英語の迷い道(その38)-「本を読むスピード」-読書行為の本質とは | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

私は本を読むスピードは遅い方だ。これは小説でも専門書でも同じである。集中が続かなくなることもあり、途中で投げ出してしまうことも多い。

 

だが、私の周りには本を読むスピードがやたら速い人がいる。果たしてどの程度頭に残っているのかと疑ってしまう。

 

あらすじだけを追えばよい推理小説であっても、作者独自の表現などを鑑賞しながら読んでいると結構な時間が掛かってしまう。まあ、それが私の読書法なのかも知れない。

 

「精読」という言葉があるが、広辞苑には「細かい部分まで注意して読むこと」とある。英語では peruse という動詞を使うようである。

 

因みに、「精読」の反対語は「濫読(乱読)」で、こちらは英語では read at random という。

 

 

以下の京大の問題は、「本を読むスピード」ついて記述したものである。著者のいう読書行為の本質とは何なのだろうか?

 

(問題)

本を速く読む必要はまったくない。情報を得るという側面だけを見ると、速さと量が問われるものの、それは本来の読書行為ではなく、他のなにものかだ。そういう有用性から毅然と自立しているからこそ、読書はすばらしいのである。

(京都大学 1994年後期)

 

(拙・和文英訳)

There is no need to read books fast at all. Considering reading only from the aspect of acquiring information, it is certain that speed and quantity are questioned, however, such a reading is not the original act of reading, but something else. It is precisely because reading itself is resolutely independent of such usefulness that reading is wonderful.