今日の日経新聞の「春秋」欄に「積置(つんどく)」の話が出ていた。
読書には3種類ある。朗読、黙読、そして積置(つんどく)だ――。江戸時代、すでにそんな分類法があったという。明治に入り、「置」のかわりに「読」の字をあてた「積読」の表記が現れる。未読の書を抱え込む積読の歴史は古い。……
先日、大学の教官をしている友人と会食したとき、彼も蔵書の3分の1くらいは積読状態になっていることを知り何となくほっとした。
昨年の秋頃から自由な時間が増えてきて、積読状態だった書籍の半分以上は読了できたようで気分が良い。だが、その一方で新規に購入した書が積読を増やしており、これも止むを得ないことかも知れない。
「春秋」欄は以下の文で結ばれている。
気になる本があれば、積読になっても買っておこう。著者と自分自身、両方への投資になる。
下重暁子著の「家族という病」は積読ではなく、数年前に「極上の孤独」に次いで読んだものだ。あまり印象に残っていないがこんな文面を見つけた。
死別した人のことは、なかなか忘れることは出来ないが、生き別れで離婚した人のことはすぐに忘れるという。死んだ人の場合は、面影が、その時点のままで灼きついてしまっている。言動についても記憶中のものが変化することはほとんどない。再び会うことが出来ないという思いが、懐かしさを呼び、悪いイメージを呼び起こすことがない。どんなに迷惑をかけられようと、顔も見たくないと思おうと、会う機会を失ったら、思いは変化するものなのかも知れない。父や母、きょうだいでもそうなのだから、血のつながらない夫や妻の場合は、愛憎こもごもに入り乱れて、複雑なものがある。
(下重 暁子「家族という病」p.48-49より引用)
(拙・和文英訳)
It is considerably difficult to forget a deceased person, however, it is said that we can quickly forget a divorced partner. In the case of a deceased person, his face has burnt into our mind as it was at that time. There is almost no change in our memories as for his words and actions. The fact that we cannot see each other again evokes nostalgic memories and does not evoke bad images about him. No matter how much you may be troubled by him, or no matter how much you may not want to see his face again, if you lose the opportunity to meet him, your thoughts might change. This applies to the case with a father, a mother, and siblings, therefore, in the case of a husband or a wife, who is not related by blood, there must be something more complicated alternating feelings of love and hate.