引き続き1982年のスタークラブの活動に関する回想記を。
前回、この年4月に新宿ロフトで行われたシングル『YOUNG ASSASSIN』発売記念ライヴに続き7月にも同じく新宿ロフトでザ・コンチネンタル・キッズをゲストに、そして今度はオープニング・アクトにソドム(SODOM)という新進のパンクバンドをブッキングしてライヴを行った。ライヴの日取りは7月4日に決まり、曜日は前回が火曜日で平日だったのがこの時は待望の休日、日曜日を取れた事を嬉しく思ったのを覚えている。スタークラブは確か前年までは都内でライヴをする際は渋谷の屋根裏や目黒・鹿鳴館等色々な会場でライヴをやっていたが、この年から新宿ロフトを東京でのライヴの拠点にするようになった。この日のライヴでオープニング・アクトを務めたソドムは当時は「ハード」パンクバンドと呼ばれていた。音楽について細かくジャンル分けするのはあまり意味がないと思うのだが、この時期ライヴハウス・シーンに「ハードコア(パンク)」と呼ばれる新たな動きが現れた。この動きはやはり英国発祥のものではあるがその後、単にサウンド面での特徴等の表層的な部分のみでカテゴライズされるような音楽ジャンルではなく、反戦・反核や動物愛護等の社会的メッセージを掲げ、リスナーに意識変革や直接行動を促すような一大ムーブメントといっていい大きな潮流を形成することになる。当時はそのような急進的な社会性や政治色の強い活動を信条とするハードコアパンク・バンドとは一線を引き、昔ながらの(パンク生誕時からの)アティテュードやサウンドを受け継ぐ存在としてスタークラブやザ・スターリン等は「ハードパンク」と呼ばれていた。ソドムも同様の傾向のバンドで、僕はこのバンドのボーカルの会田君とはこれ以前にスターリンのライヴの際にステージ・ストッパー(ステージ最前列での警備)に駆り出さた時にストッパー仲間(?)として顔見知りだった。会田君はスターリンの遠藤道郎氏に気に入られていて、スタークラブのライヴの一ヶ月前の6月7日には新宿のJAM STUDIOというライヴハウスで、徳間ジャパン・レコードからアルバム『STOP JAP』でのメジャー・デビューを直前に控えたスターリンが話題作りの為に「ブレジネフ」という変名でシークレット・ライヴを行った際には「ブレジネフ」名義のスターリンで遠藤氏の代役としてボーカルを務めたりした。前々回で触れたが、当時首都圏の大学で開催されたパンク~ニューウェイブ系イベントの仕切り屋(?)のような存在だった高橋伸一氏がこの頃はスターリンのマネージャーを担当していたのだが、高橋氏に請われて会田君も自身のバンド活動の傍らステージ警備等スターリンのライヴの際にスタッフとして動くようになった。会田君はまた、先出の「ハードコアパンク」というジャンルの先駆けバンドの一つであるガーゼというバンドのボーカルでもあったが、ガーゼに関してはリハーサル段階で脱退し、自身のバンド、ソドムを結成したとの事である。ソドムはこの後、順調に活動を続け、スターリンの2目のギタリストであった故・タム氏がスターリン脱退後に設立したインディーズ・レーベルであるADKレコードのオムニバス作品『ADKオムニバス Vol.1』に参加したり、自分達でカセットテープをダビングして販売した所謂自主カセット『聖レクイエム』をリリースしている。今となってはあまり意味のないカテゴリー分けであるが、この時期に活動していたハードコア・パンクならぬ「ハードパンク」の代表格は件のADKレコードからソノシートをリリースした奇形児というバンドだ。デビュー‥というか彼らがライヴハウスに出演するようになって直ぐに(ライヴハウス・シーンで)人気沸騰し、急速に動員を伸ばしたバンドだったと記憶している。奇形児というバンド名もインパクト十分だが、そのサウンドやパフォーマンスもスターリンから大きなインスピレーションを得たものだった。ボーカルの通称・ヤスに早くから多くの女性ファンが付き、そこから急速にファン層が拡大していったようだ。この頃、タム氏と音楽的な嗜好について話した記憶があるが、彼はパンク勃興以前に活動していた英国のシルバーヘッドという、ちょっと渋めのグラムロックバンドが今でも(スターリンのギタリストとして活躍していた当時)フェイバリット・バンドだと言っていて、その返答にちょっと意外な感じがした。タム氏もADKレコードで他人のバンドのレコーディング・プロデュースをしたりリリースの企画を立てたりするに当たって、パンクロックだけではなくそれ以前にあった多様な音楽的遍歴もアイデアの源泉となっていたのであろう。さて、件のソドムであるが後にはアート志向が強くなってガラリと音楽性を変え、オブジェを使ったりするステージでのパフォーマンスを重視したポストパンク、ポジバン(ポジティブパンク)的要素を帯びた、独自の表現世界を追求していく。以前触れたオートモッドのジュネ氏が主宰していた『時の葬列』にも参加して、その時期にはポジバン・バンドの枠で語られたりしていたが、それよりも同時期に日本でも人気があったノイエ・ドイチェ・ヴァレ(ドイツの新しい波=ニューウェイブ)の旗手、アインシュテュルツンデ・ノイバウテンというドイツはベルリン出身のノイズ・パフォーマンス・バンド(インダストリアル・バンド)の表現手法からの影響が大きかったのではないかと思う。
さて、毎度の如く話が脱線したが肝心のスタークラブはこの後東京では9月に4作目(正確には6作目だが、自主制作ながらレコード店に流通した作品としては4作目だった)のレコード『SHUT UP!』の発売記念ライヴを行う事になった。このライヴも僕にとっては忘れられないものになった。ただし、ちょっと苦い思い出として‥。このライヴは当初、新宿ロフトで9月12日の日曜日にブッキングされていた。しかし不可抗力による様々な事情が重なり延期され、実際にライヴが行われたのは2週間後の9月26日の14時からスタートの、通常は新人バンドのオーディション枠であった新宿ロフトの昼の部の枠であった。実はこのライヴの前後、スタークラブの周辺には不穏な空気が立ち込めていた。そもそもの発端は、このライヴの直前の8月25日に発売された、今は亡きパンク~ニューウェイブ系音楽雑誌『DOLL』に掲載されたスタークラブのヒカゲ氏のインタビュー記事だった。ここでヒカゲ氏は当時ライヴハウス・シーンで急速に存在感を増してきた先のハードコア・パンクのバンド群が、徳間ジャパンからメジャーデビューしたスターリンについて批判的な態度を取っている事について「(ハードコアの連中が)スターリンに嫉妬しているのではないか。」という趣旨の発言をしてしまったのである。メディアの反響とは恐ろしいもので、このヒカゲ氏の発言に反発したハードコアパンクの一団がスタークラブのライヴへの来襲を予告してきたのである。実際はスタークラブのマネージャーである松尾氏の連絡先に「9月のライヴに行くのでそこで話をつけよう」というような、DOLL誌上でのヒカゲ氏の発言の真意を直接糾すというものだったらしい。この話には早速、尾鰭がつき「スタークラブが襲撃される」だの何だのと一部のライヴハウスやバンド関係者の間で話題になった。僕やスタークラブの都内でのライヴハウス・ブッキング担当だった赤坂君は噂が持ち上がったばかりの頃にはまあ、大事には至らないだろうとタカを括っていた。最初僕がこの噂を耳にしたのは、その頃スタークラブのライヴに毎回足を運んでくれる女性で、情報宣伝のやり方やライヴでの印象まで、まるで小姑のように(笑)細かいアドバイスをしてくれる熱心なファンがいたのだが、彼女から「気をつけた方がいいよ。」という連絡を受けた時だ。余談だがこの女性(H地さんと言う)、後にスターリンの初代ギタリストであった金子あつし氏とめでたく結婚して夫婦で一時期インディーズレーベルを運営していた(スーサイドというバンドのソノシート他をリリース)。そうこうしている内に当初のライヴ予定日の9月12日になったが、この日は首都圏を台風が直撃して都内は交通網が麻痺し、確か自宅(この頃は東武東上線成増駅周辺)から軒並み徐行運転状態の電車待ちを繰り返しつつ、入り時間ギリギリにやっとこさ会場の新宿ロフトに辿り着いた記憶がある。会場入りして暫くすると、当日入りで名古屋から東京へ移動中のスタークラブから新宿ロフトに連絡が入った。ドライバーのLOUからで、東名高速が通行止めになったので仕方なく下を通って東京へ向かっているが、その時点で静岡県御殿場市付近にいるという事だった。ラジオで都内の交通事情を聞いたら多くのお客さんが来場出来ないだろうから中止にしたらどうか?というものだった。新宿ロフトのこの日のブッキング担当の山崎さんが早速店のスタッフと協議し、このまま進行させてもスタークラブの到着は開場直前になってリハーサル無しでライヴを敢行しなければならない事、交通機関が全面復旧しなかった場合はお客さんの多数が会場に来場出来ない事等を鑑みてこの日のライヴは中止とする事を決定した。後は客からの電話での問い合わせの対応、振り替え公演の日にちが決まり次第、この日の前売り券の払い戻し、若しくは振り替え公演へのチケット転用等、担当の山崎さんがテキパキと事後処理してスタークラブ側に確認を取り、この日のライヴは正式に中止となった。この後、時間が空いた僕は当初はスタークラブのレコ発ライヴ優先だった為に、同日にスケジュールが重なっていたザ・フールズのライヴがある原宿クロコダイルに向かった。こちらも流石に中止になるだろうと思っていた僕は会入りしてマネージャーの溝口氏に台風の影響でスタークラブのライヴが中止になった旨を伝えると、電車を使って来場する客の事など微塵も考えない溝口氏は「そうか、そう言えば電車で来る奴は困るわなぁ‥」とどこ吹く風。原宿クロコダイルは開演が20時過ぎと他のライヴハウスに比べて遅めのスタートだった事もあって(その頃には交通機関も全面復旧していた)予定通りライヴをやったのだが、お客さんは10人程だったか。ハードコアパンク・バンドの来場予告や台風の接近による状況判断で疲れ切っていたがこの日はフールズの元気なステージと伊藤耕のおバカなMCの数々に癒される思いがした。
はてさて、この日は無事(?)延期となって一時的に回避されたスタークラブとハードコアパンク・バンドとの確執だが、その後事態は更に悪化する。それまでスタークラブのメンバーや関係者からはこの件について直接何も言われてはいなかったのだが、延期された公演が迫った9月中旬のある日、マネージャーの松尾氏から「ライヴにハードコアの連中が何人か来るみたいだから覚悟しておいてくれ。」と電話が掛かってきた。僕は委細は聞かずにただ頷いていただけだったが後日、僕自身もある程度の「覚悟」は必要だと思わざるを得ない出来事が起こった。それは延期されたライヴが目前に迫った9月23日の木曜日の事だった。この日も例によって新宿ロフトで延期になったスタークラブのライヴの告知チラシを配っていた。この日は2日間に渡って全国のハードコアパンク・バンドが集結した大きなイベントが新宿ロフトで開催されたその2日目(このイベントでライヴレコーディングされた音源からピックアップしたものがDOLL誌が母体となって設立されたインディーズ・レーベル「CITYROCKER/DOGMA」から『OUTSIDER』というタイトルのオムニバス・レコードとしてリリースされた)で、僕も一応気を遣ってスタークラブと掛け持ちでスタッフをやっていたフールズやじゃがたらのチラシを一番上にして、スタークラブのチラシが目立たないように配布チラシを3枚重ねてお客さんに手渡していた。暫くするとモヒカンヘアを見事に立てた若いハードコアパンクスが僕を見て笑いながら「ここでそんな物配ってると殴られますよ。」と声を掛けてきた。周囲を見渡すと彼と同様、明らかに敵意を込めた薄ら笑いを浮かべた男女数人のパンクスが視界に入った。「ヤバい。」と思うや否や僕は、JR新宿駅方面目指し一目散に駆け出し、気が付くと新宿ロフトのあった小滝橋通りの外れで新宿通りとの交差点まで走り抜けていた。一人だったので不安になり、新宿駅西口にある電話ボックスに入り公衆電話でスタークラブのスタッフとして一緒に動いていた赤坂君の自宅に電話をかけた。僕の話を一部始終聞き終わると赤坂君は「で、戸塚はん、大丈夫?」と言うので僕が「大丈夫大丈夫。俺、いざという時のあまりの逃げ足の速さに自分自身、驚いてるよ。」と言うと笑っていたが「まあ(ハードコアパンクスに)後を付けられるような事はないとは思うけど、気をつけて。26日は連中、本当に来そうだね。」と警戒感を強めていた。この時僕に向かって有り難い(?)忠告を与えてくれたモヒカンヘアのハードコアパンクスは後に前出のADKレコードからソノシートをリリースしたハードコアパンク・バンドL.S.D.のボーカル、亜危異(ACHY)氏だったと思う。
実は何故DOLL誌上でのヒカゲ氏の発言にハードコアパンク・バンドがここまで反発したのか、いくつか思い当たるフシがあった‥。
この件についてはその背景説明も含め、あくまで僕が目撃した事実に基づいてなるべく主観を控え、次回にもう少し掘り下げて書きます。
参考リンク
THE STALIN:ロマンチスト (Romanticist) + You Tube Mix
※いち早くパンク/ハードコア専門のインディーズレーベル、ADKレコードを設立したタム氏をギタリストにフィーチャーしたザ・スターリンのメジャー第一弾シングル『ロマンチスト』。
Silverhead:In Your Eyes
※スターリンのギタリストでありインディーズレーベル・ADKレコードの主宰者であった故・タム氏がフェイバリット・バンドに挙げていた渋めの英国のグラムロック・バンド、シルバーヘッド。スタジオアルバム2枚、ライヴアルバム1枚を残して解散したが、ハードなロックンロールからブルージーでミッドテンポのロッカバラードまで、その多彩なソングライティングセンスは白眉。
The Exploited:Fuck the USA +You Tube Mix
※「ハードパンク」の代表格、軍隊出身のボーカル・ワティー率いる英国の典型的なワーキングクラス・パンク・バンド、ジ・エクスプロイテッド。
Disorder:Complete Disorder(1981) + You Tube Mix
※「ハードパンク」ならぬ「ハードコアパンク」バンドの英国のディスオーダー。サウンド面だけではこの2者の線引きは非常に難しい。
ソドム(SODOM)1983 鹿鳴館83-1
※日本の「ハードパンク」バンド、ソドム。結成当初はストレートなサウンドで人気を博した。1983年の目黒・鹿鳴館でのライヴ。
ソドム(SODOM)1983 鳴館 2
ソドム 1985 Tokyo Valentine Live
※ポストパンク、ポジバン的な要素を強めた頃のソドム。後にダンス~クラブ・ミュージック的なアプローチにも挑戦したり、目まぐるしく音楽性を変えていったハイブリッドなバンド。
Einstrzende Neubauten:Halber Mensch / 1/2 Mensch (1985)+ You Tube Mix
※ソドムが一時期、その表現手法に於いて多大な影響を受けたと思われるドイツのノイズ・パフォーマンス・バンド、アインシュテュルツンデ・ノイバウテン。映画『爆裂都市』の監督・石井聡互氏が制作したノイバウテンのドキュメンタリー映像作品『Halber Mensch / 1/2 Mensch』(邦題『半分人間』)。バンド名「崩壊する新建築」が示す通り、廃墟や建築現場の工作機械等をモチーフに「破壊と再生」をバンド・コンセプトに活動していたノイバウテンのアーティスト・イメージと石井監督のサイバーパンク感覚が見事にマッチング。
奇形児(KIKEIJI)ライヴ1 1983秋~冬頃@鹿鳴館
※「ハードパンク」バンドの代表格、奇形児。ザ・スターリンからインスパイアされたと思しきステージ・パフォーマンス。1983年の目黒・鹿鳴館でのライヴ。
奇形児(KIKEIJI)ライヴ2
奇形児(KIKEIJI)ライブ3
奇形児(KIKEIJI):迷信
※タム氏主宰のADKからリリースされた1stソノシート収録曲。奇形児はストレートな「ハードパンク」サウンド一辺倒ではなくポストパンク期特有の実験的な要素も持ち合わせていた。反復するリズムに絡むヤスの呪術的なボーカルが印象的。
LSD 1983 鹿鳴館 その1
※ボーカルの亜危異(Achy)率いる「ハードコアパンク」バンドのL.S.D.。亜危異は他にも当時徳間ジャパンからリリースされたハードコアパンクのオムニバスアルバム『Great Punk Hits』にタム氏のバンドG-Zetのボーカリストとして2曲参加している。
L.S.D. 1983.XX.XX @ Yaneura
L.S.D.:Kill You
※タム氏主宰のADKレコードからリリースされたL.S.D.のソノシート『Destroy』収録曲。明らかに当時、既成の「ハードパンク」バンドのサウンドを凌駕するリズム・スピード。
前回、この年4月に新宿ロフトで行われたシングル『YOUNG ASSASSIN』発売記念ライヴに続き7月にも同じく新宿ロフトでザ・コンチネンタル・キッズをゲストに、そして今度はオープニング・アクトにソドム(SODOM)という新進のパンクバンドをブッキングしてライヴを行った。ライヴの日取りは7月4日に決まり、曜日は前回が火曜日で平日だったのがこの時は待望の休日、日曜日を取れた事を嬉しく思ったのを覚えている。スタークラブは確か前年までは都内でライヴをする際は渋谷の屋根裏や目黒・鹿鳴館等色々な会場でライヴをやっていたが、この年から新宿ロフトを東京でのライヴの拠点にするようになった。この日のライヴでオープニング・アクトを務めたソドムは当時は「ハード」パンクバンドと呼ばれていた。音楽について細かくジャンル分けするのはあまり意味がないと思うのだが、この時期ライヴハウス・シーンに「ハードコア(パンク)」と呼ばれる新たな動きが現れた。この動きはやはり英国発祥のものではあるがその後、単にサウンド面での特徴等の表層的な部分のみでカテゴライズされるような音楽ジャンルではなく、反戦・反核や動物愛護等の社会的メッセージを掲げ、リスナーに意識変革や直接行動を促すような一大ムーブメントといっていい大きな潮流を形成することになる。当時はそのような急進的な社会性や政治色の強い活動を信条とするハードコアパンク・バンドとは一線を引き、昔ながらの(パンク生誕時からの)アティテュードやサウンドを受け継ぐ存在としてスタークラブやザ・スターリン等は「ハードパンク」と呼ばれていた。ソドムも同様の傾向のバンドで、僕はこのバンドのボーカルの会田君とはこれ以前にスターリンのライヴの際にステージ・ストッパー(ステージ最前列での警備)に駆り出さた時にストッパー仲間(?)として顔見知りだった。会田君はスターリンの遠藤道郎氏に気に入られていて、スタークラブのライヴの一ヶ月前の6月7日には新宿のJAM STUDIOというライヴハウスで、徳間ジャパン・レコードからアルバム『STOP JAP』でのメジャー・デビューを直前に控えたスターリンが話題作りの為に「ブレジネフ」という変名でシークレット・ライヴを行った際には「ブレジネフ」名義のスターリンで遠藤氏の代役としてボーカルを務めたりした。前々回で触れたが、当時首都圏の大学で開催されたパンク~ニューウェイブ系イベントの仕切り屋(?)のような存在だった高橋伸一氏がこの頃はスターリンのマネージャーを担当していたのだが、高橋氏に請われて会田君も自身のバンド活動の傍らステージ警備等スターリンのライヴの際にスタッフとして動くようになった。会田君はまた、先出の「ハードコアパンク」というジャンルの先駆けバンドの一つであるガーゼというバンドのボーカルでもあったが、ガーゼに関してはリハーサル段階で脱退し、自身のバンド、ソドムを結成したとの事である。ソドムはこの後、順調に活動を続け、スターリンの2目のギタリストであった故・タム氏がスターリン脱退後に設立したインディーズ・レーベルであるADKレコードのオムニバス作品『ADKオムニバス Vol.1』に参加したり、自分達でカセットテープをダビングして販売した所謂自主カセット『聖レクイエム』をリリースしている。今となってはあまり意味のないカテゴリー分けであるが、この時期に活動していたハードコア・パンクならぬ「ハードパンク」の代表格は件のADKレコードからソノシートをリリースした奇形児というバンドだ。デビュー‥というか彼らがライヴハウスに出演するようになって直ぐに(ライヴハウス・シーンで)人気沸騰し、急速に動員を伸ばしたバンドだったと記憶している。奇形児というバンド名もインパクト十分だが、そのサウンドやパフォーマンスもスターリンから大きなインスピレーションを得たものだった。ボーカルの通称・ヤスに早くから多くの女性ファンが付き、そこから急速にファン層が拡大していったようだ。この頃、タム氏と音楽的な嗜好について話した記憶があるが、彼はパンク勃興以前に活動していた英国のシルバーヘッドという、ちょっと渋めのグラムロックバンドが今でも(スターリンのギタリストとして活躍していた当時)フェイバリット・バンドだと言っていて、その返答にちょっと意外な感じがした。タム氏もADKレコードで他人のバンドのレコーディング・プロデュースをしたりリリースの企画を立てたりするに当たって、パンクロックだけではなくそれ以前にあった多様な音楽的遍歴もアイデアの源泉となっていたのであろう。さて、件のソドムであるが後にはアート志向が強くなってガラリと音楽性を変え、オブジェを使ったりするステージでのパフォーマンスを重視したポストパンク、ポジバン(ポジティブパンク)的要素を帯びた、独自の表現世界を追求していく。以前触れたオートモッドのジュネ氏が主宰していた『時の葬列』にも参加して、その時期にはポジバン・バンドの枠で語られたりしていたが、それよりも同時期に日本でも人気があったノイエ・ドイチェ・ヴァレ(ドイツの新しい波=ニューウェイブ)の旗手、アインシュテュルツンデ・ノイバウテンというドイツはベルリン出身のノイズ・パフォーマンス・バンド(インダストリアル・バンド)の表現手法からの影響が大きかったのではないかと思う。
さて、毎度の如く話が脱線したが肝心のスタークラブはこの後東京では9月に4作目(正確には6作目だが、自主制作ながらレコード店に流通した作品としては4作目だった)のレコード『SHUT UP!』の発売記念ライヴを行う事になった。このライヴも僕にとっては忘れられないものになった。ただし、ちょっと苦い思い出として‥。このライヴは当初、新宿ロフトで9月12日の日曜日にブッキングされていた。しかし不可抗力による様々な事情が重なり延期され、実際にライヴが行われたのは2週間後の9月26日の14時からスタートの、通常は新人バンドのオーディション枠であった新宿ロフトの昼の部の枠であった。実はこのライヴの前後、スタークラブの周辺には不穏な空気が立ち込めていた。そもそもの発端は、このライヴの直前の8月25日に発売された、今は亡きパンク~ニューウェイブ系音楽雑誌『DOLL』に掲載されたスタークラブのヒカゲ氏のインタビュー記事だった。ここでヒカゲ氏は当時ライヴハウス・シーンで急速に存在感を増してきた先のハードコア・パンクのバンド群が、徳間ジャパンからメジャーデビューしたスターリンについて批判的な態度を取っている事について「(ハードコアの連中が)スターリンに嫉妬しているのではないか。」という趣旨の発言をしてしまったのである。メディアの反響とは恐ろしいもので、このヒカゲ氏の発言に反発したハードコアパンクの一団がスタークラブのライヴへの来襲を予告してきたのである。実際はスタークラブのマネージャーである松尾氏の連絡先に「9月のライヴに行くのでそこで話をつけよう」というような、DOLL誌上でのヒカゲ氏の発言の真意を直接糾すというものだったらしい。この話には早速、尾鰭がつき「スタークラブが襲撃される」だの何だのと一部のライヴハウスやバンド関係者の間で話題になった。僕やスタークラブの都内でのライヴハウス・ブッキング担当だった赤坂君は噂が持ち上がったばかりの頃にはまあ、大事には至らないだろうとタカを括っていた。最初僕がこの噂を耳にしたのは、その頃スタークラブのライヴに毎回足を運んでくれる女性で、情報宣伝のやり方やライヴでの印象まで、まるで小姑のように(笑)細かいアドバイスをしてくれる熱心なファンがいたのだが、彼女から「気をつけた方がいいよ。」という連絡を受けた時だ。余談だがこの女性(H地さんと言う)、後にスターリンの初代ギタリストであった金子あつし氏とめでたく結婚して夫婦で一時期インディーズレーベルを運営していた(スーサイドというバンドのソノシート他をリリース)。そうこうしている内に当初のライヴ予定日の9月12日になったが、この日は首都圏を台風が直撃して都内は交通網が麻痺し、確か自宅(この頃は東武東上線成増駅周辺)から軒並み徐行運転状態の電車待ちを繰り返しつつ、入り時間ギリギリにやっとこさ会場の新宿ロフトに辿り着いた記憶がある。会場入りして暫くすると、当日入りで名古屋から東京へ移動中のスタークラブから新宿ロフトに連絡が入った。ドライバーのLOUからで、東名高速が通行止めになったので仕方なく下を通って東京へ向かっているが、その時点で静岡県御殿場市付近にいるという事だった。ラジオで都内の交通事情を聞いたら多くのお客さんが来場出来ないだろうから中止にしたらどうか?というものだった。新宿ロフトのこの日のブッキング担当の山崎さんが早速店のスタッフと協議し、このまま進行させてもスタークラブの到着は開場直前になってリハーサル無しでライヴを敢行しなければならない事、交通機関が全面復旧しなかった場合はお客さんの多数が会場に来場出来ない事等を鑑みてこの日のライヴは中止とする事を決定した。後は客からの電話での問い合わせの対応、振り替え公演の日にちが決まり次第、この日の前売り券の払い戻し、若しくは振り替え公演へのチケット転用等、担当の山崎さんがテキパキと事後処理してスタークラブ側に確認を取り、この日のライヴは正式に中止となった。この後、時間が空いた僕は当初はスタークラブのレコ発ライヴ優先だった為に、同日にスケジュールが重なっていたザ・フールズのライヴがある原宿クロコダイルに向かった。こちらも流石に中止になるだろうと思っていた僕は会入りしてマネージャーの溝口氏に台風の影響でスタークラブのライヴが中止になった旨を伝えると、電車を使って来場する客の事など微塵も考えない溝口氏は「そうか、そう言えば電車で来る奴は困るわなぁ‥」とどこ吹く風。原宿クロコダイルは開演が20時過ぎと他のライヴハウスに比べて遅めのスタートだった事もあって(その頃には交通機関も全面復旧していた)予定通りライヴをやったのだが、お客さんは10人程だったか。ハードコアパンク・バンドの来場予告や台風の接近による状況判断で疲れ切っていたがこの日はフールズの元気なステージと伊藤耕のおバカなMCの数々に癒される思いがした。
はてさて、この日は無事(?)延期となって一時的に回避されたスタークラブとハードコアパンク・バンドとの確執だが、その後事態は更に悪化する。それまでスタークラブのメンバーや関係者からはこの件について直接何も言われてはいなかったのだが、延期された公演が迫った9月中旬のある日、マネージャーの松尾氏から「ライヴにハードコアの連中が何人か来るみたいだから覚悟しておいてくれ。」と電話が掛かってきた。僕は委細は聞かずにただ頷いていただけだったが後日、僕自身もある程度の「覚悟」は必要だと思わざるを得ない出来事が起こった。それは延期されたライヴが目前に迫った9月23日の木曜日の事だった。この日も例によって新宿ロフトで延期になったスタークラブのライヴの告知チラシを配っていた。この日は2日間に渡って全国のハードコアパンク・バンドが集結した大きなイベントが新宿ロフトで開催されたその2日目(このイベントでライヴレコーディングされた音源からピックアップしたものがDOLL誌が母体となって設立されたインディーズ・レーベル「CITYROCKER/DOGMA」から『OUTSIDER』というタイトルのオムニバス・レコードとしてリリースされた)で、僕も一応気を遣ってスタークラブと掛け持ちでスタッフをやっていたフールズやじゃがたらのチラシを一番上にして、スタークラブのチラシが目立たないように配布チラシを3枚重ねてお客さんに手渡していた。暫くするとモヒカンヘアを見事に立てた若いハードコアパンクスが僕を見て笑いながら「ここでそんな物配ってると殴られますよ。」と声を掛けてきた。周囲を見渡すと彼と同様、明らかに敵意を込めた薄ら笑いを浮かべた男女数人のパンクスが視界に入った。「ヤバい。」と思うや否や僕は、JR新宿駅方面目指し一目散に駆け出し、気が付くと新宿ロフトのあった小滝橋通りの外れで新宿通りとの交差点まで走り抜けていた。一人だったので不安になり、新宿駅西口にある電話ボックスに入り公衆電話でスタークラブのスタッフとして一緒に動いていた赤坂君の自宅に電話をかけた。僕の話を一部始終聞き終わると赤坂君は「で、戸塚はん、大丈夫?」と言うので僕が「大丈夫大丈夫。俺、いざという時のあまりの逃げ足の速さに自分自身、驚いてるよ。」と言うと笑っていたが「まあ(ハードコアパンクスに)後を付けられるような事はないとは思うけど、気をつけて。26日は連中、本当に来そうだね。」と警戒感を強めていた。この時僕に向かって有り難い(?)忠告を与えてくれたモヒカンヘアのハードコアパンクスは後に前出のADKレコードからソノシートをリリースしたハードコアパンク・バンドL.S.D.のボーカル、亜危異(ACHY)氏だったと思う。
実は何故DOLL誌上でのヒカゲ氏の発言にハードコアパンク・バンドがここまで反発したのか、いくつか思い当たるフシがあった‥。
この件についてはその背景説明も含め、あくまで僕が目撃した事実に基づいてなるべく主観を控え、次回にもう少し掘り下げて書きます。
参考リンク
THE STALIN:ロマンチスト (Romanticist) + You Tube Mix
※いち早くパンク/ハードコア専門のインディーズレーベル、ADKレコードを設立したタム氏をギタリストにフィーチャーしたザ・スターリンのメジャー第一弾シングル『ロマンチスト』。
Silverhead:In Your Eyes
※スターリンのギタリストでありインディーズレーベル・ADKレコードの主宰者であった故・タム氏がフェイバリット・バンドに挙げていた渋めの英国のグラムロック・バンド、シルバーヘッド。スタジオアルバム2枚、ライヴアルバム1枚を残して解散したが、ハードなロックンロールからブルージーでミッドテンポのロッカバラードまで、その多彩なソングライティングセンスは白眉。
The Exploited:Fuck the USA +You Tube Mix
※「ハードパンク」の代表格、軍隊出身のボーカル・ワティー率いる英国の典型的なワーキングクラス・パンク・バンド、ジ・エクスプロイテッド。
Disorder:Complete Disorder(1981) + You Tube Mix
※「ハードパンク」ならぬ「ハードコアパンク」バンドの英国のディスオーダー。サウンド面だけではこの2者の線引きは非常に難しい。
ソドム(SODOM)1983 鹿鳴館83-1
※日本の「ハードパンク」バンド、ソドム。結成当初はストレートなサウンドで人気を博した。1983年の目黒・鹿鳴館でのライヴ。
ソドム(SODOM)1983 鳴館 2
ソドム 1985 Tokyo Valentine Live
※ポストパンク、ポジバン的な要素を強めた頃のソドム。後にダンス~クラブ・ミュージック的なアプローチにも挑戦したり、目まぐるしく音楽性を変えていったハイブリッドなバンド。
Einstrzende Neubauten:Halber Mensch / 1/2 Mensch (1985)+ You Tube Mix
※ソドムが一時期、その表現手法に於いて多大な影響を受けたと思われるドイツのノイズ・パフォーマンス・バンド、アインシュテュルツンデ・ノイバウテン。映画『爆裂都市』の監督・石井聡互氏が制作したノイバウテンのドキュメンタリー映像作品『Halber Mensch / 1/2 Mensch』(邦題『半分人間』)。バンド名「崩壊する新建築」が示す通り、廃墟や建築現場の工作機械等をモチーフに「破壊と再生」をバンド・コンセプトに活動していたノイバウテンのアーティスト・イメージと石井監督のサイバーパンク感覚が見事にマッチング。
奇形児(KIKEIJI)ライヴ1 1983秋~冬頃@鹿鳴館
※「ハードパンク」バンドの代表格、奇形児。ザ・スターリンからインスパイアされたと思しきステージ・パフォーマンス。1983年の目黒・鹿鳴館でのライヴ。
奇形児(KIKEIJI)ライヴ2
奇形児(KIKEIJI)ライブ3
奇形児(KIKEIJI):迷信
※タム氏主宰のADKからリリースされた1stソノシート収録曲。奇形児はストレートな「ハードパンク」サウンド一辺倒ではなくポストパンク期特有の実験的な要素も持ち合わせていた。反復するリズムに絡むヤスの呪術的なボーカルが印象的。
LSD 1983 鹿鳴館 その1
※ボーカルの亜危異(Achy)率いる「ハードコアパンク」バンドのL.S.D.。亜危異は他にも当時徳間ジャパンからリリースされたハードコアパンクのオムニバスアルバム『Great Punk Hits』にタム氏のバンドG-Zetのボーカリストとして2曲参加している。
L.S.D. 1983.XX.XX @ Yaneura
L.S.D.:Kill You
※タム氏主宰のADKレコードからリリースされたL.S.D.のソノシート『Destroy』収録曲。明らかに当時、既成の「ハードパンク」バンドのサウンドを凌駕するリズム・スピード。