流離の翻訳者 青春のノスタルジア -27ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

こちらは昨日が始業式だったようである。街角に子どもたちの姿とチャイムの響きが戻ってきた。

 

 

今日は最近よく耳にする経済用語を一つ紹介する。「フレンド・ショアリング(Friend-shoring)」というもの。

 

(日本語)

「フレンド・ショアリング」とは、ある国が同盟国や友好国など近しい関係にある国に限定したサプライチェーンを構築することを意味する。この概念は、2016年ごろよりアメリカと中国の間に生じている貿易摩擦を背景に、アメリカが自国の経済安全保障を目的として始めたサプライチェーンの強化体制を指すものとして登場した。

 

直近では、コロナ禍による物流の停滞やロシアのウクライナ侵攻による小麦やエネルギー供給の危機などもあり、アメリカだけではなく様々な国がサプライチェーンの見直しを迫られている。そして、同志国との安全で信頼できる関係をより重視していこうというそんなフレンド・ショアリングの動きが拡がりつつある。

 

(拙・和文英訳)

“Friend-shoring” means that a country builds a supply chain limited to the countries with which it has close relations, such as allied or friendly countries. This concept emerged as indicating the supply chain strengthening system that the United States started for the purpose of economic security of the United States against the backdrop of trade friction between the United States and China since around 2016.

 

Recently, due to the stagnation of logistics because of the COVID-19 pandemic and the crisis of wheat and energy supply due to Russia's invasion into Ukraine, not only the United States but also various countries are being urged to review their supply chains. And the movement of such friend-shoring is spreading to place greater emphasis on safe and reliable relationships with comrade countries.

 

私が小学生の頃、夏休みが終わりに近づく今の時期は、毎年夏休みの宿題に追われていた。「夏休みの友」だけではなく、自由研究や作文、工作など時間が掛かるものもあった。

 

それを見かねた父親がいつも工作を手伝ってくれていたが、気がつけば父親自身が工作を楽しんでいるように見えた。

 

父親が新聞紙や段ボール、荷造り用の紐などを使って器用に木馬を作ってくれたことを思い出す。その木馬で先生から優秀賞を戴いたことを今でも覚えている。

 

私の世代にくらべ、父親の世代の子供たちには玩具を自分で作るだけの知恵があった。

 

 

 

以下の京大の問題は、経済的な発展が子供たちの生産的精神に与える影響について記述したものである。確かに便利になればなるほど、創意工夫の機会は失われていくものである。

 

(問題)

経済的な発展の結果、遊び道具やおもちゃにしても、既製品が大量に与えられるので、子供たちはそれを自分でつくる必要がなくなった。かつて、ものを手作りするということは、身体を発達させ、充実感を与え、生産的な精神をはくぐむことであった。

(京都大学 1992年後期)

 

(拙・和文英訳)

Since economic development has enabled to provide children with a large quantity of ready-made toys, they no longer have to make their own playthings and toys by themselves. However, in the past, hand-crafting was thought to develop children’s body, give them a sense of fulfillment, and foster a productive spirit.

 

私は本を読むスピードは遅い方だ。これは小説でも専門書でも同じである。集中が続かなくなることもあり、途中で投げ出してしまうことも多い。

 

だが、私の周りには本を読むスピードがやたら速い人がいる。果たしてどの程度頭に残っているのかと疑ってしまう。

 

あらすじだけを追えばよい推理小説であっても、作者独自の表現などを鑑賞しながら読んでいると結構な時間が掛かってしまう。まあ、それが私の読書法なのかも知れない。

 

「精読」という言葉があるが、広辞苑には「細かい部分まで注意して読むこと」とある。英語では peruse という動詞を使うようである。

 

因みに、「精読」の反対語は「濫読(乱読)」で、こちらは英語では read at random という。

 

 

以下の京大の問題は、「本を読むスピード」ついて記述したものである。著者のいう読書行為の本質とは何なのだろうか?

 

(問題)

本を速く読む必要はまったくない。情報を得るという側面だけを見ると、速さと量が問われるものの、それは本来の読書行為ではなく、他のなにものかだ。そういう有用性から毅然と自立しているからこそ、読書はすばらしいのである。

(京都大学 1994年後期)

 

(拙・和文英訳)

There is no need to read books fast at all. Considering reading only from the aspect of acquiring information, it is certain that speed and quantity are questioned, however, such a reading is not the original act of reading, but something else. It is precisely because reading itself is resolutely independent of such usefulness that reading is wonderful.

 

昔読んだ本を読み返すことが時々ある。内容を全く覚えていないものも多いが、専門書などは初めて読んだ時とは全く印象が異なるものもある。

 

また、その本を読んだ当時の自分の境遇を思い出して「あの頃は〇〇××だったなぁ……」と懐かしく感じることもが多い。これは映画や音楽でも同じである。

 

一度読み終えた本は、たとえ参照価値が無くなっても、おいそれと捨てられないのはこの辺りに理由があるようだ。

 

 

 

以下の京大の問題は、ある読書法ついて記述したものである。作者がどれくらい成熟しているかを測るなど一般人にはなかなかできるものではない。

 

(問題)

このごろ昔の長い小説を読んでいる。一つには、当今のものを退屈しながら読むくらいなら、前に読んで重い手応えのあったものを再読したいという気持ちになったためであり、もう一つには、長大な作品を書いていくなかで作者が成熟して行くのをみるのが面白くなったためである。

(京都大学 1992年前期)

 

(拙・和文英訳)

Recently, I've been reading long novels in the past. One of the reasons is that I would rather read the books again that I had read before and had a strong impression than read some current ones with boredom. And the other reason is that I have come to feel it interesting to find how the author matures while he has been writing long novels.

 

 

先日、大学の教官をしている学生時代の友人から久しぶりにメールが来た。彼は私に二冊の書籍を紹介してきた。いずれも「聖徳太子」に関するものである。

 

なお、「聖徳太子」の現在の教科書表記は教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」となっているらしい。

 

 

彼とは予備校で同じクラスだったが当時は付き合いは無かった。彼は文学部に進んだが、入学当初から互いに下宿を行き来するようになった。以来付き合いもはや45年になる。

 

哲学者、梅原猛「隠された十字架」(1972年)を、彼から紹介されて読んだのが学生時代だったか、卒業してからだったか?

 

 

 

今回紹介されたのは以下の二冊である。

 

①「聖徳太子はいなかった」(2004年 谷沢 永一著・新潮新書)

 

②「聖徳太子は蘇我入鹿である」(1991年 関 裕二著・ワニ文庫)

 

 

 

 

どちらもかなり奇想天外なタイトルだが、積ん読にならないよう秋口には読み終えたい。読後感を肴に秋には一献傾けることになるだろう。

 

お盆が過ぎたが、まだまだ暑いものの空や雲にが少しずつ秋の気配が漂いはじめている。今年も晩夏の訪れである。

 

 

「走馬灯」には晩夏の風情がある。二重の枠を持ち、影絵が回転しながら映るように細工された灯籠を言うが、英語ではrevolving lantern などと表し、秋の季語とされることもある。

 

 

人は死の間際、それまでの人生に起こった様々な光景を走馬灯のように見るとよく言われるが、この「走馬灯のように次々と移り変わる光景」を英語で phantasmagoria [fænt`æzməgˈɔːriə] という単語で表す。綴りからも幻想的な雰囲気を持つ単語である。

 

In his last moments, various scenes of his life recurred to his mind and disappeared like a shifting phantasmagoria.

「死の間際、人生に起こった様々な光景が走馬灯のように彼の脳裏に浮かんでは消えていった」

 

 

高校野球を観戦していて思ったこと……。

 

「キラキラネーム」の選手が実に多いということ。アナウンサーも大変だろう。

 

 

「キラキラネーム」とは、伝統的でない当て字、外国人名、創作物の登場人物名などを用いた奇抜な名前の総称をいう。1990年代半ば以降から増加し、2000年代前半から2010年前後に全盛期を迎えた。命名は親の責任であるため、その者の親の自己満足・教養の無さが露呈する名付けと言われた。

 

「いつやるか?今でしょ」林修先生は、キラキラネームについて「漢字本来の読み方を無視した、読み方の想像ができない名前は固有名詞としての役割を果たしていない」と指摘しており、キラキラネームと(親の)学力の低さはある程度相関性があるとも主張している。

(以上Wikipediaより引用)

 

 

キラキラネームを名付けられた世代(2000年代前半から2010年前後)が成人して就職し、会社の管理職や幹部となる時代がいずれやってくる。その頃には新聞紙上やニュースがキラキラネームで溢れる状況となるだろう。

 

2023年盛夏となった。先日エアコン3台のクリーニングを依頼したが、冷え方も変わってきたようである。暑い日はがまだまだ続く。

 

 

昨日、夏の高校野球が開幕した。今年もまたこのシーズンになった。東京で勤務していたころに高校野球ファンになった。とは言っても一度も甲子園で観戦したことはない。専らテレビである。

 

 

以前はこの頃に夏休みをとってよく一人旅をしたものである。山陰の島根・鳥取、四国の高知・松山など思い出が多い。

 

旅先ではご当地の甲子園出場校の戦績が何故か気になる。不思議なものだ。

 

 

以下の京大の問題は「野球」をテーマとしたものである。

 

(問題)

野球は、アメリカの国民的スポーツのひとつである。多くのアメリカ人は、子供の頃、近所の野原で野球をして大きくなる。泥まみれになり、隣の誰それさんは自分より上手になったとか、ならないとかいいながら、他人との共同生活を送っていくすべを身に着けていく。あるいは他人に打ち負かされるという屈辱感を受け入れる訓練を重ねていく。

(京都大学 1999年・前期)

 

(拙・英文和訳)

Baseball is one of the national sports in America. Many Americans grow up in their childhood while playing baseball in the fields in the neighborhood. Saying that someone living next to them has played better than they or not, with their body covered in mud, they will learn how to live with others on a collaborative basis. Further, they will repeatedly train themselves to accept the humiliation of being defeated by others.

 

炎暑の候、朝蝉の声で目が覚める日が続いている。この時期、朝から鳴くのがクマゼミで、日の出前から11時頃まで、その後がアブラゼミで昼前後から日没までのようである。

 

先月「オウム真理教」を取り上げたテレビ番組があったようだが、オウム真理教の一連の事件で死刑が確定していた13人の死刑囚全員の死刑が執行されてから、早や5年余りとなる。時の経つのは速いものだ。

 

死刑の合憲性や存廃論については判例を含めて様々な議論があるようだが、以前読んだ東野圭吾の小説で、この死刑制度に焦点をあてたものがあった。特に以下の一節が印象に残っている。

 

 

「(前文略)……しつこいようだが、死刑判決によって遺族が何らかの救いを得られるわけでは決してない。遺族にとって犯人が死ぬのは当たり前のことなのだ。よく『死んで償う』という言葉が使われるが、遺族にしてみれば犯人の死など『償い』でも何でもない。それは悲しみを乗り越えていく為の単なる通過点だ。しかも、そこを通り過ぎたからといって、その先の道筋が見えてくるわけではない。自分たちが何を乗り越え、どこへ向かえば幸せになれるのか全くわからないままだ。ところがその数少ない通過点さえ奪われたら、遺族は一体どうすればいいのか。死刑廃止とは、そういうことなのである。」

(「虚ろな十字架」東野圭吾著(2014年5月刊)より引用)

 

(拙・和文英訳)

"(Omitted) ... It may seem persistent, but a death sentence does not give the bereaved family any relief. For the bereaved family, it is natural for the perpetrator to die. The phrase "die and make amends" is often used, but for the bereaved family, the death of the perpetrator is not "atonement" or anything. It's just a passing point to overcome grief. Moreover, even though they pass through the passing point, this does not mean that they can see the path ahead. They have no idea what they will overcome or whither they will go to become happy. However, if those few passing points are taken away, what should the bereaved families do? That's what abolition of the death penalty is all about."

(Quoted from "The Empty Cross" by Keigo Higashino (May 2014))