日本中が「令和改元」のお祭り騒ぎに浮かれていた頃。紫陽花が咲き始めた時節だった。

 

令和改元を知ってコロナ禍を知らずに逝ったのは、ある意味幸せだったのかも知れない。今はそんなことを感じる。

 

 

 

数年前に読んだ、姜尚中著「母の教え」をパラパラめくっていたら、ある文章に傍線を引いていた。心に留まった一節と思ったのだろう。少しだけ母の人生に似てる気がする。

 

 

 

(日本文)

いつも何かに追われるように、次から次へと心配りに忙殺され、人生のペダルを慌ただしく漕ぎ続けた母。おっとりした少女は、次第に、神経症的なこだわりに囚われ、壮年期には、躁鬱の激しい性格へと変貌していた。気の休まる時間など、ほとんどなかったのだろう。だが、人生の終わりの時が近づくにつれ、母は本来の穏やかな性質を取り戻していった。もちろん、純朴な幼子に戻れるわけがない。あまりにも多くの人生の垢が、心身にこびりついていたからだ。しかし、連れ合いにも先立たれ、同じ時代の経験を共有する人びとがいなくなったころの彼女は、人生の酸いも甘いも味わい尽くした、大人ならではの清らかさに包まれていた。息子の目には、人生のもやい綱を断ち、何事にも動じない、自分だけの世界に戻っていくようにさえ映った。

(姜尚中「母の教え 10年後の『悩む力』より引用)

 

 

(拙・和文英訳)

My mother, as if always being chased by something, had been occupied with various considerations one after another, and had continued to pedal her life hurriedly. A calm girl gradually became affected with a neurotic obsession, and had changed to a seriously manic-depressive personality in her middle age. There would have been little time for her to relax herself. However, as the end of her life approached, she restored her natural calm character. Of course, she couldn’t go back to an innocent child because her mind and body were soiled with much dirt of her life. However, when she survived her husband and there were no people who could share her experiences of the same era, she was filled with the purity as an adult who had known sour and sweet of life. In my eyes as a son, her feature was as if she had cast off the mooring of life and returned to her own world where she could always keep herself calm toward anything.

音の異なる仮名四十七文字を歌にした「いろは歌」だが、その作者については空海柿本人麻呂源高明など様々な説がある。このうち柿本人麻呂説では「いろは歌」の中に作者、柿本人麻呂の暗号が埋め込まれているという俗説が古くから流布されている。

 

 

 

 

いろは歌は「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす」(色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず)という七五調だが「金光明最勝王経音義」という音義(経典に記される漢字の字義や発音を解説するもの)ではこれを七五調区切りではなく、以下のように七文字毎に区切って表記している。

 

 

(七文字目)                             (五文字目)

いろはにほへ                        いろはにへと

ちりぬるをわ                        ちりぬるわか

よたれそつね                        よたれそねな

らむうゐのお                        らむうゐおく

やまけふこえ                        やまけふえて

あさきゆめみ                        あさきゆみし

ゑひもせ                              ゑひもせす

 

 

この七文字表記の七文字目(左・下線部)を縦に読むと「とかなくてしす(咎無くて死す)」、また五文字目(右・下線部)を縦に読むと「ほをつのこめ(本を津の小女)」となり、これがいわゆる「人麻呂の暗号」と呼ばれるものである。

 

その意味は「私は冤罪(えんざい)により殺される。本書を津(地名)の妻の許へ届けよ。」というものになる。

 

 

万葉歌人、柿本人麻呂の生涯には謎が多く、高官であったが政争に巻き込まれて刑死したという説も伝えられている。人麻呂の暗号は、いろは歌に限らず百人一首やその他の和歌の中にも残されているという説もあり、その信憑性はともあれ、こんな古代史ミステリーに興味がある御仁は、以下の書を読まれてみることをお勧めする。

 

①「水底の歌-柿本人麻呂論」(梅原猛著1972年-大佛次郎賞受賞作)

②「猿丸幻視行」(井沢元彦著1980年-江戸川乱歩賞受賞作)

③「人麻呂の暗号」(藤村由加著1989年)

 

 

 

長時間翻訳を続けていると、しばしば頭脳が飽和したような状態になり、英文が浮かばなくなる。そんなときは眠るのが一番だ。目が覚めたら頭がすっきりしている。

 

コンピュータ再起動のようなものである。メモリーの中のゴミが整理され記憶領域が拡張される。汎用コンピュータの世界では、これをコンデンス(condense)とかコンプレス(compress)と呼んだ。

 

 

 

以下は「英文解釈難問集」から、忘れることの大切さに関する英文である。次の行動を起こすためには、忘れることも確かに必要である。

 

 

(問題)

It is indeed fortunate that we can forget; it is as necessary to forget as it is to remember. I am not speaking now of forgetting unhappy memories, but rather of forgetting what is unrelated to the purpose of the moment. We could not concentrate on anything al all if we were not able to forget everything else for the time being. The innumerable little insignificant events of daily life and the many facts that come to our attention (as when we look through a newspaper) have to be forgotten, so that our minds can be cleared for action.

(岩手大学・1978年以前)

 

 

(拙・英文和訳)

我々がものを忘れることができることは実に幸せなことである。記憶するのと同じくらい忘れることは必要だ。私は今、不幸な記憶を忘れることについて話しているのではなく、むしろ、その一瞬の目的とは関係ないことを忘れることについて話しているのである。もし、しばらくの間他のことを忘れることができなければ、何事にも集中することはできないだろう。日常生活の無数の小さな取るに足らない出来事や(新聞に目を通すときのように)私たちの注意を引く多くの事実は、私たちの頭脳が整理されて次の行動に取り掛かれるように、忘れ去られなければならない。

令和が始まってもうすぐ4年になる。一昨日くらいからフェーン現象が発生しているようでかなり気温が上がった。四月とは思えない暑さである。

 

 

万葉集に以下の歌がある。

 

「春過ぎて夏来きたるらし白栲(たへ)の衣乾したり天の香具山」  持統天皇

 

教科書にもある有名な歌で、ちょうど今の時節を詠んだものと思われる。通常は「いつの間にか春が過ぎて夏が来たようですね。あの天の香具山に白い衣が干されているのが見えていますよ。」のように口語訳されている。

 

 

 

新元号『令和』を考案した万葉学者、中西進氏の自叙伝が以前ある新聞に連載されており、その中でこの歌の解釈に言及している件(くだり)があった。

 

 

「……(前文略)……そもそも聖なる山の香具山に洗濯物など干すでしょうか。おまけに藤原宮跡から香具山を見ても洗濯物まで見えるはずはない。そこである時から、まだら雪に覆われた冬の香具山を見て詠まれたものと解釈しています。雪化粧を『白栲の衣』と虚構し、春どころか夏が来たように感じる。そう思うとユーモアも感じますね。……」

 

 

和歌の口語訳も翻訳の一種と思われるが、我々のような産業翻訳者の場合、和訳であろうが英訳であろうが、原文からかけ離れて思い切った意訳をすることを躊躇(ためらい)がちだ。

 

しかし、時には中西氏のような大胆な発想による別解が、原作者の真意へ到達する近道かも知れない。

 

昨年末に最後の職場を退職したので、先日フリーランスとしての名刺を作り直した。

 

今年は旧友・旧知との再会が多く名刺が役に立っている。それにしてもみんな歳をとったものだ。

 

昨日の飲み会は福岡・赤坂で「もつ鍋」だった。随分久しぶりの味を堪能した。また旧友たちの懐かしい顔を見ていると記憶が次から次へと甦ってくる。脳がまた活性化されたようだ。

 

 

 

季節外れだが、今回は「雪」がテーマである。

 

私が幼い頃は、子どもにとっては雪は「寒い」ものではなく「楽しい」ものだった。今でもそんな雪の日の記憶が甦ることがある。

 

 

 

当時の主たる暖房設備は掘りごたつだった。掘りごたつの中には火鉢があり練炭を燃やしていた。こたつに顔を突っ込むと一酸化炭素中毒になる状況だった。

 

石油ストーブが既にあったかどうかははっきりしない。床面にも火鉢を置いて暖をとっていたような記憶がある。夜寝るときは湯たんぽで暖をとった。

 

 

 

父は若い頃バイクに乗っていた。何度か後ろに乗せてもらったが怖いと思ったことはなかった。ただ、その日はバイクが運転できるような状況ではなかった。大雪だったからだ。

 

まだ私が小学校に上がる前のこと、そんな大雪が降った次の日、小学校の前の道は雪で真っ白になっていた。いわゆる「三八豪雪」(昭和38年=1963年)である可能性が高い。

 

その道を父母と私それに祖母の4人で歩いている。たぶんこたつ用の練炭を買いに行く途中のような記憶がある。

 

何故そのシーンだけを覚えているのかわからない。昭和の寒い灰色の空の下の記憶である。

 

庭の躑躅(つつじ)が咲き始めた。朝方は冷えるが日中は初夏のような時節になった。

 

ところで、この「躑躅」という漢字がだ、音読みでは「てきちょく」と読み「二、三歩進んでは止まること、躓(つまづ)く、躓いて止まること」(漢字源)の意味がある。

 

一説によると、ある種の躑躅には毒性があり、その葉を食べた羊が躑躅(てきちょく)して死んだことが由来とも言われている。

 

 

 

私を可愛がってくれた伯父・伯母が昔住んでいた辺りに今でも時々行く。よく遊んだ神社が今も残っており、神社の裏手には公園がある。

 

この公園は当時はとても広く感じたが、今見ると大したことはない。伯父の家から神社までの距離についても同じである。単に自分のスケール(度量ではなくサイズ)が大きくなっただけのことである。

 

 

 

夏休み・冬休みには何日間も伯父夫婦の家に泊まった。父母と違い何をやっても怒られることはなく私にとってはわがままのし放題で居心地のよい場所だった。

 

伯父の家の周りにも自然と同世代(小学校の低・中学年)の友達ができた。不思議と当時は誰とでもすぐに仲良くなれた。男の子が多かったが顔は全く思い出せない。

 

 

神社の側に「石屋」(今で言えば石材業)を営んでいる家があった。そこには5~6人の姉妹がいた。男の子は居らず、こちらは何となく顔が思い浮かぶ。全員が器量よしだった。

 

当時一番上の姉さんが高校生くらいで、一番下は私より年下だった。伯父夫婦の家に行くと必ずその家に遊びに行くようになった。

 

私が行くとお菓子を出してくれ、姉妹が皆で私の相手をしてくれた。その家で初めて「甘酒」というものを飲まされた。これが私が飲んだ最初のアルコールである。でも本当に優しくて綺麗な姉さん達だった。

 

 

この我が儘放題させてくれる伯父夫婦と、優しい美人姉妹に囲まれた幼少期が私の今の性格の形成に大きな影響を与えているものと思う。

 

伯父・伯母の家は随分前に取り壊され道路の一部になった。石屋の家屋は、ほぼ当時のまま残っているが空き家になっているように見える。人が住んでる気配は感じない。

 

 

あの美人姉妹も既に皆「婆さん」の範囲に入っていると思うが、できれば(お互い)生きているうちにもう一度会いたいと思う。私にとっては決して頭が上がらない人々である。

子どもはわけもわからないものに恐怖心を抱くものだ。

 

 

幼い頃、私を可愛がってくれた伯父・伯母の家の座敷には赤い牛が描かれた絵皿があった。焼き物だったのかガラスだったのか。とにかく濃い青を背景に赤い牛が描かれていた(写真はネットで拾ったもの)。

 

どういうわけか私はその絵皿が怖かった。私が遊びに行くと伯父・伯母は絵皿を裏返しにした。それでも絵皿の存在が怖かった。結局、伯父・伯母は絵皿を何処かへ片づけてしまった。

 

すると今度は絵皿が置いてあったサイドボード自体、また終いには座敷に入ること自体が怖くなった。「座敷には赤い牛がいる」というトラウマができ上ってしまったようである。

 

このトラウマから抜け出したのは小学校の高学年くらいの頃だ。考えてみれば普通に牛肉を食べるようになった頃かも知れない。

 

私が中学に上がった頃、伯父・伯母の家の赤い牛の絵皿は元の位置に戻されていたが、もう絵皿に恐怖心を抱くことはなかった。

 

伯父・伯母が亡くなってからずいぶん時が経った。あの絵皿の所在は今はわからない。